
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
藩がお取潰し=お家断絶になると家臣は主君に殉じて自ら切腹して死を選ぶ事もあったそうですが、ほとんどは再仕官の道を探す事になりました。武士の身分に対して禄が出ていたのではなく、何らかの役職に対して禄が出ていたので浪人になってしまっては収入が無い訳です。
そこで有名な傘張りや用心棒と云ったアルバイトをする事になります。しかしこれは浪人に限った事ではなく禄の少ない下級武士の間では当たり前のように行なわれていました。武士の身分といっても浪人になってでも生きていく程度の家柄では当の本人が思っているほどの意味は無く、実際は町人と同じ扱いを受けます。
島原の乱や由井正雪の幕府転覆未遂事件以降は、浪人に対する締め付けが非常に厳しくなり(たとえばアメリカの性犯罪者に対する厳しさでしょうか)自ら武士を捨てて町人になる者も多かったようです。
土地・武家屋敷はもともと、幕府から権利を貸し与えられていただけですから、お家断絶とともに権利はありません。お国の土地・屋敷も主君の大名から権利を貸し与えられていた訳で主君がいない以上権利も無くなります。この頃はお百姓も庄屋から畑作の権利を借りていただけでみんな小作でした。世界的に近代民主国家になる前は一部の金持ちや権力者以外(所有)など出来なかったのですね。
赤穂浪士では藩に残っている金品はほとんど藩札や藩債の換金に当てていたりしますが、本当のところはどうでしょう?火事場泥棒的に退職金代わりに持っていったりもしたんでしょうね。
No.3
- 回答日時:
これはいろいろな例があります。
土佐藩の例
元々土佐は長宗我部氏の領地であったが、関が原の戦いで取り潰され、山内家が入ります。
山内家は、旧長宗我部家臣を下士(郷士)として吸収、身分は武士でも待遇は小者程度となります。
幕末の坂本竜馬や岡田以蔵などはこの身分になります。
甲府徳川家
藩主が6代将軍になった為、一部は幕臣として旗本に。
赤穂浅野家
藩札(藩の借金)の6割を償還して余ったお金を藩士で分配して、縁者を頼って各地に散っていく。
6割の償還は、現在の企業倒産から考えても大したもの。
江戸期の初期は他家の浪人は歓迎されなかったが、慶安4年に「由比正雪の乱」以来方針を転換、浪人の積極登用を図ると共に、むやみに取り潰さないようになりました。
つまり、武士という身分を固定した為、主家がなくなったから百姓にとか、受け皿がなくなってしまったのです。
それで江戸に浪人があふれ、社会不安になったということです。
その後、中期になると人余りでなかなか仕官が出来ず、大名の屋敷前で
「仕官が出来ないなら腹を切る」と押しかけ士官する物までいたとか。
No.2
- 回答日時:
不完全な回答でお許しください。
退職金はあったようです。赤穂藩の取り潰しの時、大石蔵之助など、藩の重臣が、藩士に藩の財産を分けて精算する場面があります。これは、史実です。
土地や武家屋敷などは、そのまま自分のものにできたのでしょうか?>これは出来なかったと思います。城の周り、それも城下町の中心の屋敷を前城主の家臣が立ち退かないと次の城主が困りますから。屋敷を次に来る家臣に売却したのか、ただで譲り渡したのかはわかりません。
でも、江戸幕府が崩壊し、徳川の家臣が静岡に移動した後、旗本は、自分達の屋敷を金銭で明治政府の役人に売却いたしました。(佐賀藩出身の大熊重信は、旗本・戸田氏から、その屋敷を買いました。旗本・戸田氏の家系では、口の大きい書生に屋敷を売ったという伝説が残っていたそうです。)といことから、立ち退きまでは強制されなかったのでは?但し、経済的に前の旗本がどれだけ、自分達の屋敷を維持できたかどうかは判りません。
不完全な答えしか出来なくて申し訳ありません。
No.1
- 回答日時:
赤穂浪士で有名な浅野家の場合は、本家の広島藩浅野家に救済的に召抱えられた者、大石内蔵介が京都に行ったように隠居した者、江戸大阪に流れ浪人となった者、武士を捨て農民、商人になった者、様々です。
退職金については、主家に財産が残っていた場合は取り分けられるケースもあったようです。
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