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足軽兵について2つ質問があります。
1・一般に思いつく「足軽兵」は読んで字のごとく、軽装備の兵卒のことですが、このスタイルになる以前は、武将クラスのような重装備だったのでしょうか?
2・「足軽兵」は「半農半武士」が多いと思いますが、土佐で有名な「一領具足」も「半農(漁)半武士」のことですよね?何か特別な違いがあったのでしょうか?
ご存知の方よろしくご教授お願いします。

A 回答 (5件)

足軽は元々武家においては「徒・郎党」等です。

従軍はしますが戦闘に従事することはほとんど無く、主に戦闘補助に当たりました。

戦国時代に入って、戦闘の主役になるとそれまでの軽武装から一気に重武装化していきます。それまでの腹巻だけであった様な防具が草摺を備えた桶側胴になり、烏帽子や半頬だけであった頭部は陣笠をかぶり、薙刀が槍や鉄砲、弓箭になったりします。

足軽が=半士半農ではありません。武士の下に位置し「兵(つわもの)」と言えるでしょう。一領具足の場合は「半士半農と言うより半農半兵」で、いわゆる足軽が具足を貸与されたのに対して具足を「与えられている」点が最大の相違かと思います。一領具足は一般的な足軽よりは忠誠心が高く、兵としての連度は高かったようです。
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この回答へのお礼

私はどうやら勘違いをしていたようですね。あの足軽(陣笠をかぶり、胴巻き)スタイルは私の想像とは逆に重武装化した姿だったのですか。
それ以前はさらに軽装=戦闘補助だったんですね。回答ありがとうございました。

足軽=下層武士。ということは足軽と言えども、戦を本業として食べていた、と考えて良いのでしょうか?

具足を与えられているのが「一領具足」。そうだったんですね。謎が解明してすっきりしました。レンタルされるより、認められて与えられる。忠誠心が上がるはずですね。一時的な傭兵ではなく、専属兵ととらえることにします。
回答ありがとうございました。

※さらに足軽兵に関する知識を広く求めています。いま少し質問を締め切らずに皆様の回答お待ちしております。よろしくお願いします。

お礼日時:2007/06/09 08:10

No3です。

  再々質問にお答えします。

確かに人口の少ない地方で大兵力を催すことは困難だったでしょう。
しかし大抵は常備軍を国境の砦などに配置していましたし、また戦国時代でも陣立てにはかなりの日数を予定しており、兵士は近隣の村から先ず指揮官の下に集合し、準備が整ってから領主の陣に参集する手順です。
戦奉行は着到届けを受けて人数や装備常態を記録集計します。

従って急襲を受けた場合は戦備に手こずりますが十分な余裕があるのが通常です。

陣立ての迅速化には武田軍のように狼煙があがれば直ちに集合する定めをとり、軍道を整備するなど普段から工夫をこらしていました。
全員集合まで待たずに駆け出し、道々集合する方法をとったのが織田信長の桶狭間戦の時でした。

畿内、東海道が特別有利なことはありません。 
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この回答へのお礼

判りやすい回答ありがとうございます。召集に不利な点は常に対策を取るのは戦国の世では当然ですよね。
不意打ち、夜襲などをされるのを恐れるのは大大名でも同じでしょうから。
考えてみれば足軽が半農半士であるのなら畿内より地方が有利なのかもしれませんね。
織田勢は工業地域の兵力のため、弱体兵であり、そのため鉄砲が必要であった、という説がありますがどうなんでしょうね。尾張にも百姓は多くいたはずだとは思うのですが自信はありません。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/10 19:11

No3です。

  追加の質問にお答えします。

「一領具足」は長曽我部家の特有の組織でしたから所替えで土佐にきた山内家には忠誠を誓わず反抗的態度をしめしました。
この為山内家は謀略を図り、相撲競技と偽って反抗分子の有力者を城内に招き不意を付いて皆殺しにして弾圧しました。
残る「一領具足」は解体し郷士身分に落としました。 
これは武士身分ではありません。  土佐藩独自の身分制度で藩から耕作地は与えられました。 
従って藩の拘束から逃れる為には脱藩するしかなかったのです。 
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この回答へのお礼

<郷士とは武士身分ではなく耕作地を与えられ>これは不満を抑えるため武士身分を剥奪したが替りに耕作地を与えたと言う意味なら、おっしゃるように土佐藩独自ですね。土地に縛りつけて武力を奪う。監視下に置くには最良の策だったのでしょうね。
再度の丁寧な回答ありがとうございました。

※関連質問です。土佐以外の足軽兵はやはり傭兵(臨時兵)であるため、人口の少ない地域は召集に困ったのでは?畿内、東海道はその点、有利だったのではないのでしょうか。

お礼日時:2007/06/10 12:41

足軽というのは徒歩で戦闘に従事するものの総称で臨時の傭兵もあり家の子郎党と呼ばれる譜代の家臣も含まれていました。



従ってその装備もまちまちで一般に軽装備といえますが、かなりの装備を持つ者もいました。

臨時の傭兵は多くは農民を召集した農民兵が多かったのですが、武士になる野心家もいました。 彼らは領主などから支給された装備で武装するか、自前の装備を持っていました。
彼らの忠誠心は乏しく闘いが優勢な内は勇敢ですが一旦不利になると逃げ出す事も多かったのです。

土佐の「一領具足」というのは本来の武士が平和時に農耕などに従事していたもので、自前の装備を常に座右においており動員令と共に直ちに武器をとって集合したのです。 彼らは武士身分を保有しており、臨時の農民傭兵とは異なる存在でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
<武士の身分を保有しており>このあたりが決定的に違うわけですね。
一領具足は山内一豊に解体されたのでしょうか。でも解体されて「士」でなくなっても「農」として生きていけるのでしょう。

いわゆる浪人との違いはそのへんにあるのかも(武家からの浪人という意味合いで・・・)

お礼日時:2007/06/09 19:09

「半農半武士」は郷士です。

無論、戦があれば足軽として参加することも可能です。
足軽は下士(通常は石高30未満か30俵未満の武士)のことです。武士の半分はこれです。有名人では岡田以蔵です。小説ですが壬生義士伝の吉村もこれになります。
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この回答へのお礼

足軽は下士。で石高の定義まであるのですか。武士の半分はこれです。
なるほど。回答ありがとうございました。
よく絵巻物などに出てくる、野盗スタイル(?)を連想していましたが、戦国期以前の合戦ではどうだったのでしょうか。一領具足についての回答もお待ちしております。

お礼日時:2007/06/08 22:50

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