
還元主義者であるヒュームは、自我を実体のない「知覚の束」として表現し、カントはこの思想に微睡みから覚めたと発言した。
カントの経験的自我と先験的統覚は、言ってみれば、実体のないヒュームの知覚の束としての自我を経験的自我に置き、その知覚の束の矛盾性を補うものとして、アプリオリ的立場にデカルトのコギトを純粋統覚として置いた、と言うことなのでは?
カントの言う経験的自我とは、ヒュームの知覚の束としての自我であり、先験的統覚とは、それを補う為の補修要因としてのコギトでしかないのである。
A 回答 (5件)
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No.5
- 回答日時:
№1です。
デカルトについて補います。1. デカルトのコギト命題は アウグスティヌス( 354-430 )の:
( a ) 《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》
の二番煎じです。
2. パスカルがその二番煎じ問題について次のように議論しています。
( b ) (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~
わたしは公正な人々に尋ねたい
《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と
《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは
果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
(パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3. パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの命題( a )の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしているようだ。
4. アウグスティヌスは どう言っているか?
( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る舞いについて間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られ このふたつの――時間的な隔たりのある――コトをとおして わたしはそのどちらについても わたし〔が行為主体〕であることを確認します。
自己同一性(アイデンティティ)です。
――この自己・このわたしがあると知られます。
( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもその欺かれたというコトは わたしが存在していなければ成され得ないことです。犬や猫も存在しているとすればそう見なされると思うのですが つまりもしそれらを人間がだましたとして ひとつに 存在しているとする限りで だからだませたとなるでしょうし 存在などしていないと見るなら そのダマシなどは あって無きがごとしとなるでしょう。そのようにです。
5. このアウグスティヌスの命題( a )を デカルトは――人びとが思うには――わるく言えばパクッたということになります。
《あやまちに気づく》ならば なぜそうしたのかなどについてわれは考えますし あるいは《騙された》とするならば やはりどうしてそうなったのかと思いをめぐらし考えます。だから 《思う・考える》という表現に替えたのでしょう。
6. アウグスティヌスの原文(翻訳ですが)と併せてさらにこの点については たとえば次の趣旨説明欄で補ってください。
【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】
https://okwave.jp/qa/q8937694.html
(どういうわけか 教えて! goo の質問が出ません)
7. ただし デカルトはすでに生前にそのこと(パクリ疑惑)について指摘を受けて 反論して答えています。
――いや そうぢゃない この《思う・考えるわれ》は 決してあやまちや欺きといった経験的な事態にかかわるわれではない。そうではなく むしろ《霊としてのわれ》なのだと。
その《考えるわれ》とは英訳で《非物体的なもの( an immaterial substance / incorporeal 》なのだそうです。
8. すなわち:
▲ Renati Descartes Epistolae (デカルト書簡集)(*註=[10])
http://catalog.hathitrust.org/Record/009287973
(ここから cogito で検索して p.404 をクリックしてください。次のページです)。
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=ucm.53235 …
( d )(= p.404 ) ego vero illud adhibeo adprobandum me
cogitantem esse immaterialem & incorpoream substantiam;
( d-English ) Appendix IV. Augustine's "Cogito Argument:"
https://faculty.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDes …
I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an
immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal.
( d-Jpanese ) アウグスティヌスの《あやまつならわれあり》をわたしは次のことを明らかにするために応用しました。すなわち 《考えるわれ》は 非物質的で非物体的な実体なのであると。
8-1. (ぶらじゅろんぬの自由な解釈)
あやまちに気づかされるときには われなる人間としての思考を超えて(思考によってだけではなく思考を超えて) ヒラメキが得られると見ることもできる。ヒラメキは インスピレーションとして 神の霊としてのハタラキに属するという見方ではないかと思われる。
9. さらにこの話には後日譚のようなことがついています。
(あ) 《考える〔そのみなもとの〕われ》は むしろ《霊(生命性)》であるとなったところで これを承けて 18世紀の科学者のゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクがその霊のハタラキを例の《エス( Es :それ・あれ)》と言ったそうです。
(い) ( a-d-Lichtenberg :コギトは 《エス・デンクト( It thinks. それが考える)》と翻訳すべき)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/33/0/33 …
稲妻が走る〔es blitzt〕と言うのと同じように、それが考える
〔Es denkt〕と言わねばならない。
(う) この《エス(英: it )》が 《無意識》といった意味合いを帯び ニーチェを経てフロイトに行き着いたのだそうです。
(え) なお この《エスないしムイシキ》をその作用としてあたかも脳の独立した部位において想定したところでは――それは実証されていないからには―― もうついて行けないと言うべきだと考えます。
10. *[8]の註:デカルトの書簡については 『デカルト全書簡集』全六巻として 日本語訳が刊行中のようです。ただしこのコギトをめぐる発言を載せる第四巻だけは なお未刊のようです。
11. デカルトの――《霊なるわれとしてのコギト》による――反論は その場のデマカセくさいように感じられます。
そうでなくても もし霊のハタラキを言うとすれば 《考える》とは別にそれとして持ち出せばよいはずですし そういう問題はアウグスティヌスがすでに言っていないわけがないのですから。
No.4
- 回答日時:
№1です。
おぎないます。☆☆ (№1) ~~~~~~~~~~~~~
★ 経験的自我
☆ って言いますけど 存在たる人間としてのわたしは みな同じですよ。
移ろいゆかざるをえない生き物であり いわゆる世界‐内‐存在なのであると。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この《自然本性にもとづきふつうに生きる経験存在たる人間 としてのわたし》については たとえば次のように分析します。
すでに《神》の領域を想定するかたちを採って 次のように存在は成り立っていると見ます。
〇 《神と人たるわれとのカカハリ》についての図解 ~~~~~
超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
↓ ↑ ↓ ↓
______________________________
自然本性たるヒト: ↑ ↓ ↓
↑ ↓ ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
------------------------------
[経験世界] ↓ ↓
【心/精神】:考える:思考の緑野:コギト: 直観 ↓
【身/身体】:感じる:感性の原野:センススコムニス:ヤマシサ反応(恥)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここで 《真理・生命→ヒラメキ→直観:思考》といったハタラキの順序です。
また《道→良心→ヤマシサ反応(恥ぢ):感性》といった経路も 想定しています。
★ 経験的自我
☆ の拡張版です。
☆☆ (№1)
ただ カントは 存在論をめざしたようでありつつ 認識論としてヘンなことを言いました。
☆ これについては 次のように理解します。
1 まづアンチノミーの説をあやつって存在論は 形而上学としては成り立ちがたいといったややこしい主張内容のようです。
2 ところが 微妙なかたちで形而上学的な存在であるような《物自体》を設定します。これは あたかも《神の知恵》のようなものと捉えると分かりやすい。
3 そうしてこの物自体を前提とするかぎりで 人間の知覚能力があたかも超自然なる神のごとく経験に先立って(=アプリオリに) 世界なる対象〔との位置関係の知覚〕に優って主体的なその対象の認識(直観)を得ることが出来る と言う。
4 純粋直観によるものごとの認識においては――たとえば世界が人間の感官を刺激してこれを知覚するというよりは――すでに時間や空間の認識がアプリオリに・つまりその経験事象に先立って人間の側(悟性)において成り立っているのだと主張する。
5 認識のコペルニクス的転回ということらしいのですが 次のように図解してみます。。
〇 《神と人たるわれとのカカハリ》についての図解――認識のアプリオリ性を採り入れたカント版―― ~~~~~~~~~
------------------《物自体》-------
↓
【思考の緑野】理性:認識を統一 ←⑤――悟性:知覚内容を概念認識④
↓ ↑
アプリオリにはたらく ↑
純粋悟性としての直観 ↑
↓② ↑
【感性の原野】感性:対象との出会い①・・・③知覚(視覚聴覚 etc.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
6 アプリオリ性は ②という順番とそのハタラキ内容が担っているのだと見られます。
また 《物自体→悟性→純粋直観②》という経路の前ふたつは つねにハタラキを起こす態勢にあるということらしい。
7 そうしてカントの認識論では 直観は 純粋悟性による純粋直観として ヒラメキから来るというよりは 《物自体》(おそらく ≒大いなる叡智)から来ているといったことではないかと見られます。
8 この ② のハタラキは 証明されていないと思います。
*
☆ 説明不足をおそれ――あるいは 蛇足かもなんですが―― 図解等についておぎないます。
(あ) 《やましさ反応》は――動悸がはげしくなり顔が赤らむ反応は―― われわれ人間の思考や意志やあるいはそれらの意識のいかんにかかわらず そのような経験行為に先立ってすでに どこからか推進力がはたらいて起こる現象です。
(い) しばしばよからぬことを思ったり企んだりするときに起こる反応ですから おそらく《良心》によって起こされる《恥ぢ》という感覚や概念にかかわってはたらくものと考えられます。
(う) 良心は 天与のものです。それをめぐって思考することはありますが 人間が自分から持とうとして持ったものではないでしょう。ヒラメキという概念と現象も 同じくそうなのだと思われます。
(人びとの経験という情況証拠からの結論づけですが)。
(え) ヤマシサ反応がこのように先験的であると言う場合と カントの・認識についてのコペルニクス的転回説に言う純粋直観がアプリオリだという場合とは 同じではない。――と思われます。
(お) ただし 《物自体》が けっきょく神のチカラ・叡智のことだとなれば 話は コペルニクス的転回が 元にもどります。まさに形而上学としての・非経験の場なる神の領域が復活するゆえ。
(か) 図解の【 +α(霊我)】は あくまで 神の側からのハタラキカケによるものです。そのような想定です。アートマンのことですが ブッダター(仏性)と言いかえると 分かりやすい。
(き) アプリオリ性とは 一方で《① 感性が対象と出会うという経験》を前提としつつ 他方で《③ 知覚そしてまた ④ その感覚内容を概念として認識するというふつうの悟性の経験》に先立っているという意味です。その意味で 《先験性》と言うらしい。
(く) ただし 考えてみれば 《① 感性が 対象と出会うこと(その時点)と そして ③ 《視覚等として捉える感覚の起こること(その時点)》とは 時間のへだたりはないとも見られる。同じことを言いかえているに過ぎないもののようだと。
(け) とすれば そのような ① と ③ とのあいだの・時間的な隔たりのないところに 《② 純粋直観》がハタラキを起こす。ということは 《感性〔なる自然本性のハタラキ〕を超えて作用する》と言える。そう言わざるを得ないように思われる。
(こ) つまり カントの言うアプリオリ性とは 先験性というよりは 超越論的であり 超自然性ないし超経験性だと見られる。もしそうだとすると あまり意味がないように思われる。
人間の主体的な認識行為にとって 神のハタラキなのであり 純粋悟性の純粋直観ではないように思われる。
☆ つくづく ややこしいですよね。
No.3
- 回答日時:
”経験”は無いのに自意識に組み込まれますね
それを勘違だったと言い訳します、事実的錯覚
もちろん知覚が無いものからも心が形成され束になって行きます
皆の思いを束ねた絆の力です。
最近お正月に”二人羽織”見なくなりましたね
自己意識がバラバラだと愉快です
No.2
- 回答日時:
デカルトの″コギト″は、あくまで個我であった。
「私は考える、それゆえに……」の保証するものは「私」の存立する基盤のみである。と思います
ソクラテスとともに、デカルトも、ほかならぬ″汝自身″を問うことから出発したのであって。その掘削作業、内面への問いかけの深さは、以後、数百年にわたる彼の哲学の影響性を支えていたといえるのではないでしょうか
神の束縛から解放された人間が、なお生きる基盤を求め抜く、自立への意志であった。その苦闘の足跡は、″コギト″の名とともに、永遠に人間解放の歴史上から消えることはないでしょう。
しかし、その作業は、岩底まで至っていたであろうか。
最近の深層心理学は、意識の極限ともいうべき″コギト″をさらに突き抜けたところに、なおかつ大海のような無意識、集合的無意識層が広がっていることを解明している。そこに、西欧哲学の限界を感じます。
No.1
- 回答日時:
★ 経験的自我
☆ って言いますけど 存在たる人間としてのわたしは みな同じですよ。
移ろいゆかざるをえない生き物であり いわゆる世界‐内‐存在なのであると。
ただ カントは 存在論をめざしたようでありつつ 認識論としてヘンなことを言いました。
ヒュームは還元主義だといいますが このいま触れた存在についてその内側をさぐってみただけですよ。
われ考える ゆえに われありって言ったのは もうとっくに無意味だとされていますよ。
《われ考える なら そのように考えているわれ(疑い得ないところまで疑い考えているわれ)あり》っていうのは 確実だと言ったまでですから。
ほんとうのわれ(?)については 前述の生き物たる存在(主体)が《わたしはわたしである》といった自同律で確認するのみです。
(あとは やっぱり形而上学になると思います)。
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回答ありがとうございます。と言いたい所ですが、あなたの回答はいつも何を言っているのか意味不明な部分が多すぎます。
,存在たる人間としてのわたしは みな同じですよ。,
とは一体どういう意味でしょうか?
,移ろいゆかざるをえない生き物であり いわゆる世界‐内‐存在なのであると,
とはどういう意味でしょうか?
>>>われ考える ゆえに われありって言ったのは もうとっくに無意味だとされていますよ。
《われ考える なら そのように考えているわれ(疑い得ないところまで疑い考えているわれ)あり》っていうのは 確実だと言ったまでですから。
ほんとうのわれ(?)については 前述の生き物たる存在(主体)が《わたしはわたしである》といった自同律で確認するのみです。
文章が自己満足的に完結しており、言ってる事が全く意味不明です。