1. 神は 絶対性ゆえ 相対性としての(経験事象としての)有るとか無いとかのいづれとしても 人間が自由にまた対等に――そして 同時に――忖度しうる。
1-1. かくして 同じひとつと普遍神について 《有る神》派と《無い神》派とが 平和裏に共存する。そうでなければならない。片一方だけの単独成立は 普遍神が欠けてしまう。
2. ただし 相対性としての愛憎や真偽や善悪についてそれぞれの両者が互いに自由に対等なかたちで えらばれることは出来ない。
2-1. 憎悪の神や悪の神が あり得るかに見えるけれども それらは 善の神や愛情の神と――相対的に有限なかたちで――対立するものであるに過ぎず 絶対性なる普遍神とは別である。
2-2. 善の神と悪の神とは 強いて言うなら 普遍神のそれぞれ一部分である。
2-3. 普遍神は 善悪の彼岸 真偽を超えた真理 愛憎をおおきくつつむ愛であると忖度される。
2-4. 言いかえると 《善の神と悪の神と》というふうに つねにペアとして持ち出して決して切り離さないならば まぁ 大目に見られるかも知れない。
3. 忖度の内容としての可能性の話であるが 《神は人間がこしらえたものだ》なる命題や《神を人間がナイフで刺してころした》なる推理は 成り立たない。
3-1. こしらえたものなら 壊せる。また たしかに殺せる。――だが 絶対性をどうして相対存在である人間が どうにかすることが出来るというのか? ニーチェ葬送を早く済まそう。
☆ どう考えますか? 添削をどうぞ。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
>>「なるほど。
わたしは学生時代は まだ宗教と信仰とを峻別し得ていませんでした。組織と個人との関係の問題としては考えていました。」私も宗教と信仰の区別については捉えていなくて、bragelloneさんの文を読んで初めてそういった見方が有り得るのだと気づきました。これまでは、信仰は宗教内での行為だというごく通俗的な理解をしており、【宗教・信仰・集団 / 非宗教・非信仰・個人】という二項対立で後者を擁護し、個人の実存を非宗教的かつ個人的な方法で確立する方法を探っていました。今も探究の途中です。しかし宗教と信仰を区別するとなると、この二項対立も改める必要がありますね。
>>あとになっても バタイユはけっきょく扱いにくかったですね。
バタイユも厳密な文章を書くタイプでは無いですね。自身の思想において、人間の理知的側面を否定または批判している人の文章というのは、それを反映するかのごとく、あるいは意識的にそれを反映して、(敢えて?)厳密さを欠いていることがままありますね。ニーチェがアフォリズムという形式を選択したのはそのためだ、なんていう学者もいたりして。そんなのアリか?とも思わなくもないですが。(笑)
私がバタイユの好きなところは、
「沈黙という言葉もいまだにひとつの雑音である。語ることは、自分自身のなかで知っていると思うことであり、もはや知らずにいるためには、もはや語ってはならないだろう。……確かに私の両目は見開かれたが、しかしそれを語ってはならず、一匹の獣のように立ちすくんでいるべきであった。」(『内的体験』)というように、言葉を語ることに内在する根本的な過ちに自覚的だったところですね。とはいえ、やはり「言葉にしてはならない」と言葉にすることで、まさに言葉になってしまっているという問題があって、そしてそのことにもバタイユ自身も気づいていながら語ってしまっている。今の私もまさにそうです。
>>私見の《わが固有の〈とき〉》は 《法悦》につながると言われるかも知れない。
言葉っていうのは共同性と分かちがたく結びついていて、それどころか共同性こそが言語を成立させているので、先程私の書いた「個人の実存を非宗教的かつ個人的な方法で確立する」というこの個人的な方法は、究極的には言葉を使わないものであるはずだと考えています。そして、言葉が無理な以上、法悦(バタイユ的に言えば「内的体験」)のようなあり方(だけ)がその方法として可能であるのではないかと。
この点、bragelloneさんの仰る《わが固有の〈とき〉》を持つ、というのとどこか問題意識は繋がっていそうな気がします。
>>《宗教》の定義を聞くといいかもですが。
「しかし私は、宗教的な体験、つまりこれまで人々がしがみつかざるをえなかった体験」「いかなる信仰との……」ここでバタイユが使っている信仰と宗教は、特に区別のないものだろうと思います。ですから、「いかなる宗教との繋がりももたない」と意味することは同じかと。特にbragelloneさんの「宗教」と「信仰」の定義でいえば、これは「宗教」「オシヘ」に該当、あるいは近接するものと思われます。(原文が手元に無いので断言できませんが。)
>>次の二件も大いに同感です。
私もいつになったら、どうしたら非思考に辿り着けるやら……。
★ 私も宗教と信仰の区別については捉えていなくて、bragelloneさんの文を読んで初めてそういった見方が有り得るのだと気づきました。
☆ そうでしたか。そのままを受け取るとしますと おそらく潜在的にはその志向性がおありになったのであろうし もうすでに芽吹いておられたのでしょう。
★ これまでは、信仰は宗教内での行為だというごく通俗的な理解をしており、【宗教・信仰・集団 / 非宗教・非信仰・個人】という二項対立で・・・
☆ オシへは 月を指差して ほら ごらん! というときの《指》なんだと 十年ほど前に気づきました。
組織宗教では オシへを正解とするか あるいは正解とほぼ同じものとしてあつかっているのではないかと。
★ バタイユも厳密な文章を書くタイプでは無いですね。・・・
☆ 《非‐知》も分からなかったですし この語は わたしは吉本隆明から拝借しました。
★ 私がバタイユの好きなところは、・・・
☆ 大胆に割愛しましたが よく分からないながらですが ウィトゲンシュタインの《沈黙せざるを得ない》に似ているのですかね。
☆☆ >>私見の《わが固有の〈とき〉》は 《法悦》につながると言われるかも知れない。
★ 言葉っていうのは共同性と分かちがたく結びついていて、それどころか共同性こそが言語を成立させているので、・・・
☆ なるほど。《〈ことば〉論》が先行しているわけですね。
自己表現の一般性(共同主観性)をねらうのは 言葉の共同性のお世話にならなけれならない。
☆☆ >>《宗教》の定義を聞くといいかもですが。
★ 「しかし私は、宗教的な体験、つまりこれまで人々がしがみつかざるをえなかった体験」「いかなる信仰との……」ここでバタイユが使っている信仰と宗教は、特に区別のないものだろうと思います。
☆ そうだったのですね。そこらへんが たとえばレヴィナスにしても あいまいで なんだか根気がなくなってしまう体験でしたね。
☆☆ >>次の二件も大いに同感です。
★ 私もいつになったら、どうしたら非思考に辿り着けるやら…
☆ じつは わたしは 文字通り《能天気》です。青山さんは すでに――こんどのご体験で一気に――少なくとも説明の文章を十二分に用意されているんだなぁと。・・・
No.5
- 回答日時:
お返事ありがとうございます。
>>「☆ いないと思います。現に互いに貶しあっているはずです。つまりわたしも:
★ 私は(共在はしているけれど)平和裏に共存はできていないと思って
☆ います。よ。」
ここはどうやら私が元の質問の文章を誤読していたようです。余計な混乱を生み出していまい申し訳ないです。
>>「《わたしはわたしである》というその人それぞれの――固有の時間あるいは空間としてのように――持たれてゆくと思います。」
私は、集団による宗教という形式を抜きにした人間らしい生き方というものを探って大学時代も試行錯誤していました。バタイユなんかを引用したりしながら。
「内的体験という言葉で私が言おうとしているのは、通常は神秘体験と呼ばれるものである。つまり恍惚、法悦の状態、少なくとも瞑想による感動の状態である。しかし私は、宗教的な体験、つまりこれまで人々がしがみつかざるをえなかった体験よりも、剥き出しの体験を思い描いている。それは、いかなる信仰との繋がりももたない、それを原因とすらしない体験だ。だからこそ、私は神秘的という言葉を好まない。」(『内的体験』)
とはいえ、ここで犯しているバタイユの過ちというのは内的体験という言葉をつくってしまったことですね。体験の宗教性を否定したまではいいけれど、結局それを別の言葉で言い変えてしまうと、その体験の単独性や剥き出し性が失われてしまいます。
これは非知なんかについてもそうですね。非知が、非知という言葉で表されている限り、本当の非知には辿り着けていないんだろうと思います。言語世界にしか生きられない我々の前にどうしても立ちふさがる壁です。
>>「《信じる》とは 《非知なるナゾ(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)を 神なら神というただそういった名をとおして 無条件に無根拠にてわが心に受れること》だと考えます。
げんみつに言って 宗教とは接していません。」
bragelloneさんが《信じる》や《信仰》という言葉で指しているのは、何か具体的な対象に向かった積極的な行為なのではなく、《非知なるナゾ》に向き合うときの人間の《はからひ》のない心の状態や生活態度を指しているわけですね。
以上を踏まえると、神と人間の関係については、
①オシヘ・宗教に基づいて生きる
②神などの名を通して《非知なるナゾ》を受け入れる
③神の〈か〉の字も出さずに自由に生きていく
という三段階として記述できると思うのですが、いかがでしょう。
ここで一つ確認したいのが、②はNo.4のお礼で書かれている通り信仰だと思いますが、③の状態も信仰といえるのでしょうか。
私は②までは信仰と呼べると思うのですが、③に至るとこれはもう信仰と呼べないのではないかと考えます。先程のバタイユ批判でも書いたように、③に至ったところでは、そうした行為については反省的に語り得ず、③に至った時点で「信仰」という言葉はもはや不可能になっていると思うのです。もし、③に至ったはずなのに相変わらず「信仰」と言っているのであれば、その人は本当には③になれていないと思います。信仰とは非思考なわけですからね。つまり、もし③も信仰と呼ぶのであれば、それは③に至っていない人間が、③の状態に対して外部から便宜上そう呼ばざるを得ない名前である、という風に捉えざるを得ないのではないでしょうか。
道元禅師のオシヘを補助線とするならば、「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり。仏を証しもてゆく」(『正法眼蔵 現成公案』)です。理想の状態に至っているときには、自分がそうであると意識することはないものと思います。No.4で書いた「「共存」ということを意識すらしなくなったところに、真の共存が成立する」という話もこれと同じです。
しかしやはり思考は非思考のために必須なプロセスなのは間違いないですね。
☆☆ >>つまりわたしも:
★★ 私は(共在はしているけれど)平和裏に共存はできていないと思って
☆☆ います。よ。」
★ ここはどうやら私が元の質問の文章を誤読していたようです。
☆ すみません。わたしが 意を採って対処し得ていたらよかったかもしれない。互いに違いはなかったのですね。
☆☆ >>「《わたしはわたしである》というその人それぞれの――固有の時間あるいは空間としてのように――持たれてゆくと思います。」
★ 私は、集団による宗教という形式を抜きにした人間らしい生き方というものを探って大学時代も試行錯誤していました。
☆ なるほど。わたしは学生時代は まだ宗教と信仰とを峻別し得ていませんでした。組織と個人との関係の問題としては考えていました。
★ バタイユなんかを引用したりしながら。
☆ あとになっても バタイユはけっきょく扱いにくかったですね。
▲ 「内的体験という言葉で私が言おうとしているのは、通常は神秘体験と呼ばれるものである。つまり恍惚、法悦の状態、少なくとも瞑想による感動の状態である。
☆ 見方によっては 私見の《わが固有の〈とき〉》は 《法悦》につながると言われるかも知れない。《わたしはわたしである》なる命題が すくっているかどうか。
▲ しかし私は、宗教的な体験、つまりこれまで人々がしがみつかざるをえなかった体験よりも、剥き出しの体験を思い描いている。それは、いかなる信仰との繋がりももたない、それを原因とすらしない体験だ。だからこそ、私は神秘的という言葉を好まない。」
☆ むつかしいですが 《絶対性と相対存在との関係としての信仰》は 誰にも当てはまるかと思います。定義の問題なのかも。
★ とはいえ、ここで犯しているバタイユの過ちというのは内的体験という言葉をつくってしまったことですね。体験の宗教性を否定したまではいいけれど、結局それを別の言葉で言い変えてしまうと、その体験の単独性や剥き出し性が失われてしまいます。
☆ ここも むつかしいです。《宗教》の定義を聞くといいかもですが。
★ これは非知なんかについてもそうですね。・・・〔☆ 割愛します〕
つづく
No.4
- 回答日時:
お返事ありがとうございます。
>>「《有る神》派と《無い神》派とに分かれたとき 両派はそれぞれ互いに同等・対等であるとみとめあっているということです」
bragelloneさんの考えでは、現に《有る神》派と《無い神》派は平和裏に共存しているということでしょうか。私は(共在はしているけれど)平和裏に共存はできていないと思っていたので、もしかしたらそこでちょっとすれ違っていたかもしれません。
>>「なぜって神とすれば――敢えて言って イエス・キリストの登場以降では――もう顔を出すことはないという手筈だったと思われるからです
要するに 神としては 人間が経験世界で相対的なものごとを有限の能力と努力とであつかって何とか共生してゆくという歴史を 自分たちで――神の〈か〉の字も出さずに――自由に生きていってほしいと思っているのではないか」
これはとても興味深いです。もし、神の〈か〉の字も出さずに……ということが現実になったら、《有る神》派と《無い神》派というものも存在しなくなりますね。「共存」ということを意識すらしなくなったところに、真の共存が成立するのではないかと。
ここではまさに宗教が抜け殻(抜け殻の抜け殻?)になっているわけですが、信仰はどうなっていくのでしょうね。神の〈か〉の字も出さずに信仰するということは、いかにして可能なのでしょう。
そういえばこれで思い出したのはイグナチオ・デ・ロヨラですね。神がいないかのように、ただし全て神の御心にあることを念頭に置きつつ、自分だけを頼りに行動すべきである……ということを言っていたと思います(私の理解ではですが)。これは、具体的な宗教生活というものを抜きにして信仰だけを持つ形式といえるでしょうか。それともこれもまだ不完全でしょうか。(ただそもそも、神がいないかのように、神の御心にあることを念頭に置くって具体的にどうやるの?って感じもありますが。『霊操』を読み直さないとですね。)
>>「この世に 悪は 存在しない。」
拝読しました。やはり、アウグスティヌスの『神の国』を連想しますね。「悪にはいかなる本性もない。むしろ善の喪失に悪の名が与えられるのである。」(『神の国』第9巻)
プレゼント「《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観」、ありがとうございます。まだ完全に咀嚼しきれてはいませんが、ニーチェの批判したキリスト教とは宗教・オシヘでしかありえない(信仰ではありえない)、という点が重要論点であると読みました。
>>《信仰(非思考)と宗教(思考)とは峻別すべし》(「《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観」)
ここ、とても重要ですね。しかし今すぐには応答できそうにありませんので、しばらく考える時間をいただこうかと思います。細かいところで対立点は出てくるかもしれませんが、直感としては概ね同意です。
>>「信仰が蝉だとしたら 宗教は 蝉の抜け殻です。オシへとして人間の言葉によて表現された経験思想に成り代わっているから。」
「《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観」と一貫している論点ですね。宗教が経験思想に成り代わっている、確かにそうと思います。
>>わたしからのニーチェ批判は 追い追いできればと思います
とはいえ私もやはり、ニーチェの考えたことは中途半端だったと思います。ディオニュソス崇拝、永劫回帰、力への意志……何故そんなことを言ったのか、ちょっと意図が読めない部分も多いです。なかなか解体屋は建築家を兼ねませんね。彼自身がものすごいルサンチマンを持っている人だというのも文章からひしひし感じますし(そこが私は人間らしくてちょっと好きだったりするのですが(笑)哲学者としての資質は別として、ですよ)。少し脇道に逸れますが、三島由紀夫の『文章読本』の中で悪文の例として彼が書いている文章が、実はとても三島由紀夫らしい文章になっている、と井上ひさしが分析していたのを思い出します。
とはいえ、彼のキリスト教道徳批判における問題提起というのは議論の叩き台として有効であると考えています。神について議論する際、とりあえずニーチェについてどう思うかを相手に聞けば、何となくの対立点が見えてくることが多いですし。
最後にですが、私の回答は批判ではなく、bragelloneさんの考えについて理解を深めるための問いですので、どうかそのおつもりでお読みになってください。
☆☆ 《有る神》派と《無い神》派と・・・はそれぞれ互いに同等・対等であるとみとめあって
☆ いないと思います。現に互いに貶しあっているはずです。つまりわたしも:
★ 私は(共在はしているけれど)平和裏に共存はできていないと思って
☆ います。よ。
>>「なぜって神とすれば――敢えて言って イエス・キリストの登場以降では――もう顔を出すことはないという手筈だったと思われるからです
☆☆ 要するに 神としては 人間が・・・自分たちで――神の〈か〉の字も出さずに――自由に生きていってほしいと思っているのではないか」
★ これはとても興味深いです。もし、神の〈か〉の字も出さずに……ということが現実になったら、《有る神》派と《無い神》派というものも存在しなくなりますね。「共存」ということを意識すらしなくなったところに、真の共存が成立するのではないかと。
☆ いい表現ですね。
★ ここではまさに宗教が抜け殻(抜け殻の抜け殻?)になっているわけですが、信仰はどうなっていくのでしょうね。
☆ 《わたしはわたしである》というその人それぞれの――固有の時間あるいは空間としてのように――持たれてゆくと思います。
★ 神の〈か〉の字も出さずに信仰するということは、いかにして可能なのでしょう。
★ そういえばこれで思い出したのはイグナチオ・デ・ロヨラですね。神がいないかのように、ただし全て神の御心にあることを念頭に置きつつ、自分だけを頼りに行動すべきである……ということを言っていたと思います。
☆ わたしの考えでは 《はからひ無きを 自然という》といった生活になるかと。
神のこころを思うのは いいのですが その内容の忖度であるとかその中身の理念のようなものに合わせようとするなら 人間の《はからひ》があるのだと思います。
★ これは、具体的な宗教生活というものを抜きにして信仰だけを持つ形式といえるでしょうか。
☆ ひととおり世の中の仕組みが分かるようになるまでは たしかにオシへが信仰へとみちびく補助線に成り得ます。
《信じる》とは 《非知なるナゾ(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)を 神なら神というただそういった名をとおして 無条件に無根拠にてわが心に受れること》だと考えます。
げんみつに言って 宗教とは接していません。
つづく
No.3
- 回答日時:
絶対性としての普遍神が、相対的なあらゆる概念を包み込む……というのが大まかな論点でしょうか。
神が絶対的だからこそ、人間は相対的なアレコレが言えているんだ、というのはとても面白い話だと思います。以下、疑問点など。・1について
1ー1.「同じひとつと普遍神について 《有る神》派と《無い神》派とが 平和裏に共存する。そうでなければならない。片一方だけの単独成立は 普遍神が欠けてしまう。」
この「共存」というのは、現実として共存していなければならない、ということでしょうか。それとも潜在的に、ポテンシャルとしてそういう共存が無ければならない、ということでしょうか。仮に現実の話であれば、もし世界中の人たちがみんな《無い神》派であるか、みんな《有る神》派だったとしたら普遍神が欠けてしまうことになりますよね。そのため、私としてはこの「共存」は潜在的なものとみなしたいです。人間が存在する以前に神がいると考えるのであれば、これはそういう共存でしか有り得ないと思います。
・2について
ここで、相対的な概念の神が登場しますね。「善の神」や「悪の神」。
普遍神が善の神と悪の神を包むような存在である(2-2~2-4)という点は読めたのですが、2で書かれている、「善の神」と「悪の神」の関係性があまりちゃんと読み込めませんでした。「相対性としての愛憎や真偽や善悪についてそれぞれの両者が互いに自由に対等なかたちで えらばれることは出来ない」(2)。けれど、「《善の神と悪の神と》」(2-4)という風にペアではあるんですよね。善の神と悪の神の関係は、前者が後者を包摂する? (アウグスティヌス的に)後者が前者の欠如である? それとも完全に対等なもの? まさに神義論的な問いですね。
あともう一つ、より根源的なことに関わる疑問ですが、善の神、悪の神、といったように、相対的な概念についても神が存在すると考える理由は何でしょうか。例えばこれを、普遍神と深い関係のある、神以外の何かと考えることも可能ですよね。「善のイデア」「悪のイデア」とか。もっといえば、単に「善」「悪」と言うこともできると思います。そうではなく、神と表すのは何か理由があるのでしょうか?
・3について
絶対的な存在である神に人間の方からタッチするのは不可能という、信仰者の立場からすれば真っ当といえる考え方だと思います。
絶対的な存在としての神が相対的なものを包み込むという、1で提示された構図がここでまた効いてくるわけですね。これは、いくら《無い神》派の主張を叫ぼうが、それを普遍神への信仰の内部において無効にする構図なわけですから。
ニーチェの「神は死んだ」という言葉が意味しているのは、ニーチェが神の存在を批判したのではなく、「神をキリスト教が殺してしまった」ということなんですよね(世俗的なニーチェ観ではしばしばこれを真逆に捉えていますが、彼は生粋の有神論者)。これは、キリスト教が善によって世界の価値を一面化していったことへの批判であり、「キリスト教の奴らめ、弱い自分を守るために神を都合よく利用しやがって!」というニーチェの嘆きですね。
だから、見方によっては、普遍神が善悪を包摂するという質問者さんの考え方というのはいわば「善悪の彼岸」的な発想といえるわけですから、ニーチェの考え方と相性が悪くないこともないのでは? と思いました。ただ、手つきとしては、ニーチェはどちらかといえば解体で、質問者さんは構築のほうなので、方向性は真逆ですが。でも、出発点としては似てなくもないと感じます。
トンチンカンな回答になっていたらすみません。神と人間の自由をどう両立させるかって、難しいですけど考え甲斐のある問いですね。
ご回答をありがとうございます。
★ 絶対性としての普遍神が、相対的なあらゆる概念を包み込む……というのが大まかな論点でしょうか。
☆ そうですね。そのとき 神――すなわち ひとり満ち足りている存在――についての定義の段階と その神とわれとの関係(=信仰)としての現実と 二段階に分かれるという見方は 必要かなと思います。
★ 神が絶対的だからこそ、人間は相対的なアレコレが言えているんだ、というのはとても面白い話だと思います。
☆ その先があることに気づきました。
なぜって神とすれば――敢えて言って イエス・キリストの登場以降では――もう顔を出すことはないという手筈だったと思われるからです。
要するに 神としては 人間が経験世界で相対的なものごとを有限の能力と努力とであつかって何とか共生してゆくという歴史を 自分たちで――神の〈か〉の字も出さずに――自由に生きていってほしいと思っているのではないか です。
★ 1ー1.
この「共存」というのは、現実として共存していなければならない、ということでしょうか。・・・私としてはこの「共存」は潜在的なものとみなしたいです。
☆ ええっとですね。《有る神》派と《無い神》派とに分かれたとき 両派はそれぞれ互いに同等・対等であるとみとめあっているということです。
★ 2について
ここで、相対的な概念の神が登場しますね。「善の神」や「悪の神」。
・・・けれど、・・・善の神と悪の神の関係は、前者が後者を包摂する?
☆ これはですね。言ってみれば現象論ですね。何とか辻褄を合わせておこうといった軽い気持ちでした ぶちあければ。
でも アウグスティヌスの命題が引き合いに出されたからには ご返答としては スペースの関係で 既存の質疑応答をかかげさせてください。
【Q:この世に 悪は 存在しない。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13299676.html
悪の神といった概念は 不要ですね。悪魔という言葉も 飽くまで物語としての修辞的な用法ではないかと思います。
これで次のご批判にお応えしえるでしょうか。
★ 善の神、悪の神、といったように、相対的な概念についても神が存在すると考える理由は何でしょうか。
つづく
No.2
- 回答日時:
普遍なる神はいうなればさまざまな宇宙の法則そのものって話なのでしょうか。
私には難し過ぎた哲学ですが。
ご回答をありがとうございます。
★ 普遍なる神はいうなればさまざまな宇宙の法則そのものって話なのでしょうか。
☆ そう考え勝ちなんですが じつは違います。
なぜって 《宇宙の法則》は この宇宙といった経験世界における物や出来事にかんして捉えた因果関係などの規則性を言っているはずですが 神は 経験世界を超えているものだからです。
宇宙の法則は かんたんに《有る・無い・変化した》にかかわっていますが 神は これら《有る・無い・変わる》をやはり超えている言わばナゾであるからです。
ただし さらに考えるにですが もし神はこの相対的な経験世界を超えているのなら その相対性の世界にかんする宇宙の法則をふくむかたちであるかも分かりません。
そんな感じに思えます。
No.1
- 回答日時:
神って量子力学的な存在なのですね。
認識したときに現れ、善いと悪いが重ね合わさっているって
まんまですね。
一見 そうですね。――ご回答をありがとうございます。
ところが 違うんです。
やっぱ 違います。
一方は 経験事象であり もう一方は 超経験ですから。
どう違うか?
普遍神:絶対的な真・善・美あるいは愛・生命・道また全知全能。
そして 有ると無いとの重ね合わせ――これが じつは
一たん分かれつつも つねに続いているのです。
量子力学:有ると無いとの重ね合わせの状態にあり
観測すると どちらか一方に決まる。
☆ あるいは 量子もつれが どちらか一方だけが取り出されてその状態に決まったとき 他方が いま一つ別の状態に成っていることが決まる。
これに対して 普遍神の場合は Aなる人が 有るをえらんだとき Bは 有るをえらぶことが出来るしまたは無いをえらぶことも出来る。
Cについても 同じくです。
人びとは 《有る神》派と《無い神》派とが いかようにも分かれて信仰することができます。まったく自由にえらべます。
しかも AにしてもBにしてもまたCにしても 自分のえらんだ派とともに同時に他の派の存在をもみとめていなくてはいけない。
有神論と無神論とは 互いに自由に同等であり対等であり つねに他をみとめあっているということが 普遍神からの要請です。
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№3ー1
☆ ただし物語が編まれたという限りでは その同じ舞台に立って話の収束をさせる必要があるかもですね。
【Q:イエスとアクマ】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12163069.html
★ ・3について
絶対的な存在である神に人間の方からタッチするのは不可能という、信仰者の立場からすれば真っ当といえる考え方だと思います。
☆ ありがとうございます。また 舌足らずのところを きちんと説明してもらいました。(復唱を省きましたが)。
★ ニーチェの「神は死んだ」・・・これは、キリスト教が善によって世界の価値を一面化していったことへの批判であり、「キリスト教の奴らめ、弱い自分を守るために神を都合よく利用しやがって!」というニーチェの嘆きですね。
☆ わたしの言葉では 個人の信仰と組織宗教との違いの問題だとなります。
つづく
№3-2
信仰が蝉だとしたら 宗教は 蝉の抜け殻です。オシへとして人間の言葉によて表現された経験思想に成り代わっているから。
つまり オシへは 信仰の神という正解を差し示す補助線です。補助線を正解だと言い張るなら すべてが錯乱です。
★ だから、見方によっては、普遍神が善悪を包摂するという質問者さんの考え方というのはいわば「善悪の彼岸」的な発想といえるわけですから、ニーチェの考え方と相性が悪くないこともないのでは? と思いました。ただ、手つきとしては、ニーチェはどちらかといえば解体で、質問者さんは構築のほうなので、方向性は真逆ですが。でも、出発点としては似てなくもないと感じます。
☆ ありがとうございます。わたしからのニーチェ批判は 追い追いできればと思います。
たしかに:
★ 神と人間の自由をどう両立させるか
☆ ですね。
青山0円さん よろしかったら わたしからのプレゼントです。
【Q:《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9935080.html?pg=1&i …
luoan344 さんとわたしとのやり取りを つつしんでささげます。
№4ー1
★ 神がいないかのように、神の御心にあることを念頭に置くって
☆ 神がいる・いないというのは忖度でありはからひです。
★ アウグスティヌス:「悪にはいかなる本性もない。むしろ善の喪失に悪の名が与えられるのである。」(『神の国』第9巻)
☆ そうでしたか。
わたしの自己表現は すべてこのアウレリウスのものです。ただし 月日を経ておそらく今では 自己流になっているでしょうし いくらかの主題では さからっているかと思いますが。
★ プレゼント「《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観」、ありがとうございます。まだ完全に咀嚼しきれてはいませんが、ニーチェの批判したキリスト教とは宗教・オシヘでしかありえない(信仰ではありえない)、という点が重要論点であると読みました。
☆ ありがとうございます。
つづく
№4-2
☆☆ >>《信仰(非思考)と宗教(思考)とは峻別すべし》(「《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観」)
★ ここ、とても重要ですね。しかし今すぐには応答できそうにありませんので、しばらく考える時間をいただこうかと思います。細かいところで対立点は出てくるかもしれませんが、直感としては概ね同意です。
☆ たいへん うれしいです。
☆☆ >>「信仰が蝉だとしたら 宗教は 蝉の抜け殻です。オシへとして人間の言葉によて表現された経験思想に成り代わっているから。」
★ 「《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観」と一貫している論点ですね。宗教が経験思想に成り代わっている、確かにそうと思います。
☆ はい。
つづく
№4-3
★ とはいえ私もやはり、ニーチェの考えたことは中途半端だったと思います。ディオニュソス崇拝、永劫回帰、力への意志……何故そんなことを言ったのか
★ なかなか解体屋は建築家を兼ねませんね。彼自身がものすごいルサンチマンを持っている人だというのも文章からひしひし感じますし(そこが私は人間らしくてちょっと好きだったりするのですが(笑))。
★ 三島由紀夫の『文章読本』の中で悪文の例として彼が書いている文章が、実はとても三島由紀夫らしい文章になっている、と井上ひさしが分析していた
☆ この件については わたしも参加して意見が言えるようになるとよいなぁと。
★ とはいえ、彼のキリスト教道徳批判における問題提起というのは議論の叩き台として有効であると考えています。・・・
☆ また アフォリズムを高く評価する向きも多いですね。
№5-1
☆☆ >>「《信じる》とは
★ ~~~
神と人間の関係については、
①オシヘ・宗教に基づいて生きる
②神などの名を通して《非知なるナゾ》を受け入れる
③神の〈か〉の字も出さずに自由に生きていく
という三段階
~~~
☆ くやしいですが ①の段階をふつう人は青少年時に経るようです。
★ ②はNo.4のお礼で書かれている通り信仰だと思いますが、③の状態も信仰といえるのでしょうか。
▼ (アウグスティヌス:『三位一体論』14:2 中沢信夫訳)
私たちが信仰によって歩かなければならないように主から離れて巡礼しているこの巡礼の旅路が終わって あの神の直視が現われ 顔と顔を合わせて神を観る(ⅠCor.13:2)時に存在していないであろうものは常に存在するのではない・・・。信仰によって神の直視に導かれる・・・そのときはもはや見えないものを信じる信仰は存在せず・・・。
つづく
№5-2
☆ すなわち:
★☆ 私は②までは信仰と呼べると思うのですが、③に至るとこれはもう信仰と呼べないのではないかと考えます。
次の二件も大いに同感です。
★ ③に至ったところでは、そうした行為については反省的に語り得ず、③に至った時点で「信仰」という言葉はもはや不可能になっていると思うのです。・・・信仰とは非思考なわけですからね。つまり、もし③も信仰と呼ぶのであれば、それは③に至っていない人間が、③の状態に対して外部から便宜上そう呼ばざるを得ない名前である、という風に捉えざるを得ないのではないでしょうか。
★ 道元禅師のオシヘを補助線とするならば、「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり。仏を証しもてゆく」(『正法眼蔵 現成公案』)です。・・・
しかしやはり思考は非思考のために必須なプロセスなのは間違いないですね。