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説話ですが わが子を亡くして悲しむ母親であるキサーゴータミーは それ
まで人間の《死というものを知らなかった》と言います。そういう前提にな
っています。

この事情をふまえて《死》についてよく知るように仕向けてかのじょを癒す
ことになるゴータマ氏の《ありがたい》お話 これについて問います。

       *

あらましを掲げます。

1. ようやく歩けるようになったころそのわが子は あっけなく死んだ。

2. 母親のキサーゴータミーは 《それまで死というものを見たことがな
かった》ので 人びとがわが子を火葬に付すのをこばみ 《子どもの薬》を
手に入れようとする。

3. 或る人の助言を得て ゴータマ・ブッダのところに行って相談すると
よいと聞き 行った。

4. 死者を出したことのない家から カラシの種( または ケシの実? )
をもらって来なさいとおしえられ 探しに出かける。

5. ▼ (赤松孝章:キサーゴータミー説話の系譜) ~~~~~~~~
https://www.takamatsu-u.ac.jp/wp-content/uploads …

けれども彼女は一軒の家でも白カラシの種を得ることができず,夕刻時に考
えた。

    「ああ,重大なことに,私は『私の子供だけが死んだ』という思い
   をなしていた。しかし村全体において,実に,生きている人より死ん
   だ人の方が多いのだ」

と。このように考えた時,彼女の子供に対する愛執の弱き心は固きものにな
った。

  ☆ (引用者註) 要するに われを取り戻したんでしょうか。

6. ▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    
    「子供や家畜に気を奪われて,心が執着している人を死はさらって
    行く。眠れる村を大洪水が(流す)ように」

と 〔師=ゴータマブッダが〕偈を説き終わった時,キサーゴータミーは預
流果[=さとりに向かう流れに入った宗教的境地]に到達した。( p.8 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

       *

7. みなさんにお尋ねしますが 母親になった人が 《人の死を知らなか
った》ことがあるだろうか?

8. それでも もしそのとおりだとすれば この説話は 何を語っている
と受け取るのがよいか?

9. つまり 人間が死ぬということを知って さとりが得られたといった
話は そのまま受け取ることが出来るか? いったいどういう説話なのか?


10. ちなみに漢訳経典では 母親は《老母》となっているとか。ならば
[7]は 《ない》と答えざるを得なくなる。・・・
・ 前掲 赤松孝章論文 § 4.漢訳経典の説話 ( p.13 )

11. あからさまに言います。つまり:

 わが子を亡くした。
 かなしんだ。
 気が動転してしまった。
 何とか このかなしみを乗り越えることができた。

――こういう話ですよね? いったい どこに説話というようなオシヘがあ
るのか です。

12. 要するに ゴータマ・ブッダによるこの上なくとうとい智慧のさと
りというのは まぼろしなのでは? なにも実質的には 説明していない。

13. まぼろしゆえに 効果がある。だって 中身がないんですから。つ
まりゴータマ・マジック。キサーゴータミー一人に限らず。二千有余年にわ
たって。

A 回答 (5件)

>☆そういう場合はオシへが説かれてもくよくよしている・・・のでは?


仏教的にという条件付きですが・・・それはあり得ない!
もしも、くよくよしているならば、執着から解脱するに至っていないだけで、修行が不足しているのです。もっと、カラシの種を探し求めなさい。その種の本当の姿が、執着という心であることを悟れるまで・・・
p.s.
尚、熱心な仏教徒ではないので、私的には質問者様の意見に賛同しますが・・・
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この回答へのお礼

☆☆ >そういう場合はオシへが説かれてもくよくよしている・・・のでは?
★ 仏教的にという条件付きですが・・・それはあり得ない!
もしも、くよくよしているならば、執着から解脱するに至っていないだけで、修行が不足しているのです。

☆☆ (№6お礼欄) 要するにですね 問題は なんでこの事例で何か特別なオシへが 必要不可欠だとなるのか? です。

☆ というところに 力点があります。

こんな事例に どうして《執着やら解脱》やらが 持ち出されなくてはならないのか? です。

ふつうの人びとは ふつうに 乗り超えています。《修行》なんか要りませんよ。


★ もっと、カラシの種を探し求めなさい。その種の本当の姿が、執着という心であることを悟れるまで・・・
☆ おかしい。仏教かぶれだぁーーー!



★ p.s.
尚、熱心な仏教徒ではないので、私的には質問者様の意見に賛同しますが・・・
☆ えっ? えええっ?!

なああんだ。いやいや われわれが 常識人である。こう思いますよ。

お礼日時:2023/04/11 16:00

>つまり そこでも特にブッダの出番はないはずなんです。


説話では、この後に母親は泣くのを止めて、穏やかになったと書かれている筈です。
効果あったという事でしょう。
「その死は乗り超えていくものだ・・・」と一般に言われますが、実際には死ぬまでくよくよしている人が居るのも現実です。
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この回答へのお礼

☆☆ >つまり そこでも特にブッダの出番はないはずなんです。
★ 説話では、この後に母親は泣くのを止めて、穏やかになったと書かれている筈です。
効果あったという事でしょう。
☆ いえ。いまの場合は ケチをつけるために批判しているのではなく いちいちわざわざ《特別なオシへ》を必要とするか? という疑問です。

オシへがなくても――近所の人びとのちょっとした思いやり〔だけ〕で―― 心を取り戻しわれに還る・・・のではないか? です。


★ 「その死は乗り超えていくものだ・・・」と一般に言われますが、実際には死ぬまでくよくよしている人が居るのも現実です。
☆ そういう場合は オシへが説かれても くよくよしている・・・のでは?

要するにですね 問題は なんでこの事例で何か特別なオシへが 必要不可欠だとなるのか? です。



何か屁理屈を並べるように映るかも知れないと思えて来ましたが 要するにですね。

▲ 4. 死者を出したことのない家から カラシの種( または ケシの実? )をもらって来なさいとおしえられ 探しに出かける。
☆ のですが そういう家はなかった。つまりは 隣近所の家々ではみな 死者を出している。

つまりは このキサーゴータミーは そのような死者の一人や二人はちゃんと見ている・・・はずだと考えられるのです。近所なんですから。

舞台の設定が・つまり[2]が おかしい。とも言えます。



じつは あんがいゴータマ・ブッダのオシへというのは こういったふうに頼りない作りになっている・・・のではないか? そういう物言いなんです。



スッタニパータでの《この世と かの世とを捨て去る》という句は その後 2から17まで 同じ句がつづいているのですよ。

こんな《解脱》は ないですよ。ゴータマよ ざけんな! と言いたい。

お礼日時:2023/04/11 13:44

>その死は乗り超えていくものだとは思います。


>何も仏教をわざわざ持ち出さなくてもです。どうですかね。
この話は仏教の説話なので、どうしても仏教的になると思います。
初期仏教集団は、同時に哲学集団なのでこうなると思われます。
哲学的思考の帰結として、執着から解脱する事が至上命題となり、真に仏に帰依し探求する者は、妻子を捨てて出家したりします。つまり、生老病死全や俗世の執着から解脱する時に、人も自然も宇宙の真実も覚醒するのでしょう。
中国を経由して大乗仏教で濁り始め、日本へ渡ってなまぐさ坊主となった仏教とは根本的に違います。原始仏教やそれに近い小乗仏教的ならば全てを捨てる事は、当然の帰結になると思うが・・・・
王子に恋した娼婦の説話が面白い、仏的には娼婦のままの生活を続ける事こそが正しい道の様です。
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この回答へのお礼

☆☆ >その死は乗り超えていくものだとは思います。
>何も仏教をわざわざ持ち出さなくてもです。どうですかね。

★ この話は仏教の説話なので、どうしても仏教的になると思います。
★ 初期仏教集団は、同時に哲学集団なのでこうなると思われます。
☆ その心は?

★ 哲学的思考の帰結として、執着から解脱する事が至上命題となり、
☆ わが子とのつながり・その一体性が そんなに《執着》になるもんでしょうか。

かなしみに明け暮れることが 道を外れることなんでしょうか?

★ 真に仏に帰依し探求する者は、妻子を捨てて出家したりします。
☆ それは その人の勝手です。


★ つまり、生老病死全や俗世の執着から解脱する時に、人も自然も宇宙の真実も覚醒するのでしょう。
☆ でもですね。そういった七面倒なことから自由な精神(=身体)にとっては はじめっから 少なくとも《生》苦はないですね。

生きることが 思うように成らない(=ドゥッカ・苦)っぽいことは分かりますが それは 俗世に執着していなくても 世の中というものは そういうものなんだと ふつうは 理解しているのでは?


★ 中国を経由して大乗仏教で濁り始め、日本へ渡ってなまぐさ坊主となった仏教とは根本的に違います。
☆ 葬式仏教だって 住職の家に生まれたら 生きて行かなくてはいけない。苦肉の策であるかも知れない。

そういった批判が成り立つのなら ゴータマ・ブッダよ 末法になったらもう効かなくなるから オシへはすべて捨てなさいと説いておくべきだったのではないか? と言わなくちゃならない。

★ 原始仏教やそれに近い小乗仏教的ならば全てを捨てる事は、当然の帰結になると思うが・・・・
☆ いや いまは わが子を亡くしたときの話です。果たして 特別のオシへが必要なのか? です。


★ 王子に恋した娼婦の説話が面白い、仏的には娼婦のままの生活を続ける事こそが正しい道の様です。
☆ ひとことで 実存志向でしょうね。まわりがとやかく言ってもいいですし いくら言われても 本人どうしは 自分たちの道を行くといったことで 済むはずです。

つまり そこでも 特にブッダの出番はないはずなんです。


そういった批判であり 質問です。

お礼日時:2023/04/11 10:31

悲しみ(苦しみ)とは執着に過ぎない。


子供が死ぬ事も、我が死ぬ事も、自然の輪廻の一部。
死はどの家にも普通にある輪廻の一部というだけ・・・貴方の今の苦しみは、子供の死では無く自分自分自分と自分に執着しているに過ぎない・・・家を回れば(修行すれば)その執着を捨てる事ができる。これは、真に仏教そのものと思うが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 悲しみ(苦しみ)とは執着に過ぎない。
☆ いやぁ きびしい見方ではありますね。

★ 子供が死ぬ事も、我が死ぬ事も、自然の輪廻の一部。
☆ 輪廻とは何かを別とすれば そういう世の中ですね。


★ 死はどの家にも普通にある輪廻の一部というだけ・・・
☆ ですから キサーゴータミーは おそらくそれまでに人の死に出会っているはずなんです。

★ 貴方の今の苦しみは、子供の死では無く自分自分自分と自分に執着しているに過ぎない・・・
☆ というふうにゴータマさんは 話を持って行っているようです。かなしみに暮れる独りの母親に寄り添っているかに見えますが。


★ 家を回れば(修行すれば)その執着を捨てる事ができる。これは、真に仏教そのものと思うが。
☆ ううーむ。でもね 身内やいかに近しい人を亡くしたといっても その死は 乗り超えていくものだとは思います。何も 仏教をわざわざ持ち出さなくても です。どうですかね。

お礼日時:2023/04/10 16:47

そうですね


その通りですね
貴方の言う通りですね
間違いありません
感服致しましたから
ベストアンサー下さい。
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