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賢いことは、物事の本質を見定めて、表面的な作動に気を取られることなく、何が大事で何が大事でないかを見極めた上で大事なことを尊重する人間の一つの究まった態度であると思います。
そしてさらに、その見定めた大事なことにさえも囚われず、大事なことを大事なままに見て、しかもそれを超えると言う作用までに達した時、人は何を獲得し、また捨て去るのでしょうか。

私は、自由を手にして世界を手放すのだと考えました。自由になった人は、もう為すべきことを為し終えているので、為すこと全てに澱みがない。

皆様はどう考えられますか。

質問者からの補足コメント

  • 質問文が分かりにくいとのご指摘があったので、句読点等を工夫しました。

    賢いことは、物事の本質を見定めて、表面的な作動に気を取られることなく、何が大事で何が大事でないかを見極め、その上で、大事なことを尊重する人間の一つの究まった態度であると思います。

    そしてさらにその態度を継続した上で、その見定めた大事なことにさえも囚われず、大事なことを大事なままに見て、しかもそれを超えると言う作用までに達した時、人は何を獲得し、また捨て去るのでしょうか。

      補足日時:2023/05/15 05:34
  • 以前の、別の質問における私の回答や、質問文を引用して、今回の質問との間に一貫性を求めるような発言があったので弁明します。

    例えば将棋などのボードゲームで先を読むときに、大きな読みの分岐と言う時点があると思います。
    その時点でコマをどう動かすかで趨勢が大きく変わると言う箇所です。
    思索においても、それを進めるにあたり大きな分岐点と言うのは存在すると思います。右へ行けば結論はやさしさとなるが、左へ行けば結論は正しさとなる。真っ直ぐ進めばどうなるだろう?と言うような施策の時点へと遡るなら、前言っていたことと違う事を当事者が言うのはこの場合当然の現象です。行っている思索の経路が、以前とは異なるからです。

    私の質問や回答は、それぞれ別々の思索の経路を取ることも多いです。その点ご了承くださいませ。

      補足日時:2023/05/15 05:45

A 回答 (8件)

ふざけた回答に見えるかもですが 投稿します。




哲学は おしまいから始めます。つねに。

つまりは 目的地が そのいま現在 自分のもとにあるといった地点から出発します。


趣旨説明にちなんで言うとすれば そのおしまい( end = 目的)は 《自由》です。


おそらくその地点というのは ものごとの本質や現象といった規定から自由なのでしょうね。

大事か小事か些事かは 二の次になっている状態なのではないか。

何を獲得し 何を捨てるか。これにも 縛られることなく したがってこだわることもない。


自由は 自由から自由になるといったことは 無いんでしょうね。

――と思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまりは 目的地が そのいま現在 自分のもとにあるといった地点から出発します。

これには同感です。

また、以下の文言についてもおおむねその通りだと思います。

それは、(言葉の上では)完成していると言う事でしょう。

下の方も仰っていますが、自由を何に行使するのかという事を考えると、自由から自由になっていると思います。つまりはbragelloneさんとの対話の中で言う、還相ということになるでしょうか。
つまり目的地、此処なる所に来たと言う事です。

お礼日時:2023/05/15 12:31

№7のお礼有難うございます。



⇒不自由を飲み込む事で生きる力強さや晴れと言うのがある。これは、しがみついている事になると思います。努力から心を解放する。180度の方向転換になります。ご参考までに。
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この回答へのお礼

ふむ、。そうでしたか。私はご回答を理解できていなかったようです。参考にさせていただきます。ありがとうございます。

お礼日時:2023/05/17 13:46

自由を手にして世界を手放すのだ 



⇒自由、自由としがみついている手を開放する。
 この時初めて自由が見つかると思います。
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この回答へのお礼

自由と不自由には、明瞭な違いがあると思います。
籠の鳥が、籠の中でできることをするのだと達観しても、彼は鳥らしく生きる事はできません。

自由を求める心をを手放したときに自由になる、それは本当でしょうか?

私は、素直に考えるとそうではないと思いました。

しかし、不自由を飲み込む事で生きる力強さや晴れと言うのがある、そういう気も分かります。

お礼日時:2023/05/16 16:58

自由を手にして世界を手放すのだ


 ↑
ここがポイントですね。

大事なモノがあるとそれに囚われて
しまう。

その大事なモノから解き放たれる。

それは、自由、に他ならない。


これは「悟り」「出家」の世界。


西行が出家の際にすがりつく娘を
蹴落として家を出たという故事を
思い出しました。
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この回答へのお礼

これはストレートな回答で分かりやすいですね。
数ある出家エピソードでは、家族を捨てる話が良く出てきますね。

出家の目的(覚り)を達成した後は、どうなるのだろうかという気もいたします。

tanzoさん個人としては、賢さの目的地とは何と考えられますか?
宜しければまたご回答くださいませ。

お礼日時:2023/05/15 21:43

それでしたら、孔子の七十歳の時の心境に成る、と云う事でよいのではないでしょうか。



但し、孔子の云う〈矩〉ではなく、当人の〈矩〉を超えない、という“制限付き・条件付き”になります。

他人には知る由もない事。そして、それさえも意識の外。
故に、そうした心境になれば、他者への“説教”という心さえなくなる。

果たして“孔子”は?
★不勉強で知らない。
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この回答へのお礼

なるほど。
欲するところに従いて、、、というあれでしょうか。
あれも一つの大成の一つの形だと思います。
矩を超えないと言うのは、具足戒のような表現にも聞こえますね。

ありがとうございます。

お礼日時:2023/05/15 21:40

自由を手にして世界を手放す



これは違う
自由を手にすれば世界とかかわるのです

自由とは何かを考えてください
不自由の象徴が奴隷です
奴隷には自由がないが責任も無い
すなわち自由な人ほど責任がある
大きな自由を手に入れた人程大きな責任がある

回りを、社会を、国を、世界を手放す(見放す)無責任な野郎は
自由人ではない。

何が大事で何が大事でないかを見極めるサルはいるよ
世界を手放す???、サル以下だね


注・・・質問者:trigger_noteさんをサル以下とは言っていません
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
言葉が足らなかったかもしれません。
世界を手放すとは、見放すことではありません。
世界への執著を手放すということです。
征服した国を捨てた王のように振舞うとは修行者の有り様を言ったものとして有名な文言ですが、これは無責任なのではなく、立場を超えると言う意味ではないでしょうか。我執だけでなく、当然手にして正当なはずのものに対してまで、執著を持たないと言う事です。

それが、世界と正しく関わると言う事だと私は考えます。

お礼日時:2023/05/15 12:27

りがのさんおはようございます。



サヤエンドウが美味しいです。

豆の本質は種子です。

1文目の主語と動詞の対応がわからないです。

以下に主語と動詞を抜き出します。

賢いことはコレコレの態度である。

以下だど読めます。

賢い人はコレコレの態度を取る。

2文目を要約します。

賢さの上限を超えて賢い人はアレアレの態度を取る。

コレコレからアレアレへの方向があります。

『頭のよさとは、能力ではなく態度である (和田秀樹)』https://ameblo.jp/tedkuw717/entry-12736757008.htmlさんがあります。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13437820.html?pg=1# …へのお礼 comment に「
あまり語彙を詳細に定義するのはナチュラルじゃないので私の方針ではありません。それをするとかえって回答者様の自由度を狭める可能性が高いと思うからです。
そして詳細に定義すればするほど、自分の求めていた主題の内実も希薄になるからです。
果実の本質は種ですが、リンゴの種だけあっても美味しくないでしょう?
」とありました。

この質問も上記の引用部と同様の態度で対応しますか?

本質は大事なことである。

本質は大事なことでない。

上記の2文のいずれを採用しますか?

いずれも選ばすかつ両方同時に主張しますか?

『自分がバカであると認めることは誰にとっても大事なことではないですか?』のNo.8https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13447444.html#an111 …さんが「無能無知愚民のバカなんだ」と言ったお礼 comment に「いや、あなたも含め全員がだよ。」とありました。

『なぜ『人間は愚かだ』とか、自分の言葉に酔うような内容が空虚な人がいるのですか?ちょっとでも人間のやっ』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13452481.htmlさんがいます。

『2008.03.04 馬鹿について―人間-この愚かなるもの』https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-2. …さんに Horst Geyer さんの本からの引用があってよかったです。「まず裏表紙には、こんなことが書いてある。
"人間は愚鈍という実り豊かなひざに抱かれて、永遠に変わらぬ夢を見続けているのであり、そのおかげで初めて生きて行こうという気になれるのである-----愚鈍が、ただ愚鈍だけがこの人生の守り神であって、これによって初めて錯覚のヴェールが織られ、仕合わせな誤謬が知能のヤリ玉に上がらずに済み、人生が辛抱できるようになるのである。"」

『学歴が低い人は、頭が悪い人が多い気がします。 それは、なぜでしょうか? 学歴=学校だけの勉強、賢さは』のNo.6https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12361903.html?pg=6# …さんがよかったです。

『ドイツ哲学者のヴァイニンガーの理論によると天才とは記憶力に優れている人物のようです。 簡単に言うと、』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12678085.htmlさんがよかったです。

『勝負について』のNo.6https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13428524.html#an111 …さんが「他の人(身近な人も含めて)にやさしく出来たか、自由に生きられたか、ここら辺が人生の目的、大事なことになってくるように思います。」と言っています。

賢さでも愚かさでもなく優しさが大事です。

この質問に対するこの回答に出てくる事柄をリンゴに例えると賢さが種で愚かさが皮で優しさがリンゴの果実ではないものです。

主題を表す語彙を曖昧にするほどあなたの求める主題の内実がより充実するのですか?

枝豆の皮だけあっても美味しくないです。
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この回答へのお礼

最後の文言から、私の質問が批判されたのは分かるのですが、何を批判されたのかが、文章が上長過ぎ、また引用も多すぎて分かりませんでした。

一応言っておきますが、私は全ての質問や回答に同じ態度で臨むわけではありません。それぞれに合わせた質問や回答を行います。基本方針はありますが、それを確約するものでもありません。

引用:賢さでも愚かさでもなく優しさが大事です。:

これはそういう場合はあると思います。私もむしろそう思うくらいです。
しかし今回は敢えて賢さに焦点を当てています。我々は人間ですから、正しさよりもやさしさの方を大事にしなければならないことがあります。

お礼日時:2023/05/15 05:29

材料がずっと続くなら新たな試みを続け


本当は何が知りたいのかの結果が完成でしょう
何かが達成したらもう十分なのでそれ以上はやらないって人は
余り居ないと思う
何かを達成するその努力が好きな人であって、新たに何かを挑戦する
無理して作業ではそこで終わりでしょうが
賢い人が求める場合 上限がないのでまた求める
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この回答へのお礼

ふむ。それを求める楽しみには終わりが無いと言う事ですね。

それは一理ありそうです。

ありがとうございます。

お礼日時:2023/05/14 20:26

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