人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

大学の授業で、言語論的転回というものを習いましたが、意味がさっぱり分かりません。誰か噛み砕いて教えてくれませんか?よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

#2です。


お礼欄、拝見しました。うーん、これは簡単に書くのがむずかしいなぁ。

哲学のなかでつねに〈ことば〉は、たとえば〈意識〉のように、中心課題ではないにしても、洞察の対象ではあったんです。

たとえば〈わたしの意識〉を確実さのよりどころとしたデカルトは、窓の外を歩いている他者がどこまで確実な存在か、疑ってみます。
帽子の下、衣服の下には「自動機械」が隠れているのではないか、と。

いや、自動機械ならば
「目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことばをいろいろに配列することは、人間ならどんなに愚かな者でもできるが、機械にできるとは考えられない」(『方法序説』)

つまり、〈ことば〉は人間を人間ならしめているものだ。そして、その〈ことば〉を媒介として、人間は他者と交流している。
近代の端緒から、このような認識はあった。

そして、ヘーゲル。
人間と社会の関係を考察するときに、ヘーゲルはことばが果たす重要な役割、つまり、〈わたし〉を私的なものから、公的なものにする契機としての〈ことば〉を考えます。

けれども哲学の中心的なテーマは、ずっと〈意識〉だった。

それを動かしていったのは、ウィトゲンシュタイン、そしてすこし時代がくだって、ウィトゲンシュタインとはまったく別の流れからですが、メルロ=ポンティでしょう(とくにウィトゲンシュタインは非常におもしろい「言語ゲーム」という考え方を導入するのですが、これを書き始めると回答が終わらなくなってしまうので、省略します。もし興味がおありでしたら中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』ちくま新書をお読みください。これは哲学史の入門書としては、すごくわかりやすいし、おもしろいし、かなり深いです)。

一方、メルロ=ポンティ、わたしはこの人が大変好きで、もう名前を書いてるだけでうれしくなっちゃうくらい好きなんですが、メルロ=ポンティ(もう一回書いてみました)、この人は、〈意識〉の学問、現象学から登場します。

すべてを取り払った後に残る〈純粋な意識〉。
けれどもそれはどんな〈ことば〉で語るのだろうか?
〈意識〉が考えるとするなら、それはどんな〈ことば〉なのか?

「語り手は話す前に考えるのではないし、話すあいだに考えるのでもない。語り手のことばが思考そのものである」(『知覚の現象学』)

このように、メルロ=ポンティはソシュール言語学の理論を踏まえながら、現象学に新たな局面をもたらしていきます。

こうして20世紀も中盤になったごろから、哲学全般の流れは、大きく〈意識〉から〈言語〉へと転換し始めます。

ただ一般的には、いわゆる「言語論的転回」というとき、哲学全般が意識からことばに移っていった、というよりも、この用語はもうすこし限定的な用語として使われます。

「言語論的転回」という言葉で指示されるのは、言語が持つ力を分析することで、哲学の難問を解消しようとする試みのこと、ひとつはラッセルやフレーゲらの論理学、もうひとつは日常言語学派の流れ、このふたつであると思います。

ついでにここも書いておくと、ラッセルやフレーゲは、哲学の思考や概念は、日常の言語を使ったことで、誤ったものになってしまった、透明で、誤謬を含まず、論理操作できる言語を用いれば、哲学の問題は解消する、と考えます。

どんな言語か。

たとえばラッセルはこんな文章について考えます。
「現在のフランスの国王は禿頭である」

これは
(1)現在のフランス王は少なくともひとり以上存在している。
かつ(2)ひとりの人間が存在している。
かつ(3)その人は禿頭である。
という三つの連元項から成り立っている。

そうしてこれを
(∃x∧)(Fx∧(∀y)(Fy→=x)∧Bx)
と 論理記号で表記し、第一の連元項が偽であることから、全体として偽である、と証明してみせる。

こうやって記号論理学というものを切り開いていきます。

もうひとつの日常言語学派、これはオースティンの言語行為論とそれをひきついだサールの語用論をおもに指します。

オースティンは、日常で使われることばを、その内部にある意味だけではない、と考えるんです。

たとえば「コーヒーが入りました」ということばが、ある局面では、単に情報を伝えるだけであるのに対し、また別の局面では「ひとやすみしませんか」という誘いを意図している場合もある。

こうやって、日常の言語にみられることばの使い方に戻ることによって、哲学の問題も解決できる、とするのです。

詳しく言い出すとほんとうにキリがなくなるので、ここらへんでやめますが、まだわかりにくいところがあれば、どうぞ。
    • good
    • 3

#4の回答、ラッセルの項で書いた論理記号がおかしいです。


すいません。正確には
(∃x)(Fx∧(∀y)(Fy→y=x)∧Bx)
でした。お詫びして訂正しておきます。
各記号の意味や読み方は
http://phaos.hp.infoseek.co.jp/preparations/symb …
がわかりやすいかと思います。

参考URL:http://phaos.hp.infoseek.co.jp/preparations/symb …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大変詳しい説明、どうもありがとうございました。哲学はやはり難しいですね。でも、なんとかこれを足がかりに授業についていけそうです。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/05/01 13:06

 言語論的転回について説明いたします。



 まず、言語論的転回の先駆けとなったカントの
コペルニクス的転回というものをご存知でしょうか。
例えば、あなたの眼の前にりんごがあるとします。
一般的には、りんごがあなたの視覚を経由して脳で、
目の前の物は「りんご」と認識していると考えられ
てきました。しかし、カントはこれを180度ひっくり
返します。まず、何よりも先にあなたの頭の中に、
「りんご」という概念があり、それが、目の前の
ものをりんごとして成り立たせている、とするので
す。つまり、赤い丸い果物を「りんご」と認識する
ためには、あらかじめ「りんご」という概念を有して
いる必要があるのです。

 言語論的転回もこれとよく似ています。りんごを
「りんご」と認識するためには、「りんご」という
表象が必要になります。ここまではカントとほぼ、
同じと考えてくれてかまいません。ただ、カントと
異なる所は、その「りんご」という表象が言語に
よって決定されている点です。
 例えば、虹の例を用いて説明しましょう。一般的に
日本では虹は七色とされています。これは、日本語
の中では虹の色は7つに区分されているからです。
しかし、外国では虹は7色ではありません。3色で
あったり、5色であったりします。もちろん、実際
に外国の虹の色が少ないということではありません。
その外国語は虹を3つあるいは、5つに区分している
ということです。
 このように、我々はまず虹を見てから、その色を
7色だと感じるのではなく、あらかじめ言語によって
決定されている色を虹の中に見るのです。言語の
このような働きを指して、言語論的転回と言います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

虹の話は僕も聞いたことがあります。言語が認識を規定するとでも言えばよろしいんでしょうかね?
参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/01 13:04

「言語論的転回」(linguistic turn)というのは、20世紀に入って、近代哲学から現代哲学へと転換していく、その動向をさすことばとしてあります。



デカルトに端を発する近代の哲学は、〈わたしの意識〉を、まず確実なよりどころとして、哲学をうち立てていこうとします。そこでもんだいになるのは、人間の認識というのは、どのようなものなのか、ということです。

人間の認識がどこからくるのか、いったいどのようになされるのか、どれほど確実なものなのか、そして、人間に認識できるのは、どこからどこまでなのか。

さまざまな哲学者たちがこのもんだいに取り組んでいきます。

けれども、〈わたしの意識〉の確実さをよりどころにしているかぎり、「わたし」の外にいる他者や、世界の問題をうまく扱うことができない。

やはり〈わたしの意識〉から出発する哲学には、方法論的な欠陥があるのではないのか。

そういうところから、20世紀に入ってから、〈ことば〉の側から、このもんだいを解決しようとする動きが出てきます。
近代の意識を中心とする哲学が、出口のない袋小路に入り込んでしまったのは、哲学でつかわれる言語が適切なものではなかったのではないか。

「哲学的問題は、言語を改良することによって、もしくはわれわれが現在使っている言語をより良く理解することによって解決(または解消)される」

言語論的転回という言葉を最初に使ったのはベルクマンですが、一般に普及したのは、アメリカの哲学者リチャード・ローティが編纂したアンソロジー、『言語論的転回』が大きな影響を与えたことによります。
上記のことばはそのローティの有名な言葉ですが、この「言語論的転回」の特徴をよくあらわす言葉としてあると思います。

そのうえで、わかりにくいところ、もっと知りたいところなどあれば、補足をお願いします。

この回答への補足

話としてはよく分かりました。ありがとうございました。
しかし、自己の意識を重視する考え方が袋小路にはまったから次に言語に注目するというのは、やや唐突な印象を受けるんですが・・哲学が意識分析から言語分析にいたる具体的なプロセスが何かあるのでしょうか?

補足日時:2005/04/30 06:45
    • good
    • 1

これは自信がありません。

私も言語論的転回の意味を知りたいです。私が誤解して思っていることを書きます。

言語論的転回とは、言語が背景から主題に変わったことを言うのではないでしょうか?それまでの言語は世界を記述するだけの道具だったものが、言語そのものに注目して言語についていろいろと分析するようになったことを言うのではないでしょうか?おそらく20世紀になってのことだと思います。フレーゲ、ウィトゲンシュタインなど。
哲学には存在論、認識論、意味論というものがあると哲学の授業できいたことがありますが、そのなかの意味論と関係があるような気がします。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

なるほど、言語は道具とみなされ、人の意識などに重点が置かれていた考え方から、言語そのものを分析しようとする考え方へ移行したことをさすんですね?
やっぱり哲学って難しいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/04/30 06:44

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とは?

ウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とはいったいどのような意味なのか、説明できる方がいらっしゃいましたらぜひお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。すなわち言語を離れたもの-言語以前に実体としてあるもの-なるものは一切存在しない、というのである。言い換えれば、一切は言語的存在なのであり、意味的存在なのである。」
 黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』哲学書房より

 この一文は、「言語ゲーム」=世界と考えていた(←と投稿者が思っている)ウィトゲンシュタインの考え方を端的にまとめてあると思いますし、こういう固定し不変な物事の「実体」を想定しない考え方を打ち出したがために、彼が「哲学を殺した」といわれるのだと思っています。
 「言語ゲーム」=世界であれば、「言語の限界」は、おのずと「世界の限界」になると思います。
 個人的には、ウィトゲンシュタインのこういう考え方は形而上学否定であり、哲学の否定なんだと思っているのですが、こういう解釈が正しいのかどうかはわかりません。
 だいいち、自分は概説書などに引用されている部分を除いてはウィトゲンシュタインの原典を知らないので、これ以上はもうものが言えません・・・(ボロが出た)ごめんください。では。

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q日本文学における「近代的自我」って、わかりやすく言うとどういうこと?

いまいち、ピンときません。近現代の日本文学を理解する上では必須の概念のようですが。たとえば、封建時代には無かったこういう考え方が、明治以降の思潮として生まれた…というような具体例をふまえて、わかりやすく教えていただけませんか。素人にわかるようにお願いいたします。

Aベストアンサー

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自我が自然な発達段階を経て成熟し、それと軌を一にして市民社会も成熟した、その結果としての文明ではないわけです。
そのギャップを埋めようとして、なんとか個人の内側に「自我」というものを確立しようとして苦闘した、一連の作家がいる、という考え方です。

ではヨーロッパの近代をささえた「自我」とはなんなのか。

これをまた考え始めると、大変なのですが、ここでは簡単に、「わたしとはなんなのか(わたしはなぜわたしなのか、わたしと他者はどうちがうのか、といった一連の質問も含みます)」という問いを立て、それに答えていくこと、としておきます(もし自我とはどういうことか、に興味がおありでしたら、宮沢賢治の作品を自我という観点から読み解いていく見田 宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』 岩波現代文庫が大変おもしろく、参考になるのではないかと思います)。

ヨーロッパ社会では、キリスト教の強い支配と、封建的な身分関係のなかにあって、ひとは、社会からも、神からも自由で独立した「わたし」を想定してみようとも思わなかった時代から、近代に入って、自我が哲学の中心的な問題となっていきます(ヨーロッパ社会の中で「個人」という意識がどのように確立していったか、ということに興味がおありでしたら、作田啓一『個人主義の運命』岩波新書を。この本は手に入りにくい本ですが、非常によくまとまっています)。

近代社会を構成するのは、ひとりひとりの市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想であり、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのは、その思想であったわけです。

さて、上でも言ったように、ヨーロッパでは百年~二百年の期間を経て成熟していったところへ、日本は一気に追いつかなくてはならなくなってしまった。

文学も、それまでの戯作文学のように、楽しみのためだけに読むようなものではダメだ、西洋の芸術観に基づいた新しい文学が生まれなければならない、と、そのように考えられるようになった。そうやって、明治二十年代に入って、新しい文学が起こってきます。

その代表的な作品が、二葉亭四迷の『浮雲』、あるいは森鴎外の『舞姫』です(『舞姫』に関してはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=993639で回答しているので、もし興味がおありでしたら、ご覧になってください)。

両者とも、知識階級の青年を主人公にしています。
主人公は、どういうふうに生きたらいいか考え、悩み、自分が良いと信じる生き方と、社会の現実が相容れないことに悩みます。
つまり、現代までつながってくる問題が、明治二十年代に、初めて登場したのです。

この二葉亭や鴎外がここで提出した問題は、そののち、鴎外自身や漱石によって深められ、あるいは明治四十年以降からは私小説という表現形式をとって現れたりもします。

その現れはさまざまだけれど、いずれも、社会のなかで生きる「わたし」は、社会から独立した存在である、それゆえに、社会とは相容れず、みずからの理想を、社会のなかで体現することもできない、その「わたし」は、いったいどう生きていったらいいのだろうか、ということを、日常生活のなかに描き出そうとするものだった。そういうものが、日本の近現代の文学であった、と概観することもできるわけです。

非常に大雑把に書きましたが、「日本文学における近代的自我の確立」と言ってしまうとずいぶんたいそうなことのようですが、その内容は、そうしたものである、と考えて良いのではないでしょうか。

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自...続きを読む

Qディレクションって何ですか??

求人広告を見ていていまして、職種;広報
”パンフレット等の印刷物のディレクションを担当して頂きます。”
っとありました。ディレクションとはどういう仕事なのでしょうか??

”広告代理店や広報、宣伝部署の経験者歓迎”とも書かれていたのですが、未経験では難しい仕事ですか??

そういう関係に全く知識のない私がわかるような御説明を宜しくお願いします。

Aベストアンサー

映画ですと、映画監督を「ディレクター」と言いますね。
シナリオを元に、俳優さんに演技をつけたり、カメラワークや美術セットのセッティングを指示したり、撮り終えたフィルムを編集して映像にあった音楽やナレーションを吹き込む…といった、制作に関する全ての方向性を決め、制作スタッフの総指揮を執る人のことを指します。

ご質問にある「印刷物のディレクション」も、ジャンルは違いますが、考え方は映画監督の仕事内容と同じです。
まず、パンフレットなど印刷物の制作目的を的確に捉えた上でその内容をまとめあげ、エディターやライター、デザイナーに制作を発注、方向付けした通りに進行しているかをチェックしながら、印刷物として完成するまでを、責任を持って一元管理する「パンフレット制作に於ける総指揮官」の役目ではないでしょうか。

>”広告代理店や広報、宣伝部署の経験者歓迎”とも書かれていたのですが、未経験では難しい仕事ですか??

その会社が、どの程度のスキルを求めているかにも依りますが、恐らく未経験では難しいと思います。とにかく、覚えなければならないことが山ほどあるので…
この手の求人では、パンフレットやカタログの制作関連の仕事など、印刷物の制作経験があることが条件となる場合が多いようです。

映画ですと、映画監督を「ディレクター」と言いますね。
シナリオを元に、俳優さんに演技をつけたり、カメラワークや美術セットのセッティングを指示したり、撮り終えたフィルムを編集して映像にあった音楽やナレーションを吹き込む…といった、制作に関する全ての方向性を決め、制作スタッフの総指揮を執る人のことを指します。

ご質問にある「印刷物のディレクション」も、ジャンルは違いますが、考え方は映画監督の仕事内容と同じです。
まず、パンフレットなど印刷物の制作目的を的確に捉えた上でその内容...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

QWord 文字を打つと直後の文字が消えていく

いつもお世話になっています。
Word2000を使っているものです。
ある文書を修正しているのですが,文章中に字を打ち込むと後ろの字が消えてしまいます。
分かりにくいですが,
「これを修正します。」
という文章の「これを」と「修正します。」の間に「これから」という単語を入れたときに,その場所にカーソルを合わせて「これから」と打つと,
「これをこれからす。」
となってしまいます。
他の文書では平気です。
何か解決する方法があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

入力モードが「挿入」(普通の入力)から、「上書き」になってしまっているのだと思われます。
キーボードに[Insert]というキーがあると思いますので、1度押してみてください。

Q語りえないことについては人は沈黙せねばならない、のですか?

語りえないことについては人は沈黙せねばならない、のですか?

Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考第7章の有名なタイトルです。

二つ質問があります。
1.語りえないこと、Wovon man nicht sprechen kann,とはどんなことでしょうか?
ヴィトゲンシュタインには語りえるか語りえないかの判断基準があったのでしょうか?

2.哲学は対話によって進歩する、あるいは、哲学者が対話によって学習する面があるとおもいますが、語りえるか語りえないか不明である事について語り合いながら理解を深めることも、ヴィトゲンシュタインは否定しているのでしょうか?

ちゃんと本を読まずに質問して恐縮ですが、皆さまのお考えをご教授いただきたくお願いします。

Aベストアンサー

> 「言語」を「記述する記号体系」と定義しなおせば、言語=数学+物理学です。

ということではありません。

たとえば、囲碁を知らない人にとっては、盤上に配置された黒と白の玉は何も意味しませんが、囲碁を知っている人にとっては、陣地であり、戦いの局面であり、休戦地です。単なる黒と白の玉は、そのような「像」を描いています。
碁を知らない人が、見よう見まねで石を並べたとしても、それは碁ではありません。「像」を結ばない。

楽譜は、模様ではなく、その向こうに「音楽」があることを示しています。五線譜に、でたらめに音符や記号を並べたとしても、楽譜にはなりません。

ここでいう「言語」とは、そうした石や音符の代わりに、「音声」や「文字」によってあらわされる具体的なものです。石や音符同様に、その向こうに「像」を結ぶものです。「本」や「マグカップ」や「テーブル」のように。あるいは、それが「宇宙人」や「幽霊」など、仮に現実にその存在が確かではなくても、「ありうるもの」「起こるべき出来事」として、わたしたちが「像」を結びうるものも含みます。

そうして像として用いられる文を「命題」と呼びます。
「この本は『論理哲学論考』だ」
「このマグカップにはミッキー・マウスがついている」
「テーブルの表面はすべすべしている」
このように、記述として用いられ、真偽を問えるような文章を命題と呼びます。さらに「思考がそれによって表現されるものを命題記号と名づける」(3・12)と続きます。

こうして、言語は世界(事実とこれから起こりうる事実=事態)の論理的な像である、としていきます。

そうして成立し、妥当している事態や事実を自然科学が記述します。それによって
「真な命題の総和が自然科学の全体(あるいは諸科学の総体)である。」(4・11)
これに対して
「哲学は自然科学の議論可能な領域を限界づける。」(4・113)
「哲学は思考可能なものを境界づけ、それによって思考不可能なものを境界づけねばならない。
哲学は思考可能なものを通して内部から思考不可能なものを限界づけねばならない」(4・114)
ということになっていきます。

---
以上の回答をしていて不安になってくるのは、おそらく意味が伝わらないだろうなあ、と思っているからです。

知らないことをわかる、ということは、「知識」というものを、たとえばカロリーメイトみたいな固形物として、わたしたちの体内に取り込み、蓄積する、ということではありません。そうではなくて、知らない言葉やその用法や置かれた文脈を、自分がすでに知っていて、使うことのできる言葉に置き換えることにほかなりません。

ところが、わたしたちひとりひとりが使う言葉は、その「言葉」をささえる膨大な「言語体験」のネットワークによってささえられています。このネットワークというのは、わたしたちの無数の現実体験によって裏打ちされています。わたしたちが「言葉」を使う、ということは、それを支える現実と連動しているわけです。

未知の領域を学ぼうとするときは、単に言葉を学ぶだけではない。わたしたちがすでに抱えている言語体験のネットワーク自体を、組み換えていかなくてはなりません。つまり、何かを知ることは、そのたびに、これまでの自分の理解の枠組みを作りかえていくことにほかならないのです。

何かがわかった瞬間、世界がまるでちがって見えてくる、こんな経験はおありかと思いますが、言葉を通して世界とふれているわたしたちにとって、自分の理解の枠組みを作りかえるという作業は、世界そのものを作りかえることにほかなりません。実際、「わかる」というのは、そのぐらいの「飛躍」を要求するものです。

ところが、自分の理解の枠組みの全体を作りかえるのではなく、それを温存したまま、その枠組みの中で、新しい知識の一部を処理しようとすることを、多くの場合、わたしたちはやってしまいがちになります。単に処理できるようになったことを、「わかった」と誤解してしまうのです。

特に、言葉によって語られる「思想」や「哲学」は、その危険をつねにはらんでいます。ここでどれだけわたしが言葉を費やして説明しても、おそらくそれは質問者さんの「体験」とはなっていかないでしょう。それよりも、ちゃんと本を読まれた方がいいように思います。

いくつか本を紹介しておきます。いずれも新書で入手しやすいものです。
まず『論理哲学論考』を読む前に、橋爪大三郎の『「心」はあるのか』『はじめての言語ゲーム』を。

もう少しひろく現代思想について興味がおありでしたら高田明典『「私」のための現代思想』を。
哲学が扱ってきた言葉や他者や社会というのはどういうものか知りたければ中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』を。

以上、参考まで。

> 「言語」を「記述する記号体系」と定義しなおせば、言語=数学+物理学です。

ということではありません。

たとえば、囲碁を知らない人にとっては、盤上に配置された黒と白の玉は何も意味しませんが、囲碁を知っている人にとっては、陣地であり、戦いの局面であり、休戦地です。単なる黒と白の玉は、そのような「像」を描いています。
碁を知らない人が、見よう見まねで石を並べたとしても、それは碁ではありません。「像」を結ばない。

楽譜は、模様ではなく、その向こうに「音楽」があることを示しています...続きを読む

Q数学的考えってどんなことですか?

幼稚な質問ですが、ご存知の方、教えてください。

私は学生の時、算数も数学もあまり興味がなくて微分/積分 関数、、、なんて
理解できなくても足し算/引き算あたりがわかれば生きていくのに
困らないだろうと考えていました。
しかし当時の数学教師が「数学的思考は人生の、きっと役に立つよ」と
教えてくれました。
成人した私は、しばしば周りの人間から「数学的考えができるね」と言われます。
自分では、何のことなのか、さっぱりわからないのです。
単に合理的、理論的という意味なのでしょうか?
そもそも、数学的思考って何なのでしょうか?
実生活で具体的に表現すると、数学的思考とはどういうことなのでしょうか?

Aベストアンサー

 
「数学的思考」と「論理的思考」はまた別なのですが、数学は論理的という考えが一般化しているようで、「違い」がどこにあるのか、なかなか理解しにくいようです。

簡単には、数学は論理的でもあるのですが、その使用する「論理」のレンジが狭いということがあります。「論理的思考力」は、もっとレンジが広く、広い世間知や経験や知識・教養などをベースにして、総合的に発揮される思考能力です。これは、数学の論理思考よりも、修得が難しいのです。

「数学的思考」とはどういうものか、とりあえず、それはデジタル的、解析的な思考法だと言えます。無論、数学的な形式論理思考は含まれます。

具体的に例で言いますと、何か会社で問題などがある時、その問題を、ステップや要素に分けて考え、問題の性質を、解析的に分析し、どう対応すれば問題が解決するか、ステップや要素の持つ意味や働きに応じて、「見通しの良い」回答が出せるような思考が、数学的思考と言えます。

「論理的思考」の場合、こういうデジタル的、解析的な思考も無論しますが、もっと総合的で、相互交差吟味などの内的検証や、無意識の直観の吟味など、非常に幅広い「思考力」を駆使して、ものごとの本質に迫ろうとする思考です。

数学的思考は、外から見ると、「問題の整理の仕方」が明晰、解決の筋道が、分かり易くステップ的デジタル的になているという風になります。実際、内部の思考処理でも、こういうことを行っていることになります。

これは自然科学の基本手法である、要素還元的な方法で問題を眺め、把握し、次に数学の問題を解く時のように、ステップ的な回答を出すような思考で、これが、数学的思考的だということになるのでしょう。

数学的な思考は、ある意味で、形式的な思考で、綺麗に問題を把握してエレガントな回答を出すように見えますが、総合的な論理思考ではないので、抜け落ちが出てきます。

数学的「形式性」の限界というか弊害があるのです。これは、あの人は、堅苦しいことを考える人だという評価にもなりますし、思考の余裕が狭いという評価にもなります。

質問者が述べている通り、「数学的思考」は、足し算引き算程度でも実は十分なのです。無論、証明のステップ的思考法というのは修得していなければまりません。しかし、訓練しなくとも、そういうステップ的思考が馴染んでいるという人もいるのです。

(金銭の損得問題で、どうすれば得か、ということを真剣に考えていると、微積分など習わなくとも、こういう思考は訓練されます。逆に微積分はできるのに、お金の損得勘定ができないという人も結構います。高校・大学程度の数学だと、答えが分かっているものがほとんどで、「解き方のテクニク」などがあります。しかし、現実世界の金銭問題は、場合場合で問題が異なり、正解のない問題もたくさんあるのです。こういう問題には、学校数学の思考法や解法テクニクはあまり意味を持ちません)。

問題について、デジタル的、つまり数字的に考え把握し、数字の計算をきちんと行っているというのが、おそらく、他の人に「数学的考えができる」と言われる根拠だと想定します。これは関係ない要素を切り捨てて、数値的に評価できる面を思考するということでもあるのです。

他の人は、人間関係の問題とか、感情の問題が入って、なかなかスパっと割り切れない問題を、数やステップで置き換えて、スパっと切って回答にするという「合理的」問題思考だと、数学的考えが得意という風に言われると思います。

数学と論理の関係は難しいです。以下の質問のわたしの回答も参照して見てください:

>No.272799 質問:(^_^.) 数学がよくできる人って、ほんとうに頭がよい人??
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=272799
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=272799

 
「数学的思考」と「論理的思考」はまた別なのですが、数学は論理的という考えが一般化しているようで、「違い」がどこにあるのか、なかなか理解しにくいようです。

簡単には、数学は論理的でもあるのですが、その使用する「論理」のレンジが狭いということがあります。「論理的思考力」は、もっとレンジが広く、広い世間知や経験や知識・教養などをベースにして、総合的に発揮される思考能力です。これは、数学の論理思考よりも、修得が難しいのです。

「数学的思考」とはどういうものか、とりあえず、...続きを読む

Q表象

こんにちは**

私は理系の大学生です。

大学で表象文化と言う講義がありそのレポートを書かなくてはならないのですが、表象という言葉の意味がよくわかりません。
そこで理系の自分にもわかりやすく教えてください。

ついでに”表象の機能”なるものについて教えてもらえると幸いです。

Aベストアンサー

「表象」を一番簡単な言葉で説明すると、「人間がとらえた事物の像」ということになるかと思います。

花が咲いている。
あなたはそれを見て「花」と言います。
そのとき、「花」という言葉は、実際に咲いている花の表象です。

花が咲いている。
あなたはそれを見て「花だな」と思う。
そのとき、あなたの頭の中に浮かんだ「花」という観念は、実際に咲いている花の表象です。

つまり、ものごとは言葉や観念によって、表象されている。
対象を言葉や観念で置き換えることによって、わたしたちはものごとをとらえ、考え、話し、コミュニケーションを行っているのです。表象の機能、とはそういうことです。

けれども、ほんとうに、わたしたちが見ているもの=対象といえるのでしょうか。
わたしたちは知覚を通してものをとらえ、脳でそれを判断し、認識する作業をおこなっています。
この認識の結果によって得られた像(表象)=対象、であるとどうしたら証明できるのか。
これをめぐって、実は西洋哲学は長いこと考えつづけてきたのです。

デカルトは「人間は表象によってしか事物を把握できない」として、表象と対象が一致するのは神の意志である、としました。
もう少し時代が下って、カントは、人間はもの自体は認識しえない、人間が認識しうるのは表象だけだ、としました。
けれども、この表象は、個人個人ばらばらなものではなく、すべての人が同一である、としたんです。それによって、表象は普遍性を持ちうる。

ちょっと待って。
それでいいの?
なら、表象されないものはどうなるのでしょうか。
人間に知覚されないもの、認識しえないものは存在しないことになってしまう。

たとえばベルグソンは「表象」は、映画がいくつかの静止した瞬間の断片に切り分けてとらえようとするように、生を、瞬間的な静止の姿においてとらえようとするものである、と批判します。
「表象」を問題にしている限りにおいて、わたしたちは決して「生」そのものに近づくことはできない。

さらにハイデッガーは、もっと根本的なことを問題にします。
存在が「表象する」ことの対象になってしまうと、存在はもはや〈存在すること〉をある意味では喪失してしまう、「表象」という概念は、ものごとを、人間が措定し、対象化することによってしか存在しえないものに切り縮めている、と批判していくのです。
このことはさらにフーコーへと続いていくのですが、ここらへんまで来ると、どうやっても簡単にまとめることはできなくなるので、現代思想は、「表象」という概念を、批判の対象としてとらえるようになってきている、というあたりでまとめておきたいと思います。

かなり雑な説明なので、わかりにくい部分、もう少し知りたい部分などあるかと思います。そのときは補足要求お願いします。

「表象」を一番簡単な言葉で説明すると、「人間がとらえた事物の像」ということになるかと思います。

花が咲いている。
あなたはそれを見て「花」と言います。
そのとき、「花」という言葉は、実際に咲いている花の表象です。

花が咲いている。
あなたはそれを見て「花だな」と思う。
そのとき、あなたの頭の中に浮かんだ「花」という観念は、実際に咲いている花の表象です。

つまり、ものごとは言葉や観念によって、表象されている。
対象を言葉や観念で置き換えることによって、わたしたちはもの...続きを読む

Q「御中」の使い方

「御中」の使い方について教えてください。

送り先に「○○係」までと書いてある場合、「御中」に直しますよね?この場合の「御中」の使い方は、
1.「○○係 御中」
2.「○○ 御中」
のどちらなんでしょう?こんな質問をするのは恥ずかしいのですが、いつも迷って困っているので教えてください。

Aベストアンサー

○○係 御中  です。
御中とは、会社など、直接誰宛かわからないが、「その中のどなたか」に出すときに使います。

だから、その係の誰に出すかがわかっている場合は、
「○○係 △△様」となるのです。


人気Q&Aランキング