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教科書に「元はとくに江南の地において儒教を学ぶ学院(廟堂)の設立を奨励した」とあったのですが、
①なぜ江南なのですか?
②廟堂は聖人を祀るところですよね?ここにおいては違
う意味で使われているのでしょうか?
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

儒教とは北の黄河文明、中でも「中原」と呼ばれる肥沃な土地で誕生した思想で、漢帝国時代に国教に定められた思想です。



それに対して、南には長江文明が発達していました。長江文明は紀元前には黄河文明国に敗北しましたので詳しい状況は不明ですが、江南地方の少数民族の研究から、万物には神・霊魂が宿るアニミズム文化の文明であり、巫女が活躍するシャーマニズム文化も栄えていたと推定されています。
また、主要な作物が、北の小麦に対して南の米(水稲)という違いがあります。
※日本にも、長江文明を起源とする水稲文明とアニミズム・シャーマン文化が弥生人によってもたらされ、今でも神道として残っています。おそらく日本に先住していた縄文人もアニミズム文化だったので、西日本を中心に弥生文化と縄文文化の融合が比較的スムーズに進んだのでしょう。

以上のような土着の思想は、そう簡単には変わりません。元の時代になっても南は儒教が生活の基盤にはなっていなかったのではないかと思われます。
元はモンゴルですが、基本的には北の儒教文化の影響を強く受けて儒教化していたのでしょう。

それで儒教化が遅れている江南地方に儒教を広めるための学院(廟堂)設立を奨励したのでしょう。学院(廟堂)は孔子などの聖人を祀り、その偉大さを知らしめるとともに、儒教を学んでもらう場であり、儒教を広め定着させるための人材を育成する場であった。そういうことかと思います。
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この回答へのお礼

すごく分かりやすいです。ありがとうございます!

お礼日時:2023/08/28 18:42

> 教科書に「元はとくに江南の地において儒教を学ぶ学院(廟堂)の設立を奨励した」とあった



どこの出版社の何と言う教科書でしょうか。 よろしければ、教科書名や記載ページをお教えください。

元朝が、江南で、1300年前後に廟学典礼を 各地に通達し、儒学提挙司も任命したらしいのですが、教科書に載るほどのことではないと思います。

元の第3代皇帝武宗(1307~11)と仁宗(1312~20年)は、例外的な安定期であったようで、両皇帝は比較的中国文化に理解があり、よく儒臣の言を用いたのだそうです。 で、南宋滅亡後中止していた科挙を復活させたのだそうです。
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-005.html

なんでかというと、元朝が広い中国を安定的に治めるには、武力だけでなく、官僚制度をしっかりさせる必要があったということ、モンゴル人に漢人官僚の上に立って指揮し判断できるモンゴル人を育てる必要があったと言うことです。
そのような各地の官僚の最上級になる官僚には文系の知識が必要で、残念ながら支配層のモンゴルにはこうした学習機会なえもないので、科挙の進士及第人員の定員を一科目100人として、「モンゴル人、色目人、漢人、南人がそれぞれ25人」としたのだそうです。 以前の科挙では進士及第が一科目500人~900人もいたのですから、漢人にとっては非常に狭い門、モンゴル人にはとても広い門の制度です。 で、とにかくモンゴル人には、官庁の長上官として置かれたダルガチ(達魯花赤)の地位獲得の公式資格獲得のチャンスをつくり、文系の学習機関(儒教などの教育機関・学院/廟堂)を各地に設置させたらしいです。
どこにいつどれだけの学院/廟堂を造り、学生をどれだけ受け入れたのかはわかりませんが、漢人の都のあった南宋、江南には漢人の儒学に詳しい人が多かったので、江南に(儒教などの教育機関・学院/廟堂)を造らせるのは、それなりに納得できることと思えます。 この学校の基本的役割は、科挙の進士及第の受験勉強です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!!
ちなみに東京書籍の教科書です。

お礼日時:2023/08/30 17:22

質問1:


江南は中国の地域の一つで、主に長江の下流域一帯を指します。儒教は中国の伝統的な哲学・宗教の一つであり、その教えや学問は歴史的に中国全土に広がっていました。しかし、江南地域は自然環境が比較的豊かであり、文化的な交流や発展が活発に行われた地域でもありました。このため、江南地域での学院や廟堂の設立が奨励されたのは、文化的な発展を促進するための一環として行われた可能性があります。

質問2:
「廟堂」は通常、聖人や偉人を祀る場所を指しますが、ここでの「廟堂」の意味は異なるかもしれません。中国の歴史的な文脈では、廟堂は宗教的な意味合いだけでなく、学問や教育の場としても使用されることがありました。江南地域においても、儒教の学問を奨励し、教育の中心地としての機能を果たすために廟堂が設立されることがありました。このような廟堂は、儒教の教えや学問の普及・維持を目指す場として重要な役割を果たしていました。
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この回答へのお礼

なるほど、とても分かりやすいです。ありがとうございます!

お礼日時:2023/08/28 18:43

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