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“神様や仏様に願ったり祈ったりする”ことは、その対象が“神”であれ“仏”であれ、あらゆる宗教・宗派を問わず大昔から現在に至るまでどこでも行われてきていることですよね。別に特定の宗教の信者じゃなくても、極論すれば常日頃「無宗教」を公言している人だって「こうなってほしい、ああなってほしい」と心の底から強く願ったり祈ったりすることはあると思います。

そこで質問なのですが「儒教(の信者)」にはそのような側面があるのでしょうか?確か歴史の教科書に載っている宗教分布図では東アジア(主に中国と朝鮮半島)は堂々と“儒教”と記されていたように思います。

しかしながら私の「儒教」というものに対する印象はあくまで生活の規範をこと細かく定めたものにすぎないのです(…典礼儀式として東アジア社会諸国ではそのシステム運営のために深く取り込まれはしましたが)。もしかすると「儒教」は“先祖を祀る、大事にする”という部分もありますから、何か願い事をしたい“儒教の信者(?)”は自分の先祖に対して願ったり祈ったりするのでしょうか?…真相をお教えください。

A 回答 (5件)

日本人の死生観の中心的な部分は、一般的には仏教の教義に由来していると信じられているようです。


本当にそうでしょうか?

たとえば、輪廻転生を信じるインド仏教では葬儀を行わず、魂が離れた死者の体はもはや不要として、死体は焼いて骨と灰は川へ捨てるので、墓がありません。
転生とは魂が再び身体をもった存在となることなので、死者の魂(霊)がいつまでもこの世の人間と関わりをもち続けるということもありません。
死者と生者は、四十九日が過ぎれば縁が切れるので先祖祭祀も不要なのです。
そもそもインド仏教では、この世は生・老・病・死の苦に満ち満ちているので、転生しても再び人間として生まれることを必ずしも期待しませんし、第一その確率は低いとされています。
輪廻転生自体が永遠の苦悩であり、解脱して成仏するまでは、魂は休まる暇がありません。そして、成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くことです。

このような考え方は日本人の死生観とはかなり異なると思いませんか?
わたしたちは、死者の魂はこの世のしがらみから解放されれば一応成仏したといいますが、その後も定期的にこの世へ戻ってくると考え、その時に備えて死体の一部を墓に納めて保存し、戻ってきた魂と体が依りつけるようにと位牌を用意するのです。
これだけでも本来の仏教との違いは決定的ですが、日本人の時間・空間認識も人生観も、仏教のそれとは大きく異なっています。しかしわたしたちはそれが仏教の考え方だと思い込んでいます。
そうなった原因は、仏教が中国・朝鮮半島へ伝播したときに儒教思想を大幅に取り入れられ、それが日本へ到達したときにさらに日本的儒教の影響を大きく受けたためのようです。

確かに儒教はこれまで道徳性を語りこそすれ、宗教性についてあまり語ってこなかった面があり、儒教には宗教性がないというような誤解を与えてきたのでしょう。
日本では、日本仏教の中に儒教の宗教性が大きく取り込まれているため、中国人や朝鮮人に比べて、さらに儒教の宗教性に気づかなくなっているのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答、誠にありがとうございます。

…そういえば私が大学生だった時、懇意にしてもらっていた当時の先生から「日本で“仏教”と思われてるものは実は仏教そのものが中国大陸を経由することで“儒教のフィルター”を通してできあがったもの。その実、(中身)8割は“儒教”なんだよ」と教えられたことがあります。

学生時代に戻る感じでまた一度再考してみます。最良のヒントを教えて頂きまして本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/07/21 13:53

子、怪力乱神を語らず。



孔子を神や聖人としてあがめ、孔子の言ったことは絶対だと信じる人にとっては、儒教は宗教。そうでない人にとっては、人生の指針。儒教にどのようにかかわるかによって宗教にもなり、人生の指針にもなるのでは。中国三千年の智慧でしょう。

宗教=思考停止、考えることをやめただひたすら信じる。テルトリアヌスは、"不合理ゆえにわれ信ず"と宗教の本質は考えることではなくて信じることだといってますね。これは、儒教にかぎったことではなく、学問でも、学説が現実と違っていても、偉い学者が言ったことだからとそれを信じて疑わない人がやっているような学問はその人にとっては宗教となんら変わりはないですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、クリスチャンの方々なり旧新興宗教の信者の方々なりなにかしら信仰を持っている人々からかつて「…疑うことも大事だが、それ以上に信じることも大事」と言われたことがあります。ある意味、良くも悪くも「信じること」からその対象は何であれ「宗教」は始まるんですね(極めて“当たり前過ぎる”話なんですが…すみません)。

お礼日時:2005/07/21 16:27

そもそも「宗教」って定義できるものなんでしょうか?辞典にはもちろん解説が書いてありますが、何を見ても、「明確には定義できないが大体次のような傾向がある」などと書いてあります。



一応ウィキペディアを引いときます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99

さて、ではmustapha13666さんが書いておられる「儒教」の話に移りましょう。

そもそも、「儒教」とは孔子の始めた儒学がその基礎となっており、もとは学問なのです。ここで孔子の功績について述べることはしませんが、彼は徳による政治を地上に具現させることを理想としており、そのような人物を聖人と呼んで崇めました。聖人へと近づくための様々な訓練が、儒学という学問であったということもできます。

質問に書かれていた、「生活規範の定義」云々というのがまさにそれです。日常から自らの心身を律することが聖人への道であり、それこそが儒学の本来持つ存在意義です。

ですが、儒学は前漢の武帝の時代に官学化され(これはもちろん、為政者の立場からするに、儒学が都合のよい学問であったからです)、後漢中期以降は価値観の範たる「教え」としての性格を持ち始めました。これが、「儒学」が「儒教」化する過程です。

宗教としての側面を持ち始めた儒教ですが、これが今日メジャーな宗教(特に世界三大宗教のような)と異なるのは、神や仏といった「絶対的存在」がいないことに特色があります。#2の方が書かれているように、孔子は「不語怪力乱心」なのです。


以上のような儒教の持つ特有の性格のために、儒教は宗教と認知されにくくなっているだけです。言い方を変えるならば、現在世界を席巻しているいくつかの宗教が作り出した「画一的な」宗教像の枠にはまらないだけです。日本古来の「八百万の神」を信仰するという「宗教」も、そういう意味で宗教と認識されなくなっていますね。
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この回答へのお礼

“絶対的な存在である唯一神に救いを求める”ような定義、またはそれに(仮に「多神教」であっても)近いような考えを含めた上で儒教や神道をみてしまうと確かにその信仰の対象がぼやけてわかりずらいものとなりがちですね。しかしながらそれは西洋的な基準でしか見ていないからそうなってしまう。「宗教」の定義も実は幅広く、悪くいえば“あいまい”なところもあり、どこに基点が置かれるかでその人の見方も自ずと変わってくるというだけの話。…なるほど。

始皇帝の秦がすぐに滅んで、その後の王朝(漢とか唐とか…)がうまく何百年も続いたのは「儒教」と「法家思想」を上手く使いこなせたかどうかの違いだという話を以前に本で読んだことがあります(前者は法家ばかりを尊んで儒家を抹殺しようとした。後者は前者に倣って法家的な思想も国の根幹に取り込んだが、それ以上に儒家の思想を“タテマエ”として大きく取り込んだ云々)。結局、“儒学”が“儒教”化する課程は「絶対的存在」がいるかいないかの違いだけでローマ帝国以降のヨーロッパ社会がキリスト教を大きく取り込んでいく課程とある意味共通しているところもある訳なんですね。…とても興味深い事実です。ご教授いただきまして誠にありがとうございます。

お礼日時:2005/07/21 17:07

宗教というのは「生活の規範をこと細かく定め」るものです。

イスラム教ならメッカの方角に一日何回か礼拝するとか、豚肉を食べないとか。イギリスですが、アガサ・クリスティーの小説に「日曜にカードはダメ」というのが出て来たそうです。
日本では坊さんが長髪で刺身を食べビールを飲みますから、そんな規範は忘れられていますが、日常生活を律するなら立派な宗教でしょう。
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この回答へのお礼

確かに「規範」というものに着目し、そこに重点を置いて「宗教」というものを規定すると“儒教”は「立派な宗教」となりますよね。…良いんだか、悪いんだか(笑)。

世界には規範が事細かに定められ、我々日本人からすると非常に息苦しそうに生活している宗教の信者さんも大勢います。それが「悪い」という訳ではありませんが「価値観の違い」なんでしょうね。但し映画の『ラストサムライ』なんかを時々思い浮かべると我々の生活だって寂しく思えるときがあります(苦笑)。

お礼日時:2005/07/21 17:16

>何か願い事を・・・願ったり祈ったり



孔子は学問の神様として認められています。

ちなみに「孔子廟」は日本にもありますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。確かに孔子は神格化されていますね(孔子廟って日本にもあるんですか~。…知らなかった!)。その“ライヴァル”といったらおかしいけど、老子も同様みたいです。関帝廟は横浜の中華街にありますし…。関羽は確か「商売の神様」でしたっけ(…どう結びついたんだろう?)。この3人は中国では根強く慕われているんですね。

実在の人物が神格化されて多くの人々に慕われているパターンというのは、日本では「学問の神様」というと“天神様”の菅原道真が多少人気がある(?)くらいで後は(…そういえば)あまり思いつきませんね。東郷平八郎の“東郷神社”も、乃木稀介の乃木神社もピンとこないし…(笑)。他に「神格化された人」っていったら日光東照宮の家康さんぐらいでしょうか(笑)。

お礼日時:2005/07/21 17:36

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