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国家神道は、英国国教会と似たようなものだったんでしょうか?

A 回答 (2件)

国家の宗教をひとつに定めた点では同じ。



経緯は異なる。
英国国教会は、離婚を断固として認めないバチカンに怒ったヘンリー8世が、カソリックを離脱して作ったキリスト教の教会。
要するに離婚したい国王のワガママだ。教義自体はカソリック時代と何も変わらない。

国家神道は、崇仏戦争で神道よりも上位に立った仏教は、その後も鎮護国家の国家宗教として発展していく。奈良時代の東大寺、平安時代の比叡山延暦寺と高野山金剛峯寺がその象徴だ。
発展を続ける仏教に対し、神道は神仏習合で事実上仏教に吸収される形になっていた。

しかし、幕末に登場した平田篤胤によって神道の復古が主張され、それが霧島神道を奉じていた薩摩など攘夷派と結びつき、やがて明治維新へと進んでいった。
そして維新政府が誕生すると、薩摩閥から国家神道が提唱され、仏教は廃仏毀釈の大弾圧を受けるに至った。
このように、国家神道は攘夷時代に勢力を増し、倒幕と維新成功当初の革命イデオロギーに使われ、やがては軍国主義政府の国家イデオロギーとしても使われた経緯がある。

以上のように英国国教会は、国王の離婚したいというワガママという至って私的な理由から誕生し、国家神道は革命や戦争の国家的・民族的イデオロギーとして誕生して利用されたという違いがある。
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この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、お二方とも、ありがとうございました!

お礼日時:2023/09/15 20:34

宗教を利用して、国民を統合しようと


した、という点では同じでしょ。

明治維新後、政府は、列強が宗教を利用して
統治をしているのにならい、
神道を持って来たわけです。

神道は日本古来の宗教だし、天皇の
宗教です。

司祭に過ぎなかった天皇を神格化し
それで国民を統合し
列強に対抗しようとしました。

当時の日本は、日本人という認識に
弱く、薩摩藩人、会津藩人、という意識の
方が強かったのです。

そこで山県有朋と西周が相談し
天皇を持ってくることにしました。

お前等は薩摩藩人という以前に
天皇が治める日本、という国の国民
つまり日本人なのだ、
ということです。

そして、これが成功したわけです。

日本人の誕生です。
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