【大喜利】【投稿~10/21(月)】買ったばかりの自転車を分解してひと言

文永の役後の鎌倉幕府の防備体制と、弘安の役後にフビライが最終的に日本遠征を断念した理由は何ですか?

A 回答 (7件)

他にも回答がありますが、ベトナム方面に手をかけなくてはならなくなったのと、国内のお金がきつくなったため。


日本がどうこうで断念したというわけではない。日本人だとどうしても日本中心に考えてしまうのだけどね。
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#6です、修正します、4回目でなく3回目でした。

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フビライは4回目の前に行き掛けの駄賃でベトナムを攻めたら、


ベトナム軍の罠に嵌り、船の大半を焼失しました。
ベトナムでは白藤江の戦い (1288年)と語り継がれています。
弘安の役1281年(弘安4)後の事です、ベトナム人に感謝!です。
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内紛の為、と説明されています。



以下、wik コピペ

中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、
モンケの子シリギが反乱を起こし、
カイドゥの勢力拡大を許していた。

それでも、クビライは3度目の日本遠征を計画するなど、
積極的に外征を進めたが、
1287年には、即位時の支持母体であった東方三王家が
ナヤンを指導者として叛き、

また中国内でも反乱が頻発したために
晩年のクビライはその対応に追われ、
日本遠征も放棄された。
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文永の役後の鎌倉幕府の防備体制は、


蒙古の再襲に備えて異国警固番役(いこくけいごばんやく)を配置した。これは、主として九州の御家人および九州に所領をもつ御家人が分担した。
また、博多湾沿岸の防備は、香椎(かしい)から今津に至る20キロメートルの地帯に元寇防塁(ぼうるい)を築いている。

弘安の役後にフビライが最終的に日本遠征を断念した理由について
南宋を滅ぼしたことにより主に南宋の武人などが余剰となったために、彼らの日本移住を目的として弘安の役を発案している。移住はかなわなかったが、目的は達成している。
日本でも、関ヶ原の戦い後と明治維新後に武士が余剰となっており、結果として、一方は大坂の陣で、もう一方は西南の役で人減らしができている。

以下は、余談です。
若いころは歴史に全く興味がなく、入試に合格するためだけの勉強しかしていません。
しかし、30歳過ぎて歴史に興味を持ち始め、50歳を過ぎて韓国ドラマを見るようになって朝鮮の歴史に興味を持ち、今は中国の歴史に興味を持っています。
質問の答えがわかったのは、当時の中国目線での元寇を調べたことがあったからです。しかし、出題者が意図する正解ではないかもしれません。
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本当のこと言えば、


日本が強かったから。

神風なんて、ウソを信じちゃダメ。
学校教育に、騙されてはダメです。

ハッキリと、
「日本が強かったから、勝った」
と言える国に、なって欲しい。
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> フビライが最終的に日本遠征を断念した理由は何ですか?



ネットによると、フビライは生年1215年で、弘安の役の1281年には高齢です。1294年が没年ですが、1280年代には政権内の抗争はあるし、財政事情は悪くなるし、フビライとしては倭・日本などにチカラを入れる気にはならなかったでしょう。


フビライ個人の問題を別にしても、もう、外征で版図を広げることは困難になっていて、現状で安定を求める方向に転換したのでしょう。

ネットには次のようなことが書かれています。

軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。1281年には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり、1285年と1288年にはベトナムに侵攻した軍が陳朝に相次いで敗れた。1284年から1286年にかけての樺太遠征でアイヌを樺太から排除し、ビルマへの遠征では1287年に首都パガンの占領に成功したが、現地のシャン人の根強い抵抗に遭い恒久的な支配を得ることはできなかった。さかのぼって1276年には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子シリギが反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは3度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、1287年には、即位時の支持母体であった東方三王家がナヤンを指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。また、1292年にジャワ遠征を行っているが、これも失敗に終わっている。
クビライの死後、1294年に孫のテムルが継ぐがその治世期の1301年にカイドゥが死に、1304年に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は皇帝を頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆるシルクロード交易は唐代以来の活況を呈した。この状況を指して「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)と呼ぶことがある。
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