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桓武天皇はなぜ東北出兵にこだわったのでしょうか

A 回答 (5件)

個人的心情など分からないでしょう。


ただ、推定なら、何とでも言えましょう。

桓武天皇 
生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。
当初は皇族としてではなく官僚として大学頭や侍従に任じられた。
その状況が大きく変化するのは34歳の時に称徳天皇の崩御によって父の白壁王が急遽皇位を継承することになってから。
皇位を継承した翌日には同母弟の早良親王を皇太子と定めるが、4年後には廃太子、同年日本で初めて天を祀る郊祀を行った。それでも足らないと思ったのか翌々年に2度目の郊祀を行った。
「天皇として"仮・中継ぎ"で、それにしても権威もない感じ」なので、「天皇の地位にあって当然だ。俺はスゴイのだ、偉いのだ、優秀なのだ」とアピールせざるをえない状況あるいは心情だったので、実績作りのための、遷都でも東征でも、客観的必要性などなくても、命じたのでしょう。

単に無茶苦茶な自己正当化「俺は偉いのだ」に凝り固まっていたのでしょう。
平安京の計画と実際とを見比べただけでも、現実的検討能力もないことは明らかです。 現状の把握がいろいろな面で出来ない人だから、坂上田村麻呂を派遣し、破綻を加算したのでしょう。

No.4さんの解釈は、桓武という人物像を忘れて、合理的な政策がなされたと思ってしまった結果だと思います。
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奈良時代は律令制が完成した時代で、朝廷が支配エリアの状況を直接把握できるようになった時代です。


つまり人口と農地からの収穫量が、それ以前よりも格段に正確に把握できるようになった。
天然痘の流行や飢饉の状況による人口や耕地・収穫量の減少も迅速に把握され、三世一身法や墾田永世私財法による耕地・収穫量の増大と人口増加も早めに把握できるようになった。

古代の人口は今となっては資料不足でよく分かりませんが、奈良時代をトータルすれば、墾田永世私財法によって耕地・収穫量が増大して今までよりも人口が増加し始めたことは間違いない。

桓武天皇が東北を朝廷の直轄地にしようとしたのは、耕地開拓が限界に達しつつあったにも関わらず、人口増加が止まらないため、新たな農業用地が必要とされたからでしょう。それが最大の理由と思われます。

外交的にも、新羅などの大陸勢力が蝦夷勢力と結びつくのは好ましくないという政治外交面での事情もあったでしょう。
この辺は、隋唐帝国の勃興以来の厳しい大陸情勢が起因となった白村江の戦いが発生したように、天智・天武時代からの懸案事項でした。実際に蝦夷は独自に大陸と交易を行っていましたが、新羅が朝鮮半島を統一すると新羅とも交易を拡大していったようです。
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奈良時代に律令制度が整い、地方の国名が決まり、受領を赴任させ、


年貢収納の体制が出来たが、従わなかったのが蝦夷と呼ばれた、
東北地方の部族でした。
天皇の後継者争いの末に、後継者いなくなり、朝鮮の帰化人を母とする
桓武天皇が皇位にに就きました。
腐敗している平城京から平安京に遷都して、次に行ったのが蝦夷討伐で
大和朝廷の威信を示す事だったと推測します。

臨時の官位 征夷大将軍として任命され蝦夷討伐に向かったのが
坂上田村麻呂です。
征夷大将軍は鎮守府将軍の上位で、地方の長官受領も支配下になる、
強大な権限がありました。
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臨時の官位 であるが強大な権限が在る征夷大将軍を拝領して、
鎌倉幕府を開いたのが源頼朝です。
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自らの威信と威光の発露ですね。

いわゆる「中華」として「夷狄」とを「成敗」することと大規模な都の造営がそれです。
九州の「隼人」はほぼ服属下に置かれていたので、北の「蝦夷」を「征伐」したのです。
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当時の朝廷は日本の統一を目指していたからであり、東北地方は「別の国」だったからです。



学校で日本史を勉強しても教えてはくれませんが、日本(本州以下の島々)が一つの国になったのは、坂上田村麻呂による蝦夷征伐が完了したときです。
それ以前においては、日本の各地に現在の皇室、天皇の支配下にあった地域以外の「国」がいくつも存在していました。

今の日本の国のルーツは4世紀頃に興った「大和王権」であり、近畿地方の豪族たちが集まり、疫病などからの予防のために神の使いとなる人間を大王(おおきみ)として挙げて連合制の国家として誕生しました。

その当時においては、九州、山陰、山陽、紀伊半島などに別の国家があり、敵対をしていました。

その後大和王権が日本に居る様々な国家と戦争の末に撃退し、領土を拡大していきました。
その最後に当たるのが「蝦夷」がいる東北地方でした。
「蝦夷」は縄文系の人々が集まっていた国であり、大和王権、朝廷に敵対していました。

もっと言えば、縄文時代から弥生時代への移行も日本全土で行われたわけではなく、西側から徐々に東へと進んでいき、平安時代初期においても、東北地方の「蝦夷」の居る地域は続縄文時代、擦文時代と呼ばれる文化でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2023/10/06 08:15

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