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このほど坂上田村麻呂公の墓所とされる場所が京都の山科区で特定されましたが、この記事を踏まえて学生の頃の教科書を読み返していたところ、素朴な疑問が浮かんできました。
それは、「坂上田村麻呂はどうしてわざわざ蝦夷くんだりに武装して、しかも征夷大将軍などと国家の威信をかけて出撃したんだろう。。。」と。
予想1:防人制度に反対する東国民が騒ぎを起こし、租税を里長に納めなくなり、さらに反政府運動まで起こし、そのデモを鎮圧するため?(阿弓流為はデモの先導者?)
予想2:律令制度を確立していくにつれて国家財政が貧窮したために、あらたな租税確保のため「税務署員」として蝦夷征討へ出かけていった?
予想3:663年の白村江以来警備が手薄になってきたので、東国で鼻息の荒い阿弓流為一団を大和朝廷に組み入れ、そのまま防人に据えようとした?
坂上田村麻呂公の蝦夷征討をさかのぼること約100数十年前、やはり阿倍比羅夫公という将軍が蝦夷を征伐しています。
その東征の理由は、その後の阿倍比羅夫公の政治的な立場をみれば、おそらく白村江の戦いの出兵要員やその敗戦による北九州防衛強化のため、傭兵を調達する目的で東征したと考えるのが自然な気がします。
しかしながら坂上田村麻呂公については、その相関関係がいまひとつわかりません。お詳しい方がおられましたら何卒ご教授賜れれば幸いでございます。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
蝦夷の反乱を鎮める為です。
朝廷はそれまで服属してきた蝦夷に田地を与え定住させ支配・経営していましたが、反乱が起こります。これに、支配領域外のもともと服従していない蝦夷も合流し、反乱は拡大していきます。780年には行政官の紀広純が殺害されます。
朝廷は反乱を鎮めようと軍を送りますが、蝦夷の抵抗は激しくうまくいきません。
特に789年に派遣した征討軍は、蝦夷に大敗北と言っていいほどの敗北を喫しました。それに続く794年の征討軍も一応勝利はしますが、蝦夷の本拠地である胆沢を陥落させるところまではいきませんでした。
801年に坂上田村麻呂が派遣され、ようやく胆沢を落とし、蝦夷を平定するのです。
蝦夷の反乱は、坂上田村麻呂が平定するまでに十数年にも及ぶ、大規模で激しいものだったのです。
なお、阿部比羅夫が蝦夷征討を行ったのは、658年の事です。
新羅と唐が手を結び軍を起こして百済に攻め入ったのは660年です。百済が日本を頼り、朝廷が軍を出して起こった白村江の戦いが663年の事です。
阿部比羅夫の東征は、百済が滅亡の危機に陥る2年も前ですし、まだ百済から援軍の要請もきていません。傭兵調達が目的という考えは、無理があるように思われますが。
この回答への補足
ご親切にも詳しく歴史を紐解いてくださり、わたしのような歴史のド素人のものにはただただおはずかしいばかりです。
しかしどうしても疑問が拭えないのは、そもそもそのような大乱の根本的な原因が一体なんだったのかが分かりません。大和政権の一体何の政策に不満があったというのでしょうか?
また蝦夷はなぜそれほどに大和朝廷に帰属することを嫌ったのでしょうか?もともと西にいた民衆が相次ぐ戦乱で難民となり、東へ追いやられた民族だからなのでしょうか?
それとも東国に大和朝廷と並ぶもうひとつの強国が存在したとでもいうのでしょうか?
私としては、それほどにも朝廷を嫌う原因として「防人制度」に対する不満や憤りがあったのでは?という自分なりの仮説で今回投稿してみたのですが。。。今ひとつの質問だったみたいですね。。。
No.10
- 回答日時:
こんにちは。
私も桓武天皇の一種の「気負い」のようなものが大きいように思います。
No.9さんも仰っているように、桓武の父光仁の代で奈良時代ずっと皇位に就いていた「天武系」から「天智系」へと皇統が移りました。
光仁の時にはまだ天武系の血を受けた子である他戸親王が跡継ぎになれば再び天武系に皇統が戻る可能性がありましたが、藤原百川らの働きもあって天智系の桓武がその跡を継いだ為その可能性もなくなりました。
桓武は母親が渡来系であることも手伝って「新しい王朝」を自らの手でつくることを強く意識していたと言われます。それは桓武が即位に当たって「郊祀」という儀式を行ったことからも伺われるそうです。
「郊祀」というのは中国でその王朝初代の王(皇帝)と天帝と併せて祀る儀式なのですが、これを桓武は父光仁を王朝初代の王として行ったということです。
つまり桓武の中では「王朝の交替」がなされている訳で、こう考えると何故桓武が財政の逼迫も省みず新都を建設したり大規模な軍事行動を行わせたりしたのかが見えてくるように思います。
確かに蝦夷への対策は長年の課題でしたが、莫大な費用を投じて長岡京次いで平安京を建設したその時期に、本当に三度にも渡る大規模な遠征が必要であったかは疑問です。現に延暦二十三年にも第四回の征討計画が進められましたが、藤原緒嗣の「天下の民の苦しむところは軍事と造作である」という進言によって中止されています。
それに降伏したアテルイを田村麻呂の言を退けて処刑したようなことにも、桓武の蝦夷征討への考え方があらわれているのではないでしょうか。蝦夷は「新王朝」への生贄であり、ある意味「見せしめ」であったようにも思います。
>しかし坂上田村麻呂っていう御仁はそんなに強くて、信用も厚かったんですかねえ。
田村麻呂は当時にあっては非常に現実感覚に優れた人物であったように思います。現実を直視しない(出来ない)人々が多い中にあって得難い存在だったのではないでしょうか。
ご存知の話ばかりでしたらすみません。
No.9
- 回答日時:
坂上田村麻呂に関して言えば、鍵は「桓武天皇」です。
桓武天皇は、天皇としての正統性を証明する必要性がありました。日本における政権の正統性は、中国モデルです。つまり東夷・南蛮・西戎・北狄が、天子の徳を慕ってやってくること。やってこなければ無理矢理連れてくること。
桓武天皇の正統性の不足
1:父の代で、天武系から天智系に系統が変わった
2:母親の身分が低かった
3:他戸親王の失脚が前提だった
※ 異母兄弟、他戸親王は、母系が天武系で、父が光仁天皇
など、権威が薄かった。
その正統性を補うために行われたのが、長岡京・平安京の造営であり、田村麻呂の東征です。
773年 桓武 立太子
781年 桓武即位
789年 アテルイの乱
793年 田村麻呂東征(副将軍として)
804年 三度目の遠征予定をしたが、中止、この後遠征なし
806年 桓武崩御
n・・・なるほど、桓武天皇が自らの権勢を号令するために、蝦夷に田村麻呂を派遣したと。
御意を得たり、ですね。
しかし坂上田村麻呂っていう御仁はそんなに強くて、信用も厚かったんですかねえ。
『24h』のバウワーみたいですね。
No.8
- 回答日時:
NO.4です。
回答の補足を・・・。蝦夷が朝廷を嫌ったのは、彼らが侵略者だったからだと思います。
朝廷が土地を奪い、貢物を納めねばならず、時には住み慣れた土地から見知らぬ土地に強制移住させられ、さらには人として下位に置かれ蔑視されたら嫌うのは当然だと思います。ましてや朝廷との戦いで、仲間や家族を死なせている者は恨んでもいたでしょう。
もし、朝廷が侵略してこなければ、貢物を納める必要も、移住させられる事も、労役させられる事も、戦争で仲間や家族が死ぬ事もなかったのですから。
服属をこばみ戦った蝦夷達は、自分達の生活と土地を守る為に戦ったのだと思います。反乱を起こした蝦夷達は朝廷の支配に不満を募らせたのだと思います。
服属した蝦夷の一部は日本各地に強制移住させられていますが、やはり不満が募り各地(出雲や下総等)で反乱を起こしています。住んでいた土地から無理やり連れ去られ、全く知らない土地で暮らす事になったのですから当然の事でしょう。
780年に伊治砦麻呂が反乱を起こしたのも、夷俘と蔑視された事と、朝廷の東北への移住政策により、移り住んできた人達との間で、軋轢が起こったからだと言われています。もともと自分達が住んでいたところに余所者がやってくれば、当然、トラブルもあるでしょう。
坂上田村麻呂が征討した当時は、蝦夷は東北と北海道が勢力圏でしたが、一説によると、それよりかなり以前は関東なども蝦夷の住む地域だったそうです。朝廷の東方への支配領域の拡大の為の侵略戦争により、土地を奪われていったそうです。先祖の時代から侵略を受けていれば朝廷を嫌うのも当然だと思います。
なお朝廷の防人制度は、最初は東国からも防人を送っていましたが、757年からは九州の人間だけで防人を維持しており、その他の地方からは兵士は送られていません。
その為、防人が嫌で蝦夷が抵抗したという可能性は低いと思います。
>朝廷を嫌ったのは、彼らが侵略者だった・・・嫌うのは当然
坂上田村麻呂公のことは、皆さんからの貴重なご回答のおかげでその人となりがタイムスリップできたかのように知ることができました。
実を申しますと、私の質問の本質はその上記フレーズのニュアンス周辺のことでもありました。
(ココからはちょっと長くなります・・・すみません。)
朝鮮半島(大陸)からわたってきた「渡来人(我々は「帰化人」と習いましたが)」は3波に渡って日本へ大移動をしてきたそうです。
第一波:4C末~5Cの渡来人。
『彼らの中には半島における戦闘の結果、捕虜として連れてこられたものもかなりあったであろうが、楽浪・帯方郡の遺民で百済に亡命し、さらには日本へ渡ってきた自由人も多かったようである(山川出版社「日本史研究」)』
例)弓月君:応神天皇朝に127県の民を率いて来日・・・
阿知使主:応神天皇朝に17県の民を率いて来日・・・
その他王仁氏など・・・
第二波:6C後半~7C
司馬達等、高向玄理、南淵請安ら
第三波:7~8C
百済王朝滅亡期
おそらくこのときの戦争難民は計り知れない数だろう。。。
平安初期、畿内に住む1059氏のうちの3割は渡来系氏族だったそうです。
ここからが私の推測なのですが、事情はともあれその当時高い文化と技術をもった民族たちが大量に流入してきたわけですから、素朴で純心のネイティブな倭人は端へ端へと追いやられていったのかもしれないと言う疑問を持っております(アメリカ移民に土地を追われたインディアンのように・・・)。
それが「熊襲」や「隼人」や「蝦夷」なのではないかと。。。
ついには迫害の挙句「防人」や「労役」の的になったのではないかと。。。
服属を拒んだのではなく、もともと異なったイデオロギーなのではなかったのでしょうか?(例えて言えば明治新政府軍に追撃された旧幕府軍?)
No.7
- 回答日時:
No.5の続きです。
阿倍比羅夫は斉明4年と5年に船師(ふないくさ)180艘を率いて蝦夷を伐つとあり、また6年には船師200艘を率いて粛慎国(みしはせ シベリアの沿岸らしい)を伐つとあり、演習と見られても仕方ないでしょう。
ところで737年徴発した蝦夷を使役し、多賀柵、道路を作ったあとは、蝦夷には不満があっても、まあ平穏でした。
759年柵をさらに進め雄勝柵、桃生城を作り、関東の大和の浮浪者を集め、開墾と柵の守りに当たらせるようになり、蝦夷の不安は増大しました。 火縄の付いた火薬樽が転がっている状態で何時火がつけられるかです。
小反乱は度重なり、鎮東将軍とか征東将軍とか鎮守将軍に相当する将の軍が派遣されましたが、余り戦はせず鎮撫策で納めて来ました。
それが780年の蝦夷の統領伊治公砦麻呂(これはろのきみ あざまろ)の反乱で火薬に火がつきました。 アザマロの乱
前記のURLあります。
なんてお詳しいんでしょうか!ここまで答えていただけますと質問者としては大満足です。
NHKもココまで歴史的なエピソードがそろっているなら大河ドラマにでもしたらいいのに・・・と思います。
ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
陸奥が金を産出することがわかり,その利権のため陸奥の支配権を強化する必要があったのではないでしょうか。
澤田ふじ子氏の「陸奥甲冑記」や,高橋克彦氏の「火怨」が描いた阿弓流為や坂上田村麻呂の人間像はとても魅力的でした。
http://contents.junglemart.jp/jmbooks/ebook.php? …
http://www.ne.jp/asahi/tofunosato/sanpomichi/pag …
ご返答ありがとうございました。
白村江の戦いで朝鮮半島における百済王朝が滅亡し、何十万人というおおくの逃亡民が海を渡ってきたという話を書籍で読んだことがあります。またそれ以前から半島からの人の往来は頻繁にあったと聞いております。
大陸から来た人たちは当時はある程度高い文化を持っていた人たちですから、ネイティブな倭人たちが迫害されて「熊襲」「隼人」、追われてついには「蝦夷」となり東征の対象勢力となったということはないのでしょうか?
思い込みの強い質問ですが、馬鹿馬鹿しければ放って置いてくださいまし。
No.5
- 回答日時:
東北の朝廷支配を広げるために、起こった問題です。
655年難波の都で東北の恵美氏約二百人を饗応した。 朝廷に順応的な蝦夷と朝貢関係がうまれた訳です。
さらに奥の蝦夷を従わせるため、順応的蝦夷を協力者として、遠征軍が派遣されたのが、658年の阿倍比羅夫の軍で、秋田、津軽まで攻め入って降伏させ約二百人を手厚く饗応した。 戸口の調査を命じた。 とあり朝廷の蝦夷政策に見えますが、他方阿倍比羅夫の軍は水軍であり、660年の百済救済戦争のための演習と見る学者もいます。
その後浮囚と呼ばれた蝦夷との関係は、自治的制度で波乱なく過ぎましたが、724年多賀柵の構築と道路整備により、緊張が起こりました。
朝廷の管理の締め付けとヤマトの移民政策に刺激された訳です。 朝廷役人の殺害が起こりました。
ご返答痛み入ります。
>朝廷の管理の締め付けとヤマトの移民政策に刺激された訳です。
「移民政策」などあったのですか?
阿倍比羅夫の軍は水軍だったというのは知りませんでした。
有難うございました。
No.2
- 回答日時:
No.1
- 回答日時:
前提が違います
大和朝廷の支配下に無かった地(まつろわぬ地・民)に攻め込んで支配下にすることが目的です
「征夷大将軍」の字義をお考えください
当時 目的とする方位と任務により 征西将軍 鎮西将軍 安西将軍 寧西将軍等がありました(中国の法制 それに倣っている)
幅広く文献をお読みになられますことを
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