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明智対羽柴のたかかいで、羽柴軍は中国大返しで疲れ切っているはずなのに、
なぜ精鋭明智軍にに勝てたのでしょう?
戦力差16000対4万?があってっも精鋭には勝てないとおもうけどなぁ。

ご意見お願いします。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    明智軍当時、分散して配置されていたようですが、
    集結していたら27000ほど。
    ワンチャン勝てましたか?
    なぜか明智軍に勝たせたい。

      補足日時:2023/12/03 21:00

A 回答 (8件)

No6です。



>柴田軍ってちょっと弱くないですか?

柴田軍と対峙した上杉謙信軍が優秀すぎたのですよ。
闘いだけではなく能登半島の七尾城についても調略での内部分裂を成功させました。
このような中では柴田軍がいかに勇猛であっても、上杉軍にかないません。

後に秀吉と闘った賤ヶ岳の戦いでも、もし前田利家軍が戦線を離脱しなかったら、もし佐久間盛政が勝家の退却命令に従っていれば、もっと戦線は膠着していたでしょうね。

ですから必ずしも勝家軍が弱いとはいえません。もし北陸での戦闘をおわらせ、京都に戻ることができれば、勝家軍だけでも明智軍に勝利できたでしょう。ただ秀吉のような虚実をとりまぜたテクニックはもっていなかったのですね。
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ワンチャンス。

光秀は、秀吉のあと、徳川家康、柴田勝家に連勝の必要がありました。事実、秀吉も、小牧長久手の戦いで、家康と織田信雄の連合軍、北陸で柴田との一戦をしています。織田家の旧所領を確保するだけでも、この二人との一戦は避けられません。
奇跡的に秀吉に勝利しても、次の家康には絶対に勝てなかったでしょう。
本能寺の変で、主殺しの烙印を押された瞬間に光秀の敗北は決定です。1戦目で負けるか、2戦目で負けるかの違いだけで。
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この回答へのお礼

徳川って当時は明智と味方だったような。
春日局や天海を優遇していたし。
じつは明智と徳川が手を結んでいて、秀吉を倒す手筈が、中国大返しが速すぎてまにあわなかった!?

お礼日時:2023/12/04 20:30

No2です。



>集結していたら27000ほど。ワンチャン勝てましたか?

『太閤記』によると明智軍は1万6000人でしたが光秀直属は5000人しかいません。
当然直属の軍と他の大名の兵とは戦意からして違っていたでしょう。
対する秀吉軍は約4万人、ですので勝敗は始まる前からわかっていたようなものです。

>なぜか明智軍に勝たせたい。

お気持ちはわかりますが、仮に山崎の戦いで勝利または互角に戦ったとしても、各地方に展開していた柴田勝家を初めとする信長の配下の武将が京都目指して進軍しますから、勝利するのは無理だったでしょう。
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この回答へのお礼

柴田軍ってちょっと弱くないですか?
柴田くらいは倒せたような気がします。
ってか超絶暴君の信長にはみんな実は参っていたわけで。

お礼日時:2023/12/04 20:30

>ワンチャン勝てましたか?


細川親子が味方しなくなった時点で、ワンチャンスも勝てる要素は
ありません。
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姫路城までは、急いでましたが、そこからは各地から集まる軍をまとめるために、通常進軍です。

大返しの疲労はちゃんと回復して万全の体制で挑みました。
明智軍、精鋭と言っても、そんなに強いわけじゃない。本能寺の変からの連戦はきつい。
まだ北の柴田軍への備え、三河の徳川への備えと、兵力分散しています。
毛利の追撃はないと読んで、全軍を対明智に集中した秀吉との差が、結果に現れました。
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この回答へのお礼

私も軍を分散するのはどうかと思ってました。
軍を終結していればワンチャンかてましたかね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/12/03 00:55

戦をするには、兵力集めと同等以上に大義名分のスローガンが兵士の


士気を高める為に重要なのです。
明智光秀を主君殺しの汚名が有り、羽柴秀吉には主君の仇討ちの大義名分
が有ったので合戦の前から勝負が付いていたのです。

中国大返し後、姫路で待機してました、兵士の休息と戦力を整える事と
情報収集をして味方を集めました。

羽柴秀吉の戦い方は味方の損害を極少にする事でした。
情報を集め勝算有となった時に、戦を仕掛けたのです。

明智光秀の軍は美濃の斎藤氏の残存兵が主力で、領国の山城国で、
河川洪水を無くすなどして、豪族や領民の信任を得る途中でした。
寄せ集めの感が強く、三河武士の如くの結束は無く、精鋭とは
呼べない状態でした。
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この回答へのお礼

兵士は体力を温存できたってとこですね。
明智軍精鋭ってどこかに書いてあったのですが、そうでもないみたいですね
回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/12/03 00:52

秀吉は中国大返しの途中に付近の大名などに私信を数多くだしています。



それは「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。」というもので、「逆賊明智光秀を討つための義戦」に参加をいうことです。

信長の死体は光秀軍は発見することができませんでした。そのため、「信長が生きているかも知れない」と考えた大名も多いのですね。だったら率先して参加しなければ、信長の性格を考えれば当然でしょう。ですので我も我もと雪だるま式に秀吉軍が膨らんだのですよ。

なお山崎の戦いの時、秀吉は6月13日の昼には大山崎に着陣、その後総攻撃を行い、夕刻には勝敗は決しています。ですので合戦に間に合ったのは一部ということではありません。
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この回答へのお礼

遺体を発見できなかったのはおおきいですよね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/12/03 00:52

秀吉軍で合戦に間に合ったのは一部。


山崎合戦で主力となったのは堺にいた信孝率いる四国攻めのために集結していた軍。
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この回答へのお礼

他の軍は疲れてませんからね。
けど人数が少ないのでは。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/12/03 00:55

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