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今より昔の方が良かった事を教えて下さい

質問者からの補足コメント

  • 皆さんたくさんの回答頂きありがとうございました

      補足日時:2023/12/11 21:30

A 回答 (20件中1~10件)

スマホに時間を取られない分、他人と違う自分の時間が持てていた。


LINEで相手の機嫌を探りながら会話したり、最新のネットの情報やSNS投稿に気を取られるでもなく。
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携帯もってなくてもなんの問題もなかったこと

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思い出せたのはこんなことです。



  鉄道の列車や駅の施設に旅を楽しむ要素があった
  飛行機がもっと利用しやすかった



【 鉄道の列車や駅の施設に旅を楽しむ要素があった 】

新幹線が走り出す前の時代、スピード感はなかったけど、鉄道にはいろいろな楽しみ方がありました。
私は東北の福島が田舎なので、よく眺めたり利用していたのは東北本線でした。

昼間は、エル特急が頻繁に走り、時々遠くまで行く特急がほんの限られた停車駅だけに止まりながら駆け抜け、合間を縫って急行や準急が走り、各停や貨物列車はそれらをところどころの駅で長く止まってやり過ごしながらのんびり走ってました。

特急列車には決まって食堂車が組み込まれていました。
乗ると楽しかったのは、ある時期の『特急つばさ』でした。
上野から福島までは秋田行きと盛岡行きの編成が併結されていて、そのそれぞれに食堂車が組み込まれていました。

その列車が上野を発車して赤羽を通過するぐらいになると、食堂車の女性が車内放送で食堂の準備が出来たという案内をしてくれます。
そこでは、xx号車の食堂では『きりたんぽ定食』を、xx号車の食堂では『わんこそば』を用意してあると告げます。
行き先に合わせて食堂のメニューに工夫がされていたんですね。

当時の列車には他にも2両の食堂車が組み込まれた列車がありました。
でも、方向や運行されている地域が違うので私はそれを利用したことはありませんでした。
そちらでもそういった工夫はあったんでしょうかね。
今となっては楽しむ方法はありません。

急行や準急は、ひとつの列車を構成する車両が別々のいろんな行先に向かって行ったり、いくつもの違う名前の列車が併結して走ったりしてました。
走っている途中でも他の列車を連結したりもしたもんです。

それで大変なのが車掌さんでした。
お客さんが間違った車両に乗って目的地に行けなくなっては大変です。
だから頻繁に検札に回り、間違った車両に乗ったお客さんを見つけると正しい車両まで誘導するなど涙ぐましい努力をされてました。

各駅停車だって面白かった。
古い客車だの、新しい客車だの、茶色いの、青いのなど、色も姿もバラバラでした。
中には、特急からのおさがりや、グリーン車崩れで座席の乗り心地の良いのなんかがあったりして、そういうのに出会うと『あたり』なんて言って喜んだものです。

貨物列車もそう。
今のように編成がすべて同じ型の車両ではなく、屋根がない貨車、動物を運ぶ貨車、タンク車、自動車運搬車、材木を積んだ貨車、冷凍車、セメントや石炭、砂利なんかを積んだ貨車、そして列車の最後にはお決まりの車掌さんが乗る車掌車がついていました。
長い貨車もあれば短いのもあり、車輪の数もバラバラ。
だから、走っている音を聞くと『ガタン・ガタン』の音のリズムがバラバラでした。
踏切で通過を待っていると、誰もが貨車の数を数えたりしてたもんです。
『今日のは長かったなぁ』なんてよく言い合ってました。

夜は夜で面白かった。
時の流行りはブルトレでした。
青い車体の美しい寝台列車でした。
その他にも、夜となれば寝台車を組み込んだ特急や急行列車がたくさん走ってました。

夜の長距離列車には独特の風情がありました。
私は寝台車を利用するほどの距離の乗らないので、寝台列車にはついぞ乗る機会はなかったので、車内の様子は知りませんが、上野駅でそんな列車を待つ人々が荷物をいっぱい抱えて列を作って待っていた姿は忘れられません。
家族から離れて都会で働いて、土産をいっぱい買って帰っていくんだろうなぁという姿でした。

そんな鉄道の風景は、今はもう微塵も見られなくなっちゃいましたね。



【 飛行機がもっと利用しやすかった 】

私は今はアメリカのド田舎で隠居暮らしをしている爺です。
プロファイルにも記した通り、若いころにカミさんと当地に渡って来ました。

私が東北のド田舎の生まれ育ちですが、それゆえに英語は学校で習ったことしか知らず、それを話す人と直接話したことなど、大学を出て社会人になり、結婚して新婚旅行に行くまで経験したことがありませんでした。

新婚旅行のあとにカミさんと始めた海外への貧乏旅行で最初に行ったのがアメリカでした。
いやぁ、見るもの聞くもの何もかもが新鮮でした。

私が当時知っていた初対面の人とのあいさつはこうでした。

  How do you do ?

でも、最初に行ったサンフランシスコで聞いたのは違った。

  How ya doin' ?

相手が何を言ってるのかわからず、目が点になり、なんて答えていいのかがわかりませんでした。
そしてその後で行ったニューヨークでそれを言うと言われました。

  そんな言葉を使っちゃいけません。

今では世界中の当り前の挨拶が、その当時はカリフォルニアの若い人たちのスラングでしかなかったんですね。

そんな経験をした旅行でしたが、そこで見たもうひとつの景色が忘れられません。
当時の国内線の空港のターミナルでの光景です。

飛行機がゲートに到着してボーディングブリッジが飛行機につながると、機内からは続々と乗客が出ててきてターミナルのゲートに現れます。
当時は今のように空港にセキュリティチェックなんてありませんから、出迎えの人々はゲートにまで来る事が出来てました。
だから、ゲートのところでは、乗客と出迎えが抱き合う姿などが見られました。

911のテロを境に飛行機を廻るセキュリティが強化され、この光景は見られなくなってしまいました。
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移民政策、富国強兵、併合政策等です!

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近所同士仲良かったこと。今は隣に誰が住んでるかわからない。昔はいろいろ教えてもらったり借りたりしてました。

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年功序列

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マンモスを倒したらしばらく遊んで暮らせた。

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ニートだとか、不登校だとか


イジメなんてのは
昔はあまり無かったですよ。

離婚も、独身も少なかったし。

何よりも良かったのは、日本経済が
成長していた時期であり、
給料が毎年上がったことですね。

親の給料を、あっさりと追い越しました。

今は、昇給なんてほとんど
無い。

こんなこと言ってはなんですが
モラルの無い、騒々しい外国人も
ほとんどいませんでした。
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教えてgooのカテゴリなので教えてgooについての質問と捉えて回答させて頂きます。



昔と言ってもまだ10年足らずですが、昔はgooスタッフのアンケート質問やら、懸賞質問があったり、ポイントを商品カタログの商品と代えられたりして楽しかったですね。
3〜4点商品と代えましたが、未だに懐かしく使っていますよ♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪

後は、礼節をわきまえ、行儀の良い大人が多かったです。
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ちゃんとカテゴリーを守って質問する利用者が多かった!

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