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善はどこにでもあるものではないそれは口伝され
伝承されていく特別な感情だ
悪はどこにでもある感情である
と思うのですがどうですか

A 回答 (6件)

善も悪もどこにでもある感情だと思います。



「口伝され伝承されていく特別な感情」なんて詐欺師が人を騙す手口です。
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「口伝され伝承されていく特別な感情」なんて詐欺的というのは、一理あるでしょう。



「特別の感情」の「特別」とは、どのような識別判定をさすのかがそもそも不明です。 普通と特別のような修飾だとしても、存在比や発生比で見るのか、極端・特殊のようななんかの価値評価で見るのかも不明です。
口伝、伝書を基に伝承されるにしても、言語や図象を介して伝承されるのであれば、送り手の感覚感情イメージと受け手の感覚感情イメージが、何代にも同様であると見做すのははなはだ安易です。 言葉や図象そのものをほぼ忠実に何代も伝承することは可能ですが、そのことは受け手の感情理解の類似性を担保しないです。

漢字の善は、行動行為の適応・非適応の判定結果の評語の一つです。
感情に関する分類に使うものでは多く場合ないです。
神前裁判・神の判定-王や高官や判事の採決判定である[善 or 不善・非善・否善]の[善]が伝承の過程で、曲解されて、道徳的感情や信条という個人の常道や感情の名称だとなってしまったこともあるのでしょう。 
でも、そのことは、伝承される過程で変容するということを示すものであって、[伝承されていく特別な感]とはかなり違います。

悪を憎しみに起因するある種の感情、善を目標とすべき貴さ(尊さ)のように感じる感情という見方もできますが、それは伝承された結果で存在するものではなくて、個々人の人生体験で、{脳内(扁桃体・視床下部・帯状回前部・側坐核・前頭葉眼窩部など)と身体制御に関わる自律神経系の興奮状態}を表現する用語に多くの人が使ってしまったからです。 伝承が主要要因ではないです。
悲しい、愛しい、怖い、辛い、愉快、楽しい、不安、高揚なども、言葉の伝承などなくても、外来語や造語でも、多くの人に広く採用され使用されるのと同じです。

もしも、[悪はどこにでもある感情で、善は滅多にない希少な感情だ]のように質問者が感じているのであれば、単にご本人の経験を、世間全般のことのように思い込んでいるだけです。 
他人の感情状況を理解するのは結構難しいです。 
法的に犯行となるような対人関係で起きる事件報道、演劇小説ドラマアニメの類いが多数あっても、そのことは、現実の人間社会で各人の中で生じている感情状態を比例代表的に現していると思うのは、根拠のないことです。
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悪を憎んだ時点で、そこには善があります

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「善」と「悪」とは「実体」ではない。

どこまでも「関係」の概念です。ゆえに、一人の人間がはじめから善人であるとか、悪人であるとか決めることはできない。
「善」と「悪」とは可変的な実在なのです
「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥り、悪人でも大悪に反対すれば忽に大善になる」
 悪なくして善はなく、善なくして悪なし。
両者は、相対的であるとともに相補的な実在なのです

極悪非道の殺人鬼でも、敵国からすると正義の英雄なのです
盗人は悪人でも、鼠小僧のように、盗んだ金を貧乏人に与えれば善人です
誰人たりとも、善悪を決定する事はできないのです。
トルストイはそれらを見据えたうえで
「宗教のみが善悪の決定を与える」
と言ったのです
おそらく、ここで言う宗教とは、大善、極善の事でしょう

イエスはユダを許した
釈迦は提婆達多を許した
ソクラテスは陪審員を恨みはしない
 身に影が添う如く
ヒマラヤの如き哲人や聖人は、悪人から
激しい誹謗中傷を受けるのです
 史上最も崇高な人物を迫害した人物が
史上最大の悪人なのです
 その悪を演じてもらう愛すべき存在なのです
この世と言う舞台から降りたら
善と悪は互いに健闘を称えあい、握手しているかもしれません

では大悪とは何か、極悪とは何か。
おそらく「無関心」でしょう、シニシズム(冷笑主義)でしょう
シニシズムは、時に悪そのものよりも恐ろしい
作家スティーブンソンの
「わたしは悪魔よりもシニシズムの方がずっと嫌いだ」との言葉に共感します。
決定的に重要なことは、善も悪も互いに(善ならば悪を、悪ならば善を)「他者」として、その関係性の上に「自己」を成り立たせているということであります
それに対して、無関心やシニシズムの世界における「自己」とは
ユングのいう「自我=エゴ」と同じく、表層次元を浮遊する閉塞的な自意識でしかありません。
そうした「自己」は「他者」が不在であり、「他者」の痛みや悩み、苦しみへの不感症に陥っているがゆえに、自分の世界に引きこもってしまったり、ささいなことでキレて暴力的な直接行動に走ったり、あるいは素知らぬ顔で傍観者であったりする。
こうした「他者」の不在という精神病理こそ、ファシズムやボリシェビズムなどの20世紀を席巻した狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌であったのです。
「自己」の内に「他者」が欠落していれば、対話は成立しません
形は対話のように見えても、一方的な言い合いに終始してしまう。コミュニケーションは不全に陥るのです。

現在、バーチャル・リアリティー(仮想現実)の氾濫によって、
現在「他者」は影が薄くなる一方であると考えられます
「自己」の内に「他者」が欠落していれば、対話は成立しません
結局、武力に走るのです
未来が明るいとは言えません、憂いる人も多いかと思います

長くなるので、結論します
エベルハルトの次のような逆説的な言葉を引用します
「敵を恐れるな、最悪の場合でも敵は汝を殺すぐらいだろう。友人を恐れるな、最悪の場合でも、友人は汝を裏切るぐらいだろう。無関心なやからを恐れよ、やつらは、汝を殺しもしないし、裏切りもしないが、やつらの沈黙の合意のせいで、地上には裏切りと、殺人が存在するのだ」
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善は常態であり、悪は例外である


したがって善はどこにでもあり、悪はない場合がある
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思いません。

善も悪も等しくどこにでもあります。
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