「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

僕は道徳心がないのでしょうか。「地震大丈夫?」や「新成人の皆様おめでとうございます(以外教訓)」と言った、実際には関わりのない人に対して気にかける言葉に対して嫌悪感があります。
揚げ足取りというか、的外れな感じな意見だとは思いますが、「じゃあなんで普段からアフリカの子供に情けの言葉吐いたりしないの?」とか思ってしまいます。

A 回答 (5件)

僕は道徳心がないのでしょうか。


 ↑
道徳心が無いのではありません。
ワタシと同じで、
ひねくれているだけです。



「地震大丈夫?」や「新成人の皆様おめでとうございます(以外教訓)」と言った、実際には関わりのない人に対して気にかける言葉に対して嫌悪感があります。
揚げ足取りというか、的外れな感じな意見だとは思いますが、「じゃあなんで普段からアフリカの子供に情けの言葉吐いたりしないの?」とか思ってしまいます。
 ↑
ワタシもデス。

マスコミが騒いだ事件だけ
特別扱いするのかよ。

マスコミに踊らされている
だけだろう。

おいらが困っていた時、誰が
助けてくれたよ。
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道徳心が無いわけではありませんよ。

私も同じことで悩んだことがあります。多くの人が同じように悩んだと思いましょう。例えば誰かが「心にもない綺麗ごとを言っている」と感じて「偽善ではないか?」と嫌悪感を持つのは良くあるんです。それは異常ではありません。

以下は長いので興味があればお読みください。

「本当にキツイ時は社交辞令と分かって居ても嬉しかった」

と言うのも事実なんですよ。そういう(キツイ)事態に成らない事の方が大事ですが「いつもうまくやれる」わけではないです。なので望まない窮地に陥り、他の人の社交辞令で心が救われるという事は沢山あるんです。

「おまえ本当にいいやつだな」

「いや・・・そこまで褒められると心苦しい。本当は頭で
 考えてやったことだ。心からという分けじゃないんだ」

「それは俺もそう思ったよ。だけど何故か心の底から嬉し
 いと思ったんだ。お前が何を言おうとも俺がお前はイイ
 奴だと決めたんだよ」

こういう経験をしてしまうわけです。ドラマみたいですよね。なので現実の人生の方が漫画や物語より感動的なんです。

また計算高く「だとしたらヤラナイ方が勿体無くないか?」という発想も善なんです。自分が妥協で行動したとしても「嬉しい気持ちをどうにもできない」と相手の人が考えるのならば「ヤリドク」でしょう。

「経緯や発想が美しくなくても、結果が美しいという事は
 沢山ある。それで良いのだと自分や他人を許す気持ちか
 ら、道徳の理解が深まる」

道徳と言うのは「本心からの○○」とか「真心を込めての○○」と言う経緯から美しいという物ではありません。どちらかと言うと「結果として美しいものに成る」という「いささか強引なやり方」を指します。

「生い立ちからずっと主人公だったという人はそうそうい
 いない。ではそういう人は素敵な一時を味わう権利がな
 いのだろうか? それは許せない。無理やりにでも偉人
 の人生と同じ流れに持ち込む方法が欲しい」

ですので「人に言われたのでそうしました」という動機から「本来なら主人公しか歩めないストーリー展開」に持ち込む方法が道徳論です。

なので「そういうのは本物じゃないので嫌だ」とか「そういう物だと知らず毛嫌いしていました」と言う人が実践していないという事です。

安否の確認や気を付けるようにと会話するのは「正しい事」です。一方で「俺たち幸せだよね」と確認し合うのは仲良しゴッコであり幼いと思えます。また遠くの者たちに憧れるだけで、身近な人をゾンザイに扱えば「気まずい思い」を何度も繰り返して損をします。つまり一般の人は「正しい事」と「幼い事」を区別できずに使用しているわけです。その中の「幼い事」をに嫌悪感を感じたとしても「同じ人がやった正しい事」まで罪としては行けないでしょう。自分の方も区別がついていないという話になります。

「推しの話で友人と喧嘩しました」

「何やってんの?」

近しい人に「私は味方だよ」と伝え合うのは正しい行為なんです。例えば今回の震災で中国からも「支援したい」と表明がありました。社交辞令ですよね。しかし物凄く嬉しいと感じてしまうのは仕方が無いでしょう。震災で実際に苦しんでいる日本人だけではなく(気づかないうちに心の負担が増えている)日本人全体を労った話なわけです。

「社交辞令であっても他人を幸福にさせる」ということです。逆に「本心では心配している」状態であっても「心の無い事」を言えば相手を不幸にするんです。相手がどう思っているか分からないので「取りあえず優しさをばらまいておけ」と言うのは賢いメタです。

という分けで「道徳を美しい物」と捉え違いをしているのではないかと指摘させていただきます。どちらかと言うと流れをぶった切って「美しい結果」を導く凄まじい物と覚えた方が良いです。この流れをぶった切るやり方に貴方は驚いているのであり、それでも実践する人は「むっちゃ効果ある」と体感で知っているという分けです。

「社交辞令や心にもない礼など本心とは一致しない優しさ
 を(まるで作業のように)無差別にばらまく。自分が知
 らないところで誰かが本気で幸福になる。これを見て我
 ながら納得いかないと憤るのだけど、それでも良かった
 と本心から思う自分がある。理由はどうあれ喜んで貰っ
 て嬉しかったと心から思う今のシーンは美しい結果だ」

という事です。

こういう不思議(真心を込めたわけでもないのに相手が本当に感動して心から感謝を述べる不思議)を経験したとき誰もが言うのは、

「人として当たり前のことをしただけです」

ですよね。この言葉に嘘が無いから余計に美しいという分けです。

他の人も一生懸命に「流れ」を変えようとしているという事です。その熱心さに驚くかもしれませんけど。「自分も体験すれば暖かい物」であると分かりますよ。

騙されたと思って「優しさをバラまく作業」を習慣とするのが良いと思います。どこで芽吹くか分からないんですからね。

以上、ご参考になれば。
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道徳心がないのとは違います。


博愛主義者は家族を愛さない、みたいな感じでは?

ただ捻くれてるだけかもしれませんが。
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心の余裕がどれだけあるか、です。


余裕がなければ人の不幸などなんとも思わないし、余裕があればアフリカの子供たちにも関心が持てます。
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社交辞令なんで


何も気にしないことです
意味がありませんから
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