
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
平民にもあります。
財産とか権利は家に附属します。だから3才の子供でも家の主人になれるんです。「家」は現代的な解釈では「会社」と考えれば良いでしょう。主人は社長に対応します。
苗字は藩に出す公文書などには使えませんでしたが日常生活では使っていました。なので墓石には多くの場合「○○氏」とか「××姓」と書いてあります。
平民の家系図は明治末期、日露戦争の国粋ブームの中で盛んになったようです。拙宅にもこの頃に作られた某天皇を始祖とした系図があります。
このブームでは神社を立て替えたり由緒書きを作るなどもしています。また維新の志士たちに位階が贈られたり伝記が作られるのもこの頃。
No.7
- 回答日時:
江戸時代を通して我が家はずっと百姓身分でしたが、母方などはあなたの家よりはるかに古いし立派な家でしたよ。
母方の家はもともと鎌倉御家人の子孫で、本家はその庶子家の分家。本家には室町戦国時代の古文書も伝わっていますし、本家の屋敷周りには土塁があり、元隷属民で江戸時代以降は小作人たちの家が周りに建っています。
No.6
- 回答日時:
https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary051002 …
https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct …
https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/65-k.pdf
杉本氏は元は石井氏を称していたが、近世には地名の杉本をとり杉本と改称していた。
天正一八年徳川家康が江戸に入り近世の村落支配を編成する中で、庄屋役に取り立てられ、勘解由(政五郎)は元和元年五月五日地頭逸見四郎左衛門と共に大坂に出陣し同六月二八日戦死した。
寛文九年三月「武蔵国多麻郡山口領後谷村新田検地帳」では、勘左衛門が検地案内の一人となっている。延宝二年八月の「御縄打帳」でも同様に勘左衛門が検地案内の一人となり、同検地帳では最高の名請高一町六反三畝一七歩が登載されている。屋敷一筆六畝七歩、田が二七筆七反三畝五歩、畑が二六筆八反二畝五歩、このほか薮が二筆二畝歩である。
表2は「後ケ谷村人別宗門改書上帳」の記載からみた杉本家の状況である。杉本家は元禄期には、すでに名主役として、文書の中で存在が明確になっているが、現存している「宗門改帳」でその存在が判明するのは、宝永四年から明治二年までの一六二年間三六冊によってである。
これによると宝永四年から享保期までは、杢右衛門と称し、以後三代は勘左衛門である。
二代目の勘左衛門は天明二年に若干一四歳で名主役に就任し、文政一二年六一歳でなお名主役を勤めていた。四八年間に及ぶものである。この間天明の大飢鐘と村落の荒廃があり、幕府の松平定信を中心とした寛政改革により村落の復興政策が展開し、名主たちがその先頭に立って奮闘努力したのであった。文化・文政期の江戸後期の発展期を迎えるのである。
杉本家の持高も一四歳で勘左衛門が名主役に就任した頃は、一六石余であったが寛政六年以降、約二倍の三一石余と飛躍するのである。杉本家の家族構成は、夫婦.子供を中心とする単婚小家族であり、近世前期では、下男・下女とよばれる奉公人を享保二〇年で九人も抱え、手作経営を実施していたが、持高が増大するに従い奉公人の数も減少し、一、二名に過ぎなくなった。これは、手作経営から地主.小作経営に転換したためではなかろうか。また馬を所持していた時期も安永七年から寛政六年までで、いわゆる三一石余の大高持になってからは馬を所持していない。これは実質的な農業経営の規模を縮少し、小作経営に依存したためとも考えられる。
さらに三代目の勘左衛門は天保五年にはすでに二二歳で名主役に就任している。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct …
https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/65-k.pdf
杉本氏は元は石井氏を称していたが、近世には地名の杉本をとり杉本と改称していた。
天正一八年徳川家康が江戸に入り近世の村落支配を編成する中で、庄屋役に取り立てられ、勘解由(政五郎)は元和元年五月五日地頭逸見四郎左衛門と共に大坂に出陣し同六月二八日戦死した。
寛文九年三月「武蔵国多麻郡山口領後谷村新田検地帳」では、勘左衛門が検地案内の一人となっている。延宝二年八月の「御縄打帳」でも同様に勘左衛門が検地案内の一人となり、同検地帳では最高の名請高一町六反三畝一七歩が登載されている。屋敷一筆六畝七歩、田が二七筆七反三畝五歩、畑が二六筆八反二畝五歩、このほか薮が二筆二畝歩である。
表2は「後ケ谷村人別宗門改書上帳」の記載からみた杉本家の状況である。杉本家は元禄期には、すでに名主役として、文書の中で存在が明確になっているが、現存している「宗門改帳」でその存在が判明するのは、宝永四年から明治二年までの一六二年間三六冊によってである。
これによると宝永四年から享保期までは、杢右衛門と称し、以後三代は勘左衛門である。
二代目の勘左衛門は天明二年に若干一四歳で名主役に就任し、文政一二年六一歳でなお名主役を勤めていた。四八年間に及ぶものである。この間天明の大飢鐘と村落の荒廃があり、幕府の松平定信を中心とした寛政改革により村落の復興政策が展開し、名主たちがその先頭に立って奮闘努力したのであった。文化・文政期の江戸後期の発展期を迎えるのである。
杉本家の持高も一四歳で勘左衛門が名主役に就任した頃は、一六石余であったが寛政六年以降、約二倍の三一石余と飛躍するのである。杉本家の家族構成は、夫婦.子供を中心とする単婚小家族であり、近世前期では、下男・下女とよばれる奉公人を享保二〇年で九人も抱え、手作経営を実施していたが、持高が増大するに従い奉公人の数も減少し、一、二名に過ぎなくなった。これは、手作経営から地主.小作経営に転換したためではなかろうか。また馬を所持していた時期も安永七年から寛政六年までで、いわゆる三一石余の大高持になってからは馬を所持していない。これは実質的な農業経営の規模を縮少し、小作経営に依存したためとも考えられる。
さらに三代目の勘左衛門は天保五年にはすでに二二歳で名主役に就任している。
No.5
- 回答日時:
名字帯刀を許される家柄。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%90%8D%E5%A …
役所がなかったので、姓は必要でもないですね。
〇〇村の五助。
池の上の八、程度で。
商人なら、屋号と名前で。紀伊國屋文左衛門とか。
名字がないのだから、残しようがないです。
ただ財産がある、あるいは商売をしている、鍛冶屋のように職を持っていれば、残したいので、家を残したいとは思ったようです。
平安の時代に、娘しか跡取りがいないので、婿をもらうのだが。
ムコ殿は、いっさい働かなくてもよかったようだ。ただ単に、子作りさえしてくれたらそれでよかった。
これも家を残したい概念の内か。
家督はすべて、後継ぎの長男が受け継ぐ。
これは、家を残すための概念では。
ゲルマン民族は、親の財産は、兄弟で分けるしきたりだったようなので、家の概念はなかったのかも。
裕福な古くからの商人は、名字がなくても、家系図は持っていたでしょう。
貧乏人は、恥ずかしい家系図は残したくないが。
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