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聖書の記載の引用元:口語旧約聖書1955年版 創世記
http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html

創世記には神が「われわれ」と言ってる記載が2か所あります。

創世記(1:26)
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

創世記 (3:22)
主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

英語のGenesisを見ても、神の言葉は複数形で書かれています。

旧約の創世記を含むモーセ5書は、モーセが書いたと伝承されていました。
(研究で複数の著者がいるらしいことが判りましたが、それまではモーセが書いたと伝承)
ということは、モーセが「神が『我々』といった」と認めてたと理解されていたはず。



聖書の記載の引用元:口語旧約聖書1955年版 出エジプト記
http://bible.salterrae.net/kougo/html/exodus.html

出エジプト記(34:14)
あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。



創世記の「われわれ」という記載から、神様は複数いらっしゃるのではないのですか?

創世記には「神」と「主なる神」が2回天地創造を行ったように書いてある。
記載した人が別だったから順番とか内容が違うが同じ神である、というのが定説です。
やっぱり別の神様が行った複数回の天地創造ではないのでしょうか?

出エジプト記を考えると、いろんな神様がいるのではないでしょうか?
つまり複数の神がいらっしゃるのではないでしょうか?
その中でヤハウェは妬みの神様、ということなのではないでしょうか?

ユダヤ教もキリスト教も、どうして一神教なのですか?

質問者からの補足コメント

  • N05様
    御礼の書き忘れ

    アダムとイブが追放され、カインとアベルを設け、カインはアベルを殺して更にノドの地に追放されます。
    この時にカインは主なる神に
    ( 4:14)あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
    と言ってます。この「カインを見つけたら殺すであろう人」はどこから来たのですか?という疑問もありました。
    これは、神と主なる神が別で、神が創造した方の人間と解釈するとすんなりと理解できますが、
    神と主なる神が同一神格だとすると、解釈のしようがありません。
    アダムとイブに他の子ども(セツとか)ができたのは、カインの弟殺しの後ですので。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/05/26 19:52
  • 皆様へ補足1

    ノアの洪水の記載の直前に、ネフィリムの記載があります。(創世記6章)
    (6:1)人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 (6:2)神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
    ここに出て来る「神の子」とはどういう存在でしょうか?

    これは、「神」と「主なる神」が別であると仮定し、「主なる神」が作ったのがアダムとイブで、二人の子孫が「人」で、人に女の子が生まれた。それが娘たちである。
    一方「神」が造った人間の子孫が「神の子」である。
    こう解釈すると説明できます。

    創世記4:14で、カインを見つけたら殺すであろう人、というのも、ここで言う「神の子」とすると説明がつきます。

      補足日時:2024/05/26 21:07
  • 皆様へ補足2

    出エジプト記はほとんどモーセの物語である。
    トーラー(モーセ五書:創世記と出エジプト記を含む)はモーセが書いたと伝承されている。
    出エジプト記34章14節に、他の神を拝むなと書かれている。
    しかも、モーセに向かって「他の神を拝むな」と神は告げている。
    従って、モーセは「他の神」を認識していたはずです。神様直々に釘を刺されているので。

    グーテンベルクが印刷を発明し、聖書の出版を行いました。
    聖書が広く文章として出回ることになり、矛盾が噴出したのかも知れません。

      補足日時:2024/05/26 21:24
  • 〆ます。
    回答にあいまいさが無く、私の質問に明確にお答えいただいたNo.2様をベストアンサーにします。
    複数の論拠により複数の神がいるはずだが、混乱とか統一のために一神教にしてそのまま来た、
    という理解をいたします。

    それとNo1様へ。回答になっていない回答ですが、そういう回答は望んでいませんので。
    突き詰めた質問ですので、突き詰めた回答をお願いします。

    No.5~様へ。こちらは「貴殿の意見にはこういう疑問が残る」と申し上げているのですが、
    その疑問はこういう事だよ、という解説は、No.5の回答を除いてありませんでした。
    あと「人間痛いところを突かれたら激怒することがままある」と付け加えます。


    全回答者様、および後でこの質問を見る方へ。質問を立てた感想です。

    イエスは「汝は罪びとである」と仰いました。私はどういう意味で罪びとなのか分かった気がします。
    それでいいんですか?

      補足日時:2024/05/28 16:01

A 回答 (12件中1~10件)

>>創世記の「われわれ」という記載から、神様は複数いらっしゃるのではないのですか



創造神は唯一の存在。でも、創造神が創造した、人間から見たら「神」といわれる存在は多数いるってことです。

>>出エジプト記を考えると、いろんな神様がいるのではないでしょうか?
つまり複数の神がいらっしゃるのではないでしょうか?

はい。そのとおりです。

>>その中でヤハウェは妬みの神様、ということなのではないでしょうか?

そうです。ヤハウェはユダヤ民族のローカルな神様です。
エロヒムが、もっと上級クラスのグローバルな神様です。

>>ユダヤ教もキリスト教も、どうして一神教なのですか?

やっぱり、実際のところを反映して「神様は複数います!」というよりも、「神様は、我々が拝んでいる○○が唯一です!!」というほうが、力強いし、改宗とか折伏とかするときに便利です。
なお、イスラム教も、神様を複数形で表現しているところがあるので、一神教ではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

旧約聖書が成立したのは紀元前後ごろと聞きます。
イスラエル付近はローマの勢力範囲で、争いが絶えず、ユダヤ人は団結する必要があったとも聞きます。
それで団結するための手段として旧約聖書編纂が急がれたらしいです。

イエスは「こんないい加減な律法(旧約聖書)ではだめだ」ということで立ったのかも知れませんね。
で、旧約聖書を廃してそれに代わる契約(新約)を立てたのであるが、いかんせんローマの支配下でありイエスははりつけにされ、弾圧が続いた。
その後キリスト教はローマの国教になり勢力を増しますが、結局は政治の手段になってしまって、そのまま来ているのかも知れません。

お礼日時:2024/05/26 19:45

「満場一致のパラドックス」?


それは嫌味のつもりなのか?
お前は俺を笑わせたいのか?
荒らし野郎が何をほざいても負け犬の遠吠えだぞ(゚∀゚)
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世界はお前を中心に回っているわけではないぞ。


他人を自分の都合に合わせて動かそうとするな。
このサイトの中なら非常識が通じるとでも思っているのか?
まず回答者の書いたことをきちんと読んでからリアクションしろ。
子どもみたいに脊髄反射するのはやめて少しは頭を使って考えろ。
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この回答へのお礼

世界はユダヤ教キリスト教を中心に回ってるというのが、一つの正解かも知れませんが、それが間違ってるんでは?
という疑問が根底にありますことをご承知おきください。

そんなあなたに「満場一致のパラドックス」という言葉を送ります。

お礼日時:2024/05/27 19:14

そんなの「書いた人間」に訊かなきゃ永久にわかんないよ。

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この回答へのお礼

当時のユダヤ人がいた地域に、そういう概念があったかどうかは、聖書学などの進展により分かってくるかもしれません。
そういう概念があったと判ってきたとして、そこで初めて「一則多、多則一」という概念もあったので、単数形と複数形は厳密な区別はできないのでは、
と言えると思います。

現時点では、回答者様の概念を何の根拠もなく当時のユダヤ人にあてはめているという点で、疑問符が残るということです。

お礼日時:2024/05/27 19:17

神は「個」ではなく、我々や宇宙を含む全体の「存在」です。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

一則多、多則一、というのは恐らく東洋の考えだと思いますが、当時のユダヤ人にそういう概念があったのでしょうか?
東洋の思想をユダヤ人に押し付けても回答は得られないと思いますが、当時のユダヤ人にそういう思想があったという論拠をお願いします。

お礼日時:2024/05/26 23:20

一即多、多即一です。

聖書などは、ある人間が認識した口伝を、ある人間が記録しているものであり、それをまたいろんな人間があーでもない、こーでもない、と勝手に言っているだけです。
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最初に書いたこと以外にも主張したいことがあるなら別枠で投稿しなさい

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この回答へのお礼

ユダヤにはいくつか氏族があります。
旧約聖書によるとカナンの地はアブラハムとその子孫に約束された地ですが、カナン人はノアの孫カナンからの子孫のことらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A …

で、聖書では神はカナンの原住民を殺させている。そうすると、氏族同士で殺し合っていたという話になります。日本で言うと魏志倭人伝に書かれている倭国大乱みたいなものでしょうか?
であれば、もともとは氏族によって敬う神が別であってもおかしくないのでは?

で、P文書とJ文書は別の神格の可能性があるのでは?
それをごっちゃにしてしまっている可能性は無いんですか?

私はごっちゃにしてる可能性を疑うが、なぜ一神教なのですか?
答えは、混乱の産物である可能性が高いと思うし、いまだに一神教だと言い張っているのは、蓋然性バイアスとか、改めたくないという心理ではないのでしょうか?とも暗に問うています。

何故一神教にこだわっているのかを考えてみてください。

お礼日時:2024/05/26 23:16

私の回答にご意見いただきありがとうございます。


「三位一体の神だから『我々』と語るのは当然」というのは信仰的な理解であって、創世記の著者の意図は別だったかもしれないと私は考えています。それはともかく、三位一体の教理は教会の一致を保つための労作であってキリスト論(イエスは神か人か)の延長線上にあり、旧約聖書の解釈の流れに含ませるのはかなり乱暴な議論ではないかと思います。

「主語が別の天地創造の話が2回出て来る」というのは、そう解釈すれば編集過程が見えて来るというだけの話であって、そこから別の神の存在を仮定するのは無理筋です。そのことはたぶん質問者様も理解しておられるはずです。

聖書学者たちの合意によれば、イスラエルの神を「神」と呼んでいたグループと「主」と呼んでいたグループがそれぞれの神学に則って創世物語を書き、それを後の時代の編集者が繋ぎ合わせたのだそうです。その説が正しいにせよ間違っているにせよ、聖書が唯一神信仰を強調していることは確かです。もっとも、それは異民族・異教徒ばかりでなく、イスラエルの中にすら真の神ならぬ偽の神、すなわち偶像を拝む信仰が入り込んでいたことを否定するものではありません。そしてある神が本当の神かどうかというのは信仰の問題であって、神を信じない質問者さんには全く関係のない話ですから、その立場から言えば、イスラエルの宗教は唯一神信仰ではなく拝一神信仰だったと言えるのかもしれません。しかし、聖書の著者たちがそのように考えていなかったことは確かです。なぜなら、神とは礼拝の対象だからです。当たり前の話ですが、何かの神を「これは偶像だ」と思いながら拝む人などおりません。つまり、問題は神の概念ではなく礼拝なのです。それをあなたは勘違いしています。

大洪水の直前に神が人を造ったことを「悔いた」と書かれている点についても様々な説がありますが、原語はむしろ「憐れむ」と訳した方が適切であるという点を指摘しておくに留めます。この問題に関しては以下の本を読まれることをお勧めします。
イェルク・イェレミアス著/関根清三訳『なぜ神は悔いるのか』
日本キリスト教団出版局、2014年

浮気する人間は愛を語りながら本当は誰も愛していないように、
複数の神々を拝む人間はどの神も本当には信じていないのです。
不倫が決して正当化されないように不信仰も正当化できません。
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この回答へのお礼

トーラーは、実は複数の著者によって書かれたものが、紀元前後に纏められ、今の形になったようです。
その際、「神」として書かれている神様と「主なる神」として書かれている神様は、別の著者が同じ神を書いたのではなく、別の神様の創造を書いて、後に「同一の神様を書いた」と誤って伝承された可能性があります。
この複数の著者たちはあの世で「P文書の神様とJ文書の神様は、別の神様だったんだけどなぁ」と困惑しているかもしれませんね。
こう例えると、私の考えが通じるでしょうか?

つまり、一神教とされてきたことが最初から間違っていた可能性です。

> 聖書学者たちの合意によれば、イスラエルの神を「神」と呼んでいたグループと「主」と呼んでいたグループがそれぞれの神学に則って創世物語を書き、それを後の時代の編集者が繋ぎ合わせたのだそうです。

聖書学者は、今のところ最も信ぴょう性が高い説を言ってるかも知れませんが、絶対に正しいわけではありません。
どういう理由か判りませんが、一神教と伝承されていたので、それが聖書の記述においても正しいと仮定すると、神と書いている派閥と主と書いてる派閥があったと考えられる。こういう話だと思います。

私は、一神教と伝承されているがそれ自体おかしいのでは?という所を疑問視しています。
ローマに対抗するため団結する必要があり、無理やりに同一神を信仰してるから団結しよう、という流れにした可能性もあると思います。
そのひずみが未だに尾を引いているという認識です。
そういう可能性の補助の意見を頂いたのが、No2様とNo6様です。

> そう解釈すれば編集過程が見えて来るというだけの話であって、そこから別の神の存在を仮定するのは無理筋です。
無理筋ではないと思います。逆に一神教で通そうというのが無理筋に思えます。

お礼日時:2024/05/26 22:02

近年は、聖書を学問的に検証しようという聖書学が急速に進歩しています。



創世記は、いくつもの物語が脈絡なく重なっていますが、注目すべきは「ノアの箱舟」でしょう。

世界中に洪水伝説が溢れています。日本でも縄文海進がありましたね。
ノアの箱舟伝説は、多神教優勢の時代の話であった可能性は大きいでしょう。

つまり、創世記には一神教化される前の多神教の説話・神話も含まれている。そう考えれば、多神教時代の複数形を神が名乗っても何の不思議もない。
さらに一神教の神が「われわれ」と名乗ることの不自然さに対する解答も、後世の神学者たちが名答迷答の数々を披露しているが、彼らの偉い所は、聖書の矛盾をそのまま残し、それらは矛盾ではないと神学者らしく断定しまくったことでしょう。

だから昔のままに聖書が残された。これは素晴らしい事であると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

多神教だったが一神教化され、その際の矛盾が残ったままという理解ですね。

教会が間違っていたことはいくつも有ります。
地動説を迫害し、天動説を言い張ったこと。
男のあばら骨をとって肉でふさいで女を創ったので、男はあばら骨が1本少ないと言っていたこと(ダ・ヴィンチが解剖して「12本ある」といったと聞きます)
聖書学が進むにつれ当時の様子などが判ってくるのであれば、一神教という宗教としてもバージョンアップしないといけないと思います。

そもそも、神はみわざのあと見直して「よし」と仰っていますし、主なる神は人を創り、手直しをして、ノアの洪水の時には「人と生き物を造ったことを悔いる」とまで仰っています。
これは、PDCAサイクルを回していると理解しています。
イエスも「悔い改めよ」と、要はPDCAサイクルを回せと仰っています。
神(主なる神)が全知全能であるのも、PDCAサイクルを回すから何でもできるようになる、ということだと思います。

なお、同じ神を信仰しているイスラム教ですが、聖書は伝承の過程でおかしくなっているからあまり信用するな、という理解だそうです。
これは、ものすごく納得できます。

宗教もバージョンアップしないと、と言いましたが、宗教もPDCAサイクルを回せという表現も可能です。

お礼日時:2024/05/26 20:58

この類の質問は、聖書が書かれて以来の歴史の長~い中で恐らく何百万回も擦られてきたというのに、いまだに投稿されるのは何でなんでしょうね。



聖書をきちんと読めば、神が唯一であるというのは自明の理なのですから、
創世記の中で神が自分自身を「われわれ」と呼んでいるからと言って、
ユダヤ教とキリスト教が一神教であることを疑うのは考え方が逆さまではないでしょうか。
普通は「なぜ神はお一人なのにもかかわらず『われわれ』と語ったのですか?」と問うはずです。

それはともかく、創世記の人類創造と楽園追放という重大な場面で、神の自称が「われわれ」なのはなぜか、という疑問に対して、古来より様々な説が提出されてきました。

最もよく知られているのは、「(ヨブ記1章と2章に記された)天上の会議を反映しているから」という説明です。つまり、神と神の使い(天使)たちが話し合った結果、「人を造ろう」とか、「人を裁こう」といったことを決めたので、これらの場面では「われ」ではなく「われわれ」と言ったのだ、というわけです。

しかし、キリスト教の教会では、「神は三位一体だから」と教えています。
神はただお一人ですが、その中に父・子・聖霊の三位一体の交わりを持っているので、「われわれ」と語ってもおかしくないというわけです。とは言え、それは創世記の文脈からは分からない話ですし、聖書解釈というよりも神学の領域に入ってしまいます。信仰者としてはそう受け取るのが一番よい、ということですね。

私自身は、これはただ単にヘブライ語の文法的な問題であり、「重大な宣言をする際に1人称複数形を使う決まりになっているだけのことだ」という説を支持したいと思います。

いずれにせよ、聖書を書き記した古代の人は、神の語られた言葉の中に人間の知恵では解決できない不思議な点が沢山あることを重々承知の上で、神を信じ、祈りと賛歌をささげつつ、それらを綴っていたのです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

天使を含めての我々とか、三位一体という意味で我々とか。
それはそれで納得するものがあります。

が、ヨブ記はトーラーではなく、トーラー成立の後に書かれたと思われます。
従ってトーラーが書かれたころに天使の事が書かれている、と積極的に肯定はできないとは思いますが、否定もできませんね。
可能性はあると思います。

また、三位一体という意味で我々、というのも順序が逆な気がします。
旧約聖書に我々と書いてあるので、何とかしてそれを正当化するために
三位一体という概念を作ったという順番のように思います。

すると、ヘブライ語で重要な決定をするときには複数形を使うという
その説が最も納得がいきます。

ただ
> 聖書をきちんと読めば、神が唯一であるというのは自明の理なのですから、
ここはそうは思いません。「神」と「主なる神」の、主語が別の天地創造の話が2回出てきているからです。
これは、別の神様が天地創造を2回行ったことが書かれているのでは?
とも解釈できます。

他の「複数説の根拠」です。
1.神は一発で決め「よし」と仰って最後に再度見直して「はなはだよかった」とあるが、主なる神は手直しが必要であり、ノアの洪水の前には「ひとと生き物を造ったことを悔いる」とまで仰っています。
この差は歴然で、別の神格だと解釈しても不思議ではありません。

2.出エジプト記34章14節
(34:14)あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。
ここには、他に神がいることが明確に記載されています。その上で他の神を拝むなとあります。
ここにある他の神とは、創世記で最初に登場する「神」ではないのでしょうか?

そうすると、ヘブライ語では重要な宣言をする際には複数形を使うという話も、疑問符がついてしまいます。
やはり、複数の神がいらっしゃったのではないでしょうか? という疑問は消えませんし、なぜに一神教?という疑問も消えません。

お礼日時:2024/05/26 19:35

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