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人間は人間を過大評価しすぎてるとは思いませんか?

人間関係に悩んだり、嫌いになったり、することが多々あるのですが、よくよく考えると、人もただの動物だし、そんなに深く考えたり、感情的にならないほうが良いのかなと思い始めました。例えば、ゴリラはゴリラ界の中で、権力闘争があり、友情があり、恋があるでしょうけど、論理的ではなく、本能に基づいた、いってみれば低俗なものだと思います。なのに、人間同士だと、私の場合、つい、崇高なものだと勘違いしてしまってたんじゃないのか。だからこそ、些細な出来事で深く落ち込んだりしてしまう。ただ、生物が本能的なものを含めて、肉の塊がうごめいていると思えば、それほど感情的になったり、嫌になったりしないのではないかなと思います。皆さんはどう思いますか

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A 回答 (6件)

人間は他の動物とは違い本能だけではない理性があります。

相手の気持を考えたりその場の状況において感情を抑えなくてはならない事もあり、それを考える事が出来る事こそ、人間です。
ある程度でも深く考えないと人間関係の軋轢が生じる場合もありますよ。
本能を重視して感情だけに任せていたら、場合によっては社会から淘汰される事も十分考えられます。

過大評価もすれば過小評価もする、だってそれが人間だもの!
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人間が本能で生きたら大変な事になってしまいますよ(-_-;)

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その気付きで大筋あっています。

しかし人と動物は違うという論法もあります。では何が違うのかと言うと「脳が発達しすぎており、その弊害で余計な苦しみも生じる」と言う事です。

「動物は苦しまないで済むが人間だけが苦しんでしまう部分を
 軽視できない。何かしら対処が必要」

この様に発想した古代の方々が多く居たという事です。その人達の発明を活用して今の国々は生き残っています。その発明の内容は貴方に無理をさせる物でも無く、誰にでもできて抜群の効果があります。

幼い時は脳が発達しておりませんから、動物に近い状態です。この時には必要性が分からないため「何のことやら?」と思っているわけです。しかし成人を過ぎればそうもいかなくなります。これが故に「本格的に必要である」と認知し始めるわけです。

以下は長いので興味があればお読みください。

人が動物と変わらないと言われてきたときから肉体的には進化し、今の世界に近づいていく段階があったと思いましょう。その時には善も悪もなく、ただ生きるという人が多かったはずです。

そんな時に「自分が苦しんでいる?」と気が付いた人が出てくるわけです。

その時の感覚は、

「こっちの方が頭がすっきりした。何だかイイ感じだ」

程度の話であったと思います。

そして、

「仲間に勧めてみた。同じくイイ感じだと評判だった」

という具合に展開されたんでしょう。

こういうケース・スタディみたいな物が集まって「共通しているものは何か?」それらに名前を付けたい(概念)という衝動が湧くわけです。それらが盛んに行われた時代に多くの(近代的な)宗教が発明されたわけです。

知る人は知るですがキリスト没後に普及している宗教の殆どが「精神病の治療」「治療のため施設維持」の役割を持っています。こういう宗教は「病んでいる人を見つけるチェック方法」「隔離施設」「予防法と教育施設」を持っています。そういう物が無ければ国が滅んでおり現代まで存続できていなかったという事です。

日本の場合は「機能面」ばかり採用して「教義」は無視したようです。そのため複数の宗教が持つ施設(冠婚葬祭)だけを利用する国民性になっているんです。それでも国は存続できるという事です。

現代では教義の部分は重要視されず「国家が運用する医療施設」「国家が運用する警察組織」「国家が運用する教育施設」「国家が運用する・・・」と行政によって代替されており、宗教の印象が「語り部」程度の認知に下がっていると思います。つまり日本的なやり方(機能さえ代替できれば問題ない)が先進国の中で無神論者を生み出しているという分けです。

ここで問題になってしまうのは「機能特化」に偏ると「事後処理」の側面が強く成り「予防を重視しなくなる」ことです。大概において問題が発生した時の対応機関ばかりになります。

「精神の苦しみを取り払う本来の目的はどうやって充足して
 いくべきなのか?」

このため日本では儒教から派生した道徳を使っていました。冠婚葬祭は神道、仏教、キリスト教。精神防御は儒教の道徳。合わせ技ですね。

この様に「ふわっとした教え」ではなく「人間にとって必須の機能」であったと再認知が必要になります。これらを軽視すれば国家の総体は守られても「個人の苦しみ」は取り払えないのです。そういう大事な話であるため「信教の自由」が大きな権利として残されているんです。

では具体的にどうやって精神を守るのかと言う話になります。

人間が優れているのは「疑う」力がある事です。一つのやり方で満足せず「別のやり方があるのではないか?」「果たして本当に機会を活かせたのか?」という「良い意味での疑い」です。これが功を奏して発展に結び付きます。しかしその弊害として「変えられない物」についても疑いが生じてしまうんです。

例えば「今の自分の力や存在する場所では出来ない事」「過去に起きた事」「まだ生じて居ない未来の事」「社会や他人の誠実さ」。これらについて考え続けても「今すぐ自分に何とかできる物じゃない」わけですから「解放されず」に思考だけが続きます。あまりにも長いと消耗が激しく成り、精神が疲弊して行くという分けです。

質問者さんの気づきも「考えても仕方ない」という「今の自分には出来ない事である」という論法の一部と成ります。それが故に(体感で)かなり楽になったはずです。これの改良版が過去から研磨されてきたという分けです。当然ながらいま質問者さんが感じている喜びよりも強いです。また副作用のような物も除外されています。

副作用と言うのは「やっても無駄」という諦めの事です。これに慣れてしまうと「本来ある正しい疑い」も弱く成り「現実を変えていく力」が弱まってしまいます。人間本来の武器が使えなくなるわけです。

そこで一つの発明が生まれます。

「疑いすぎる事で精神が摩耗する。これを防止するために
 は『これでOK』として『とりあえず信じて置け』と強
 制する文化を根付かせるのはどうか?」

と言う事です。

しかし「信じて失敗する危ない論法」もありますよね。そのため「大筋で社会や個人に害がない」と言う物を国が選定する必要があります。最初にこれを吟味して置けば「何もしないよりマシ」になるはずです。軍隊であっても「上官の言う事は信じて置け」とすると行動に迷いが無くなり兵士は楽になります。兵士の精神を守るためには必要なわけです。そして上官を選ぶときに「この人なら信じたほうが良い」と言う人を選んでおけば「何もしないよりマシ」となるんです。

次に出てくるのは「どういう考えや人物を手本とする?」です。「論法」も「上官」も選び間違いをしてしまうと皆でアウトです。ここが勝負どころとなるわけです。

「失敗するとどうなるの?」

「過去に滅びた国。例えばローマ帝国。みたいな感じにな
 って歴史の中で消えていく」

このため優秀な国は「こういうのが理想ですよ?」という概念が定義されており国家の中に文化として根付いているわけです。これを成し得て居ない国は存続できておらず、歴史の中で消えているはずです。

人の心(精神)については以下の考え方で守るのが順当です。

「短いヒモは絡まらない。長いヒモは便利だが使わない時
 に綺麗に畳んでおかないと、絡まってしまうかもしれな
 い。人間の知能も同じである。何かに引っ掛けてピンと
 伸ばしている方が安全だ。この予防法を理想という。
 理想と自分を比較し是非を考えらる状態の方が何でも疑
 う状態より精神の摩耗を防げるのだ」

この発想。分かりますでしょうか。

ところがこういうも弊害を生みます。

「ピンと伸ばすだけの理想(存在しない物)でしかないの
 に、そうじゃないという人を見て攻撃する人も出て来る」

宗教などで起きてる問題ですよね。本来は迷わないための物。しかし「そうじゃない物」は「存在しては行けない物」として捉える間違いが起きるわけです。

「そういう間違いを防ぐために、人間はそこまでやらない
 でもOKという教え方が必要になる。そこで神という人
 間じゃない概念存在が必要になる」

という分けです。

これについては聖人でも代替できますよね。質問者さんの場合は「人間も所詮は動物じゃないか?」です。どれも「否定する苦しさから逃れられる」という効果を得る事が出来ます。

目的は「(迷いを消して楽になるために)理想として定義した到達点」でしかないのに(これが)「人を否定する論法」に使用されるのを防ぐ事です。

これが人じゃない物として「神の性質」と教えても良いのですけど、これも危ないですよね。科学優先の現代では厳しくなります。

「強力なヒーロー像を作るのは現実的ではない。その人が
 期待に応えられなかった時、全ての人が絶望する。それ
 は本来の目的を果たせていない。例えば神の存在を論議
 するようになり、その存在を否定する勢力が証明し続け
 れば、神に頼っていた人の迷いは深まるだろう」

そう言う焦り(精神の拠り所を攻撃される)から狂信的な行動を取る人も出てくるでしょう。これもやはり意味が無いのです。

日本はどうして来たのか?

「独りに任せるのではなくて、プチヒーローを沢山作って
 各自につきっきりで面倒を見るのはどうか? 迷いが生
 じた時に直ぐに回答してくれる。そういう存在が傍にい
 れば良いと思えないか?」

大技ですよね。つまり一人一人に手をかける。手間暇かける事を嫌がらない文化を作るという事です。これが親、師匠、先生、先輩と言う存在です。そういう「子供(後輩)の迷いを消す」というミッションを暗黙の裡に(文化の中で)与えるという方法です。

「でも見習いたくない先輩とかいたらどうなのよ?」

「全く効果が無い。なので親や先生、先輩や上司には自分
 を律して『後輩から魅力的に見える』必要が生じる。
 その義務を怠ると成立しないんだ」

毒親が子供のうつ病を蔓延させるのには理由があるという事です。

これらから「自分独りで考える」「同輩や同格の人とだけ相談する」「先輩・先達の義務を怠る」「後輩の面倒を見ない」という風潮が出てくると、その世代にうつ病が蔓延すると成ります。

こういう状況ですので「この人程度には成りたい」と言う人を見つけて「取りあえず疑わず信じる」やり方が効果的だという事です。それ以外の方法は悩み過ぎて(疑い過ぎて)頭が疲れて長く持たないわけです。

現実的には「先輩探し」「後輩の為に本気出す」以上の良い手は無いという話に集約されます。縦の関係と言うのは意外と深いんです。

以上、ご参考になれば。
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人間は動物とは違います。


人間には知性があります。
人間とは何かを知るには、たくさん本を読むことです。
人に期待しすぎるのも知性の欠如。
自分を知れば、悩むこともなくなります。
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【十界】



・地獄界・・・苦しみの境涯
・餓鬼界・・・欲深い境涯、どのような状況でも常に満たされない状態。
・畜生界・・・本能のおもむくままに生きる境涯。
⇒以上、三悪道
・修羅界・・・憎しみが強く、争いを好む境涯。
⇒以上、四悪種
・人 界・・・一般的な『人間』の境涯。
・天 界・・・喜びの境涯。
⇒以上、六道。六道輪廻の六道です。
・声聞界・・・悟りを求める、求道の境涯。
・縁覚界・・・自然現象などから、物事の真理を悟る境涯。
⇒声聞、縁覚二つの境涯を併せて『二乗』といいます。
・菩薩界・・・悟りの道を開いて、人々を救おうとする境涯。
・仏 界・・・究極の真理を悟った覚者の境涯。

この十種の境涯が、一つも欠けることなく人(衆生)の生命に具わっている事を『十界具足』と言います。
そして、何かの縁に触れる事によって、瞬間瞬間にその境涯が変化していくのです。
その生命の奥底にある十種の境涯が、意識や言葉、表情や態度や動作にそのまま表れてくるのです。
そしてそうした事が関係して、自身の生活環境や地域社会を形成しているのです。
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動物の中で


人間は本能+感情があり、
その感情が複雑で
感情の幅が広い生き物なんじゃないの。
人間の魂の情報量が違うから
同じ肉の塊でも
違いが出る気がする
同じ人間同士でも
優しさに違いがあるのは
魂の情報量が違うからだと思ってる
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