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現在私は中国人留学生に日本の歴史を教えています。
壇ノ浦の戦いの時などの絵巻をみせて説明していた時、中国人より「この時代の中国の船はこの写真よりもっとしっかりしたものである。なぜ日本は中国と貿易をしていたのにも関わらずこんなに簡素な船なのか」と質問をうけました。
調べたところ、日宋貿易は平清盛から鎌倉時代中期まで続いていたようでした。しかし当時の南宋の船がどういうものかみつけられなかったので、この問いにこたえることができませんでした。
もしご存じの方がいらっしゃいましたら、源平合戦時の中国の船と日本の船の違いと、もし日本の船の方が簡素でしたらその理由など教えて頂けたらありがたいです。

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A 回答 (5件)

ちょっと考えて出た結論、日本人の航海技術が高かったからw


いやウソかもしれませんが、そう言っとけばよいのでは?w

中国の船はインドやら中東あたりやらまで行く前提のものでしょうが、日本は瀬戸内はもとより、日本海側や太平洋側でも海岸線沿いですから、事足りる程度の船で十分だったのかも?
他の回答にあるように平清盛の父の代から宋との貿易でボロ儲けで成り上がっていますから、宋に行く程度には十分な船だったということです。

ちなみに西洋は航海技術が低いと考えられていますが、船だけを見ると西洋のほうが進んでいるように見えるのですよねw 地中海だけなのに。
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壇ノ浦は、波の穏やかな瀬戸内海ですから、小型の船で充分。


平家が逃亡先で確保した船であり、船を操る船頭も地元の漁師。日ごろは漁に使ってる舟で、絵巻に描かれてるのより、もっと簡素だったでしょう。
源平双方、瀬戸内海の海賊グループの船も入手してたかもしれませんが、これも機動性重視のため、どちらかというと小型船。

宋の船、北方謙三氏の水滸伝シリーズに描写がありますが、帆船ながら、現在の貨物船並みのサイズ。日本と中国本土を行き来する以上、かなり丈夫な船でしょう。
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この回答へのお礼

地元の船で、操るのも地元の漁師だったのですか。とても面白いです。機動性の面を考えると小型船なのですね。
宋の船の描写についても教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2024/06/27 04:29

・宋の時代の中国の沿岸部をみれば、簡素な船が数え切れないほどあったんじゃ無いですか


・中国の方が言われる、「しっかりとした船」というのは、当時の中国にあった船の中で遠洋航海に使える大型の帆船ですね。

 壇ノ浦の戦いというのは、逃げる平氏一族を源氏の兵士が追う中で起きた戦いで、瀬戸内海の波の静かな海を渡るために利用されている船です。
 平家の貴族や兵士は港にあった船に手当たり次第乗船して出港し、源氏もまた同じ。だから、外洋を渡るような大型船では無いということ。

 元寇などで襲来したモンゴル軍の大型船を、日本軍の多数の小船が迎え撃つ絵巻もありますね。
 あれは、当時の日本の中心の鎌倉武士が陸軍兵力で、海上での船同士の戦闘を想定した水軍では無かった。本来は陸で戦う武士が、沖合のモンゴル軍の船に攻撃をかけるため小型船をかき集めて武士を乗せたと言うことだと思います。

 また、船の構造で見ると「和船」で検索すると日本の船の特徴が分かります。海外の船のように船首から船尾まで貫く竜骨が無い構造で大型化が難しかった。帆の取り付けの関係で風向きと逆方向に帆走できなかったなどの血痰があるみたいですね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%88%B9
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この回答へのお礼

次は元寇について授業を行う予定だったので、元寇の船にも言及して頂きありがとうございます。また、船の構造についても教えて頂いたおかげで、当時の戦には風の影響が強かったこともわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2024/06/27 04:38

遣唐使を乗せた船は、竜骨をもたないジャンク船に似た平底箱型構造


でした、瀬戸内と日本海側の航路のみで外洋に出る必要が無いので、
平底箱型構造で充分だったのです。

新羅とは国交が思わしくなり、遣唐使の船は半島の沿岸を通る航路は
使用出来なくなり、東シナ海からの航路になり、海難が頻発したので
遣唐使は中止に成りました。

宋との交易は、宋から来る船を待てば良いので、平清盛は、福原(神戸)
に港を作ったので、遣唐使船以上の大型船は必要が無いので建造技術の
向上は無かったのです。
黒潮渦巻く複雑な海流の海に航路が出来たのは江戸時代に、なってから
です。
紀州(和歌山県)から江戸にミカンを運んで財を成した、紀伊国屋
文左衛門はつとに有名です。

現在の日本は太平洋側が中心ですが、日本の歴史に置いては日本海側の
北前船の航路が経済の中心でした。

素人学者の浅学でした。
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この回答へのお礼

日宋貿易時は宋からくる船を待てばよかったのですね。江戸時代になってから航路ができたということやミカンの運送についても興味深いです。教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2024/06/27 04:41

「蒙古合戦絵詞」で出てくる蒙古軍と日本の軍船が参考になるでしょう。


あまり変わっていないはずです。
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この回答へのお礼

教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2024/06/27 04:42

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