チョコミントアイス

~から と ~に は逆の意味だと思いますが、

私は先生 に ほめられた
私は先生 から ほめられた

この本は先生 に もらった
この本は先生 から もらった

が同じ意味になるのはなぜですか。

質問者からの補足コメント

  • No.3 の方の紹介ページによると、「から」「に」それぞれの最初に出る説明が「起点」「着点」なので、これらは元々逆の意味であることは間違いないようです。

    さらに「に」の説明として、
    【受身的動作の相手】
    ・不審者に話しかけられた
    とあります。
    話しかけてきた相手は起点ともみなせるので、
    ・不審者から話しかけられた
    も正しいでしょう。
    どちらも正しい日本語であることは分かりましたが、なぜこういうことになるのかは相変わらず分かりません。

    さらに「に」の説明に、
    【授与の相手】
    ・母に誕生日プレゼントをあげた
    とありますが、プレゼント先は元々着点なので「母に誕生日プレゼントをあげた」が正しいのはいうまでもありません。もしこの説明が【授与の相手】でなく【授受の相手】なら、
    ・母に誕生日プレゼントをもらった
    も正しいことになりますが、そのような説明は有りませんでした。

      補足日時:2024/08/04 08:30

A 回答 (10件)

>>~から と ~に は逆の意味だと思いますが、



いいえ。
助詞「から」と「に」は意義が異なりますが、単に逆の意味ではありません。

先ず、語の意義と文での意味を正しく区分しないために混乱しています。

「から」はは起点の認識を表し、「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表します。

助詞は点などという客体自体を表すのではありません。客体に対する話者の主観を直接に表す語で、客体と客体の関係意識などの主観を直接に表します。

・不審者に話しかけられた
の「に」は「不審者」を空間的に位置付け、話しかけられた対象を位置付けています。

・不審者から話しかけられた

この場合は、「不審者」を起点として捉える認識を「から」で表しています。起点自体を「から」が表しているのではなく、客体自体を表しているのは「不審者」です。それを「起点」として意識・認識していることを「から」で表しています。同じ対象も、話者による捉え方が異なれば表現が異なるということです。

・母に誕生日プレゼントをあげた
の「に」は「母」を空間的に位置付けており、その位置付けられた対象に対し「あげる」という動作が表現されています。

・母に誕生日プレゼントをもらった
の場合は、「に」で位置付けられた対象との動作が「もらう」という授受であることを表しています。

言語は話者の認識の表現で、同じ客体のあり方も捉え方が異なれば表現が異なります。

「授受」「授与」は動作自体のあり方で、それがどのような対象の間の行為になるのかは個別の文の意味になります。それが、規範としての個々の語の意義を媒介として表現されるということです。■
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>プレゼント先は元々着点なので「


ここまで知ったうえでは「に」の働き云々の必要はないだけ。
着点、具体的には何なの、「母」でしょう、その理解がすでにできているから着点といえるんですよ。
「に」に具体的な意味がある。この考えがそもそも間違い
電気信号は光速で伝わります、脳その他の神経の情報は神経伝達物質という物質のやり取りが必要なため光速に比べ伝わる速度は数桁以上遅くなります。
だから受けとる側も経験で得た内容である程度予測します。
その予測の範囲内容その他をサインとして送るのが助詞の働き
「母に」母に意識を集中していれば。
誕生日プレゼント。あげる?渡す?を想像していれば、「あげるでした」これで会話当がスムーズになります・
「先生から」経験から、先生が始点で何等かの方向(→)がある、で待てば「誉められた」誉め言葉の方向が私でした。
会話は常に双方の共同作業なんです。
一方から理屈で押し付けるのは会話になりません。
事実関係だけ伝える場合は。押し付けになりません、あくまでも描写なので自身の考えが入るはずありませんね。
神経の情報伝達は光に比べて非常に遅いが。
ちょっとしたサインで自身の脳内で前もって何かを想像しておけば、相手の言葉が感覚器官から脳に伝わって認識する時間がより短時間で可能になります。
そうすれば情報が脳につたわった瞬間に選択可能になりますね、認識(理解)に時間がかかりません。ら
参考
工業ロボット
最初のころはガラスコップを握りつぶしたらしい(力の手加減でいないので)
最近は手の指・平にセンサーつけて、材質、重量等をフィードバックっして力を加減します。
人間が同じことをやれば、神経の伝達速度が遅すぎて真に合わないそうです。
そこで視覚情報と経験で得た情報であらかじめ手加減した力を神経に伝えます。
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助詞の類は文法でも、敬語に次いでの最難関、だから習うのも最後に位置付けられています(※敬語は例外が多いので、つきつめるほでより難解に?)


日本語が堪能に話せるようになってからでないと、まともな理解ができないからです。
片言の外国人、日本語が堪能でないので「助詞」が省略されていますね。
まず「助詞」には具体的な意味はありません、だから品詞名も、助ける詞(ことば)なんです。
では?、受け取る相手に何らかの暗示(示唆を与え)相手に経験で得た内容から、なんらかのイメージを持たせます(具体的な意味ではありません)。
とりあえず、個人的に思っているのは。
「に」は収束のイメージ、あらゆる方向から一点に集まる、結果は点になり、それ以上の変化はありません。
「母に」なら、母に意識を集中、その状態を維持する。
「に」と対照的なのが「を」これは拡散のイメージ。
拡散する代表的なものは「匂い」、「くさい匂いは元からたたなきゃ」といわれるように、「拡散」には「元」=起点が必須になります。
では「から」は?、私に言わせれば、「矢印」数学?のベクトルの矢印。
一つの方向があります、当然開始点もあります、起点というより始点、と方向があるというイメージになります。
拡散も、起点から、あらゆる方向への矢印で表現も可能かも?。
でも拡散は行き着くところがない場合も、無限の数の矢印なんてイメージできませんね、イメージしても無駄。
会議は8時から開始・・・・
面々と流れて止まることがない時間で、起点、と言われれば、続く表現はそれ以降の時間での内容をイメージします。
でも、「8時からさかのぼること1時間前にはすでに・・・・・」。
あらら、逆なの?、予想したイメージでは理解できません。
矢印のイメージ(始点だけ)で待てば、ああ、こちら向き(逆方向)なのね、だけで予想したイメージの範囲内で理解可能。
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補足のコメントから


文章を理解した結果での表現にすぎません。
「に」のみでは、時間、空間の位置、でもこれだけでは「に」は不要・
不審者に、母に・・・いずれも「に」がなくても、「不審者」「母」は認識可能ですね。
「に」がつけば、いわばそれに注目しろ、という暗示(示唆)なんです。
単なる認識ではチラ見で認識して、すぐ忘れるもあり得ます。
そうではなく、認識した内容を持ち続けろ、続く内容で何らかの変化その他が表現されます。一瞬の認識ですぐ忘れるようでは、続く内容が来ても、えっ、何が・・・となりますね。
例 「東京駅に到着」全体を理解した上で「到着」の言葉を主役にすり替えれば着点という理解につながるだけです。
「東京駅に」これのみで「に」について考えるとき
東京駅に行く道順、東京駅には行きたくない、東京絵に東京バナナがある
東京駅にある(ない)ものは・・・・・・
大抵の内容が続けることが可能です。
動詞の活用の未然形の品詞名と同じ?
書く、未然形、書か・(ない)。
「書か」だけでは、未だ然らず、で未然形
そら、そうですね、書かない、書かせる、書かそう、書かす
「書か」のみでは然るべしに然りませんね。
同じなんです「に」があることで、受け取るものに経験から、意識の中で何等かの準備をさせます、言葉の比喩で言えば、その認識から目を離すな、という暗示?を与える働き(機能)を持ちます。
「から」は文字通りの起点、でもいずれかに終点があります、それに至るまでは、その内容が継続し続ける、もの、または単なる意識の上での何かが移動する概念の示唆もあり得ます、それの理解を容易にさせる働き(機能)
を持ちます。
単純に、どんな意味?で解決するものではありません。
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>同じ意味になるのはなぜですか。


これの意味がよく理解できませんでしたが。
「ほめられた」の場合は違いが理解できるんですね、少し表現を変えてみましょう
「誉め言葉」をもらった、具体的には「素晴らしい」「すごい」その他の言葉があるはずですね。
そうすると、どちらも、「もらった」で表現の形は同じになります。
でも、違うんですね。
何をもらったか、通常「もの」をもらった、いくらで買えるもの?、即貨幣価値に換算可能、の場合が多いですね。
「誉め言葉」即貨幣価値に換算は不可能ですね。
この違いなんです。
「もの」であればだれからもらっても貨幣価値は変わりません。
誉め言葉、幼児から「お兄ちゃんすごいね」と言われても、それほど喜べませんね。
親から・・・・多分に身ひいき(お世辞)を含みます。
先生、師匠への恩返しはその師匠を超えること。
英国有名大学入試、合否の分かれ目は「教え甲斐の有無」らしい。
先生からの、褒め言葉、多分に、それらの可能性を感じて・・・なんです。
とすれば、もらう相手が重要になりますね。
それが明確になるのが、「から」単に起点だけではなく、移動の途中、いきさつも含めての表現になります。
例 AからZ、起点A、終点Zの間のすべて、先生から(私に)。
これが「に」と「から」の持つ働き(機能)の相違。
「に」が持つ機能は描写に関してのみ。
「から」が持つ機能は受け取るものに、先生から相手に何か移動(瞬間的ではなく)する状況を相手に連想させます。
それによって本当に伝えたい内容が伝わります、いわゆる言う方と受け取る方の共同作業が必要なんです、そのためには文学作品等では相手の気持ち?を引き込む必要があります、それができている作品が「素晴らしい」の評価を得ることができます。
そんなことができない描写のみでは、文章が上手だわ程度、内容は一方的な押し付けのみ、ということになります。
言われたことしか、しない、できない、人にとっては非常に好都合なだけ。
同じ「もらう」でも「もの」と「誉め言葉」では助詞「に」と「から」の使い分けで、大きな相違が出る場合と、そうでもない場合がある。
これに気付いたのは「素晴らしい」が該当します。
ただ「なぜ」そうなるかの理解が至っていないだけ。
この疑問を持ち続け、対象が異なる表現にだ会うたびに思い出せば、対象が異なっても、共通する何かがあることに気づきます、それを自分の言葉で表現可能になれば、さらに「素晴らしい」に到達できます。
専門家ではないので「教える」なんて飛んでもないが「アドバイス」のし甲斐は十分あります。
最後に
男女の仲は、互いの目を見つめあう、のではなく、互いに同じところを見つめることが重要。
言い換えれば、共同作業することが重要
絵画その他の芸術作品のすべてがそうなんです。見るものが感動して引き込まれる。
これが「素晴らしい」の評価「上手だわ」模写等で所詮サル真似の域を出ません。
もちろん模写を続けながら、常に疑問を持ち、いかに作品に自身の何かを表現できるか・・・も一つの方法ではあります。
何を下らないこと、云々で切りすてるようでは、完成品だけを欲しがるだけ、ということはいつまでたっても二番煎じで満足するだけになります。
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「逆の意味ではない」という趣旨のコメントがついて戸惑いました。


 フツーに考えれば「ほぼ逆のイメージ」でよいのでは。
  東京から大阪に行く 
  先生から母に電話があった

 ↑の例ならば、「から」は起点を表わし、「に」は着点を表わしています。
 ところが、
   先生{から/に}電話をもらった
 の場合は{から/に}が起点を表わしています。
 当方はニの特殊用法と考えていますが、別に特殊ではなく当たり前の用法と考えることもできるそうです。

 詳しくは下記をご参照ください。
【「~から」 と 「~に」 goo】
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988116307&owne …

 過去に、下記の質問をしました。
「先生ニお電話をいただきました」 二の特殊用法?〈1〉〈2〉〈3〉
http://ameblo.jp/kuroracco/entry-12166419612.html
 このときはユニークな主張をする人がいて、多少もたつきました。辞書の不備、ともいえそうです。
 下記がわかりやすいでしょう。
【「先生ニお電話をいただきました」 二の特殊用法?〈4〉】辞書
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12546188890.html

「もらう」「いただく」などの授受動詞のほか、「習う」「教わる」などを準授受動詞と考えることができるそうです。
「ほめられた」も準授受動詞でしょうね。
 こういう動詞の場合は「~に」が使えるようです。

 下記のNo.1&No.2の説明もいいですね。
【格助詞の「に」について、辞書を調べたら「動作、態度の向かう先」と書いてあり……】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11364720.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
【授与の相手】でなく【授受の相手】に「に」が使える
ということなら、
この本は先生 に もらった
と言うことのできる説明が付きますね。

お礼日時:2024/08/05 16:16

個人的な見解ですが。


「から」「に」
助詞の類に具体的な「意味」があると思うな。
だから品詞名からして、(他)を助ける詞(ことば」、助詞。
敢えて、言葉で表現すれば、読むもの(受け取るもの)に対して、何等かの暗示を与える。
その結果、個々のケースごとに、「に」の場合は位置を表す・・・その他。「から」の場合は、起点を表す、とか説明されます。
あくまでも表現内容を受けっ取って理解した結果にすぎません。
「に」は時間的、空間的な位置の認識付け、と説明されるようですが、実は、どういう認識付け?、が最大の問題なんです。

※以下は全く個人的な見解です
アルツハイマーのたわごとと受け取るも自由
説明の中でさらに自分で「何故?」を感じるのも自由
その何故を質問しても適格な回答得られる保証はありません、疑問を持ち続けるのも勉強なんです。
そのうえで
個人的には「に」は収束という示唆(暗示?)収束の結果は点になり以後その位置(状態)は代わりません。
時間に関しての位置は、例8時(時刻)、これだけで8時という位置の認識は可能です、「に」なんか無くてもOK、でも「8時に」とすれば収束の結果の一点、なのでそれ以外の認識は不可、が明確になります。
具体的には、「先生に」意識を集めろ(視線であれば注目)、以後続く内容で、そこに何らかの変化が現れます。
「から」は内容理解した結果からでは、起点を表すとも説明されます。
その起点を発して具体的(抽象的)な何かが移動する感覚を示唆します、到達点がある場合が多いが、不特定の場合もあり得ます。
「先生から」先生を起点として、何かが、どこかえ移動するんだ、という感覚を相手(受け取り手)に示唆する「働き(機能)」を持ちます。
「に」と「から」の相違は、この「移動」またはその方向がどこまで明確になるかだけの相違。
理解できる事実関係の結果は同じになります。
文学作品等で評価の分かれ目になる可能性がある部分なんです。
いわゆる事実関係のみの描写に終わっているか、描写の妙が素晴らしいという評価を得られるか。
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>~から と ~に は逆の意味だと思いますが、


そうとは限りません。そうだからこそご提示のような用例があるわけです。
また、同じ意味合いの用法もあるので、「同じ意味になる」場合もあります。
格助詞「に」
https://japanese-language-education.com/nikaku/
格助詞「から」
https://japanese-language-education.com/karakaku/
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「~から」 と 「~に」は逆ではないです。



1.東京に行く
2.東京に来る

3.東京から来る
4.東京から行く

1.と2.は逆の意味になりますが、どっちも「に」です。
3.と4.も逆の意味ですが、どっちも「から」です。

だから「に」と「から」だから逆の意味になるというのは間違いです。
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≻~から と ~に は逆の意味だと思いますが、


ここが根本的な間違い。
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