街中で見かけて「グッときた人」の思い出

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三国志で諸葛孔明から呉の将来を託された
姜維という武将についてなのですが、
呉の皇帝劉禅が魏の侵略を受けてあっさり
降伏した時、漢中の前線で奮闘していた
姜維は剣を折って悔し泣きしたそうですが、
呉滅亡後、姜維はどうなったのでしょうか?
教えてください。

A 回答 (7件)

鍾会の乱に加担して一族ともに切られました(泣)



やはり孔明一代ベンチャー国家はきつかったようですね。
やはり法正、伊籍、馬良等と(蜀科などの法整備をおこなった)国家開拓の士が早世したのが痛かったかもしれません。
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この回答へのお礼

蜀は国家開拓の士が早世したのが痛かったですね、これは呉も同じ事が言えますね。
魏の方は優秀な人材が豊富だったので、誰かが死んでも国家運営の穴埋めが十分できたという所が三国志の風雲を決めたと言えそうですね。

お礼日時:2005/06/28 10:28

前回の補足ですが


姜維と劉禅には信頼関係がなく、宦官の讒言を信じていたので
姜維は粛清を恐れて成都に寄り付かないほどだったので
姜維には劉禅を復位させる気はなかったと思います。
劉禅の息子の劉諶は有能で義侠心があったので
降伏のときに憤死していなければ、彼などを新たに
かついで蜀帝に即位させたかったところでしょう。

皇太子の劉センは鍾会の乱のときに一緒に殺されているので
可能なら蜀帝にする予定だったのかもしれません。
ただし鍾会は魏の郭太后の密詔をでっちあげて
魏の将軍たちを味方にしようとしていたので
論理的は矛盾しますから、どのみち現実性の薄い
計画だったようです。

さて
劉禅のその後については三國志正史を記した陳寿が
面白いエピソードを書き残しています。

劉禅は降伏後、洛陽に送られ、安楽県公に封ぜられ
領地は1万戸、絹1万匹、100人が与えられ
何不自由なく暮らしていました。

劉禅は魏の晋王である司馬昭と宴席で同席する機会が
あって「蜀が恋しいか」と問われますが、劉禅は「毎
日楽しく暮らしているので、蜀が恋しいとは思わない」
と答えました。この言葉には一同驚愕し、
あるものは涙しました。
蜀以来の家臣である郤正は余りに情けないと思い
「次、同じことを聞かれたなら、蜀が恋しいとお答え
下さい」と諌めます。それでまた司馬昭から同じこ
とを聞かれた劉禅は「恋しい」と返答しますが、
郤正の入れ知恵だろう見抜かれ「おっしゃる通りです」
と答えてしまいます。これに家臣たちはさらに落胆しますが
司馬昭はむしろ安心し、彼の身に危害を加えることをしませんでした。

劉禅はその7年後に洛陽で亡くなります。
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この回答へのお礼

姜維と劉禅は仲が悪かったのですね。姜維は嫌いな劉禅をほったらかしにして、彼の息子の誰かを探して皇帝にさせようとしていたんですね。

面白いエピソードにあるように劉禅は愚か者と後世の人々に烙印を押されましたが、違う評価をする人も出ていますね。話は変わりますが加賀藩100万石の大大名だった前田利常は優秀な人物でしたが、江戸幕府の前ではバカな人物を演出していたようです、大大名で監視が厳しい事や領土や家臣を守るためにあえてそのフリで警戒心を緩める手にでたようです。
劉禅が隠棲生活を送った時代は宰相の司馬一族が勢力を拡大する一方皇帝の曹一族は衰えてきていたので、
その政治抗争の狭間で自分が巻き込まれる事を恐れたのでは無いかと思います。司馬昭の前で愚か者のふりをしたのも処世術の一つだったのかもしれませんね。

お礼日時:2005/06/28 10:43

こんばんわ。



>その時劉禅は
>どこで隠棲生活を送っていたのでしょうか?

劉禅は蜀から魏に送られ、貴族として晋代まで生き延びています。ですから洛陽でしょうね。
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この回答へのお礼

情報ありがとうございます。

そうなんですか、皇帝の曹氏や宰相の司馬氏の監視の元で隠棲生活だったのですね。

お礼日時:2005/06/28 10:24

#2さんへ補足です。

(でも自信はないんですが)彼は剣閣あたりに埋葬されたということをちらっと聞いたのですが、それも文化大革命の折りに掘り返されてしまったらしく、今では骨も残っていないとか。
天水の方に遺品(焼けた靴)を祀った小さな廟があるらしいことも何かの本で読んだ記憶があります。彼は元々魏の人間で、蜀に投降するとき家族を魏に置いてきていて、そのときの家族の子孫が今なお続いているということもその本に載っていました。図書館で何気なく手にとって見た本なので、タイトルは失念してしまいましたが・・・。

私は10年前から姜維の大ファンだったので、彼に対する考察は色々な本で見てきました。始めは蜀をけなげに守り抜いた武将として人気も高く評価もされていたのですが、研究が進むと、#3さんのような批判派も増えてきて、功績よりも罪の方が多いと言われることが多くなりました。

確かに意地だけで戦争しようとしたことは評価されることではないですが、彼にかけられた期待の大きさが、彼をそうさせてしまったのではないかと私は思うのです。敵地から投降してきた一武将に、国を預けるなど普通は考えられないことです。麒麟児と謳われた彼にはそのことがよくわかっていたのではないですか?だからこそ何が何でもという気持ちになった。

曹操がそういう懐の広い人材登用術を展開させていって魏を作り上げていったわけですが、曹操のときとは違って、優秀な人材が少なくなってしまった蜀では、彼の存在はかなり浮いていたと思います。もっと優秀な人材があったなら、蜀はもうちょっと長生きできたかもしれませんね。

孔明亡き後、蒋エン→費偉と国政を担ってきていましたが、いずれも孔明に匹敵するほどの能力はありませんでした。しかも、中原回復に燃える姜維との仲も悪く、おまけに君主は無能で宦官にいいように扱われている。これじゃ、衰退して滅亡するのも無理はないかな・・・と。

姜維も、一武将としてなら有能だったと思います。241年(だったと思う)鉄籠山の戦いでは、郭淮をアクロバットな技で討ち取ったわけだし。ただ、国を動かすだけの手腕は、残念なことになかった、ということですね。

評価されることではないのかもしれないけれど、国が滅びて進退窮まった時にあれだけの離れ業を思いつく思考があったことはすごいな~と思うのですが(もちろん武将としてね)。

長くなったうえに参考にならなかったとは思いますが、いちファンの戯れ言聞いていただきありがとうございました。
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この回答へのお礼

そうですね。孔明死後は蜀に政治や軍事でも優秀な人材が居ないというか数が少なかったですね。これが魏と蜀の差、というより建国者の曹操と劉備の差なんだろうと思います。曹操は敵将でも能力のある人物はどんどん吸収させていましたから武将や軍師の数は多かったのに対して、劉備は自分の人望で人が集まるという自然体が災いしてしまったのかもと思っています。劉備側は軍師や名将が後継者を育成するまえに次々死んでいくという不運もあったと思います。
姜維は優秀な武将だったけど、バランス感覚がなかった(時勢を読みきれなかった)という感じですね。

お礼日時:2005/06/28 10:22

まず、姜維は蜀の人物です。


かれは蜀滅亡後その復活を願い策を用います。
大国である魏の鍾会が野心を持つのを見抜き利用するのです。
彼を味方につければ蜀を奪取し再興できると考えたようです。
しかし露見し、魏の兵士に鍾会とともに殺害されます。

以下は私の考察です。
三国志演義では劉備、関羽などが懸命につくった蜀を、簡単に明け渡した後主(正史では蜀は正当な帝国ではないので主はこうよばれます。劉備の次ってことで)劉禅と対比して国を必死に守ろうとした義臣として描かれています。
しかし、私はこうも考えます。
たしかに、最後まで信念を貫こうとした姜維はすばらしいとおもいます。
しかし、当時蜀の情勢を考えるとどうでしょう?
政治はまるで後漢の再現であるかのように宦官(男根を切り取った、後宮に使える人)にほしいままにされ敵国である魏の国力は蜀のゆうに5倍はあったといわれます。兵法に照らせばけして戦ってはいけない差です。しかし姜維は幾度となく魏への遠征を繰り返して、国力の衰退を招きます。
天才と呼ばれ、若くして才能を見出された姜維には民の貧困が見えていなかったのかもしれません。
滅亡後も反乱を起こすあたり、むしろ意地のようにも感じます。
魏に近くまで攻め込まれ、格好悪くとも穏便に降伏した劉禅のほうにむしろいさぎよい好感がもてます(ちなみに彼は演義では暗君扱いですが、正史ではまったくそのようには描かれていません)。
無念であっても民のために降伏するそのような選択肢も彼にはあってよかったのではないかと思います。

参考URL:http://www.baobab.or.jp/~matumoto/sangokushi/syo …

この回答への補足

>宦官にほしいままにされ
黄皓という人ですね。蜀が滅んだ後、蜀を傾けた
罪を問われて処刑されましたね。

>滅亡後も反乱を起こすあたり、むしろ意地のようにも感じます。
蜀へ侵攻して蜀を滅ぼした艾・鍾会の仲の悪さを
利用して鍾会をそそのかして、艾を殺したのは
褒められた行為ではありませんね。
蜀に忠誠を誓うあまり、どんな手を使ってでもの
蜀の復活へ暴走してしまったというダークな
面には良い感情がもてませんね。

姜維の反乱が失敗した後、蜀の地方はどうなっていった
のでしょうか?

補足日時:2005/06/24 19:32
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この回答へのお礼

文中の「呉」はイージーミスでした、「蜀」が正しいですね。

お礼日時:2005/06/24 19:31

”蜀”の皇帝劉禅は、魏の将軍鄧艾の侵略で


降伏したのです。
そのとき姜維は剣閣で魏の将軍鍾会が率いる主力と
立ち向かっていましたが止むを得ず投降し
その野心家の鍾会をそそのかして鄧艾を殺させ
成都で魏に反旗を翻させますが、
魏の他の将軍は同調せず、胡烈らの軍が暴動を起こして
このとき鍾会も姜維も捕らわれて殺されます。
これは264年のことなので魏の最後の前年で
翌年、司馬昭が事実上の皇帝となり、
さらに司馬炎が正式な禅譲をうけて晋の初代皇帝となります。
呉の滅亡はさらに280年のことです。

だから回答としては呉の滅亡のずっと前に姜維は
死んでいるので、やっぱり骨になっていたでしょうね。
どこの埋葬されているかまでは知りませんが。

この回答への補足

蜀の復活を諦めきれない姜維は、蜀に侵攻した
将軍をそそのかしてその兵力を頂こうと
考えていたわけですね。元皇帝の劉禅を呼び戻
そうとも考えていたようですが、その時劉禅は
どこで隠棲生活を送っていたのでしょうか?

補足日時:2005/06/24 19:27
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この回答へのお礼

文中の「呉」はイージーミスでした、「蜀」が正しいですね。

お礼日時:2005/06/24 19:26

質問文中の、「呉」は「蜀」の誤りかと。



こちらが参考になるかと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E7%B6%AD

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E7%B6%AD
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この回答へのお礼

文中の「呉」はイージーミスでした、「蜀」が正しいですね。

ちょっと寝ぼけていた(投稿時間を見れば分かります)事と、劉禅の名前を調べていたらうっかり間違えてしまったようでした。ご指摘すみませんでした。

お礼日時:2005/06/24 19:23

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