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よろしくお願いします。
山崎の戦いの後の明智家についてですが、この戦いで敗れた後、光秀の家族や家臣達がどんな運命を辿ったのか知りたいのです。そういったものを取り上げた書籍・HP等があれば紹介して下さい。
目下私が知りたいのは、山崎の戦いの時に坂本城の留守を守っていたのが誰なのかですが、ご存知の方いらっしゃいますか?

A 回答 (4件)

本能寺の変のとき、坂本城にいたのは明智光秀のいとこの秀満(光春)でしたが、光秀が山崎で苦戦していることを聞くと約千人の兵を率いて坂本城を出ましたが、大津で秀吉方の堀秀政の軍勢と交戦しましたが敗退して坂本城に戻りました。


そののち光秀が討ち取られたことを知った秀満は、坂本城に火を放って、光秀の妻子を殺して自身も切腹して果てました。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

確か、秀満は光秀とともに本能寺を攻めていたと思います。あと、山崎の戦いの時は安土城にいた筈です。何でも、光秀に安土城に残るよう言われた時に「俺に金庫番をさせるのか!」と愚痴ったとか…

補足日時:2005/08/03 19:41
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この回答へのお礼

>秀満は、坂本城に火を放って、光秀の妻子を殺して…
この妻というのは煕子でしょうか、それとも側室あるいは後妻なのでしょうか?いろいろ調べていると、煕子は本能寺より前に死んでいたとしているものがありました。
他に秀満が殺したのは彼自身の妻子となっているものもありました。

お礼日時:2005/08/04 13:49

明智光秀の重臣・斎藤利三は磔処刑されました。

彼の娘は海北に連れられて土佐に逃げ、3年後、京都に戻ります。その後、稲葉正成の後妻に入り、3人の子供を産みました。稲葉正成は小早川秀秋の重臣で、関ヶ原での寝返り行動の中心人物です。その後、利三の娘・福は子供を連れて家を出、家光の乳母となり、春日局になります。子供はその後島原の乱で主力部隊を率いて活躍します。幕末、京都所司代や老中になった淀藩、陸軍総裁になった稲葉正巳は子孫です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
春日局の話は有名ですね。

お礼日時:2005/08/04 13:33

こんにちは。


光秀の家族についてでしたら、
三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」などいかがですか?
光秀の子供で、熊本藩主の細川忠興の正室です。

山崎の戦いのときには、この政略結婚によって、
光秀は細川家の自軍への参戦を期待しましたが、
結局のところ見捨てられたようです。

ついでに、元総理の細川護煕氏はこの細川家出身なので、
光秀の子孫となるそうです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
玉ですね。先日、ルイスフロイスの「日本史」完訳本を読みましたが、その中で彼女の事が大きく取り上げられていました。
ところで、光秀の息子たちについては何かご存知ありませんか?

お礼日時:2005/08/05 10:47

皆さんのすばらしい回答で以下のは蛇足のトンデモ話です。



明智光秀の居城は坂本にありました。一説によると本能寺の変後、明智の血を引く「明智左馬介」という人が土佐に流れ、そこで郷士になったそうです。
近江坂本から流れてきたから「坂本」と名乗ったそうで…

「それがお前のご先祖様だ」

と坂本竜馬は教えられたらしいですが…真偽のほどはわかりません(笑)
光秀の子孫の話…になるのかなぁ…。

駄文失礼しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
根拠の一つに、家紋が明智と同じ桔梗紋だというのがありますね。
それとPENPENMAKKYさんが書かれているように、一部の人達は長宗我部を
頼って土佐に逃れているので、その中に左馬介もいたかもしれませんね。

お礼日時:2005/08/15 10:00

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