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演義では諸葛亮がまるで天才軍師のように書かれています。
しかし、諸葛亮は政治家としては一流ですが、軍事能力は低かったのではないでしょうか?

司馬徽が「伏龍・鳳雛の二人を得れば、天下を取れる」と諸葛亮とホウ統をさして言ったといわれる台詞があります。
それは、つまり二人揃って初めて意味があると言うことで、
実際に劉備軍で軍師として軍事面で策を立てていたのはホウ統と法正です。
諸葛亮は内務担当です。

劉備が益州方面へ進出したとき、ホウ統が軍師として劉備につき、諸葛亮は荊州に残りました。
劉備は諸葛亮を「内務の人間」と見ていた。
一方、ホウ統を益州攻略に連れていったということは、劉備はホウ統を軍略家と見ていた。

ホウ統は益州攻略の途中で戦死します。
しかし、その後、軍師としての役割を果たしたのは益州出身の「法正」でした。
夷陵の戦いにおいて、諸葛亮は参戦すらしていません。
劉備は、あくまで諸葛亮を、「国の方針を決める人間、内政能力の優れた人間」と見ており、決して「戦争に優れた人間」とは見ていなかったことが読みとれます。

ホウ統・法正が死んだ後、劉備軍は軍事面でなかなか勝てなくなります。

演義で関羽を殺され、呉に出兵した劉備を止められなかった諸葛亮が、
『法正が生きていれば諌められたろうし、諌められなかったとしても負けることはなかったであろう。』
という台詞があります。

演義しか知らないと、その場面では『なぜ法正?諸葛亮がスーパー軍師として参戦すれば勝てたんじゃないの?』と思います。

劉備の死後、諸葛亮が軍の実権を握ったが、北伐は失敗に終わっています。

A 回答 (13件中11~13件)

演義の記述はこの際無視します。



諸葛亮の軍事能力が低かったと言うより、「諸葛亮は文官であって軍人ではなかった」ということではないでしょうか?

例えば魏のことを考えた場合、文官と軍人ははっきり分かれています。三国志のゲームをやっていると「軍師」と言う存在が戦争を左右するような印象を持ちますが、我々が「軍師」と呼んでいるような人は、実際は「行政官」であったのが実態ではないでしょうか。

正史を見る限り、「軍師」ではなく「将軍」が戦闘を指揮して勝ったり負けたりしているのが魏・呉・蜀ともに実態でしょう。演義で描写されているような「軍師」などという者は実際は存在していなかったと考えれば「諸葛亮は名将でも凡将でもなく名宰相であった」と言う結論にたどり着くと思われます。

演義が、何で諸葛亮を天才軍師に仕立てたのかは良く知りません。
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この回答へのお礼

諸葛亮は「文官」であり「宰相」であったということですね!!
ありがとうございます。
その「文官」であり「宰相」が、戦争の現場で指揮をとらればならないほど、蜀の人材は不足していたのですね。

お礼日時:2005/10/21 01:16

何かの本で、「諸葛亮は軍略には暗かったが、国をまとめるためにあえて自らが希代の軍略家であるように振舞っていた」といったようなことが書かれていました。


これに限らず、諸葛亮の軍事能力が低かったとする見方はかなりあるようです。
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この回答へのお礼

諸葛亮の軍事能力が低いと見る本がありましたか。
「国をまとめるためにあえて自らが希代の軍略家であるように振舞っていた。」
という記述に、蜀の人材の少なさが伺えますね。
その本を探してみます。

お礼日時:2005/10/21 01:12

ご存知かとは思いますが、軍事には戦略と戦術があります。



戦略とは富国強兵を行う術と近隣諸国の情報収集と分析、それをもとにした外交と言ったところでしょうか、
戦術とはいざ戦争という時の用兵術の類です。

諸葛亮は戦略家、ホウ統・法正は戦術家と言えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

諸葛亮は、富国強兵を行う内務や、近隣諸国の情報収集と分析などの外交は得意だかれども、

戦争の現場での用兵術は不得意だったということですか。

ありがとうございます。

お礼日時:2005/10/21 01:09

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