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こんにちは。タイトルの通りですが、深夜にTV番組がすべて終了すると終わりました、という絵が流れますよね??各局によって内容は違いますが、夜景とともにグループ局の名前がすべてテロップで流れるものや、日の丸にむかって鳩の群が飛び立つもの(NHKがそうだった気がします・・・)など、これを目にすると妙な恐怖感を感じるとともに、すごく切ない気持ちになります。
FM放送が終わるときの『JO~なんとかこちらは○○放送局です』のような声でも同じ気持ちになります。
また、質問が2個になってしまうかもしれませんが、ある音楽を聴くと、同じように切なくてどうしようもない気持ちになる時があります。(名前を出すと、zeppetstoreやhi-5,the band apartなどという音楽を聴いたときにそのような気持ちになりました。)
私はどういう心理で、このような気持ちになってしまうのか、貴方の見解をお聞かせください。よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

テレビやラジオは番組をやっている間は活気がありますが、深夜になり放送が終わるときや終わってテロップなどが流れているときはまるでテレビというものが機能していない気分にもなったりします。

それだけ人の生活にかかわりが深いものなのだと思います。

例えて言えば東京タワーのネオンが消えたときや、昼間は人でいっぱいだった町が夜になると閑散とするのと同じ心理ではないのでしょうか。その中で、ぽつぽつと家の灯りが見えると安心するのは切ない気持ち、不安な気持ち、暗い気持ちを知らず知らずのうちに持っているからだと思います。
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個人的な経験でお答えします。



それは、喪うことへの恐怖、あるいはおそれだと思います。
今までここにあったものがなくなってしまう、今ここにあるものがいつかなくなってしまうかもしれない、そんな気持ちです。

小さい頃に、消しゴムを無くしたことがあります。数十円で代わりのきくものです。でも、そのときは、泣いてしまいそうなくらい、必死で探し回りました(泣いてしまったかもしれません)。
スヌーピーの漫画に出てくるライナスはいつも毛布を抱えています。彼は、きっとその毛布がなくなることなんて想像したこともないでしょう。
でも、消しゴムはなくなってしまうし、毛布もいつかは手放さなければなりません。
でも、そんなことを考えたくも無い。実際にそうなったら、どうしたらいいんだろう?
そんな「いつまでもこのままであればいいのに」という願いは、「形あるものは必ずなくなる、過ぎ去った時は戻らない」という現実に、必ずおびやかされます。
一日の「終わり」を告げる放送に感じる気持ちというのは、いつもは意識しない(ようにしている)そんな現実をはっきりと突きつけられたときに感じる、願いのうめき声ではないのでしょうか。

裏返していえば、それは現状への満足感、充足感の現れでもあるのかもしれません。

廃墟についていえば、それは、すでに「終わってしまったもの」であり、そのまま変わることがないように感じられるのではないですか? 

いずれにせよ、年を経るにしたがって、なくなること、失うことに慣れていってしまいます。
だんだんと、そんな気持ちも薄れていくでしょうが、それがいいことかどうかはわかりません。

#でも、#4のお答えの方が的確かも……。
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再びNo.2です。



同じ味というのは、主に、ファーストフードの事を指していまして、どこでも同じ味ですよね。また、お取り寄せなるものがあり、独特の味でも、すぐに味わえるということです。

景色は、同じような建物が、日本全国にあるということです。欧米では、町によって特色があります。

言葉は、標準語の徹底で、(最近は少し違いますが)関西弁以外、大手を振って、東京では、方言を話せないような状況です。

このことは、自分のルーツ、例えば、秋田県生まれとかいう「強烈」な自覚がなくなり、ほぼ無色の、ただの日本人という感覚に陥ります。ですから、一部の人間は、外国に行くことにより、日本人として自覚して帰ってくるのです。そして、日本の文化について話せないと愕然とします。

自分は、日本人だけど、何者なのかという、深刻な問いがそこにあります。

少々論理が、飛躍しますが、
日本人が日本人と自覚していたころは、同様な場面では、明日に対する強い期待という意味で、ラジオを消し、充実する私生活で、レコードに酔っていたと私は考えます。

ですから、私の言いたいことは、現在は、自分というものがわからないので、そういう場面で不安になるということです。
わかりやすく、簡単にいえば、専門用語なしのNo.4さんの回答と同一ということです。

自分はこういう人間で、こういうことをして、社会のために役立ちたい、と意識をすれば、自然になくなっていく感覚だと思います。

ちょっと難しいかもしれませんが。。。
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こんにちは。



質問を見て,「あ~,あるある!!」と思いました(*^-^*)
私は深夜族なので,テレビが終わることもしょっちゅうで・・・。

私としては,外とのチャンネルが閉じられる感覚が,
孤独を実感させられるからかなぁと・・・。

たとえば,番組が続いているということは,
自分以外の誰かもそれを見たり聞いたりしている可能性があり,
テレビやラジオという窓を通して,別々に,なんら関係を持たない個人が,同じものに焦点をあわせているというか・・・。

映画やドラマで,遠く離れた恋人が同じ番組を偶然見てるみたいな・・・。

そういう,テレビやラジオなどのツールを通して(たとえ見ていなくても,聞いていいなくても番組が放送されている間は)何らかの形で誰かがそれに関与しているけれど,番組が終わってしまうと,
しらないところでつながっているようにしらずしらずに思っているのが(無意識的に感じているのかも?),
ブツッてとぎれてしまうからかなぁと思ったりします。

うまく説明できているのか不安ですが・・・。

テレビやラジオはこんな時間にこのテレビ見ている(自分以外の)誰かがいる可能性を伝えていて,
その放送が終わると,それが切れるから知らず知らずのうちに一人きりの自分を感じ切ない気持ちになるのかなぁと・・・。

音楽については,自分の感性に触れるメロディというのがあると思います。
うーーん,質問者様があげておられる音楽を私は知らないけれど,
また,私は,メロディよりも歌詞を重視するほうなので,
歌詞で切なくなったりするけれど,
切ないメロディというのは確実にありますねぇ。

忘れていた感覚を思い出すような・・・・。

『切なさでキュッとなる』(引用)みたいな・・・・。

でも,逆に元気になる音楽もありますね(*^-^*)

なんだか,まとまりない文章で申し訳ないです。

うまく伝わるといいのですが・・・。
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それは、自分の実存的存在に気づく瞬間だからだと思います。



実存的存在というのは、「自分は一人でこの世に生まれ、やがて、一人で死んでいく」という状況のことです。普段はあまり意識しませんが、今まで外部の対象(テレビの番組やにぎやかなこの世界のできごと)に向けられていた心が、突如、対象を失ったとき、ふと、対象から置き去りにされている自分自身に気づく瞬間があります。そういうとき、ひとは、この世界と一体として同化しているのではなく、世界の中に、世界とは別な固体として放り投げられているだけであることを感じ取るのだと思います。このような感じは、必ずしも意識表面に上るわけではないので、「妙な恐怖感や、すごく切ない気持ち」として感じられるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

分かりやすい回答をありがとうございます!
そうですね、朝方4時頃などに起きていると、
「世の中の人間が私だけみたい」な気分になることがあります。妙な恐怖感を感じるという事は、一人になりたくない、という気持ちが強い と思えばよいのでしょうか。。
何となく昔から誰かといっしょにいてもひとりぼっちのような気がしてならない気分になることがありました。
そのおかげか(?)淋しがり屋でしょうがありません。。。

お礼日時:2005/11/15 14:18

No.2です。


ご質問ありがとうございます。

そうですね。TVというのは、一日中ついているものではないでしょうか? もしくは、家族の団らんの時でもついていることかと思います。恐らくは就寝前にこれらの言葉をきかれると思いますが、
この言葉をきくことによって、「今日」という日の終わりを「意識的に」自覚されるのではないでしょうか?

少し話は変わりますが、高齢者の方の中には、朝起きたときにまず思うことは、今日も生きられたと感じることだそうです。
これは、毎日規則正しい生活(いいかえれば、変化が遅い生活)をしているからこそ、生まれる言葉だと私は考えます。

私は、唐詩が好きですし、また、魯迅の書いた「故郷」
にも強く心を揺さぶられます。廃墟という言葉では、平家物語の、「奢れるものは久しからず。.ただ春の夜の夢の如し」の一節が浮かびます。
自分は、質問者様の、廃墟との関連性はあるだろうかという問いにはあるだろうと思います。

つまり、現代は、変化が激しく、どこへいっても同じ(味、景色、言葉)ことについていけないということの現われでしょうね。

少なくても、自分では、そう感じます。
ちなみに、↓の「嫌」というのもカンタンに書いたからであってあまり字面どうりに解釈されないことを望みます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
が、少々日本語がむずかしく・・・
>つまり、現代は、変化が激しく、どこへいっても同じ(味、景色、言葉)ことについていけないということの現われでしょうね。

あたりをもう少し噛み砕いて説明していただければ嬉しいかと・・・・思います。オバカなお礼で申し訳ないです・・・

お礼日時:2005/11/15 14:07

字面どうり解釈すれば、


「恐怖感を感じる。」
明日が嫌なのか、
今が嫌なのか。
それとも両方嫌か
のどちらかでしょう。
明日が嫌という自覚はないようにおみうけしますので
物事には有限のはかなさがあり、それを堪能されているのでは?
最近、純愛なるものがはやってますが、永遠に続く美がないということでの心理ではないですか?

対面してないので、あなたの書かれた程度からくらいしか推測できません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。この文面からだけで心理を読んでくれ、とお願いするのも無理がありますよね。にもかからず、丁寧なご回答をありがとうございます。
何かが嫌、という自覚はまるでないです。
TVという、いつでも電源を入れれば放送しているものが終わるという事に『有限のはかなさ』を感じている という事なのでしょうか。。。有限に対しての恐怖感、というものは何だか感じるような気がします。
話がそれてしまい申し訳ございませんが、「有限のはかなさ」で思いついたのですが、私は「廃墟」の風景にとても惹かれ、美しく感じます。somei-yosino様から見て、この心理も今回の質問に関係する と思われますか??

お礼日時:2005/11/11 15:54

答えになってないと思いますが、書きます。


たぶん「今日も一日終わったなー、といった感じで帰宅。(僕は8時くらいです。)テレビ(ラジオ含む)をつけて、ついつい見る。風呂に入ってまだ見る。そこで字幕が出る。改めて、「あー一日終わったー。」と思って、時間の経過に悲しむ、のか??
参考になるのなら、幸いですが・・・。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
時間の経過に悲しむ。。。そういう気持ちもあるのかもしれません!
ちなみにご回答者様たちは、同じような気持ちになったことはありませんか??

お礼日時:2005/11/11 15:46

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