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他人に気を遣うことができません。気を遣ったり助けたりすることでかえって人に利用されるのではないかという恐れがあります。(人に利用されるというのは、いつも頼みごとをされたり、これお願いね、のように頼まれた側がするのが当たり前の関係になる)上記のような恐れを避ける為、結局気を遣ったり助けたりということをしないので、言われたことしかしない人と思われています。

また、気だけでなく、物を人にあげることも貸すことも嫌いです。この場合の嫌いというのは大量に、ということです。たくさんものをあげたり長期的にものを貸すことを許すことでどんどん付け込まれるような気がするのです。また、お金を人に投資する(奢るなど)ことも嫌いです。結局、人に物を貸したりお金を投資するのは、ほんのわずかです。

結局は気を遣わないという道を選択していますが、自分自身少しまずいかな、心が狭いなと感じることがあります。でも人に利用されるのが怖いのです。どうしたら人に気を遣えるようになりますか?

A 回答 (6件)

人に気を使う事の本来の意味が、ちょっと違うような気がします。


気を使う事で、あなた自身が不利になっている状況が多いと感じるのでしょうか?
周囲に対し、自分の存在をとりあえず示したいが為に気を使うようにしているのでしょうか?
周囲との協力(助け合い)の上で、こき使われて損をしているとあなた自身が感じるようでしたら、自分ひとりだけでやろうとはせずにひと声かけて一緒に手伝ってくれないか?聞いてみたらいかがですか?
全部抱え込み、周囲は楽しているのがなんだか自分はコマのような扱いで嫌だとか思っているような・・・。
お金の貸し借りは、金額に限らずやらない事。
やはり、お金は素直には返金されない事が多いですから。
しっかりと、断る勇気をつける。
物の貸し借りも、ちゃんと渡す時にこれはかならず返却してくださいと告げるようにする。
相手が、分かってるよ!!って逆切れしても、返却してくれないと困ると告げる。

ふだん、どんな人と付き合いをしていますか?
お互いに、信頼関係が取れるようにまずは付き合い方や考え方、相手とのかかわり方を見つめ直してみるのも良いかも。
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こんばんは<(_ _)>


私も、お金の貸し借り、モノの貸し借りは出来る限りやらないようにしています。
貸したほうはいつまでも覚えていて、借りたほうはすぐ忘れちゃうんですよね(^^;
お金やモノの貸し借りはしない!と決めている人、結構多いですよ。「ほんのわずか」と言わず、自分のポリシーとして「貸し借りしない!」と決めてよいと思います。

ただ、人に気を遣える人はとても素晴らしいと思います。私自身ぼけ~っと木偶のぼうのように突っ立っていることが多いので、食事の席でさっと料理を取り分けたり、さりげなく飲み物をついだり、少し元気のないときに「どうしたの?何かあったの?」なんてさりげなく聞ける人は、かっこいいなぁと尊敬しています。
見返りを求めないことが大切なんじゃないかなと思います。
自分が良かれと思ってやったことで相手が「ありがとう。」と言ってくれたらこんなに嬉しいことはありません。その言葉が聞けるだけで充分だ!と思うようにしてはどうでしょう。
「この人はこの親切を利用しようとしてるんじゃ??」なんて考えずに
「利用されてもいいや。まぁどっかで役に立てば。」
くらいの心構えだと楽なのかもしれませんよ。なかなかその境地にたつのは難しいかも知れませんが。
初めはお礼も何も求めずに、自己満足の気持ちで、気を遣ってみてはどうですか??きっとすぐに効果が表れなくても、見る人は見ていてくれるし、周囲に「○○さんって本当気がきく人だよね。尊敬する。」と言われる日が来るんじゃないかなと。「情けは人のためならず」ですよね。
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逆に質問します。


質問者さんは、誰かが頼ってきて助けたら、「よし、この人は何でも聞いてくれるからまた頼ってやろう。利用してやろう。」思いますか?
思いませんよね?
普通は、世の中持ちつ持たれつだから。情けは人のためならず。
というような精神で手を貸したり、貸してくれたりが多いのではないでしょうか?
私も人を頼ることがあります。でもその子に頼られることもあります。
気を使うということは、相手を思いやることなのではないでしょうか。
質問者さんはどちらかというと、なにか行動をしたときに見返りを期待してませんか?なので逆に相手も見返りを期待していると勘違いしてませんか?
ほんとに友達だったり、信頼関係のある間柄なら相手に対して無償の愛をそそげるものですよ(ちょっとおおげさですが)
なにかを奢ったって相手が喜んでくれると嬉しいし、そのうち、お礼にって奢ってもらえることもあります。
他人に利用されるのが怖いということで、人に心を開けていないのではないでしょうか。
それゆえに、相手に裏があるんじゃないかと疑心暗鬼になってる気がします。
心を許せる人はいますか?

金銭の貸し借り、大きなものの貸し借りは親しい仲でもやめておいたほうが正解です。
トラブルの原因です。
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以前、何かで


「気を遣う人」よりも「気が利く人」になるほうが良い。
と目にしました。

私はかなり人に気を遣いすぎるタイプなので、
ナルホド!と目から鱗が落ちました。

質問者様は無理に、他人から利用されるほど良い人(気を遣う人)になろうと思う必要は無いと思います。

たまたま困ってる人がいた時に、自分のほうが冷静に良策を思いついたり、
見返りはいらないと心から思える場面でさりげなく手伝う範囲であれば、
利用する、利用されたと思わずに済むのではないでしょうか?

「あの人って気が利くよね」と
「あの人って凄い気を遣うよね」では前者のほうが感謝こそされ、
始終利用しようなどと思われないと思います。
「気が利く」は能動的、「気を遣う」は受動的な感じがしませんか?
受身な人ほど利用されやすいのだと思います。

ただの「いい人」(利用されやすい人)にならず、
自分の意志で役に立つ事を率先してやる、
だけど物の貸し借りについては「自分が大事にしている物だから」とはっきり言って、
クールに対応しても構わないと思います。
(特に金銭については)

有難く思われる範囲で行って、
それ以上やろうと思わずにマイペースでいても良いと思いますよ。
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「気を遣えない」というより「気を許せない」に近い問題じゃないかと思います。


一言で言うと、「周りは敵!」という感覚で人と接してらっしゃるんじゃないでしょうか。

もし、一度親切にした途端、相手が次々と新たな要求をして来たとしても(そんなこと、めったにないですけど)、
単に「そこまでは無理。××までなら、してあげられるよ」と出来る範囲を告げれば良いだけの話。
それで険悪になるとは思えません。
出来ない事まで頼まれるかもしれないからと、出来ることもしないなんて、かなり狭量な発想では?

そもそも、それは単に、相手が「甘えている」という状態。
相手が依頼心を起こして、あなたに寄りかかっているだけの話です。
それを「つけこむ(悪意を持ってあなたを食い物にしようと企む)」という表現になるっていうのは、どうなんでしょう…。

同様に、人に奢ることも、「投資する」と表現されていますね。
それってつまり、「一回奢ったのだから、もっと親切にしてくれるべき」とか「次は絶対奢ってくれるべき」とか、そういう「先行投資への見返り」の課題を、心の底で相手に課している、もし返って来なければ、被害を受けたと思う。ということなんでしょうか?

奢るってのは、親しみをこめたコミュニケーションの一種であって、相手に貸しを作る行為ではありませんよ。
奢って、ありがとうと言われたら、そこで完結するものです。
(もちろん、前回奢ってもらったから、とかいうお返しは存在しますし、毎回続けば、オレばっかりかよ、という話にはなりますが)

ともかく、自分がイヤと感じる相手の言動=すべて相手から自分への「攻撃」と捉えるのは、被害者意識が強すぎと思います。

出来ることはやって、出来ないことは明るく断る。
やってあげたことに対し、見返りは特に期待しない。
(自分がしてあげたこと、逆に相手にしてもらったことの貸借対照表のようなものを、心の中で作らない)
「気を遣ってくれる人」と評価されていながら、相手からナメられてもいない人、というのは、これらが出来る人だと思います。

気を遣う、というより、周囲に対して身構えない(相手を加害者と決めない)ことに意識を置く方が先決ではないかと考えました。
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自分を犠牲にできないのですね。


自分を犠牲にできる人は、人も犠牲にできます。
自分が犠牲になれない人は、他人対しても自分に対して
も厳しくなります。

ちょっと例を挙げますが、例えば時間に遅れることをよしとしない人は、他人に待たされるととても立腹します。
自分も時間に遅れないように神経質になったりします。
逆に、自分が時間に厳しくない人は、人を待たせること
もあるし、他人が遅れてもたいして被害意識はありません。

私は以前、心理療法を行う事務所に勤めていましたが、
たまに、間違えて予約をダブッて入れてしまったり
しました。
二人の人が同時に来てしまい、申し訳ないと思いつつ
片方の人にお帰りいただきました。
間違えたのはこちらなのですが、この場合はくよくよ
考えてもしょうがない。片方の人を犠牲にできるんですね。
なぜ犠牲にできるかというと、自分自身も犠牲になれる
からなんです。
例えば遅れて来た患者さんのために休憩時間を割いて
仕事をしたりしますが、別に損をしたとは思いません。
でも逆に心を病んでいる患者さんはなかなか自分を犠牲
にできないんです。
自分は遅れてきたこともこちらの休憩時間を奪ったこと
もある人が、自分がダブルブッキングの犠牲になるのは
絶対いやなのです。

ちょっとわかりにくい例だったかもしれませんが、
要するに、自分は絶対に損をしたくない、犠牲になりたく
ないという生き方よりは、自分も犠牲になれて被害者
意識もない生き方の方が楽ですよ、ということを言いた
いのです。

お金や自分の財産に執着しすぎる生き方は、結局損を
しているのだなと、私は思います。
自分が与えるからこそ人にも与えられるのですし、
自分が犠牲になれるからこそ人も自分のために犠牲に
なってくれるのです。
かくいう私も、以前はかなり自分を犠牲にできない人間
でした。特に金銭については。
けれど、ある時気づいたのですが、人生にとってお金
よりも大切なものって、時間とか、人との交わりだと
思ったのです。
お金に執着してると、時間や人との交わりという価値の
あるものを、捨てているような気がします。
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この回答へのお礼

遅くなってごめんなさい。
皆様方からいろいろアドバイスをいただきましたが、自分を犠牲にして他人を優先するというのはどうも私にはできません。まず自分を優先してしまうのです。何か大きな出来事がない限り、この性格は直らないと思います。このような自分に付き合っていただき、皆様ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/07 20:54

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