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日本と琉球は、それぞれどのようにして中国の冊封体制から抜けたのでしょうか。

調べた限りでは、

●日本は室町時代までは続け、江戸時代の途中、中国で満州国が起こるのに乗じて辞めた???

●琉球は島津氏など日本が後から占領に乗り出したために清が反発し、廃藩置県後まで対立は続いたが、日清戦争で解決???(下関条約には記述無し?)

と、あいまいです。
通説では具体的にどのようになっていますでしょうか。

宜しくお願い致します。

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A 回答 (2件)

足利義満の次の将軍の義持は、冊封を受けるよう薦められたのを拒否したましたが、次の義教の時には、復活し、冊封使を受けた記録(「満済准后日記」)も残っています。

当時の明は、朝貢の形でしか貿易を認めておらず(それ以外は密貿易になる)、朝貢は莫大を利益をもたらす事が、足利将軍を形式的な冊封体制に入らせた動機です。(遣明船自体は1547年まで続いています。)
また、義持の例でわかるように、こちらから冊封を求めなければ、中国側にそれを強制する力は当然無く、自然にその体制から抜けられました。
国境を接していた朝鮮と、海を隔てた日本とでは、中国が及ぼせる影響力は全く違う、という事でしょう。
琉球も同じ事で、いわゆる琉球処分に対しては、清もかなり反発したらしいのですが、実力行使する力はなく、そのままとなりました。
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日本が正式に中国の冊封体制化にあったのは古代と足利義満の時代だけです。

それ以外の時代は冊封体制化にはありませんので抜けるも抜けないもありません。
琉球については、廃藩置県までは形式的には冊封をうけていました。

この回答への補足

それでは、義満の時代にどのようにして抜けたのでしょう…?中国からすれば日本は属国だとずっと見なしてきました。しかし、今では中国側には日本を属国とする認識はありません(中華思想は除きます)。ご回答はその疑問も解消できるものと期待しております。琉球についても同様です。ご存知の方、いらっしゃいましたらぜひご教授願います。

補足日時:2006/01/08 17:44
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Q中国の冊封体制下で朝鮮は琉球より格下だった?

中国の冊封体制下で朝鮮は琉球より格下だったという記事をネットで見た記憶があります。
これは本当ですか?朝鮮と琉球(沖縄)では昔も今も人口で50倍以上の差があると思います。もし本当なら中国は朝鮮をいじめていたとしか思えないのですがどうでしょうか?

Aベストアンサー

いじめではありません。
中国4千年の歴史で4千年のあいだ朝鮮はただの属国でした。

http://peachy.xii.jp/korea/korea2.html

琉球王朝のほうが格上です。

Q朝貢と冊封体制について

タイトルのことを教えてください。

Aベストアンサー

●朝貢:
自国の親分格にあたる大国に、貢物を持っていくこと。

●冊封体制:
国家同士で親分子分の関係を結ぶことで出来る、ピラミッド形式の国際秩序のこと。
親分の国(宗主国)が、子分の国(朝貢国)の国家元首を任命することを“冊封”という。

子分側は親分側にオドされてイヤイヤ子分になる時もあれば、メリットを見越して進んで子分になることもある。
子分国の元首は“親分国のお墨付き”というハクが付くため、国内外のライバルより上に立てるし、親分から軍隊を借りることも可能(一歩間違うと乗っ取られるけど)になる。

…だと、思います。
人同士国同士で身分差があることが前提なので、#1さんの回答にある現在の国際社会での力関係には当てはまらないように思います。

あと、宗主国と各朝貢国との力関係は、時代や国によってケースバイケースで一定していません。
ほぼ属国状態の場合もあれば、形式的に親分子分になっているものもあります。
この場合、宗主国は朝貢国の内実には一切ノータッチ、朝貢国の代替わりの度に追認の使者がやってきて宴会してオシマイです。
(#2さんの回答にある琉球王国はこのケース)

冊封体制の宗主国としては中国歴代王朝が有名ですが、タイ王国とかオスマン=トルコも朝貢国を持っていました。

●朝貢:
自国の親分格にあたる大国に、貢物を持っていくこと。

●冊封体制:
国家同士で親分子分の関係を結ぶことで出来る、ピラミッド形式の国際秩序のこと。
親分の国(宗主国)が、子分の国(朝貢国)の国家元首を任命することを“冊封”という。

子分側は親分側にオドされてイヤイヤ子分になる時もあれば、メリットを見越して進んで子分になることもある。
子分国の元首は“親分国のお墨付き”というハクが付くため、国内外のライバルより上に立てるし、親分から軍隊を借りることも可能(一歩間違うと乗...続きを読む

Q朝貢貿易とは何ですか?

朝貢貿易とは何ですか??
具体的に教えてください。
お願いいたします。

Aベストアンサー

朝貢貿易とは古代中国で始まった制度です。
それまでは物々交換で始まった貿易が次第に通貨を使用するようになり、中国は次第に強大な国家に成長しました。

周辺の弱小国は中国との関係を対等とはいえないようになったのです。
また国内に対しても中国との関係を強調する必要があり、中国皇帝から国王として認めてもらうことが必要になってきました。
この為、中国皇帝に家臣ないし随身の姿勢を表す態度をとりました。

これが貿易朝貢の始まりです。  実態は中国皇帝に貢物を献上すると、皇帝はそれに倍する返礼として品物を与える習慣でした。
周辺国はこうして中国の進歩した品物を入手することが出来ました。
のちにはこの多額の返礼が中国の財政の破たんの原因になるほどでした。

中国と朝貢関係をもったのは日本、琉球、東南アジアをはじめ北方の蛮族などでした。

Q韓国人が一発で黙る歴史の真実

東アジアでは昔から「王」は「皇帝」の家来です。
従って朝鮮王と名のることは中国皇帝の家来ですと宣言することです。(日本は天皇がいた。)
このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

Aベストアンサー

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、李氏朝鮮は明や清に朝貢、冊封していた事は認めています。
もし、そう言う認識が韓国に無いのならばこのドラマを作った監督は韓国マスコミや民衆に袋叩きになっていると思います。

中国に対しても韓国5000年の歴史と大統領が発言したりして中国より歴史があると言ったりしています。歴史観でほんの少しでも日本寄りの発言をすると韓国メディアや国民から袋叩きにあって社会的に抹殺されます。
それがソウル大学の教授でもですよ!
まだ、社会的な抹殺で殺人でないだけ良いですが…
(添付YouTubeを見てください)

韓国の有識者は日本併合(植民地)時代の本当の歴史等を知っているとは思いますが全体としては臨時政府などと言い方を変えたり、テロリストを反日であれば英雄にしてしまうように都合のいい歴史観にしています。
考古学的に何の検証もしていない神話レベルの話で韓国5000年の歴史と大統領が発言してもはばからない国です。
現在は日本は、歴史は歴史で神話とは別というのが日本人の共通認識のはずですが韓国人がどこまで区別しているのか、全く分かりません。

何せ、韓国では日本は悪でなくてはならない国であり、韓国は常に正義であり善であると教えている国です。
今の韓国には日本人が何を言っても逆なでする事はあっても肯定する人はなく無駄な気がします。
多少の隠れ親日派は作れるかもしれませんが公に口にする人はいないと思います。
韓国で権威のある歴史学者、大学の教授の発言でも親日でなくとも日本を少しでも擁護する内容であれば叩かれます。

李氏朝鮮末期の記録は欧米の記録や写真などが多少なりとも存在しています。
そう言った物、資料を直視する韓国人は少ないのです。
今の韓国と日本で歴史観を埋めようとしても一方的に韓国の歴史観を押し付けられるだけです。
今のうちに、そう言った客観的な資料を集めておくとか、日本、中国の文献を集めておくとか準備しておくくらいしかないと思います。
あまり人の事を言える立場では無いですが慰安婦問題なら「韓国軍のベトナム人大虐殺」「米軍慰安婦」とかで対応するしかない。

添付YouTubeでも言っているように
韓国とは暫く距離を置いて付き合うのが無難だと思います。

【日韓問題】 韓国人から見ても異常な…韓国人ブロガー・シンシアリー氏 .
↓↓(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=cluHbI5i7gU

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、...続きを読む

Q沖縄はもとは中国のものだったのですか?

先日、日本史の授業で「沖縄は中国のもであり、日清戦争に勝利したため日本のものとなつた。」 と教えられました。


私はずっと、沖縄は琉球王国という独立した国であったと思っていたので自分が無知だったのだと思いましたが、帰って親に聞いたところ否定されました。

そしてネットで調べると、中国人が勝手に沖縄は中国のものだったと主張しているだけ、と出てきました。

日本史の先生なのにこんな嘘を教えるとは思えずどれを信用していいのかわかりません。

結局、琉球はどのような歴史で日本の沖縄県となったのですか?
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

冊封関係を理解しないと難しいのではないでしょうか、冊封について先に説明します。

冊封とは、近隣の強大国に貢物を持って行き「貴国の偉大さを称え、皇帝として受け入れますので、うちの国と私が王であることを認めてください」と願い出ます。強大国の王は「よし、私を皇帝(つまりあんたより偉い)と認めるなら、私も慈悲深さを発揮して、お前の領地は侵略しないし、お前を領主(王)と認めよう。よく来たな。褒美を持って帰れ」と貢物よりも多くのお土産を持たせて帰す、と言うやり取りのことを言います。

これにより、皇帝である強大国は軍事力を使うことなく周辺の国を従わせ、属国とすることができますし、周辺国も強大国から認めてもらうことで、近隣の争いのある国に対しても「おらのところは皇帝から領主のお墨付きをもらったんだから、うちの国を攻めると皇帝が黙っていないぞ!」と主張することができます。

事実、近隣国同士の争いは戦争の火種になりますので、皇帝はそういう近隣国同士の調整も行っていたといえます。

東アジアでは、基本的に中国(唐や隋・明・清など)が常に皇帝を称する大国であり、近隣の朝鮮やモンゴルの一部、ベトナム、沖縄(琉球)一時期の日本などが冊封を受けていた国に相当します。

では、冊封を受けていたから「大国の属国であり、現代的に言えば領土に入るか?」と言われれば、「入る可能性は高い」と言わざるをえません。

これは、なにも中国が主張しているということではなく、西洋的な国際法の考え方からも援用される部分があります。
西洋においての国と国関係はローマ帝国とそこから分離した各諸国、そして皇帝との関係性が基本になっています。そのため「ローマ帝国の属国または属領は、ローマ帝国の領土」という考え方が基本になり、アジア的な冊封関係もそれから類推して『領土的範疇に入ってもよい」と考えられているのです。

ただし、そうは言っても「ヨーロッパ各国」も独立国になっているわけですから、そのための条件というのはいろいろと複雑にあるわけです。

ただし、ウクライナとロシアの現在の問題のように(ソ連時代、ウクライナはソビエト連邦の一部(構成国)一度でも大国の一部になった形跡があれば、大国はいつまでもそれを主張し続けるし、それが的外れであるとは言い切れない、ということもあるのです。

ヨーロッパ各国が独立を維持できるのは、すでに大国であるローマが無い(その末裔である神聖ローマもすでにない)ので、主張する国がないからです。神聖ドイツ帝国だった時代までは、戦争が多かったのはそういう理由(領土主張)もあります。

で、沖縄です。

沖縄が「中国の一部であったか、独立国であったか」というのは、上記の冊封体制と現代の国際法両方をかんがみて、さらに歴史的経緯からすれば「どちらも正しい」ということになります。

日本の場合は卑弥呼の時代に冊封を受けていても、大和朝廷が成立して以降「独立するから冊封はしないよ」とメッセージを発していますし、その後元寇などを撃退して独立を保っています。
朝鮮については、日清戦争後の下関条約で中国の属国から独立しましたし、ベトナムは何度も戦争して独立を担保しています。

ところが、沖縄に関しては、あまりにも小さな国であったこと、隣に日本と言う別の大国もあったこと、で「二つの大国と等距離を取ることで、独立を維持する」と言う政策をとったことで、中国から見ても「お前の国が一応の独立国だったのは、うちのおかげ(つまりうちの属国)」ですし、日本から見ても「お前の国が一応の独立国だったのは、うちのおかげ(つまりうちの属国)」(日本も(正確には鹿児島藩が)冊封を琉球から受けていた)お前んとこはうちの属国だろう、ということになります。

実際に琉球は、どちらの国からも独立を維持するために軍事的な配慮は一切せず、刀の代わりに扇子を腰に差し、舞踊や歌などの文化的な力で特色を維持していました。

結局、日本の都合で琉球処置と言う形で鹿児島藩に組み込むことになるわけですが、中国の側から見ると「うちの属国である琉球を日本が奪った」という見方も成り立つわけです。

ですので、沖縄の歴史的経緯を見ると
・中国から見れば、ずっとうちの属国で日本が武力で奪った
・日本から見れば、うちの属国だったけど必要があったので、藩に組み入れた。
・沖縄から見れば、ずっと独立国だったけど日本に武力で併合された。
ということになります。

教師の見方が一概に間違っているとはいえませんが(と言っても下関条約というのはちょっとどうかと思う)、日本で歴史を教えている教師の言い方としては、いくらなんでも偏りすぎではないかと思います。

日本人だから「日本の領土で間違いない」とはいいませんが、各立場の視点すべてを説明してもそれほどの手間ではないでしょうし「歴史」と言うものの見方(立場によって違う)ということを説明するのは歴史教師の義務だと思うんですけどね。

冊封関係を理解しないと難しいのではないでしょうか、冊封について先に説明します。

冊封とは、近隣の強大国に貢物を持って行き「貴国の偉大さを称え、皇帝として受け入れますので、うちの国と私が王であることを認めてください」と願い出ます。強大国の王は「よし、私を皇帝(つまりあんたより偉い)と認めるなら、私も慈悲深さを発揮して、お前の領地は侵略しないし、お前を領主(王)と認めよう。よく来たな。褒美を持って帰れ」と貢物よりも多くのお土産を持たせて帰す、と言うやり取りのことを言います。

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Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q卑弥呼と天皇の関係

邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Q琉球の兵が薩摩に対抗できなかった理由 1609年

1609年に薩摩の兵3000が琉球に侵攻し4000の琉球の兵が破れて和睦のあと支配されることになった件で疑問があります。
帆船で長期航海を行い(激しい船酔いや士気の低下も想定される)、兵糧も十分ではなく土地勘もない薩摩の兵が、なぜ琉球を短期間で侵略出来たのでしょうか?琉球の方が交易も活発で薩摩よりも豊かであるような気がします。また薩摩は関ヶ原で直前に兵力を失っているとも思えます。
なぜ薩摩が琉球に侵略できたのでしょうか?琉球の兵力、軍備、他国との戦闘(琉球が他国を侵略したような事実もあれば)など付随する情報がありましたらお願いします。薩摩側の被害も教えてください。

Aベストアンサー

薩摩が琉球を侵略できたのは、琉球軍の作戦が悪かったからです。

その前にまず・・・

1.薩摩軍の航海について・・・薩摩軍はまず琉球の支配下にある奄美諸島の攻略に行きます。島々を攻略しながら沖縄に近づいていきますが、島と島との間は短く、ほとんど1日から2日で到着しており、海上で何日も過ごすという事をしていません。
島々の制圧期間を除くと、薩摩の山川港から奄美大島までは途中の島で一泊しましたが、それを入れて2日で着いていますし、その次の徳之島へも1日で着き、その次の沖永良部島にも1日で着き、次の沖縄本島にも1日で着いています。
島々での戦闘があったから薩摩から沖縄本島への到着は20日以上かかりましたが、航海日数だけで言えば必ずしも長くありません。これを長期航海と呼べるのか・・・私は疑問に思います。
また、薩摩は朝鮮出兵で水軍を出していますし、関が原の戦いにおい残存部隊が本国に戻る際には、海路であり黒田水軍と戦ってもいます。豊臣政権以降の薩摩の兵は海路を利用して派兵される事が多いので、船に慣れている者も多いと思います。

2.兵糧について・・・薩摩は琉球遠征にあたり五ヶ月分の兵糧を用意しました。3月4日に出航し4月初めには琉球は降伏しています。1ヶ月で戦いは終わっており、薩摩軍の兵糧が十分ではないというのは疑問です。

3.土地勘について・・・琉球を攻めるにあたり、水先案内人としてトカラ列島の七島衆が薩摩に味方しています。

4.豊かさについて・・・琉球が降伏した後、薩摩の検地では琉球は11万3千石と出ています。当時の島津は58万7千石ですから、琉球の石高は薩摩の五分の一です。石高から言うと、琉球が薩摩より豊かであったかについては疑問符が残ります。

5.兵について・・・諸説ありますが薩摩は関が原で1500の兵を動員し、三分の二を失ったと言われています。ただ、薩摩の石高から言えばもっと兵を動員する事は可能でした。例えば豊臣秀吉の朝鮮出兵では1万人の動員を命じられています。兵士の動員方式に百石三人制というのがありますが、これを薩摩に当てはめれば1万7千人は動員可能であり、しかもこれは限界の数値ではありません。関が原で薩摩が兵を失ったのは事実ですが、薩摩の動員能力から言うと、損害は少ないものでした。

6.薩摩の損害は100から200人ほどだそうです。

琉球軍の敗因・・・まず琉球王国の一角を占めていた奄美諸島では、薩摩の鉄砲にしてやられました。
奄美大島では島民3千人を集め砦を築いて薩摩軍に抵抗しようとしましたが、薩摩の鉄砲に敗退しました。
「棒の先から火が出る武器に驚いて逃げ去った」とか、徳之島でも「目にもとまらず棒の先から火が出て打ち倒した」とあり、どうやら奄美諸島の人達はあまり鉄砲の事を知らず、その威力の前に敗退したようです。
沖縄本島の場合は、作戦ミスです。
琉球軍は北部の良港である運天港を守るために千人の兵を今帰仁城に配置しましたが、まずここを薩摩軍に攻められ壊滅します。
薩摩軍はその後、読谷山の付近で海路、那覇港へ向かう部隊と、陸路、首里へ向かう部隊の二つに分かれ、二方向より進撃します。
琉球軍は薩摩軍が那覇港に来ると思い三千の兵をここに配置し守りを固めていました。薩摩の水軍はその那覇港の守りの堅さに一度は敗退しています。
しかし、琉球軍は陸路、進撃してくる薩摩軍の早期察知には失敗しており、気付いた時には手遅れで首里目前でこの薩摩軍を食い止めるには兵力が100人ほどしかなく、この部隊も結局薩摩軍に壊滅させられました。
そして首里に迫った薩摩軍に琉球の王は降伏を決断します。
つまり琉球軍は多いとは言えない貴重な防衛戦力を北部に派遣して各個撃破され、情報収集を疎かにして薩摩の進撃路を読み誤って陸路の防備を疎かにし、薩摩軍に敗北しました。
つまり琉球軍は情報と兵力の集中に誤りがあったための敗北です。
なお、沖縄本島の戦いでも薩摩の鉄砲に痛手を受けたようなので、薩摩の鉄砲にしてやられたという部分もあるかと思います。

薩摩が琉球を侵略できたのは、琉球軍の作戦が悪かったからです。

その前にまず・・・

1.薩摩軍の航海について・・・薩摩軍はまず琉球の支配下にある奄美諸島の攻略に行きます。島々を攻略しながら沖縄に近づいていきますが、島と島との間は短く、ほとんど1日から2日で到着しており、海上で何日も過ごすという事をしていません。
島々の制圧期間を除くと、薩摩の山川港から奄美大島までは途中の島で一泊しましたが、それを入れて2日で着いていますし、その次の徳之島へも1日で着き、その次の沖永良部島にも1日で...続きを読む


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