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質問はタイトルのまんまです。
世界史の教科書を読んでいると、キリスト教は戦争ばかりしていませんか?
相手は異教徒だったり、考え方は違えど同じキリスト教徒だったり、ヨーロッパ史の戦争はキリスト教関係ばかりです。
私は幼稚園がキリスト教でした。
小学生の頃は日曜学校にも行っていて、ページェントもやりました。
そこで習ったことはなんとなくですが今でも覚えています。
「右頬を殴られたら左頬を差し出せ」
「たとえ気に入らなくても一生懸命あなたの隣人を愛しなさい」
「求める者には惜しみなく与えよ」
たしかこんなことだったと思います。
先生からはこれらの言葉やイエス・キリストの最期を通して、嫌な相手を憎むのではなく愛して許すことや人を傷つけてはならないということを教えられました。
子供ながらに「イエス様って優しいなぁすごいなぁ」と思ったものです。
神様(いわゆる天の上にいて私達を見守っているもの)はいないと思っている今でも、イエス・キリストのそんな考え方は尊敬しているし、実践できたらいいなと思います。(そんなに心が広くはないのでまだ出来てませんが。)
熱心な信者でもない私がそう思うのに、何故信者の彼らが「隣人を愛する」ことができなかったのでしょう。
「右頬を殴られ」たかどうかは知りませんが、彼らは「左頬を差し出す」どころか虐殺までしてますよね。
信者なら他人を傷つけるのを善しとしないキリストの教えを知らないわけないでしょうに…
どなたか、なるべく分かりやすく回答お願いします。
キリスト教に関してほぼ無知な上にあんまり頭良くないので…
A 回答 (26件中11~20件)
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No.16
- 回答日時:
プロテスタントのクリスチャンです。
真実な、完全な愛は神様のみ持っていらっしゃいます。人は皆、罪人であるので、イエス様の教えを完全に行うことは、誰一人としてできません。
イエス様の教える完全な愛を人間は持つことができません。クリスチャンとは罪がない人間とか、正しい人間とかではありません。ましてや普通以上に愛情深い人間でもありません。
クリスチャンは自分が愛のない、自分勝手な、罪深い人間であることを神様の前で認めた人間です。そして、自分の罪がイエスキリストの十字架の犠牲を信じることであがなわれることを信じた人です。そして、クリスチャンになったからといって、罪を犯さなくなるというわけではありません。自分の行いや正しさで人は救われないのです。
人を憎んでしまう、傷つけてしまう、自分の利益を優先してしまう、そういう人間の弱さを神様は全てご存知の上で、隣人を愛しなさいと語られたのです。「私のいうことができるというのか?できないだろう」と。神の前に人間が自分の正しさを主張できないために、イエス様は到達することのできない高い水準の愛を語られたのです。
世界史の教科書に掲載せれているような種類の戦争は、権力者が宗教の違いを利用したため、もしくは堕落した宗教者が自分の利害のために、宗教的立場を利用したためと思います。
この回答への補足
>クリスチャンは自分が愛のない、自分勝手な、罪深い人間であることを神様の前で認めた人間です。そして、自分の罪がイエスキリストの十字架の犠牲を信じることであがなわれることを信じた人です。
では、生活に困ってるわけでもなく、ただ遊ぶ金が欲しいだけの泥棒が「俺って今悪いことしてるぜ!」と自覚してて、「でもイエスが死んだことでこの俺の罪も許されんだもんねー」と開き直って罪を重ねる…というのはどうなんでしょう?
クリスチャンの方がそういう人だというつもりは毛頭ありませんが、「罪を認める」「イエスのおかげで救われると信じる」ことはこの泥棒もしてますよね。
クリスチャンの方はイエス様をどういう目線で見て、神の教えを説くときに何を思ってるんですか?
私は「イエス様は優しいなぁ。こういう人になれたらいいな」という風に「目標」としてイエス様を見てきました。(永遠に到達できない遠い遠い目標ですが。)そしてもし私が教える側に回ったときは「みんなこういう人になろうね」と言うでしょう。
>クリスチャンは自分が愛のない、自分勝手な、罪深い人間であることを神様の前で認めた人間です。そして、自分の罪がイエスキリストの十字架の犠牲を信じることであがなわれることを信じた人です。そして、クリスチャンになったからといって、罪を犯さなくなるというわけではありません。自分の行いや正しさで人は救われないのです。
この考え方は今までの私の中になかったせいか、理解しにくいです。(いままで凄く単純に考えてましたし)
間違ってるとかおかしいとかいう気はないです。(ただちょっと分かりにくいだけで)もし気分悪くしたらすみません。
回答ありがとうございます。お礼遅くなって申し訳ありません。
確かにイエス様の教えを完璧に実行できる人って、今の世の中いそうにありませんね。(存在したらそれこそ第二のイエス様だ!)
No.15
- 回答日時:
参考 URL のような書物は、キリスト教圏にもあまりないようで、作者も参考文献の入手が簡単ではなかったことを述べています。
ともあれ、キリスト教のコンセプトと、教会の政策とは、おおむね別物だと思った方が良いですね。唯一神の権威を伝える者や組織は、中央集権的に必然的になりますから、極めて有力な「圧力団体」になります。圧力団体イコール政治団体ですから、教会が政治のための良きことにも悪しきことにも全て手を染めるのは、当然の帰結です。
で、近代の議会制民主主義が存在しなかった時代、政治とは、実力行使を伴うものです。何かにつけ戦争になるのも、当然の帰結でした。
ちなみに、グーテンベルク以前のヨーロッパでは、教会関係者ではない人が聖書を読むことはできませんでした。教会による愚民化政策で
識字率が極めて低かった上に、聖職者以外に聖書を見せなかったからです。
出版が広まった結果、単純に言えば「書いてあることとやってることがちゃうやん!」として宗教改革が隆盛になりました。
ともあれ、そういう事情で「信者なら他人を傷つけるのを善しとしないキリストの教えを知らないわけない」とも言えないのですね。聖職者がそのくだりを説教したかどうかで決まりますから。
更に、個々の信者がどう思うのかとは関係なく教会の政策は決まりますから、聖書に何が書いてあろうがその政策に基づいて戦争ばかりしているという結果になります。
参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198921 …
回答ありがとうございます。お礼遅れて申し訳ありません。
教会が愚民化政策をしていたとは…驚いたというか呆れたというか。
そりゃ聖書と違うことを教えられれば宗教改革も起きますね。
イエスの本当の言葉を知らないまま戦争に加担してしまった信者が可哀想です。
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No.14
- 回答日時:
私は、あくまでキリスト教信者の立場としましていいますと、われはクリスチャンというのは看板になるということです。
信者にも、堕落した者がいます。むしろ堕落した人間のほうが歴史的におおいということが結論でしょう。堕落というとあれですが、ようは聖書に反しているということですが…
聖書の見解からすると、クリスチャンではあっても、真理は真に信仰をもち、献身的な者にしか与えられないということになっています。ですから、われわれでさえブッシュはクリスチャンですが、同志とはみなせないといいますか(笑)
聖書は曲解され、ときには人間を動員するために利用されてしまいます。そのたびに聖書は、ある意味で人間の目に見えないものとなっていったのですね。
回答ありがとうございます。お礼遅れて申し訳ありません。
歴史の教科書に載っちゃうような戦争は、政治に左右されて聖書を順守できなかった信者(ブッシュさんみたいな人)が起こしたものなんですね。
きちんとしたクリスチャンの方もいるのに…
No.13
- 回答日時:
宗教の根本目的は何かといいますと、一人の人間の幸福の追求にあります
社会や国家といっても、個々の人間の集まりによって、それは形成されています
世界平和を言葉で叫ぶことは簡単なことです、だれにでもできます
世界平和を実現するための、具体的な第一歩は、一人の人間の幸福から始まります
この幸福と幸福の連帯があって、平和な社会、平和な世界が生まれていきます
この一人の人間の幸福を無視した、世界平和などはありえません
戦争は勝っても、負けても不幸です、どちらにも大勢の人の血が流されます
一人の人間の幸福を真剣に考えて、行動した場合、こんな愚かな戦争など起こせるはずはありません
宗教は最初にも書きましたが、その目的は一人の人間の幸福の追求にあるといいました
これをもっと別の言葉に言い換えると、人間主義であるということです
ところがキリスト教の場合、一見、人間主義であるかのように見受けられますが
その奥底に流れている根本思想は、「神」が中心になっています
これはキリスト教に限らず、過去の日本の歴史を見ても同じなのですが
戦前の国家神道にしてもそうです
この世の中の主人公は、生きている人間が主人公です、人間が中心です
神が中心という思想は、主が神であり、人間は従になります
ですから、キリスト教の場合「主の名において・・・」とか「主よ許したまえ」等の言葉が頻繁にでてきます
もっと別の言い方をすれば、この世の中の支配者は、神であるということになってきます
偶像化された実体のないものを主として、現実の世界に実体として存在する人間そのものが従となる
本末転倒です
従の本質は無責任になります
またキリスト教の教えを、別の見方から見てみると
ここに一台の車があるとします、この車を人間にたとえてみてください
この車が事故を起こさないように運転の技術や、操作方法を巧みに教えてくれているのが、バイブルです、しかしひとたび車が故障したりした場合、その本質を教えていないので、何が原因で故障したのかわからない、車が何故動くのかという、そのメカニズムや、本質の部分を教えていないからです
この人間生命の持つ、本質の部分がわからない、解明する力がないということになります
この車の故障や、事故を過去の戦争と考えてください
ゆえに同じことの繰り返しを犯すことになります
世の中はすべて道理です
言葉ではだれでも世界平和を訴えることは簡単です
しかし、真の世界平和実現のために、確固たる理念を掲げ、具体的に行動を起こしている人は少ないのも事実です
この世界平和実現のための、具体的な行動とは一人の人間の幸せからであるということは既に述べました
この行動とは、自分の幸せを求めると同時に他をも幸せにしていこうという、利他の行動です、幸を感じるのも不幸を感じるのも、神ではなく、私たち人間そのものです。
この「神中心」から「人間中心」になったとき、本当の博愛精神というものが生まれると思います
「天地創造神」「禁断のリンゴ」「エデンの園」「ノアの箱舟」、この世の中は、おとぎの国の世界ではありません
真に力ある教えは、現実の世界を直視し、人間生命そのものがもつ、本質を解き明かした教えでなければ、民衆を指導していく力はないのではないでしょうか
回答ありがとうございます。お礼遅れて申し訳ありません。
戦争中の日本なんかは個人が死のうと不幸だろうとお構いなしに、神(天皇)中心に世界が回ってましたね。
神様を信じることは心の拠り所や信じられるものを持てるというプラス面だけではないということでしょうか…
No.12
- 回答日時:
参考に
イエス・キリストには2つの意味があります。イエスはジーザスというイエス自身の名前をあらわします。キリストという意味は、ユダヤ教でいうところの救世主という意味ですね。イエスの説いた教えはご指摘のとおり「無差別の愛」ですね。だからイエス教は2000年経っても普遍ですね。イエスの愛には宗教的差別も人種差別も階級差別もありません。日本ではこのイエスの教えに忠実であったのは無教会派の内村鑑三先生でしたね。一方、キリスト教は、イエスの教えを基礎とはしていますが、ユダヤ教の教義が色濃く反映しているのですね。ユダヤの民の宗教的排他性をその内部に含んでいるという意味です。それゆえ排他的な部分があるのです。イエス教には誰しもが納得できるのにキリスト教に疑問が残るのは、長い歴史の問題でもあるのですね。イエスの純粋な教えに耳を傾け、キリスト教という組織、教えからは距離を置くこともあるということですね。
回答ありがとうございます。お礼遅れて申し訳ありません。
キリスト教は色々混ざったものなんですね。
では私が習ったのは、厳密に言えば「イエス教」だったのかも。
ユダヤ教っていうのも名前は聞いたことはありますが…今度調べてみます。
No.11
- 回答日時:
キリスト教の博愛主義は、同じキリスト教者に対して「汝の隣人を愛せよ」と言う意味ではないでしょうか。
イスラムのような異教徒に対しては、戦いを挑みますし(十字軍)、そもそも人間と認めていない(文字通りです。生き物としては認めていたかも)オーストラリアの原住民アボリジニーをハンティングの対象として絶滅の瀬戸際まで追い込みました。絶滅させた民族も多くあります。現代では事情は違ってきていますが、そのような感性をもった宗教であると認識したほうがよいのではないでしょうか。
ちなみに私は幼稚園がプロテスタント。中高がカソリックの学校に通いましたが、親が無神論者で、そのくせプロテスタントの学校で教師をしていたというわけのわからない経歴でしたが、日本では成り立つのですね。
回答ありがとうございます。お礼遅れて申し訳ありません。
「隣人」とはあくまで「隣人」であって、「遠い場所の人間でないもの」は愛さず許さなくてもいいってワケですか。
イエス・キリストも「地球上の生物全部を愛せ」と説いていればこうはならなかったのかも?
No.9
- 回答日時:
私も以前に同じ疑問を持ったので、回答させていただきます。
以下の本が、キリスト教徒自身の著書には珍しく(?)、キリスト教に対する「一般人の正直な疑問」を素直に取り上げて、それに真っ向から答えようとしているように思いました。
ちくま新書「キリスト教を問い直す」土井健司著
それで、御質問の件については、私の受け取った回答は、「キリスト教は博愛主義だが、全てのキリスト教徒が博愛主義者とは限らない」ということです。特に、権力を持った教会指導部の人間が、必ずしも、本来のキリスト教徒であるとは限らないということです。
これは、あくまで、上述の本を読んだ私なりの解釈であり、著者の見解とイコールであるかどうかはわかりませんので、ご興味がありましたら、直接、ご一読をお勧めします。ちなみに、同書の第一章は、ズバリ、「平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか」です。
No.7
- 回答日時:
宗教にはとんと縁の無い者ですが、ちょっと参加させていただきます。
「博愛主義」というのは人間全て平等で広く愛し合わねばならない、ということだと思います。
キリスト教に限らず、これを否定するようなものが宗教として成り立つとは思えません。
ただ、信者にとっては「全て平等で愛し合う」という輪の中に自分が入っているのは当然だという認識があるはずです。
ここで「神の元での平等」から「他人と同様であるという平等」にすり替わるような気がします。
つまり、自分が幸福であるかどうかではなく、自分は他者より幸福であるかどうかという視点が芽生えるのではないでしょうか。
しかし、さすがは神で、人間の考えることは先刻ご承知です。
そのような視点で教えを曲解しようとする人間に対して、「右頬を殴られたら左頬を差し出せ」というような言葉が用意されているのではないでしょうか。
この言葉には続きがあるように思います。
「左頬を差し出すのが嫌だったら、せめてなぜ右頬を殴られたのか考えてみよ。」といったような内容です。
他人の右頬を殴る人間とはどういった人間でしょうか。
乱暴者?短気な人?
色々あるでしょうが、基本的には不幸な人間だということです。
この相手の不幸を無視して単純に怒ってはならない、ということのような気がするわけです。
「博愛の精神」に反することになりますから。
「たとえ気に入らなくても一生懸命あなたの隣人を愛しなさい」も同様に、「愛することができないのなら、なぜ気に入らないのかよく考えてみなさい。」という言葉が続き、
「求める者には惜しみなく与えよ」の後には「惜しみなく与えることができないのなら、せめてなぜ求めるのか考えてみなさい。」という言葉が続くように感じます。
そこで、「自分を含めた博愛」なのか「自分のための博愛」なのか、再度考えるように課題を与えられているわけです。
そして、最初に述べたように私は宗教には縁の無い者ですが、これらは我々の日常生活において常に求められ、対応を迫られている重要なことではないかと考えます。
それぞれの家庭で、職場で、学校で、地域で、身近なところで、内面的問題として個人個人が解決しておくべき課題のように思います。
これを怠ると、結果として、ある個人が生きていくためには他者を否定せざるを得ない状況が発生し、固定化され、否定された側がそこから抜け出すために更に相手を否定しなければ生きるのが難しくなる、という悪循環に陥っていくような気がします。
左頬を殴られるぐらいならばできるかもしれませんが、命まで差し出すわけにはいかないでしょうから。
回答ありがとうございます。お礼遅れて申し訳ありません。
う~む…深いですねぇ。
信仰とかそういうのじゃなくても、宗教の教えって日々の生活にとって大切なことを言ってるんですね。
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