哲学とは無縁な自分ですので、無知を露呈することになる
質問かもしれませんが、ぜひご回答お願いします。

人は、生来的に自分の知らない知識を獲得しようとする欲求があるのか?

これについて哲学の分野では、どのように考えられているのでしょうか。

よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

生来知らないものを知ることはもともとできないのか、イデアがあるのか。


いずれにしても想起です。
知らない場合は思い出すのではないかと思います。

イデアとはたとえば誰でも「善」と言えば善を思い、善で「悪」を表象することはできません。
知ろうとして考え進めるとその形式に辿り着きます。

なぜ知ろうとする人、しない人とわかれるのでしょうか。
わかりませんが、想起を求めるのでしょうか。
私はなぜだかそうなりました。学歴とは関係ないです。
私は子どもの頃よりも、大人になるにつれて増えました。20を過ぎてからです(遅過ぎ?!鈍いのか?!)。

人は自分の求めないものは求めない。求めないものを求めるということはできません。
ということは自分に合った、相応しい、必要なものしか求めることはできないということでしょうか。後で振り返り、何であんなものを、と思ってもその時はそれが欲しかった。必要だった。その時々で中身も変わります。
知識もまたそれを必要とした時に獲得しようと求めるのでしょうか。

なぜ必要とするのか。知識とは正に魂が求めるもっともたるものかもしれません。
その内容はいわゆる実生活にはほぼ無用です。実生活とは主に生存することの謂ですから、当然役には立ちません。
それ以前の部分、存在を存在たらしめる部分についての知識欲だからです。
それを魂がなぜだか求める。

知識欲がただ生活面でのことに限られるのか、生活以前に限られるのかが哲学への別れ目です。

いずれにしろ「人」は、でなく、「ある人」は、ではないかと思います。
もしくはある時に。
もしくは今生で無理なら来世?!
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  哲学について、それほど詳しい訳ではありませんので、自信なしとします。この場合の哲学を、一応、西洋哲学と考えさせて戴きます。インド哲学や中国哲学になってくると、どう考えていたのかまったくわたしには、分からないに等しいからです。
 
  古代の哲学にとっては、「知識」とは、多くの人にとって、「必要な道具」であり、その人が生きる上に必要な知識があれば、それで十分という考えでした。農民であるなら、農業を営む知識・実践知識があれば、それでよい訳で、商人となると、その扱う商品により、詳細な知識や最新の知識が必要になることもありますが、これも、商売上の実践知識です。政治家や軍人は、政治家となると、統治の知識や実践知識、古代なら、弁論術や修辞学も必要になったでしょう。軍人は下級軍人だと農民が戦い方を覚えた程度で、高級軍人以外は、別に戦略の知識も、文字の知識も必要ありません。古代には、知識奴隷ともいうべきものがあり、奴隷に色々覚えさせ、主人が辞書とか百科事典代わりに使っていたというのもあります。また、知識を売り物にしている職業の人は、やはり必要な商品の知識を仕入れて覚えたでしょう。総じて、職業に「必要な知識」は、生活に必要なのでこれは修得したのです。しかし、それ以上は、となると、古代哲学は否定的です。選ばれた「愛知者」は、真の知識を愛し求めるが、一般の人には、このような「情熱はない」というのです。実際、その通りで、一般の人は、生活に必要な知識しか必要としません。
 
  「知識欲」というのは、特権的なものなのです。社会階級が特権的というより、古代においては、或る人、おそらく神に選ばれた人が、新しい知識を求め、知識を愛し、知識欲を持っていたのです。人類の歴史は、このように、ごく少数の新しい知識を求め、開く人と、それに従う多数の人という構図でした。
 
  中世世界はどうかというと、古代と似ています。中世では、聖職者が知識の保管者・保持者・独占者ともなります。貴族も知識を持っていましたが、それは地位に相応しい知識で、多くの貴族は文字も書けないほど無知だったという記録もあります。聖職者も、新しい知識をむしろ禁じている風潮がありました。しかし、やはり、神が選んだのか、農民、職人、聖職者、貴族出身と色々ですが、新しい知識を求め探求する少数の人がおり、これらの人は知識欲を持っていました。また、商人は、大きな交易をする商人になれば、国王や一国の政治を操る人物と同じぐらいの知識を持ち、知識欲を持っていました。知識欲がないと大商人として競争に勝てなかったからです。
 
  総じて、人間は、「必要なことしか学習しない」存在である、これが中世までの、そして近世においても、哲学の人間観でした。選ばれた人は、真理への情熱を持ち、哲学者あるいは学匠となる、ということです。
 
  カントが啓蒙や世界平和についての意見を述べた頃、西欧社会は大きく変化して行こうとしていました。平等や平和や、豊かさや、よりよい世界は、「教育」によって、多くの人々の視野が広くなり、ものごとを合理的に考えることができるようになれば、実現する、当時の「合理主義者・啓蒙主義者」は、このような見通しを持ちました。普通教育の理念も彼らが立てました。
 
  現代、めまぐるしく新しい知識が出現し、次々にそれらを学習し、消化し、自分のものにして行かないと、普通のサラリーマンも商人も農民もやっていられない時代となりました。では、古代から考えられていた人間の本質についての哲学の考えは、ここで変わったのかと言えば、そうも言えません。
 
  ある人々は、知識への愛を持ち、知識欲があるようです。しかし、多くの人々は、実用目的で、色々な知識を覚えるようです。「知識欲」というのは、人間すべてに「本来的」に備わっているのではないと思えます。正確には、人間は、子どもの頃から、或る段階までは、猛烈な知識欲を持っています。しかし、それは他の高等動物もそうで、幼獣は、非常に大きな知識欲や好奇心を持ち、色々なことを学習し、そしてすぐに成獣になり、知識欲・好奇心は大部分消えます。
 
  人間の場合、不完全に生まれてくるので、それを補うのが「知識欲」だとも言えます。子どもは、言語を必死に覚えます。ただ、その努力は苦痛に満ちたものではありません。楽しい過程であるのです。猛烈な知識欲と、記憶がなによりも活発なのです。
 
  しかし、ある年齢になれば、多くの人は、生活の必要に応じて、新しい知識を学ぶので、そうでなく、「知識欲・好奇心」で、新しい知識を求めるというのは、やはり少数なのです。
 
  「知識欲」は、生物として人間が子ども乃至青年の時、つまり、大人への準備をしている時には、自然的にあるもので、その後も、知識欲があるのは、特定の人だけであるとなります。大学の先生でも似たようなことが言えます。職業であるので、色々な知識を学ぶのです。
 
  しかし、古代や中世、近世に較べれば、知識を求める人の底辺は大きくなったといえるでしょう。
 
  哲学では、「知識欲」は人間の本性としてあるが、それを維持し、一生持ち続けるのは、何かの恵みだというのが答えになるでしょう。
 
  人間は「智慧ある人(ホモ・サピエンス)」ではなく、本当は「無知なる人」なのです。そのことに気づく人が、智慧に向かう人で、「智慧ある人」でしょう。こういう人は、必ずどの時代にもいたので、人間の知識の進歩は、前進して来たのです。
 
  またロボットではないので、大人になると、新しい知識を求めなくなると言っても、ある意味程度の問題です。段々年齢があがるにつれ、好奇心が薄れて行くというのが人間一般で、まったく好奇心がなくなるのではありません。それは、人間が社会的言語的存在であることと密接な関連があるでしょう。
 
  そういう意味からは、人は、知識を求める、好奇心の生き物だというのは、正しいのです。
 
  おそらく、脳の容量や、記憶が年齢と共に複雑化して行くということが、人が年齢を取ると、好奇心を失って行く理由であり、阻害原因でしょう。現代的には、人間は、本来的には、知識を求め、好奇心をどこまでも持ち続ける、「尋ね求める人」だという姿が妥当だろうということになるのだと思います。最後は私見ですが、好奇心を失わせるマイナス要因が、年をとるにつれ、増えて行くのです。
 
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哲学はすぐに答えが得られませんし、得たとしても物質的な見返りがありません。



それでも人生の意味を知ろうとする人がいるのは、何よりも知識欲が生来的である事の証明になっているのではないでしょうか。
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●在ると思いますよ。


 知識欲は 性欲に似ていますね。
 因にふれて おこるところが似てますよね。
 知識欲の守備範囲は性欲よりも広いので 何にふれて欲がでるかは
 ひとそれぞれですよね。
●知識欲が生れたことが人間がここまで生き残り発達した
 ひとつの要因だと思います。
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 好奇心のことでしょうか?


 まわりの影響(感応)もあると存じます。それで、向上心も湧いて努力する方もみえるでしょう。
 肝心なのは、各人には過去世からの種々の宿業があり、花も時が来なければ咲かないように、開花する時期は人によって異なるのです。
 生まれて、間もなく死す方もいますし、植物状態、智慧遅れ、白雉、狂人等の考えることが、劣る方もおられます。
 すべからく「功徳」によるとされています。
 如何でしょうか?
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Q哲学の辞書か概説書 英語と日本語

あまり哲学に詳しくはないのですが、最近、英語の哲学関連の文献を読む機会があり、そもそもの用語の使い方からして、閉口しています。文献自体は、古代、中世哲学ではなく、近代、現代哲学に関わるものだと思うのですが、その分野もカバーしている英語の哲学の辞書(分厚い物である必要はありません)か、英語の概略書のようなものがあれば、教えて頂きたいと思います。
多少、古い辞書や文献でも構いません。
できれば、邦訳されているものであれば、両言語を確認できるので、なおよいですし、日本語の辞書、文献でも、英語での用語が載っているものであれば、意味があると思います。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

廣松 渉 (編集)『 岩波哲学・思想事典』、岩波書店(http://www.amazon.co.jp/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%83%BB%E6%80%9D%E6%83%B3%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E5%BB%A3%E6%9D%BE-%E6%B8%89/dp/4000800892/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1415798992&sr=8-1&keywords=%E5%93%B2%E5%AD%A6%E6%80%9D%E6%83%B3%E8%BE%9E%E5%85%B8)
古いですが、各語句に対応する英語を含めた外国語も載っています。


Ernest Sosa,(編集)“A Companion to Epistemology”,Blackwell Publishers(http://www.amazon.com/Companion-Epistemology-Blackwell-Companions-Philosophy/dp/0631192581/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1415798674&sr=8-1&keywords=A+Companion+to+Epistemology)
認識論中心ですが、辞書形式です。古いです。

山崎 正一(編集)『現代哲学事典』、講談社現代新書(http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%93%B2%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-225-%E5%B1%B1%E5%B4%8E-%E6%AD%A3%E4%B8%80/dp/406115625X/ref=sr_1_fkmr1_2?ie=UTF8&qid=1415798208&sr=8-2-fkmr1&keywords=%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%BE%9E%E5%85%B8%E3%80%80%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E3%80%80%E6%96%87%E5%BA%AB)
もっと古いです。外国語が載っていたか覚えていません。ただ、安価です。

廣松 渉 (編集)『 岩波哲学・思想事典』、岩波書店(http://www.amazon.co.jp/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%83%BB%E6%80%9D%E6%83%B3%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E5%BB%A3%E6%9D%BE-%E6%B8%89/dp/4000800892/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1415798992&sr=8-1&keywords=%E5%93%B2%E5%AD%A6%E6%80%9D%E6%83%B3%E8%BE%9E%E5%85%B8)
古いですが、各語句に対応する英語を含めた外国語も載っています。


Ernest Sosa,(編集)“A Companion to Epistemology”,Blackwell Publishers(http://www.amazon.com/Companion-Epistem...続きを読む

Q無縁社会ってんなら 無縁慈悲の出番ぢゃん。

 《無縁社会》は あたらしい造語だそうです。
 そういう社会のあり方にすすんで行っているのでしょうか?

 地縁血縁のきづなが ほころびて来ているのでしょうか?
 

 農村にしろそうでないにしろ地方から都会に出て働きそこに住むようになったばあい 田舎とのつながりは断たれたのでしょうか?
 そういう場合は あらたな地縁とそして社(会社)縁のつながりができて来るとも言います。

 少子高齢化などにより単身者として生活する場合が増える。
 就職の形態が正規でない場合が増える。
 となると あたらしく出来たと思った地縁社縁もほころびて来るのでしょうか?

 昔から無縁仏になるという情況もあったようですが 社会的孤立の量も質も変わって来ていましょうか?
 ヰキぺの無縁社会には 《個人主義》という主題も関連項目として挙げられています。
 経済や社会の仕組みの変化以上に そういったあらたな思想の台頭も影響していましょうか?


 ○ ヰキぺ:無縁社会:
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81%E7%A4%BE%E4%BC%9A

 ○ ヰキぺ:個人主義:
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9


 ここでは 次の二点を問います。

 A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。
 としか考えられないのですが どうでしょうか?



 B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。

  1. たとえば《無縁慈悲》なる行為をおこなうには――それが 人間のおこないうる経験事象であるとして―― 自分もひとり 相手もひとり それぞれが《ひとり》なる人間であるのでなければ成り立たない。互いに対等な存在であって初めて その愛は成り立つ。
 
 《主人と奴隷》なる A‐S連関制では 何も人間的なことは成し得ません。ほどこしと物もらいの関係では 動物以下の《縁》でつながっているに過ぎません。

 ゆえに 《主義》かどうかを別としても 《個人=ひとり》は 大切なことであり 欠かすことは出来ません。


 2. 全体主義がたしかに対義語であるのかも分かりませんが それはしかしながら先ほどの《A(主人)‐S(奴隷)》の連関制――つまり その主人にしたところでその奴隷がいなくなれば 主人ですらなくなりその限りで人間でもなくなります――が内容だとすれば それはむしろ論外とすべきことがらです。
 ということではないでしょうか?
 (哲学以前という論外だとまづ見なして それとして哲学は扱わねばならない)。


 3. けれども それでは《集団主義》が 《ひとりなる実存としての個人》の対義語になるでしょうか?

 これも《主義》と言うと一般に極論を指し示そうとする傾向がありますので そのあたりのことは別としますが それでもたとえば《集団志向》 これは 単純に人びとが互いに協力するということであり チームワークの問題であって そのときには《個人》をも互いに活かすという前提に立っているのではないでしょうか?
 
 おそらく家族や身内としての集団による拘束から始まって組織集団の内外における人縁は シガラミにまで成り得るので 《個人 vs. 集団》という図式が描かれるのかも分かりませんが 家族にしろ経済活動の組織にしろ 基本的な前提としてじゅうぶんに個人を活かしそれぞれの自由を発揮しまもろうとする志はある。と言わねばなりません。

 自律・他律の問題ではなく それぞれの個人の《ひとり》としての自立において自分も活きるし他人(ひと)も活きるそういう共同・協働の体制であるはずです。

 すなわち 集団志向は個人志向と相容れないものではない。集団主義の対義語が 隠遁だとか言うのもおかしい話でしょう。


 C. あらためて われわれ現代人のあいだに 《無縁慈悲》は成るか? こう問います。

 《無縁社会》は あたらしい造語だそうです。
 そういう社会のあり方にすすんで行っているのでしょうか?

 地縁血縁のきづなが ほころびて来ているのでしょうか?
 

 農村にしろそうでないにしろ地方から都会に出て働きそこに住むようになったばあい 田舎とのつながりは断たれたのでしょうか?
 そういう場合は あらたな地縁とそして社(会社)縁のつながりができて来るとも言います。

 少子高齢化などにより単身者として生活する場合が増える。
 就職の形態が正規でない場合が増える。
 となると...続きを読む

Aベストアンサー

☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。
 としか考えられないのですが どうでしょうか?
~~~~~~
《無縁》を、他者との関係性やしがらみが失われたという意味で考えるならば、関係性やシガラミが失われた人の間に、その関係性を理由としない慈悲は起こり得るのでしょう。
ただ、それは、《他者との関係性やシガラミの失われた》人が、それと同様な境遇に対する人に対する同情心や強い共感、シンパシーに起因しているのではと思います。
なので、それは、理由を必要とせず、万人に無条件で与えられる《無縁慈悲》とは異なっているのではないでしょうか。
そのような気がします。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。
~~~~~~
Wikipediaの記事を読み、わたしも、《全体主義》が《個人主義》の対義語であることをはじめて知りました(ポリポリ)。
全体と個人を対立構造の中でとらえれば、そういうことになるのだろう、でもすこし違うのでは、というのがWikipediaの記事を読んだ感想です。
全体や集団、共同体とまったく無縁な個人は存在し得ません。個人の利益や自由は、個人が所属する共同体によって制限を受けます。その制限は、共同体に所属している個々人の同意や合意の上で成立しているわけですから、Wikipediaの定義は、どうなのかなという気がします。
圧倒的な武力や暴力などを有し、それを背景に一部の為政者がそれ以外の人々を支配し、隷属させているのならば、《全体主義》は、実は為政者の側の利益を守る口実になるのでしょうが、現代の日本においてはもはやこの構図は成立しないでしょう。国家や共同体が構成員である個人に隷属するようになっているのですから。
全体主義と個人主義は、もはや溶け合っているんじゃないですかね。
そして、
そこに今日の状況の難しさが存在していると考えます。

☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。
 としか考えられないのですが どうでしょうか?
~~~~~~
《無縁》を、他者との関係性やしがらみが失われたという意味で考えるならば、関係性やシガラミが失われた人の間に、その関係性を理由としない慈悲は起こり得るのでしょう。
ただ、それは、《他者との関係性やシガラミの失われた》人が、...続きを読む

Q哲学を本当にわかっている人が少なすぎると思いませんか?

私は哲学科卒です。
その話をしただけで変人扱いされることが多いです。
また、哲学の「て」の字も知らずに哲学を語っているつもりになっている人も多いと思いませんか?
哲学科卒の友人と話す時は、お互いきちんと哲学で話せるのですが、哲学を知らずに哲学したつもりになっている人が多い気がします。

Aベストアンサー

これだけ回答がついているけど、ここで質問したいのは一体何なの?私にはただの愚痴にしか聞こえないんだ。とりあえず、唯一疑問文になっていることに答えておくと私も「多い」と思うよ。

さて、質問者さんは「縁なき衆生は度し難し」という言葉はご存知?

哲学を学んだことがない人間は「自分の想像した哲学」についてわかったようなつもりで語るのさ。これが例えば「数学」や「物理学」であったならはなから語ろうとはしない癖に、ね。数式が出てくるような学問はどうせ自分には判らないと思う癖に人文系の学問なら判るし口も出せると勘違いしているんだ。

正直言えば、私ももう30年余り同じことを感じているよ。このサイトでも「哲学」分野では答えないことにしているのは(これが2回目の回答のはず)まともな哲学の話にはならないからさ。哲学科卒の仲間とだと基本的な前提が同じだから話しやすいとも思うよ。

でもねぇ、一言アドバイスさせてもらうと「哲学を語っているつもりの人」と実生活で出会ったら、少しだけ真剣に相手して欲しいなぁ。苛つくのは判るし、何よりも相手の思いこみが激しいのも判るけどね、それでもほんのちょっとだけでも哲学の世界を見せてやって欲しいんだ。少なくとも哲学の世界の視野の広がりと射程の長さを垣間見させるだけでも良いからさ。相手が真面目な人で考える力を持っている人なら、なんとか話は通じると思うんだ。

もう一つ書かせてもらっても良いかい?
それはね、哲学を語っているつもりの人の言うことを黙って聞いてあげようよ、ということさ。相手の話を聞くということは自分にとって有益なことが多いんだ。何より相手のレベルや考え方がわかるからね。もし、質問者が相対主義者だったら、自分と異なる意見は歓迎のはずだし、「正しい」ことを主張する必要もないからね。絶対主義者なら何を言われても、絶対に対する相対的な話は平気なはずだしね。

ま、哲学を知らずに哲学を語りたい人間は多いのはこのカテゴリーの質問数と回答数を見ても明らかだね。答えを見ていて、まともに哲学をやった人はごく少数しかいないのは判るだろ。

これだけ回答がついているけど、ここで質問したいのは一体何なの?私にはただの愚痴にしか聞こえないんだ。とりあえず、唯一疑問文になっていることに答えておくと私も「多い」と思うよ。

さて、質問者さんは「縁なき衆生は度し難し」という言葉はご存知?

哲学を学んだことがない人間は「自分の想像した哲学」についてわかったようなつもりで語るのさ。これが例えば「数学」や「物理学」であったならはなから語ろうとはしない癖に、ね。数式が出てくるような学問はどうせ自分には判らないと思う癖に人文系...続きを読む

Q哲学の実践と、「無知の知」

たぶん「無知の知」は、哲学カテゴリでもつとも頻出する用語だとおもひます。そして、それを否定する投稿を私は読んだことがありません。では、この言葉をどのやうに自分自身にあてはめてゐますか。


私の場合
(1)知らない世界を少しづつでも知つてゆくのが楽しい。本を読んでも既存の知識しか得ることができないので、このQ&Aサイトのさまざまなタイプの人から多彩な意見を聴けるのは貴重である。
(2)自分の知らないことを教へてもらへるのが、ありがたい。そのためには、できるだけ人と接したい。
(3)知らないことや間ちがへやすい人間であることを誇りにできる、もしくは自分を笑へる。

Aベストアンサー

なんとなく実績あげて調子こいてる時に、ミスしたとき。

Q年間ベストセラーランキング

年間ベストセラーランキング
1990年頃から今年までの年間のベストセラーベスト10くらいまでの本が書かれたwebってありませんか?

Aベストアンサー

こんにちは、はじめまして。

以下のURLのベストセラーランキングが参考になると思います。
宜しければ、見てみてください。

http://www.kbc.co.jp/radio/hon/ranking/ranking.html

参考URL:http://www.kbc.co.jp/radio/hon/ranking/ranking.html

Q知識欲 好奇心はなんの為にあるものなんしょうか?

知識欲 好奇心はなんの為にあるものなんしょうか?

Aベストアンサー

それ(生理的な必要に関する情報以外の環境情報の蓄積=認識
の深まり)がなければ、生きる事は条件反射になってしまい、
新たな環境への適応や、環境の改変(農業や工業、道具)、
分業(本能以外の協力)ができないからです。

人類の繁栄は、ハチやアリのような遺伝的多様化による分業と、
本能的な条件反射による社会行動ではなく、五感の相関した
経験の蓄積による、光や音といった先行感覚に対する生理的
作用の予測(=空間的広がり=外的存在の総合的認識)において、
自己の行動の結果も予測する=淘汰によらない自律的行動の
多様性(適応&社会性&環境の改変)によるのです。

ただ、その社会性(=助け合い)の発達の延長上に、工業化
における分業化や市場の拡大において、その拡大に対応した
認識の深まりを怠り、お金という“馬車馬の目の前のニンジン”
によって他律的に社会行動をとらされるようになった時から、
人の認識の発達は、自己存在の本質の認識による自律的生の
ための認識(=質の向上)から、お金をもらうためにイヤイヤ
働かされる歯車としての知識(=量の増大)へと、変質して
しまったのです。
その結果、環境認識の深まりとしての好奇心は失われ、
理科離れが進んでいるのです。

それ(生理的な必要に関する情報以外の環境情報の蓄積=認識
の深まり)がなければ、生きる事は条件反射になってしまい、
新たな環境への適応や、環境の改変(農業や工業、道具)、
分業(本能以外の協力)ができないからです。

人類の繁栄は、ハチやアリのような遺伝的多様化による分業と、
本能的な条件反射による社会行動ではなく、五感の相関した
経験の蓄積による、光や音といった先行感覚に対する生理的
作用の予測(=空間的広がり=外的存在の総合的認識)において、
自己の行動の結果も予測する=淘汰によら...続きを読む

Q州立リベラルアーツ系大学について

私は、アメリカの短大から州立のリベラルアーツに編入したいと考えています。
そこで疑問がいくつかあるので是非ご存じの方にお聞きしたくて投稿しました。


・州立のリベラルアーツは私立との差はあるのでしょうか。あるとしたらどんな所でしょうか。(学費の違いは除く)
少人数制で教授に質問しやすく、勉強し易い。といろんなサイトに私立のリベラルアーツの良い事が記載されていました。州立でも同じことが言えますか。

・ジュニア・カレッジは、リベラルアーツの1・2年次に相当するとありましたが実際のところどうなのでしょうか。

参考資料http://www.geocities.jp/spinning_drive/Kind_of_Universities.htm


皆さんの情報をお待ちしています。

Aベストアンサー

アメリカの州立大学を卒業した者です。
州立のリベラルアーツと私立との差は、私立は独自のカリキュラムがあるので、その大学でしか開講していない科目を取らなければならないのに対して、州立だとそういった癖のある教科をとらなくてもいい点が異なります。トランスファーもしやすいと思います。

又、州立も私立も規模により少人数制かどうか異なります。
大きな州立大学だと、生徒30人に対して教授1名とか。
割合は、HPなんかで確認した方がいいですね。

参考まで。

Q「教えて」やってわかった知識自慢(自己顕示欲)が思いやりを上回る法則

一般論として、人っていうのは、
「人への思いやりよりも、自己顕示あるいは自己表現欲求のほうが勝るものである」
ということが当てはまるようだと思いました。
もちろん少数の例外(それこそ真の人格者)はあると思いますが、一般法則として感じます。

それは「教えて」をやって感じたことです(これを一般化するのはどうかと思われますが、どうも日常であう光景を考えても妥当なような気がします)

ある質問で、
「すごく周りにいざこざが合って心が苦しい時代があった時に、なにか超自然的な現象が起こった、これを説明できないか?」
「近親相姦をしてしまっているのだが、なぜいけないことなのか教えてほしい」
という例があって、
これに対して、「同情」というようなものが感じられる回答がない。私は可能な限り、「知識にひけらかせ」ともちろん「嫌がらせ嫌味」は問題外だと思っているのですが、はじめのほうの質問には「そういう大変な時期なのですから超常現象のほうは付随的なんでしょ?」というニュアンスで回答できたのですが、あとのほうは「近親相姦してしまって悩んでおられますね心中お察しします」という風にはなれずに、「知識論」で通してしまったのです。あとのは「嫌味」やら「嫌がらせ」やらそこらの子供の戯言と同じでしたが、私としたことが、「同情」「共感」を持って回答できなかったのです。

ああ、これは限界だと思いました!
いくら私が自分で行儀いいやつだ、情けが深いやつだとうぬぼれてみても、所詮はレヴェルの問題で、本質的な人格者寛容者ではないわけです。

人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね?

一般論として、人っていうのは、
「人への思いやりよりも、自己顕示あるいは自己表現欲求のほうが勝るものである」
ということが当てはまるようだと思いました。
もちろん少数の例外(それこそ真の人格者)はあると思いますが、一般法則として感じます。

それは「教えて」をやって感じたことです(これを一般化するのはどうかと思われますが、どうも日常であう光景を考えても妥当なような気がします)

ある質問で、
「すごく周りにいざこざが合って心が苦しい時代があった時に、なにか超自然的な現象が...続きを読む

Aベストアンサー

まず、
「人への思いやりよりも、自己顕示あるいは自己表現欲求のほうが勝るものである」
とおっしゃる点について。

私は「人への思いやり」も「自己表現欲求」なのではないか、と思います。
ですから、「(一方的な善として)人を思いやっている」と自ら公言する人を私は信用しません。
人格者どころか、偽善者と呼ぶほうがふさわしいのではないか、というのが私の見解です。

「思いやり」というのは、高みに立って一方的に相手に与えるものではなく、相手の立場を【ある程度】慮るということでしょう。
【ある程度】というのは、個人のキャパシティの範囲内で、という意味です。
自己犠牲を伴なう思いやりは真の思いやりとは言えません。
なぜならば、それは、ある人の犠牲の元に自分は思いやりを受けているのだ、という罪悪感を相手に付与することに他ならないからです。
つまり、思いやりというものはエゴと裏表の要素を持っているわけです。
これが個人のキャパシティの範囲で行なうべき根本的な理由です。
ですから、(確かに、陥りがちな陥穽ではあるのですが)無意識的にせよ「~してやった」という感覚が兆すうちは本物ではない、というのが私の考え方です。

本当の思いやりというのは、真理(と自分が信じること)について語り、一時的ではない心の安定を目指そうとするベクトルに相手を誘おうとする姿勢ではないでしょうか。
そのこと自体が取りも直さず自分自身の向上にも直結するわけですから、たとえばここでの質問者と回答者が対等であるというのは、そういう意味でもあるわけです。
仮にそれが、拙いものであったとしても、その姿勢は相手に勇気を与えるのではないか。
そう感じます。

>私としたことが、「同情」「共感」を持って回答できなかったのです。
:ともおっしゃっていますが、それを持って回答すべきときとそうでない時があるように思います。
近親相姦のほうはあれでよかったと思います。
「>人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね?」
とのことですが、あの質問に対して同情的に回答しようとする姿勢がすでに「優位性」を意識していることになります。
何事につけ「同情」の本質は自己満足にすぎず、相手をスポイルする要素は非常に大きいのではないでしょうか。

>いくら私が自分で行儀いいやつだ、情けが深いやつだとうぬぼれてみても、所詮はレヴェルの問題で、本質的な人格者寛容者ではないわけです。
:むしろ、これが自然で健全ではないですか。
レベルの問題というのは2点にわけて考えることができます。
ひとつは先に述べましたがキャパシティの問題です。
本人の度量以上のことをするのは好ましくありません。
自分にも相手にも無理がかかり、無理はストレスとなり、生体に不利益に作用せざるを得ないからです。
もうひとつは不合理な思い込みに関する問題です。
不合理な思い込みというのは大体が自己防衛のために発せられるものと考えてよいでしょう。
つまり、臆病な者ほど自己を(安易に)守るために、不合理であろうがなんだろうが思いこんでしまいがちだ、ということです。

しかし、これはその人間を責めているわけではありません。
それなりに一生懸命なのだ、という視点です。
そういった視点に立ってあらゆる事柄に対処しようとすることで、人間というものに対して今までとは違った感懐を持つことも可能になるのではないか。
そんな気もします。
 

まず、
「人への思いやりよりも、自己顕示あるいは自己表現欲求のほうが勝るものである」
とおっしゃる点について。

私は「人への思いやり」も「自己表現欲求」なのではないか、と思います。
ですから、「(一方的な善として)人を思いやっている」と自ら公言する人を私は信用しません。
人格者どころか、偽善者と呼ぶほうがふさわしいのではないか、というのが私の見解です。

「思いやり」というのは、高みに立って一方的に相手に与えるものではなく、相手の立場を【ある程度】慮るということでしょう...続きを読む

Q哲学者の名言

有名な哲学者の名言をたくさん教えてください。おねがいします。

Aベストアンサー

ANo.5 です。 興味深いご質問で、 再度すみません。。。

誰のコトバか 不明なのですが

 【以前 私は 盲目だった しかし 今は 見える..... 】

相当、奥深くてスキです ★**~

Q知識が哲学の邪魔をすること(場合)ってありませんか?

先の質問で判断停止という用語を覚えたのですが、ひらたく解釈すると、
何らかの前提を信じることで、その前提より以前に前提があるかもしれないことを保留してしまう
、、、という意味に受け取ってよいのでしょうか?
「何らかの前提を信じることで」の部分がちょっと違うような気もしますが、
おおざっぱに言ってしまえばこれでOK?
もし解釈が間違ってたらここから先は質問になりません。
間違いを正してください。

さて、解釈がまあそれでよしとしようであるなら、
そうして得た答えというのは、生活上の解決にはつながっても、
元々の問いに対する答えとは別物の気がします。

知識を得ることで、なんとなく納得できてしまう疑問。
考えることをそこでやめてしまうとしたら、
知識が哲学することの邪魔をするということになりませんか?

Aベストアンサー

こんにちは。

 ぎゃくにエポケー(判断中断)というのは:

   知識やそのときの状態と段階でさらに思考を繰り返しおこなうことで
  ひょっとすると哲学することが邪魔されるかも知れない
   という考え方の上に立っている。

 はずです。そしてその場で判断を一たん打っ棄っておくことによって――その提唱者( E. フッサール)の思惑にあっては―― さらに《直観(ヒラメキですね)》が得られるという見通しのもとにあります。

 判断を中断することによって――知識も気持ちも余分なものにはいっさいこだわらないとすることによって―― 《純粋意識》に達して言わば《ものの見えたる境地》にいたる。ということだと捉えられます。

 参考資料として:
 【Q:現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7034634.html


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