最速怪談選手権

●ある方がおっしゃいました。
 「素敵だなと思えることを多く見つける又は行うことが多いほど幸福だ。」と。

 さて みなさんの幸福とはどんなものですか? 教えてください。

A 回答 (20件中11~20件)

>自分というものから抜け出たところにこそ本当の幸福はあるのです



 これは、何等根拠もない、我見であり、独り善がりの論理でしょ。まず、自分という事も分かっていないんじゃないですか?
 仏法では、「我」というもの自体が無いと説いているのであります。
 再三、仏法を知らず、すべからく我見で推し測っておられるようです。そして、釈尊よりも偉いという傲慢さを露顕されています。だから、呆れているのです。

正法に従わぬことが不幸の原因

 ところが、この正しい仏法が世に存在するといっても、これを信じようとせず、また背くならば、まことに恐るべき結果をもたらします。
 それは、我が胸中に偉大なる仏の生命を開顕するための大法に背くのですから、かえって自らの手で仏界を破壊するようなもので、その結果、生命力はしぼみ、物心両面にわたって諸々の行き詰まりをきたして、その人の人生は地獄の苦しみに陥るのであります。
 そのことを仏法では、
 「夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ」
と教えています。
 現実を振り返ってみてください。経済的な問題、対人関係の悩み、病気、家庭不和、性格的欠陥等々、誰もが必ず問題を抱えて苦しんでいるはずです。それこそが、正しい仏法に背いてきたために生じた苦悩なのです。
 この厳粛なる事実を知らず、また、知ってなお背き続けることが、一切の不幸を招き起こす根本の原因となります。ゆえに、時々刻々いたずらに不幸の因を積み重ねることなく、一刻も早く正しい仏法を信受し、真の幸福境涯を獲得すべきであります。
 如何ですか?
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この回答へのお礼

●わたしは お釈迦様より偉いだなんて ぜんぜん思いもしません。
 偉いという言葉は 社会が呼ぶ形容であって自分がいうものではありません。
 ただ わたしが感じているのは もしお釈迦様の言葉をあなたが代弁しているのであれば
 それは はなはだ なさけないなあ もっとよく物事を見てくださいと
 思うのです。わたしの方が深く物事をみれてる とは感じます。
 あなたが挙げた苦悩とは本人の問題であり 他人がとやかく言うべきものでは
 ありません。おおきなお世話とはまさにこのことです。
 たぶんあなたの苦悩とわたしの苦悩とは天と地ほどのちがいがありますよ。
 あなたの挙げた例は わたしには楽しい事このうえないことです。
●わたしの苦悩とは互いのかかわりのなかでしか生きざるを得ない人間の
 命がそのかかわりそのものをコントロールできていないことからくる
 ジレンマなのです。
●あなたがお釈迦様の言葉を信じて一心にそれを実践しようとする「その姿」は
 尊いとすることも出来ると思います。
 わたしの助言は信じることで盲目になっているあなたには伝わらないかも
 しれませんが 言うだけは言っておきます。
 「悟ったとされる人間の言葉を実践することで幸せになれる。」と思うこころの
 さもしさを知らなければなりません。
 幸せとはその人それそれがそれぞれに見つけるものなのです。

 odd-artさんのことはとても切なく感じています。ひとの良い方だとも思います。
 それでも敢えて苦言を言わなければなりません わたしの偽らざる気持ちだからです。
 サイバースペースは利害関係がありませんので思いのままを出せるのです。
 odd-artさんのおっしゃることは実はとても良くわたしにはわかるのです。
 また わたしのような人間が無数にいることもodd-artさんもわかってらっしゃると
 思います。
●お釈迦様は みんなで仲良くひとつの道を歩むように勧めたかもしれません。
 しかし そのこともわたしにしてみれば 洞察の甘さを感じるのです。
 もとむるべきは多様性です。たとえば5億年の幽閉を考えてください。
 画一化ほど苦しいことはないはずです。多様性こそ5億年を生き抜く
 知恵であることは明白です。
 あまりひとつの考え方に固執しないで お釈迦様のおしえから自分なりの
 生き方をつむぎだして 多様性の内のひとつとなられたらいかがですか・・・。

お礼日時:2002/01/23 23:23

ビアス 悪魔の辞典によると「不幸な者を観ているうちにむらむらと湧き起こる心地良い感情」だそうです。



私は自分が幸福だなと感じるのは 何かと比べて自身が
物質的、精神的に優れていると感じたときです。
ご質問を拝見して 自身が幸福だと感じたのはどんな時かと
思い前述の回答にいたった事に劣悪感を覚えましたが
嘘を書き込むわけにもいきませんでした。

それぞれの方の回答も読ませて頂き共感を覚えた事も
紛れも無い事実である事を加筆させて頂きます。
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この回答へのお礼

●よく 「他人の不幸は蜜の味。」といわれますよね。

 あなたのように勇気をもって自分のこころのなかを表に出せる方が
 これからの時代をリードしていくのだな・・・。 と感じています。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 20:53

こんにちは!marcoと申します。



chihokoさん、このご質問をまだ回答数が0の時に見つけたのですが、皆様がどのように回答されるかを先に見たくて少し待っていました。

目に見えて大げさな幸福の中で「幸せ」と感じる事は、私にとっては「恐怖」とも言えます。俗に言う「幸せすぎて、怖い・・・」ですね(笑)。そんな状況にはめったに出会いませんけど。

ギャンブルで楽して大金が入った時より、負けて悔しいながらも笑って帰る瞬間の方が、実は好きだったり。
友達と「何か、いい事ないかな~・・・」「あれ、むかつくんだよね~・・・」と、何かとうまくいかない生活を話しながら、おいしいご飯をパクパク食べていたり。
私の言う事何でも聞いてくれる人より、だだをこねて私を困らせる彼氏が愛しかったり。

とんでもない高望みや妄想もたまにはしてみます(笑)。でも、いざそれがすべてかなった時私は「幸福だ」と胸をはって言えるかな・・・。

と言う訳で、人間らしく生きている「今」が幸福の時間と私は考えます。

「素敵だなと思えることを多く見つける又は行うことが多いほど幸福だ。」
これは素敵な言葉ですね!あまり難しい事はわからないのですが、こんな風に生きていきたいです。

素敵な質問を、ありがとうございました!

P.S 真っ青な晴天の広~い空を見上げると、吸い込まれそうになって「あ~・・・幸せだ・・・」と、無条件に感じる事があります。あれは不思議です。宇宙を感じているのでしょうか?(*^O^*)
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この回答へのお礼

●marcoさんは すばらしい感性を お持ちですね。
 たしかに おっしゃられるとおり 満たされない状況や ついてない事にも
 幸福は宿っているんですよね。
 なんか いきているって ほんとうにすばらしいですね。
 こころから 同感です。
 だれもが 素直にmarcoさんのように 何事に対しても包み込むようなこころで
 幸福をかおらせて生きていける社会を きっと築きましょうね。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 20:50

ちょっと違う視点から。

幸福であるのは、まさに幸福を追い求めて奮起しているときだと思います。ちなみに僕の幸福は、生きている、生かされていると感じられることかな。(これまた、大上段な回答で申し訳ありませんが…(-_-;))
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この回答へのお礼

●あなたの命に とても健全なエネルギーを感じました。
 同感です。 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 20:42

こんにちは


人の言葉を借りるならば
「自分のことを幸せだと思う事が幸せへの一番の近道」
と言う所で表されるモノが自分にとっての幸福です。
 なかなかうまくは行っていないんですけど(苦笑)
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この回答へのお礼

●なんか ほんのりと素敵な言葉ですね。
 自分という存在そのものへの感謝のこころが伝わります。

 たいへん参考になりました ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 20:40

精神的充足。



もちろんそのためには肉体的な満足も必要な部分もありますが、それは僕にとっては本義ではありません。

僕の幸福というのは、「全世界の全てが満足のうちに調和すること」です。
しかし、これはどうやら高望みのようなので、絶望しています。
我占欲が強かったり、他人に対して親切にしなかったり、他人を受け入れられなかったり、他人を見下したり、他人のやることにオーバーに抗議してみたり、「そんな人」が世の中にはあまりにも多すぎるのです。
僕は「そんな人」を見ると、吐き気を催します。「そんな人」がいなかったらどれだけいいことかと思いもします。
しかし、「そんな人」はいる。これが現実です。
多くの動物は「自己満足」で動いています。それで幸福だって思っています。僕もはた目から見れば「自己満足」なのかもしれませんが、自分の幸福のために他人を満足させるというのは、筋として悪くないと思っているのです。それが僕の行動原理ですね。

でも、実践となると、他人が満足できないようにする「そんな人」の処分に困ります。「そんな人」も「自己満足(とはいえ満足)」のために動いているのでしょうし、「そんな人」も他人の1人であるからです。
僕は「そんな人」をせいぜい憎むことしかできません。
それで僕は幸福なのか、と問われれば、幸福ではないですね。
本当は憎みたくないんですが、仕方なくやっていることです。

利害関係というものが天地開闢の時以来ある以上、僕は人間が幸福になることはできないんではないかと思っています。
でも、1人でも多くの人が、「自分の幸福」ではなく「全員の幸福」へ向けて働けば、幸せな状態には近付けると思うのです。

そういうわけで、幸福というのは、そう簡単なものじゃないですね。
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この回答へのお礼

●人間は他者とのかかわりのなかで生きざるおえない存在ですよね。
 そこがウィークポイントになるような気がしています。

 サイバースペースに人間の英知をはるかに超えた知恵が出現するだろうと
 確信しています。きっとあなたの不満も その「超えた知恵」が
 やわらげる方向に 人類を変えてくれると思いますよ。
 でも多様性はとても大切なことです。いろんな人がいることは基本的には
 たのしいことだと思いませんか?

 カラクチのご意見ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 01:11

自分が自分でいられる場所があること。


精神的にも肉体的にも自分が負担と感じない空間。そんなものがたくさんあることが幸せのような気がします。
別におおげさに考えずに、テレビを一人で見ている空間とか喫茶店で新聞や雑誌を読む空間とかそんなささいなことではないでしょうか。
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この回答へのお礼

●なんか だきしめたくなるような 幸福感ですね。
 なみだぐんじゃいましたよ。 ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 00:58

 あなたのおっしゃるとおり、幸福といっても、人それぞれに幸福の内容・幸福感というものが、異なっています。


 たとえば、ある人は「社会的地位や名声を得ることが幸福だ」と思い、ある人は「大金持ちになることが幸福だ」と思い、また、ある人は「健康で、平凡な一生を過ごすことが幸福だ」と思っているのです。
 もちろん、これらの幸福感を否定するものではありませんが、これらは、いずれも小さな、砂上の楼閣にも等しい不安定な幸福です。
 なぜ、そのようなことがいえるか、といいますと、世の中のすべては常に変転し続けており、ひとつとして、そのままの形・状態で止まっているものはありません。そのような世の中にあって、たとえ一時、自分なりの幸福を得たとしても、それは永遠・絶対のものではなく、状況の変化によって、いつ崩れるともわからない、いわば不幸と隣り合わせの、不安定な幸福にすぎないからです。
 現に、これまで健康そのもので暮らしてきた人が突然の病魔に倒れたり、栄耀栄華の極みにあったベンチャー企業の社長がわずか数年で一切を失ってしまったり、或は円満な家庭生活に満足していた人が不慮の天災・事故・犯罪によって非業の死を遂げ、家族も悲嘆の底に堕ちてしまったケース等・・・、こうした事例を挙げたら枚挙に暇がありません。
 このような、一時的で不安定な幸福を、仮に相対的幸福と呼ぶならば、正しい仏法の信仰で得られるのは、「成仏」といって、揺るぎない絶対の幸福境涯であります。

誰もが求めるべき絶対的幸福「成仏」

 成仏とは、死んで仏になることでも、人間とかけ離れた超越者になることでもなく、自己の生命の奥底に内在する「仏(仏界)」という最高の生命を引き出し、これを現実生活の原動力として生きることをいいます。
 さすれば、仏界の力強い生命力と勝れた智慧の働きにより、いかなる人生の問題や苦難に直面しても、それをあたかも波乗りのように解決して、生きていくことができるようになるのです。それは、まさに生きること自体が楽しい、という境涯です。
 また、この成仏の境涯は、変転しゆく現実生活をそのつど切り開いていける境涯ですから、状況の変化等によって崩れ去ったりしない、安心立命の境地でもあります。
 前に挙げた相対的な一々の幸福と較べれば、これこそ、人生の絶対的幸福であるといえましょう。
 しかも、この絶対的幸福を獲得していくときには、そこに、経済面・健康面・精神面といった、相対的な分々の幸福も具わっていきます。
 ゆえに、この成仏という絶対的幸福は、個々の幸福観の違いに関わりなく誰もが求めるべき最高の境涯なのであります。
 どうか、あなたも、一日も早く正しい仏法を信仰し、絶対的幸福への道を歩み始めてください。その中で、あなたの抱える悩み苦しみは必ず解決し、あなた自身が求める幸福も獲得していけるのです。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

いつもおつきあいいただきまして ありがとうございます。

●あなたの言うお釈迦様が もし幸福について深く考察したのであれば
 あなたの解釈はまちがっています。
 幸福とは波乗りのように障害を乗り越えれる境地ではありません。
 また病気を寄せ付けない境地でもありません。それは
 どんな境遇におかれても 宇宙の摂理により開放されている自然と
 自分が一体であり その様々な命たちと共に解き放たれていることへの
 感動を生きる ということそのものであるはずです。
●お釈迦様がなんと言っているかは知りませんが だれでも幸福について
 深く考えれば そこに行き着くはずです。

●だから大切なのは宇宙の摂理を理解することであり。
 その摂理に添うごとくに生の営みをコントロールすることなのです。
 障害を乗り越えようだとか 病気にならないようにとか 自分に固執するのではなく
 自分というものから抜け出たところにこそ本当の幸福はあるのです。
 お釈迦様がこのことに気づいていないなら たいしたことないですよ。

お礼日時:2002/01/23 00:56

昔になりますが、「サンタクロースはいるのですか」という本を読んだことがあります。

バージニアという3歳の少女がニューヨークタイムズに手紙をかいたというお話です。その新聞社の社説で「サンタクロースがいると思う心のなかにサンタクロースは存在しています」という答えが返ってきたそうです。
幸福というのは、人がそれぞれの心のなかに「幸福」な思う気持ちがあれば、それらがすべて幸福なことです。
結婚できたこと、子供ができたこと、あたたかい味噌汁があること等、いろいろあります。自分のなかにある幸福をみつけてみてはどうでしょうか?
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この回答へのお礼

●サンタクロースのエピソードはとてもいいおはなしですね。

 わたしもいろいろ考えるときは かならず幼い自分の感性を
 呼び覚ますんですよ。子供の感性に間違いは無いと確信しています。

 素敵なエピソードをありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 00:35

自分が人に与えることが出来る人間であり、相手がそれを受け取ってくれること。


相手が与えてくれるものを素直に受け取ることが出来ること。
人を欲し、人に欲されること。

生涯一緒にいたいと思える人に出会って知った、私の幸福です。
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この回答へのお礼

●素敵な幸福感をご紹介いただきまして ありがとうございました。
 生きるってすばらしいですよね。

お礼日時:2002/01/23 00:30

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