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以前こちらで「希望とは?」で質問させて頂いた、「大いなる希望」を求めて彷徨う探求者です。

以前こちらで御質問させて頂き、絶望が限りなく絶対に近くとも、その通りではない事を御教え頂きました。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2026689

そこで改めまして、もう一度「希望」と「絶望」について、現実的側面から思考させて頂きましたが、私のでた結論と致しましては、絶望とは本人の解決能力を遥かに超えた問題の提起である、とお見受け致しました。

では「希望」とは?
残念ながら、今だ見えざる解決方法としか言えませぬ。
そもそも、解決方法などあるのでしょうか?
結局は妥協と諦めによる自己満足しか残されていないのではありますまいか?

そうなると、もはや絶望とは「不運」であるとしかいえません。
さすがに、私も匙を投げてしまいます。
「神の因果律」など、ただの人間に過ぎない私には、予測不可能です。
それこそタイムマシンでも開発しない限り、「因果律の崩壊」など引き起こせません。

結局は「運」なのでしょうか。
不確定性要素による「希望」の発見しか、人々には残されていないのでしょうか。

皆さんのお知恵をお貸し下さい。
(以上の事から、神に祈るという行為も理解できなくはありませんが、できれば実用的側面から現実論でお願い致します)

A 回答 (11件中11~11件)

自分の未来・欲が一瞬でも他人を忘れ見えなくすることだと思います。



他人と自分。どちらのほうが強いか。希望は自分のほうが強い。絶望は他人のほうが強い。実践でなくても脳内だけでも。

神に祈るのでなく自分自身に向けて祈るのです。そして他人を憎むべきです。
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この回答へのお礼

憎しみはある種、絶望から人を支える場合があると思います。

ただ、絶望の結果である最終形態「虚無」になると、自力での脱出がほとんど不可能になります。
このように場合、どうすればよいのか?というのが私の疑問であり、命題で御座います。

ご回答有難う御座います。
参考になりました。

お礼日時:2006/03/26 06:39

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