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人間の判断が全て刺激に対する反射とするならば、自由意志というものは存在せず、「自分で決めた」ということがあり得ないのではないでしょうか?

もし、そうだとすれば「人生で何が起こるかは、何も決めることができない。全て偶然。」になるのでは?

何も決めることができない、ということは「全て決まっている」と言えてしまうのでは?

といったことを考えました。
実際のところ、どうなんでしょう???

当方、哲学が専門という訳ではないので、まったく見当はずれのことを言っているのかもしれませんが・・・。もし、このような問題を扱っている書籍などもありましたら教えてください。

A 回答 (8件)

 それは考え方次第です。


 人間の脳みそだって結局のところは天然コンピューターですから、入力に対して出力をはじき出す計算をしているだけです。

 ですがコンピューターと違い、その構造上、絶対に「エミュレーション」というものをできません。なぜなら、脳細胞内の記憶素子の物理位置といった細かい条件までもが計算に影響を与えるからです。
 たとえるならば、パソコンというのは同じメーカー製の同じ機種であれば、入力に対しての出力は同じになります。
 でも人間は、クローニングされた同じ人であっても、「そのとき立っていた位置が10センチ違っていた」というだけでもう、入力に対する出力が変わるのです。
 ゆえに、その人の考えることを先読みして、100%確実に言い当てることは不可能なわけです。

 ですから、「未来は決まっているが予測はできない」ことと「未来は決まっていない」ことは完全にイコールになります。
 これは哲学というよりもむしろカオス理論の話題で、そっち方面の書籍を頭だけ読んでみてもいいかもしれません。
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この回答へのお礼

>ですから、「未来は決まっているが予測はできない」ことと「未来は決まっていない」ことは完全にイコールになります。

なるほど!大変参考になりました!
ありがとうございます。

お礼日時:2006/06/20 01:21

明らかに決められている


無駄であるようなことでも、私はしちゃいます。

例えば、とても彼女を愛していて
彼女もその人がいないと生きていられなくて
その二人の幸せを願ってるし
私も大切な人がいるのに
何年も逢えない人に片思いしていることです。

失恋は相手の気持ちが冷めた時ではなく
自分の気持ちが冷めた時にするもの。
そう都合よく考えるのは
私の「自由意思」であり、あるいはバカなのですが

それでも何か感謝したくなる時は
自己満足も出来たってことで
お世話になったこと、
忘れないでいて良かったと幸せに思いますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2006/06/20 01:22

仏教でも、最終的に「自由」を目指しています。


仏教語の「自由」とは、なんでもありの無法地帯という意味ではなく、自ずからに由るという意味です。

で、まさに、質問者さまの仰るとおり、我々は、刺激に対して反応しているだけの不自由な存在だから、自由になりましょうと言っているんです。

たとえば、達磨さんの人形ってありますよね。
刺激によって倒されても、倒されても、自分の力で立ち上がってくるんです。
これが、判りやすい自由な境地です。


「外部刺激」が、我々に与えるものは「昂奮」です。
外部刺激によって昂奮状態になるからこそ、反射してしまうんです。
逆に言うと、外部刺激が全くなかったら、我々は反射のしようがありません。

自分以外の何かからの刺激によって我々は昂奮状態に入って、反応してしまうんです。

つまり”その昂奮を冷ますこと”で、自由になれるんです。
”その昂奮を覚ますパワー”こそが、自分の心の力(意思力)なんです。
この意味が通じるでしょうか・・・。


たとえば、子どもに石を投げられたとします。
昂奮状態に入って「このガキ!」という反応も、冷めた状態で「危ないから、やめなさい!」という反応も、条件に対して反応しているという意味においては変わりありません。

でも、見えない部分の心の使い方が全く違うんです。
前者は、昂奮冷めやらぬままの反応です。自制心が皆無なんです。

ところが、後者は、自らの昂奮を覚ましている反応なんです。
自制している反応なんです。
これが自由なんです。

第三者からは同じように反応しているように見えても、実は、見えない部分の心の使いかたが全く違うんです。
おそらく質問者さまの言っている一歩、前段階に「自由」が存在するんだと思います。

要するに自己に打つ克つこと、煩悩に打つ克つこと、自らの昂奮を冷ますこと、意思力(心の力)によって自己を制することが「自由意思」であって、どのような決定をなしたか、対象に反射したか、しなかったか・・が自由なのではないんです。

・・・と、上手に説明できないのですが、「自由」とは、仏教語ですから、その辺を調べてみるといいです。あまりに奥が深いですが・・・・。

以下の本は、タイトルと内容が全然違って、最高にわかりやすい本です。

参考URL:http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4756905803.h …
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この回答へのお礼

>つまり”その昂奮を冷ますこと”で、自由になれるんです。

なるほど。
反応じゃなくて、意志で自分を律することが自由であると考えるのですね。

本を薦めていただきましてありがとうございます!読んでみます。

お礼日時:2006/06/20 01:27

再度の3です、追記です。


ちなみに、仏教では、この世に偶然は無いと説きますが、だからといって、全てが決まっている必然でも無く、全ては、その瞬間、瞬間に自分で決めていると説くんです。

流されるのも自分の意思だし、克己するのも意思であって、「今、この瞬間」に自分で決定している、【全てを決めているのは心なんだ】という立場です。
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精神だけの存在で肉体には殆ど依存していない健康な無意識は自分自身の過去から未来までの全てを見通す能力が備わっています。


したがって完全な精神の同一性がある完璧な人間にとっては、全ての行動は運命でもあり必然でもあります。
しかし煩悩とも言うマイナス感情が矛盾と間違いを引き起こします。この煩悩がある限り行動には必然性がありません。

参考書は「原因」と「結果」の法則です。
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この回答へのお礼

>「原因」と「結果」の法則です

本のオススメありがとうございます。
読んでみます。

お礼日時:2006/06/20 01:29

19世紀の数学者のラプラスは、ある瞬間の宇宙に存在するすべての素粒子の運動を正確に知ることができたら、これらの素粒子は物理法則に従って決定される動きをするから、遠い将来まで宇宙のすべての所で何がおこるかが決まってしまうと考えました。

宇宙に存在するすべての素粒子の運動を正確に知り、物理法則により正確な計算を行い、遠い未来まで知ることができる存在を「ラプラスの悪魔」と呼びました。現実的に計算が可能かどうかは問題ではありません。原理的に遠い将来まで宇宙のすべての出来事が決定しているのなら、自由意志が存在する余地はありません。人生は自分が主人公の大河ドラマを見せられているだけ、ということになります。

幸いなことに量子力学が生まれてラプラスの悪魔は否定されました。しかし、それでは自由意志があるのかといえば、これに対し明確に「はい」と答えることはできないと思います。量子力学の不確定性が自由意志の本質とは私には思えません。19世紀的な世界観では一本道の大河ドラマだったのが、量子力学ができて途中で分岐があるようになっても、どの筋道を進むかの決定は量子力学の確率に従うだけ、という考えを否定できるでしょうか?
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この回答へのお礼

>どの筋道を進むかの決定は量子力学の確率に従うだけ、という考えを否定できるでしょうか?

うーむ。カオスの考え方?がなんとなくわかった気がします。

お礼日時:2006/06/20 01:31

もしお釈迦様の手の中で世界が回っているのだとしても私達は将来を関知することができないのだし、私達が私達の手の中にある自由意志によって行動するということがお釈迦様の意思であるのだから、世界の一部分である私達自身が自由意志を信じて行動しても何ら差し障りは無い。


私達が生きて行動することにとっては私達の関知し得ない必然が存在するかどうかなんて意味が無いことです。全知全能の神様なんか居ても居なくてもどっちでもいい。

回答になっていませんね(^^;
どうせ私達の知覚範囲外のことですから、結論なんか出ないんですよ。どう考えたって構わないんじゃないですか。
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この回答へのお礼

>どうせ私達の知覚範囲外のことですから、結論なんか出ないんですよ。どう考えたって構わないんじゃないですか。

そうですね(笑)。
自由意志はそれがあると信じれば、あるかないかは関係ない問題だとも思います。

お礼日時:2006/06/20 01:36

(1)しかし、もっと驚くべきことにリベットは、自発的な行動にかかわる脳内のニューロン作用を、被験者が動くと決めた時刻より決まって300~400ミリ秒も前に検出したのである。

この明らかに自発的な動作は、被験者が行動を意識的に決めたと思うより前に始まっていたのである。
・・・重大なことに、意識的な行動意図の認識と運動刺激の開始とのあいだには、なおも200ミリ秒のすきまがある。リベットの提案によれば、まさにこの運動遅延期間に、意識は随意行動に影響を与えることが出来る。随意行動は無意識のうちに始まるかもしれないが、それが完了する前に意識が介入してこの行動を止めたり強化したり出来るのだ。p392

(2)ところで自由行為は、流れつつある時間の中で行われるもので、流れ去った時間の中で行われるものではない。それゆえ、自由とは一つの事象であって、しかも確認される事象の中で、これ以上はっきりしたものはない。この問題のもつすべての難しさも、また問題自体も、持続に広がり{延長}の場合と同じ属性を見いだそうとしたり、継起を同時性によって解釈しようとしたり、また自由の観念をあきらかにそれを翻訳するに絶えない言語で表現したりしようとすることから生まれるのである。p202


(1)は「量子進化」マクファデンからの抜粋です。
最近、認知科学、脳物理学の分野で、意思決定の前に脳の当該部分のニューロンが発火しているとの事で、或いは、解決する前に回答が脳のなかにあるといった表現で、自由の問題が注目を集めています。ただ注意しなければならないことは、意識といった生命現象を、ニューロンの発火やアドレナリンに還元しても、それは、物質のメカニズムを理解しただけで、生命のメカニズムを理解したこととは、原理的に違うという事です。
「ある生物のはたらきについて調べるとき、より小さい構成要素のより細かい部分について調べていくうちに、目の前から生命そのものが消えてしまうようなのだ。動物全体あるいはその一個の細胞に生命を認めることはむずかしくない。だが、細胞の内側を見ていくときに疑問が起こってくる。染色体は生きているのだろうか?遺伝子やDNAはどうなのか?」これも、上掲書の一節です、物質のメカニズムを究明しても、生命活動のクオリアは依然として何の手がかりもないようです。言い換えれば、感情・感覚・知覚・記憶の何たるかは、私たちには認識できないような構造になっているようです、つまり、諸感覚は、外部にのみ開かれています。

(2)は、「時間と自由」ベルクソンの抜粋です。
この本は確かに難解ですが、誤解を恐れず、別の言葉で表現すると
自由とは現在意思できるという能力ではないか、と言う事です。例えば、私は現在、ここに回答しています、これが自由でなくてなんでしょうか、犬にも、石にも、こんな能力はありません。ところが、この回答を後から振り返ると、質問があったから回答できたのだから、自由ではないと言ってみたりします。

しかし、自由は現在の持続の中で、自分自身が望むことが出来るのです。純粋持続と言う時間が空間の中で迷子になっているのですが、空間で物質を捕らえる習慣が、迷子になっていることにすら気が付かない、と言うことでしょうか?この辺りは、自分の解釈で、自信がありません。

ご質問で言われる所の「自由意志」が一体なんであるかを考える必要もありますね、この辺が私の限界ですので失礼します。

出来れば、解説の類より「時間と自由」ベルクソンをお奨めしますが100年前の本です、
ご自身で検討してみてください。
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この回答へのお礼

大変興味深く読ませていただきました。

そのようなことを考えている文献を教えていただきまして大変うれしく思います。是非読んでみたいと思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/06/20 01:41

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