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なにかしらの宗教団体に属している人は、なぜその団体に入っているのですか?

自分ひとりが愛する人を思い、祈っていたらそれでいいのではないでしょうか?

“属していたい”的な気持ちもあるのですか?
“一人じゃ不安”的な気持ちは?

教えてください。

A 回答 (14件中1~10件)

一人じゃ不安だからでしょう



自分ひとりが愛する人を思い、祈っていたらそれでいいのなら「他の人が宗教団体に入る理由」なんて気にならないはず

あとは社会の道徳感が乱れてなんとかしたいとか
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この回答へのお礼

>自分ひとりが愛する人を思い、祈っていたらそれでいい

というのは僕のことではなく、宗教信仰者の方々への提案です。
どうして<力>を作ろうとするのか、全ての個人が愛する人を思い、祈っていたらそれで全て丸く収まるのでは?、なぜそれを目指さないの?、ということです。

お礼日時:2006/07/03 09:11

ある宗教団体に所属しています。



「なぜ属しているか」というと、教義とか修行方法とかをちゃんと学びたいというのが理由ですね。例えば、「なぜ大学に入るの?」というのと似ています。勉強するだけなら、本を読んでいればいいわけですが、そこには我流の危なさがありますし、他の人々や指導者からの影響も受けたいわけです。やはり周辺で我流でやるより、中に入って正式な方法論やエートスを身につけたかったわけです。

もっとも、漠然と祈るという生き方も当然ありだと思います。私も昔はそうでした。ただ私の場合、自分の信じられる宗教に出会ってしまったのです。こうなると、「もっとこの教義をしっかり学びたい」と思うようになり「所属」することになったわけです。

「属していたい」ってのは、もともとなかったですね。人間関係が面倒ですから。今の宗教に出会って、初めて「属したい」と思いました。「一人じゃ不安」ってのは、修行面ですね。漫然と一人でやっていたら怠ける可能性があるし、誤解に気づかないこともあるので、そういう意味では不安だったのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

おっしゃられるように、宗教に属している人は皆「自分のところが一番」または、「自分のところがいいから学びたい」と思っています。ということは、少なくとも2つの団体が出来上がれば必然的に争いが起こります。だから自分が宗教に属することで、世界中の人々に少なからずマイナスになることがあると思います。宗教信仰者は、そのマイナスを自分が団体に属し成長することで補えるとでも思っているのでしょうか?それとも、これだけ団体があるし宗教信仰者だらけだから自分が信仰したところで変わらない、的な考えでしょうか?

(2つの団体というのは、片一歩が明らかな間違いを主張していた場合でも、もう一方の団体は自ら解散することで争いは避けられます。)

お礼日時:2006/07/03 09:20

人間として弱いからでしょう。



弱いから、より強そうな思想にあこがれる

その宗教に入る

弱いものがあつまると、意思が同調する

弱かったと思っている人間が、今幸せで
なにもこわいものがないとおもいこむ
集団意識が発生する

なぜ不安なのか、ひとつはきっちり社会人として生きている人とはちがい<ようはなにも疑問におもわないとか
疑問におもっていても日常の生活を大事にするひといがい
なにが日常生活に疑問をつよく思っているとか
不条理を日々感じているひとでしょう。
となると、不安になります
そこに意思が強いものや団体に出会ってしまうと
こころがうつってしまうと
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。そういうタイプの人間の思考は理解できないのですが、もしそうだと人間は本当に恐いですね。それでは、「~だから団体に入った」と仰られる信者さんは自分を正当化(?)、美化(?)していることになります。
(No.3さんの考えの通りの場合は、)結局そこが一番問題だと思うのですが。
これを僕が“極めて重大な欠陥”と感じているとすると、ただの無知でしょうか?

お礼日時:2006/07/03 11:22

宗教入団理由は、日本の場合はほとんどが本人の


抱えている精神病質(今は死語ですが)傾向のようです。
精神病質といっても重度の統合失調症等ではなく
依存性人格障害者や境界性人格障害者の人たちで
軽度の人格障害等がほとんどのようですので
普通の人が信者と話をしていてもよほどの洞察力が
なければ健常者と感じると思いますし、本人にも
障害の自覚はないと思います。
彼らは何かに依存するもしくは没頭しなければ
虚無感が強く不安定になります。
その感情をおちつかせるために宗教に入団します。

実際にオウム事件の時も信者のカウンセにあたった精神科医は
信者が転移を起こしてこまっていたようです。
健常者は精神科医に転移(擬似恋愛感情を持つこと)は
ありませんのでやはり精神病質が原因のようです。

指摘しているのは一部の専門家と実際に宗教に入団した後、
健常者ゆえにその場に違和感を感じた元信者さんたちです。

あとこちらの本にも同じような意見の記載があったと思います↓

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062109255/24 …
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この回答へのお礼

そういった面もあるのですね。健常者が入ることもあるけれど、違和感を感じる方もいるんですか・・・
服屋さんで、「流行っていますよ」と言われて、売れるように仕向けているのか売らない用に仕向けているのか分からない状況がありますが、それにも似ていますね。

それと言われてみれば、我流を貫き通す職人気質の人、などは宗教とは無縁のイメージがありますね。

お礼日時:2006/07/04 02:02

  「宗教」は文字通り、「宗祖からの教へ」であり、傳統宗教であらうと、新興宗教であらうと、「團體」の概念を必ず伴ふものです。

一人で考へ、實行し、それが傍から見て、宗教活動に類似してゐても、當事者が宗教團體を知らない、團體を意識しないならば、それは宗教とは言へないでせう。當事者が宗教團體に加盟してゐなくても、自分は佛教を信じてゐるとか、佛の理想を理想としてゐるなど、精神的な結びつきを持つ事が宗教行爲の大前提だと思ひます。
  宗教的な團體を知らず、意識もせず、單に「自分ひとりが愛する人を思い、祈って」ゐても、それが外見的に宗教家の行爲に見えても、それは宗教活動とは言へません。原始宗教であらうと、近代宗教であらうと、教理なり行動なりを共にする人の集まりが必要です。
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>どうして<力>を作ろうとするのか、なぜそれを目指さないの?、ということです。


宗教団体に入ることと<力>を作ろうとすることは無関係です

>少なくとも2つの団体が出来上がれば必然的に争いが起こります。
>だから自分が宗教に属することで、世界中の人々に少なからずマイナスになることがあると思います。
意見は異なるかもしれませんが争いがおこるとは限りませんしマイナスになるとも思えません

たとえ団体にならなくても、他人と自分がまったく同意見にならないかぎり同じことのはず
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宗教は、なぜか便器のなかにうんちをするのと同じです。

これは幼い頃、きっと親から教育されてのことだと思いますが、宗教はまさにそれと同じなのです。宗教からは逃れようとも逃れられないのです。宗教をやめるのは別の宗教をつくることによってでしかありません。

私も質問者様と同様に、一人で祈る宗教というものをみんなの人がすればいいのに、と感じています。しかし、このような考えも、みなが同じことをする一つの宗教団体のようになっていると思いませんか?
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この回答へのお礼

>私も質問者様と同様に、一人で祈る宗教というものを


僕はそういう意味で言ったのではありません。
一人一人が人として人間らしく、という意味です。別に祈らなくても思っていればいい、思うことが人間らしさではないのか、ということです。

お礼日時:2006/07/05 21:04

NO.2のbascavilです。



私の場合、「自分のところが一番」というわけじゃなく、「自分にとって一番」という感じでしょうか。だから、他人の信仰には特に感心はありませんね。だから、他の団体と争った経験もありません。

ただ、世界中を見ていると、宗教間の争いはあるようですね。でも私は、まず先に争うという人間の悪癖があって、そういう人間は宗教団体に所属しようがしまいが争うように思います。というのは、________syuさん自身も、「宗教団体に所属する人間」に敵愾心があるでしょ?正直いってそうでしょ?ここなんですよ。________syuさんじゃありませんが、「(宗教団体に入る人間は)人間的に弱いからでしょう」とか言う人がいますよね。こういう人は、宗教団体に所属していないけど、非常に攻撃的ですよね。少なくとも、人に対して面と向かって、「あなたは人間的に弱い」とか言うのは普通は失礼ですよね。

つまり、宗教団体だから争うのではないのです。争い好きな人間が争うのです。
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この回答へのお礼

敵愾心   の意味がわからないですが、敵意を持っているということでしょうか?

僕は宗教信仰者に対する敵意は全く無く、恐怖とひたすらの疑問、といったほうが近いです。

また、
>人に対して面と向かって、「あなたは人間的に弱い」

と言われるだけで、失礼と感じるのは、やはり人間的に弱いと思いますがどうでしょう…
人間的に弱いというのはその人を全否定しているわけでもないですし…

>だから、他の団体と争った経験もありません。

とありますが、団体である以上、あなたが仕向けなくても、仕向けられる可能性があります。
解散しないと攻撃するぞ!と意味の分からないことを言われた場合はどうするのですか?

争いを回避するのが一番だから宗教を離れるよ、
と考えるのか、
何がいけないんだやめるものか、
と考えるのか。


争いは、決して『争い好き同士』で行われるとは限らないと思うのですがどうでしょう?

お礼日時:2006/07/05 20:25

確かにただ属しているだけでは絶対的な幸福感が得られないでしょう。



私の叔母とその息子、娘(私にとって従兄弟たち)がキリスト教の熱心な信者がいます。ただし父親(叔父)は信者ではありません。そして一時期この無神論者の父親と彼らの確執もありました。
私は叔母がまだ幼少だった子どもをある思想にどっぷり浸からせてしまったというのに最悪の過失があると思っています。あの年頃の子どもというのはまだまだ親が絶対的な存在ですから、母親の思想=キリスト教という価値観を植え付けたのは一部親として取り返しのつかないことをしてしまったと思います。

当時引っ越したばかりで、叔母にとって周囲に友人や知人がいない寂しさと夫が仕事に忙しかったという背景があり、そこに教会の勧誘がきたきいています。確かにその心情はわかります。そして皆よき一般市民です。彼ら(信仰者)というのは一見穏やかで平和主義者でいい人に見えます。でもそれがお仕着せの道徳観から派生している雰囲気だとしたら・・・。

私は信仰家ではありませんが、どちらかというと哲学的と捉えています。そして同じ宗教とくくられている中ではキリスト教は仏教の方がココロがすんなり受け取っている気がするのです。まぁこれは私事ですが。

イエス様そのものがそう説いたのか不明ですが、教会の都合のために聖書など何度も書き換えられてきたためというのは有名な話です。その真偽はわかりません。ですが、恐ろしいのは、大本(イエス)が説いたかもしれない話を、利己主義のために真実として伝えられてきた、それをそのまま鵜呑みにしているということが問題なのです。いわば催眠状態にあるのではないか。
その心理を利用するのが悪徳新興宗家です。これは問題外ですね。カミサマの名を勝手に売名するわけですから、本当に怖いものなしですよね。その心理状態(無知)はカミサマ以上に恐れ多い。

ただ人ってウンザリするほどのを求めるんだと思いましたよ。「」と「親和」は違うでしょう。前者は右倣え右、後者は互いの価値観の違いを認めながら仲良くなること、というイメージがあるのですが、たとえば幕末の「同志」がいったん志を違えるとなると生死に関わるという時代の社会心理状態もそうでしょう。

さて、件の親戚達は多教の冠婚葬祭に出ても(親戚だから出席せざるを得ない)儀式的なものは拒否する、という行動は無信仰者である他の親戚に批判の対象にされています。
ということはあちらにとってもこちら側の批判はさらに批判の対象となるのでしょうね。そこが問題だと思います。
そういうフォーマルな場で水面下の闘いは続いています。我が親戚筋の永遠の闘争(?)です。
そこで私が感じたのは・・・宗教というのは「隣人を愛せよ」と説きながらその信仰者は非常に排他的ということです。
それではこのキリスト教徒たちを批判する側も、それでは別の宗教の熱心な信仰家であるか?というとそうではないんです。
一応仏教に守られたその墓の前で亡くなった祖父の焼香をしないことを咎めた彼らも、仏教徒ではない。毎日きちんと先祖の仏壇に手を合わせているわけでもない。つまり心理的には異端排除なのです。そして皆同じ「異端者」なのです。
彼らは一様に、批判する前必ず申し訳程度に「信仰の自由」を前提としていますが、それは本音に対するTPOのようなものでしょう。
確かに憲法でもそれは謳われていますが、人の「本音」という非公式な場においてそれも自由なこと、止められない人のサガなのでしょう。
歴史的にはその心理こそが「異端者排除」=「神の名のもとに」という口実を掲げて宗教戦争が繰り返されてきたファクターなのでしょう。

つまり・・・。
人間皆、自分の思っていることが一番!ということなのでしょうね、ハァ~(ため息)。

宗教と哲学というのは同一視されますが、私は違うと思います。
経典に矛盾はたくさんあります。理論的ではないし。しかし清濁含めそれを整理するのが哲学ではないかと思います。

唯一私がこれだけは違うと違和感を感じているのは、キリスト教の父権主義です。実際例の従兄弟の結婚式で「女は家庭に入り、男に仕えるのが仕事」と新婦の説教にあって驚きました。でも新婦がうっとりしてそれを聞いているんですね。その表情はまさに催眠状態でした。・・・

私は経験主義者です。たとえばそのジェンダー問題にしたって、男性至上主義の封建社会からこれだけ女性の性が自由になったのは、私(女性)の先祖である不特定多数の女性の血と汗の歴史があったからです。そして私自身もその一人であると自負しています(経験から)。
そこでおのおのが何かを悟る。
ある意味そのような催眠状態からの覚醒が、ニンゲンとしての目覚めの状態なのではないかと。
それは宗教であったり、両親からであったり、世間の常識や一般論、慣習的なものであったりしますが、個人的社会的に感じる違和感は何がそうさせているかという原因を調べあげ実践し、させられ、論じて打破してゆく・・・。そこに宗教を超えた何か(とは、自身が生み出したオリジナルな哲学だと思う)を得るものではないかなあと思うのですが・・・。
もし誰しもが経典そのままに生きていたら、皆経典の教えのまま幸福ですよ。とすれば生を生きる、という意義もなくなってしまう。そんなのカミサマの意図ではないはず。

そのジェンダー問題にしたって過剰なジェンダー闘争は本末転倒ですが、価値観も度を越せば誰でも何かの「信者」となってしまいます。それが宗教か、それとも経験が見せたスクリーンか、というそれだけの違いなのでしょう。
宗教に限らずあらゆることについては、唯一絶対のものとしてしまうことは非常に危険でしょう。人生=絶対のものではなく、相対的なものとして捉える柔軟さがなければ、批判されても仕方ないでしょうね。私の親戚のように。
焼香のひとつやふたつ、多教の儀式にその場限りで与したってあなた達のカミサマは怒りませんよ、と思うんですが、それを口にする勇気はありません(笑)。

極限状態がくれるものは宗教の経典を斜め読みするだけでは実感させてくれません。そうではなく、既製の思想を超えた何かを自分で勝ち取るべきであると思います。つまり与えられた「人生」そのものが「教え」である、その答えを見つけるのは誰も、カミサマも教えてくれない。でも経験をおいて安易にそれを求めようとするとき誰かにとっては「宗教」であった、という選択肢のひとつなのではないでしょうか。

>自分ひとりが愛する人を思い、祈っていたらそれでいいのではないでしょうか?
愛情の対象というのは、人一人違いますよね。でも宗教の教えは絶対的な者を「神」という抽象論に仕向けます。
愛する者のために祈るとき、それも自分にとっての絶対なんです。その「絶対的な対象」が神であるか、個人であるか、その違いでしょう。
さらに違うのは、団体とやるか、個人としてやるか、です。そこに「属する者」と「属さない者」との決定的な違いがあると思います。
そして間に教え諭す者が介入されているかどうか。たとえばそれが牧師であったり教祖であったり。

一人で祈ることができる者は本当に強い姿ですよね。隣人に自分と同じ姿の他者を求めない限り、孤独な作業です。
同様、そこに属する者と属さない者の境界もあるのかなと思います。そしてそれこそ「カミサマ」が求めているものなのではないでしょうか。自分と同じ顔貌を作った孤独なカミサマは、自分と同じものをニンゲンに求めるといいますから。
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宗教というのは祈るだけではありません。


それぞれの経験を活かし、またお互いに学びあうためにあります。一人でいると自分が一番偉い!なんて考えてしまうし、相手のことを考えなくなってしまいます。


また祈るだけで何ができるのでしょうか?
本来の宗教というのは助け合うものですが、
今は自分のことしか考えていない状態

キリスト教から見れば今のクリスチャンを見るなら本来の持っている教えから離れているものだと思います、
だから宗教が悪いのではなく信じている人の質が落ちているということ、本当に信じているなら戦争は絶対に起こりませんよ
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この回答へのお礼

>一人でいると自分が一番偉い!なんて考えてしまうし、相手のことを考えなくなってしまいます。


それはとてもとてもとてもとてもとてもとても少数派では...


>本来の宗教というのは助け合うものですが、

宗教に入らないと助け合えないということですか?

また、昔は国で宗教を定めていたようですが、そうでなくなった、つまり、自由になったというより、必要としない人が増えてきた、これにはどう思われますか?

お礼日時:2006/07/05 19:35

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