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ナポレオンの神聖ローマ帝国解体のためドイツ国内に多数あった帝国自由都市がことごとく自由都市の地位から解消されたけど、ブレーメン、ハンブルク、リューベックとフランクフルトが地位を回復し、その後ハンザ都市としてブレーメンとハンブルクしか残らなかったのはどうしてですか?どうしてその2都市だけが「特別扱い」を許されたのでしょうか?

A 回答 (2件)

北ドイツのハンザ同盟都市は、


自由都市というよりも
18世紀には実態は独立した領邦国家で
1806年の戦役でフランス軍に占領されて
その独立を失いますが、
ウィーン会議で1806年以前の状態に
戻すことが決まります。
これはすべてのハンザ同盟都市に対してで
二都市だけではありません。
ウィーン体制でのドイツ地方は
イタリアのように小領邦で分裂した地域になるわけです。
フランクフルトも1815年に自由都市の復帰して
1866年にプロシア軍に占領されるまで存続します。
他の都市も同様にプロシアによるドイツ統一の
過程で消滅します。

この回答への補足

レーゲンスブルクなどの帝国自由都市はそのステイタスを一旦はナポレオンにより失い、ウイーン会議で回復し、ドイツ帝国でまた失う、という流れですね。でもどうしてハンブルクとブレーメンだけが独立した州と同等の地位を勝ち得たのでしょうか?フランクフルトとかケルンも強そうなのに、なぜその2州だけが?
ありがとうございました。

補足日時:2006/07/05 18:20
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リューベックが独立した立場を失ったのは1937年なので、自分としてはリューベックも「生き残り組」に入れてあげたいですね。


リューベックを含めた3都市はハンザ同盟の有力な生き残りで、プロイセン中心の「北ドイツ連邦」に加盟するなど、プロイセン主体のドイツ統一に協力的でした。プロイセンとしては、伝統的な自由都市の名目を無理に奪う必要がなかったのでしょう。
一方、フランクフルト・アム・マインは、オーストリア中心の「ドイツ連邦」の議会が置かれた都市で、プロイセンに協力的ではなかったので、占領されたようです。

参考URL:http://www.tabiken.com/history/doc/I/I186R100.HTM
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この回答へのお礼

す、すごい。
www.tabiken.com は x-caesar, nacam, a-koshino の全員を集結させたみたいな情報のサイトですね。

お礼日時:2006/07/05 18:33

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