今生きてることが夢じゃないと、どうしたら証明できますか?

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A 回答 (20件中11~20件)

●答えは簡単です。


 現実が夢じゃないか検証する行為ができればそれは 現実です。
 夢の中では「夢じゃないか検証する行為」すらできません。
 なぜなら夢はそれが夢であるという前提で見ているから
 検証を必要としませんし 検証するために夢を見ているわけではありません。
 普通 夢はうすうす夢とわかりつつみているか
 まったく夢とわからず見ている(まじで検証はぜったいしない)かの
 どちらかです。夢のなかでほっぺたをつねることはあっても
 それが現実かどうかを 記憶とてらしながらマジで検証しようとすることは
 絶対ありません。なぜなら潜在意識が夢とわかって夢をみているからです。
●なぜ夢をみるのか?
 それは「意識のメンテナンス」であり「意識のシュミレーション」あり
 現実では不可能な「意識の介護・ヒーリング」なのです。
 だから夢と現実ははっきりと違う意識として分かる物です。
 夢はその目的上潜在意識下においてはっきり夢として夢を見ているのです。
 だから夢と現実ははっきりと違う意識として分かるのです。
●夢と現実が分からない人は 病気です又はそれに近い精神状態です。

 starfloraさんが おっしゃるように高次元の覚醒状態はあるかもしtれません。
 そのことはだれも否定できないでしょう。
 しかし いままでの人類の歴史において だれひとりその高次元の覚醒状態を
 知覚できたひとは存在しません。
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『ドグラマグラ』という小説をご存知ですか。


たぶんmeinaさんが疑問に思ったことを徹底的にすすめていくと
その小説の世界そのものになるかもしれません。
子宮の中で小さな胚から生物の進化の過程をシュミレートしながら人間の
個体になるように、まだ生まれていない幼児は人類の恐るべき
歴史を夢の中ですべて経験して生まれてくるというのです。その
おぞましさゆえに、幼児はみな泣きながらうまれてくるのだろうかと作者の
夢野久作も反語的に自問しています。
もしやmeinaさんは生まれてさえいないで、子宮の中で夢をみている
赤ん坊かもしれないのです。人類の歴史を学習中の幼児の脳。

もし夢の中であるなら、あらゆる形而上学的議論をもってしても証明は
できないでしょう。組み立てられたものは夢の内部であり、証明された
ものもすべて夢の領分です。夢の範疇にあります。どこか神の存在証明に
にていますね。
コギトの成り立ちを見ても、それは「夢をみていると、考えている私がいるから
これは夢なのだ」という自意識をもつだけで、「夢ではない」という前提は
くずれます。つまり夢だと信じてしまえば、それは夢になるという
逆説が起きるのです。

では夢であるかどうかは心の状態によるものなのでしょうか。これも
最初に書きましたように「私が気がついているか」「私が気がついていないか」
は問題外です。なぜならこれは全て夢の中であるならという問題設定だから
です。

つまり私たちが夢の中にいることを想定してしまうと、あらゆる証明は
不可能になります。しかし私たちが夢の外部であることを想定したとき
それは吟味も証明もできるのです。つまり証明をしたいと思うことは
夢の外部をめざす意志なのです。meinaさんがこれを証明したいと
考えられた瞬間から、この世界が夢であるか、どうかにかかわらず
夢というものを分化し、夢の外部をつくる働きがうまれます。
つまりmeinaさんの疑問こそが、もし夢をみていたとしても、その
夢を覚ます力になるということです。

夢がさめてしまうとつまらないかどうかは覚めてみないとわからないかも
しれません。あらゆることはすべて夢であるといえるし、あらゆることは
すべて現実的であるといえるのです。そのとき重要なのは夢を
おぼえておくことなのかも知れませんね。夢の世界のリアルさも
現実の世界のリアルさも、私たちには同じように大切で生々しい
リアルさだからです。夢の中でも現実の中でも、このリアルさを
手がかりに生きるより手立てはありません。ご参考になれば幸いです。
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人生を1冊の本として、それ自体は限られた世界だが、人によりそれその物が違う。


夢はもう1冊の本ではなく、あくまで本の中の文章と言う事。
夢を見ているときはそれが現実。それが全て、妥当だと思いますが。

まぁ夢が都合の良い物とは限りませんから。

つまるところ、現実も夢もなく、それ自体が1つ。
「自意識」があればそれを証明できます、あなたは誰かに動かされている訳ではないでしょう?
自分で行動する全ては「夢」ではありません。
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証明することは不可能だと思います。

今生きていることが夢だとしても、自分がそのとき感じている事は事実だと思うのでそれでいいと思います。
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  No.5 の人が、SFによく出てくる面白い例を出してくれましたので、最初予定していた回答よりも、より精密な(複雑な)回答になります。
 
  まず、質問者が使っている「証明できますか?」という言葉は何を意味しているのか、ということを考えねばなりません。「証明」というのを厳密に考えるとのは、論理学と公理論的数学理論です。前者は古くはアリストテレスの体系があり、後者は、エウクレイデスの体系(幾何学原論)があります。スピノーザは、その主著『エティカ』において、数学的に厳密に証明された哲学体系であるとして、エウクレイデスの体系に外形を真似て本を書いています。つまり、「無定義概念(用語)」「公理」「公準」を最初に提示し、それから「定理」の「証明」を次々に提示して行きます。
 
  この場合、「無定義概念」とは何か、「公理」「公準」とは何かを考える必要があるでしょう。エウクレイデスの体系だと、例えば、無定義概念は、「線」です。線とは「何か」、それは万人にとって自明であるとしています。「線」だと思っているものが、本当に「線」であるかどうか、どうすれば証明できるか? という問いは、この公理系では意味がありません。「線」とは何かが自明的に了解できなければ、そもそも話が始まらないのです。また、公理は、これはエクレイデスにあったかどうか知りませんが、「平行でない二直線は、必ず交点を一つ持つ」というようなものが考えられます。この「公理命題」は、どうやって証明できるのか? できないというより、この体系のなかでは、それは、証明されることなく「自明の真理」なのです。従って、公理に疑問を抱いても、意味がないことになります。エウクレイデスの「平行線公理」は、修正されましたが、あの公理は、三次元空間が、第四の次元において、曲がりがない場合は、成立するのです。
 
  と、前置きが長くなりましたが、「証明できますか?」という問いに対しては、それを証明できるほどに、世界や形而上学の理論は公理化されていたかという疑問が起こります。公理化されていないはずですから、そういう意味では、「証明できません」。
 
  しかし、この問いの命題は、無定義概念乃至公理の位置に来る、「自明命題」なのです。どういう意味で、自明命題なのか、「説明」によって、「証明する」ことは可能だと思います。
 
  そこで、「夢」とは何か、「いま生きていること」とは何か、ということを吟味して考えねばなりません。「いま生きていること」の状態は、「夢」と対比的に、「覚醒状態・覚醒意識」と呼びましょう。覚醒状態と夢の状態は違うと云えるか? これは云えます。或る程度「自明的」なことです。覚醒状態での知覚、視覚や聴覚が捉える映像、世界の像を考えてみられることです。それは、「夢の状態で経験する知覚」とは、相当に異質なものであることが、自明的に分かるはずです。
 
  また、「夢」には、浅さと深さがあります。非常に深い夢は、普通、目覚めても思い出すことができません。また、「夢のない熟睡状態」があります。夢は、覚醒状態に近づくことがあり、その反対の場合もあります。「半覚醒夢」というのは、半分ぐらい覚醒していて、夢を見ていると自覚しつつ見る夢です。他方、「白昼夢」というのは、目覚めているはずなのですが、何時の間にか、覚醒水準が低下し、夢のイメージのなかでまどろんでいる状態です。
 
  ここで、「夢」と「覚醒状態」は連続していると言っても、覚醒状態に近づくと、意識は、夢を見ていることに「気づきます」。先に述べた、覚醒状態で経験する知覚や思考は、非常に明晰で、夢のなかの知覚や思考とは明らかに質が異なります。一生、夢を見ている人の場合、夢が夢だと分からない可能性がありますが、覚醒水準を持つ人は、夢と覚醒状態が、自明的に異なる状態だと分かります。
 
  従って、「いま生きていること」は、覚醒状態での存在であり、「夢」の存在とは、自明的に別のものなのです。
 
  しかし、疑問があるでしょう。夢から覚めると、「いまの覚醒状態」になる。すると、「いまの覚醒状態」も実は夢だったのであり、この状態から「覚醒する」ことがあるのではないか、です。これは、ありえることだと思います。仮に、そういう高次の覚醒状態を、「高次覚醒状態」と呼べば、高次覚醒状態の経験がわたしにはありませんが、しかし、自明的に云えることがあります。高次覚醒意識であっても、「覚醒意識と夢の状態」は別であるということは自明的に真である、ということです。
 
  比喩的に、生きてきた一生は夢のようだ、と言います。過去の記憶は、夢に近く感じられることがあります。しかし、現に生きて知覚し、思考している覚醒意識は、夢の状態意識とは異質なものです。
 
  この区別は、高次覚醒状態に仮になってとしても維持されるはずです。チンパンジーもボノボも、同じ「猿」だといえば、そうかも知れませんが、よく見てみると、違う種類の動物です。A氏もB氏も、すけべな中年の人だということでは、同じものだ、と言ってみても、どれだけA氏とB氏が似ていても、二人は「異なる個人」です。高次覚醒状態では、「夢の状態」も「通常覚醒状態」も同じようなものだと言っても、実際には違う状態なのですから、正確には違うということになります。
 
  従って、「いま生きていること」は、自明的に「夢ではない」のです。夢のように思えると、夢だは別です。
 
  あるいは、魂のイデアー世界があり、そこに帰ると、「本来のわたし」が覚醒し、確認され、現実だと思っていた覚醒水準の意識の生活は、実は「幻・幻影」だったということがあるかも知れません。しかし「幻影(仮象)」と「真実在」の違いは、どこにあるのでしょうか。「いま生きていることは、仮象であり、本来の真の存在のモードがあるかも知れない」というのは、妥当だと思います。真実在、カントの言い方だと「もの自体」は我々には認識できないもので、我々が経験している一切は、主観の仮象だとも云えるのです。しかし、このことと、「いま生きていること」は「夢と同じ」は異なります。
 
  「夢」は夢で、いま生きてある覚醒状態意識は、いまの状態であるのです。より高次の覚醒や、リアリティがあるかも知れません。しかし、それがあっても、夢と覚醒状態の区別は残るのです。
 
  言葉の表現の問題でもあると云えるでしょう。この「覚醒現実」も夢と思える、高次覚醒状態がある、または真実在を見ることのできる魂のイデアー境位では、この覚醒現実も、夢の一種に見える。しかし、夢の一種に見えても、夢とは異なるのです。
 
------------------------------------------------------
 
  そこで、No.5 の人の述べている、「擬似現実」「仮想現実」と「現実」の違いはないではないかという問題について考えてみます。
 
  映画を見ていると、映画のなかに引き込まれて、現実意識が失われる場合があります。しかし、これは広い意味の一種の「変成意識」であり、映画のなかで登場人物が負傷しても、痛みが伝わる訳ではありません。何かに夢中になると、通常の意識は失われます。これも広義の変成意識でしょう。意識の状態は色々なヴァリエーションがあり、覚醒意識と連続している場合もあるのですが、しかし、「明晰判断の行える覚醒意識」というのは、こういう状態として存在するのです。
 
  ルネ・デカルトの懐疑を思い浮かべる人がいるでしょう。しかし、デカルトは、「この現実や自己」を幻影だとか、錯覚だと考えたのではありません。デカルトは、自己の哲学を築く時、疑いのない、「公理的事実」を基礎にせねばならないと考えたのです。彼の結論は、Cogito ergo Sum ですが、ここで、このラテン語は、「我は思惟する、故に、思惟する我はある」という意味だと気づかねばなりません。この命題で、デカルトは、「懐疑している・思惟している自己の存在の明晰判明性」を確認し、述べているのであって、「思惟する自己の存在」は明晰確実であるからと言って、その他のことごとが、明晰確実とはなりません。例えば、窓の外を見ると見える風景は、これは、悪魔がわたしに情景を投射して幻影を見せているのではないのか、という懐疑では、明晰判明な、思惟する自己の存在を確認したとしても、問題としてはやはり残るのです。
 
  つまり、デカルトは、自分が見ているものや知覚しているもの、考えていることが、幻影だとか錯覚だとは、考えていなかったはずなのです。そういう次元の「実在」だと考えていたのです。しかし、哲学のシステムで、この懐疑の問題があり、明晰確実性の原理が必要であったので、「思惟するわたしの思惟自己は明晰判明」であるとして、「明晰判明」な事態が世界に存在することを証明して見せたのです。諸々の現象は、実は幻かも知れない……しかし、明晰な判断があり、幻や仮象は、看破される、というのが、デカルトの認識論のはずです。
 
  そこで最初のSFによくある「仮想現実」に戻せば、こういう仮想現実は、「通常の覚醒明晰意識」とは異なるということを述べねばなりません。何故異なるかと言えば、「意識自我の統覚」は、心の様々な複雑な構造の上に成立しているもので、だからこそ、映画を見ていても、後ろから誰かにこづかれると、後ろを振り返り、その時、映画館にいたのだという認識が甦るのです。
 
  「仮想現実」の場合、単に、感覚を投影構成すれば、それでよいという考えがあるようですが、それでは、記憶の一貫性や、心の認識と一致しないのです。感情も操作できますが、そうして造られた「擬似現実」は、あくまで擬似現実であり、覚醒して反省して考えると、どこが違うかが分かります。覚醒する経験までも、擬似現実で構成することもできます。また、生まれた時から、擬似現実の刺激で育つと、擬似現実が、覚醒意識の現実にもなる可能性があります。
 
  人間の心の深遠な構造からすると、仮想現実と、覚醒意識現実のあいだには、明晰な差異が、反省的に考える時、出てくるのですが、仮想現実を現実2と名付け、この覚醒意識の現実を現実1と呼び、両者のあいだを往復していると、段々1と2の違いが分からなくなるということも起こり得ると思えます。仮想現実のなかで、「死」を演出することもできるのです。誰かに銃で胸を撃たれ、激痛と共に意識が薄れ、次に目覚めると、どこかの本で読んだ「霊界」とかによく似た、壮麗で雄大な不思議な世界に自分がいて、前から、不思議な人物が近寄り、「貴方は死んだのです。これから、わたしは、貴方を案内しましょう」と、頭のなかで理解できる不可解なメッセージで呼びかけて来て、その後について、非現実的な、霊界とはこういう世界だと本に書いてあったのと似たような場所を、旅しながら、「ああ、わたしは死んで霊界に来たのか」などと、考えると、「死」も作り出せることになります。
 
  結局、言葉の定義の問題にもなってきます。比喩的な意味でない、睡眠時に見る「夢」とは何かは、覚醒意識で、自明的に把握できる訳です。夢の意識と覚醒意識の連続性を利用して、覚醒と夢の意味に、別の解釈を与える文化伝統もあるでしょう。その場合、覚醒している状態も夢の一種で、夢も覚醒状態の一種で、どちらも「実在」であるということになります。あるいは、どちらも仮象だということになるかも知れません。
 
  つまるところ、「真実在」とは何かという形而上学的問いに収束して行くのですが、これは、あくまで問題を哲学的に考えて行くと、こうなるということです。誰も、世界の存在が存在する根拠を知っている人はいません。根拠が分からないので、この世界・宇宙は、仮象だという人の方が稀でしょう。
 
  >今生きてることが夢じゃないと
 
  今生きていることは、「夢」ではないでしょう。区別が付かないのなら、そもそもこのような問いが出てこないでしょう。より高次の覚醒水準、別の意識のありようがあるかも知れません。しかし、繰り返しになりますが、「覚醒意識経験」と「夢の経験」は、別です。この人生は仮象であったかも知れないでしょう。しかし、仮象は仮象として、これを、わたしたちは、「現実」と呼んでいるのです。
 
  形而上学的問いは、理性での答えがありません。従って、質問に、「真実在」についての問いを含めている場合は、答えのないものに答えを求めていることになります。しかし、それは別個の問題として定立するなら、問いの答えは、おのずと明らかでしょう。
 
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この回答へのお礼

starfloraさん、ありがとうございます。
我思う、故に我あり。
そうですね。
そうやって私がいますから

お礼日時:2002/03/09 12:05

死んだ。



突然目の前に光が広がり、私は目が醒めた。

「どうでしたか、お客様。20世紀の平凡な日本人の一生は?」

ああ、私はすべて思い出した。
実は私が住んでいるのは30世紀の地球だったのだ。
この時代、脳に直接コントロールされた電気刺激を加えて、
短時間のうちに、プログラムされた「人生」を体験できる方法が開発されたのだ。

私は、実は3日間、ベッドに横たわり、
頭に無数の電極のついたヘルメットを付け、点滴を受けながら、
適当に選んだ20世紀のjun1038という日本人の
数十年の一生を体験していたのだ。

休暇の3日間がすべて飛び、費用もそれなりにかかったが、
伝記や小説を読むよりずっとリアルに、もう一つ別の人生が経験できて
やはり良かったと思っている。さまざまな体験ができ、いろいろな教訓を得た。
明日からの仕事にも役立つだろう。

・・・・・

てなことが、全く無いとは限りませんが、
うかつに「この人生は夢だ」と信じ込んでしまって、やる気をなくして、
「実は現実の」人生を棒に振ってしまってもつまらないですよね。

とりあえず、私は、現在の自分の人生が、「夢である」確率よりも、
「現実である」確率の方がすごく高いんじゃないかな、と思っています。

だからまあ、それなりに生きて行くんです。
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この回答へのお礼

jun1038さん、ありがとうございます。
面白い例ですね。
ありえないとも言い切れない。
確率的にはやっぱり高いんですよね。

お礼日時:2002/03/09 12:02

はて、どうして「夢じゃない」と証明しなければならないのですか?


あなたの人生(私の人生でも同じですが)が夢であって何か都合が悪いのですか?

もしmeinaさんがそれではならないという理由があるのなら、その時点で既に夢と現実を区別する手段・方法を知っているはずです。理由が判らないのなら、夢だって現実だってどちらでも良いじゃありませんか。ただ、その自分の生を全うすれば良いだけのことです。

要するに、ある閉じられた世界の中にいる限り、その世界の外のことは判りませんし、わかり得ないことです。
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この回答へのお礼

aminouchiさん、ありがとうございます。
都合が悪いわけではないです。
だってまだ10代前半だし、それにすごく楽しい人生だと思う。
だだ夢だとしたら覚めたときにむなしいでしょう?

お礼日時:2002/03/09 11:59

あらゆる科学・哲学をもってしても


ぜーったいに証明できませーん!
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この回答へのお礼

beat118さん、ありがとうございます。
理性以外のものは証明できないと思いますか?
そのような物には定義が無いから、難しいですよね。

お礼日時:2002/03/09 11:54

「夢」が「夢」である最大の特徴は、「醒める」ことにあると思います。


もし、今私が見たり聴いたり考えたりしているこの状態を「夢」とするならば、
必ず「醒める」ときが来るはずです。
しかし、少なくとも私が今日まで生きてきた中で、この状態が「醒めた」経験はありません。
「醒める」という経験がえられていない以上、この状態を「夢」であるとは云いきれないのではないでしょうか。

では、「夢」であるとは言い切れないこの状態のことを何と呼べばいいかと言うと、やはり「現実」と呼ぶ以外、適当な言葉はないでしょう。「夢であってくれ」と思う事は多々ありますが...
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この回答へのお礼

jayhawksさん、ありがとうございます。
さめることが無ければ良いです。本当に。

お礼日時:2002/03/09 11:48

苦しみを苦しみと知り、逃げることなく味わい、その苦しみを乗り越える事でしょう。

これこそ、生きていればこそ出来る事です。
如何ですか?
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この回答へのお礼

odd-artさん、ありがとうございます。
そうですね。たとえ長い夢だったとしても、同じだと思います。

お礼日時:2002/03/09 11:41

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例えば「~はなぜか」というとき、~の部分が非常に抽象的な説明であったり、そいつの心の中をのぞかない限り正しい原因を探るのが不可能な質問であったり、そいつの世界観の中でしか成り立っていない事実であったり・・・。見た覚えはあるはず。
一般的な事実じゃないことを「なぜか?」と聞いてくるんだから、「それは事実じゃねえよ」、または「お前個人の問題なんだからおまえの胸に聞け」としか答えられない。
意味不明な質問についてはこちらが意味を推測して回答するしかない。

他によく見る問題は、そいつの使ったある意味文学的な表現が幾重にも解釈できるような言葉であって、それに気づかずに質問してくるやつ。もちろん言葉に対する明確な説明はなし。しかもその表現を含んだ命題があったりするんだからぶったまげる。

無視するのが一番?それとも質問がダメだって言っちゃっていいの?質問の詳しい意味を問いただすの?
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Aベストアンサー

私の知っている偉い先生は、いろいろな面でその偉さを見せてくれますが、その一つに、その先生が講演を終わって質疑応答に入って、ときどき纏まりのない頓珍漢で大変拙い質問に出会ったときにも見せてくれます。そんな時その先生は質問者の質問に拘ることなく、その質問の中でたまたま出て来た重要な言葉に焦点を当てて、質問者の意図した筈の質問とは全く関係ない重要な話しに持って行って、それに関して答えます。はじめに他の聴衆は「何と馬鹿な質問をする奴だ」と思っているのですが、その馬鹿な質問を切っ掛けに出て来た素晴らしい解答に魅了されてしまい、「中々良い質問をしてくれた」と思うようになってしまいます。

Q今生きる社会のひな型が無い気がします

親になって感じたことなのですが、
自分が子育をする、あるいは社会生活をするにあたり、
親はこうしていたなと思い出し手本にしたり、
または、意識せずとも自然に同じ事を繰り返していたりします。
私は約30年前子供でしたが、30年前と現在とでは違っていて、
生き方の手本が無いように思います。
例えば、お父さんの時代は、一つのところで勤めあげるのが自然でした。
一つの企業の中で自分の人生を決めていくと思います。
しかし近年は、逆になったと思います。
つまり自分の人生の中で仕事を位置づけていく感じになったと思います。
(それを表現する用語があるのですが、思い出せません)
私の子供時代は近所づきあいがあり、毎日子どもたちは親が付き添わなくても
外で近所の子供たちにもまれ、育って行きました。
しかし今は、隣近所干渉しあわなく気楽な面もありますが、その反面、
親が付き添わなければ大変危険で、子供たちは親同士が約束を取り付けなければ遊ぶことが出来ません。
毎日よその子供と切磋琢磨して育っていく時間が昔に比べて圧倒的に少ないと思います。
学校にしても私の時代は陰湿ないじめは無かったです。
ジャイアンのような子はどこにでもいましたが、そんなジャイアンにも人情やヒトの誇りあったと思います。
他人の手を借りなくても出来る事が多くなって、便利で「我慢する機会」も減ったように思います。

文明のリキが発達して昔に比べたらはるかに便利になりました。
心や時間にゆとりが持ててない気がします。
そして親の時代と違って今の社会を生きるひな型が無くて、
人々は戸惑っているのではないでしょうか。

親になって感じたことなのですが、
自分が子育をする、あるいは社会生活をするにあたり、
親はこうしていたなと思い出し手本にしたり、
または、意識せずとも自然に同じ事を繰り返していたりします。
私は約30年前子供でしたが、30年前と現在とでは違っていて、
生き方の手本が無いように思います。
例えば、お父さんの時代は、一つのところで勤めあげるのが自然でした。
一つの企業の中で自分の人生を決めていくと思います。
しかし近年は、逆になったと思います。
つまり自分の人生の中で仕事を位...続きを読む

Aベストアンサー

新しい社会へ向けて

§1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関

人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。
《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。
《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。

強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。

《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。

わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね 公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。

これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を 単にスサノヲと言ったり 従って もっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 

次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。

§2 主観としての《S‐A連関》から出発する

主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴っていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。

すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。

このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。

主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》と考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。

主観が 社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このように S者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。

§3 共同主観と共同観念

さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけが取り出されるときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように 単なる観念ないし観念的な現実というまでのものになりえます。

たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえられうる・そして感性で理解されうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語られたり論じられたりするからです。つまり 抽象的でもあります。

したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。

これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして 論じられ規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です。

この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。

共同主観は より一層 S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。

しかも 必ずしも感性的でないことによって 観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。

もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。

つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一旦 基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から 一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさっているというようなしろものです。

また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま 見出されるそれであるということになるでしょうか。

§4  記憶・知解・意志(愛)

身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。

同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。

何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。

精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(愛とは 自治・共同自治)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。

記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。

また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。

従って言いかえると 一般に 新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は 生きることになります。

新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。

そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。

いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S者共同体である市民社会が 基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が 乗っているように S圏の上にもA圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。

次に これらの分析用語を整理しておきます。

§5 概念・用語の整理(1)

《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体
Susanowo・・・・・・・・・・・・・・Amaterasu
S者・S語(人間語)・・・・・・・・A者・A語・A語概念
身体・感性・・・・・・・・・・・・・精神(記憶-知解-意志)
《わたくし》・・・・・・・・・・・・・・《おほやけ》
市民(homme/bourgeois)・・・・・公民(citoyen)
社会主体・・・・・・・・・・・・・・・・社会科学主体
政治経済主体・・・・・・・・・・・・政治経済学主体
   * 象徴としての国王・元首はアマテラシテAmaterasite; Amaterasity; Amaterasitaet

§6 概念整理(2)

《 スサノヲ--------アマテラス 》連関形態
スサノヲシャフト------アマテラストゥーム
Susanowoschaft--------Amaterasutum
S圏------------A圏
市民社会---------〔狭義の〕社会形態
《まつり》---------《まつりごと》
ヤシロ Yasiro-------スーパーヤシロ Superyasiro
自治態勢および生産態勢---行政府・立法府・司法府
ムラ mura----------国家:イエ・ナシオナルihe national
エクレシアecclesia(eglise)---- 社会形態;キュリアコンkuriakon(church) 

§7 概念整理(3)

スサノヲ( S )・・・アマテラス( A )
身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
[S者/S圏]
個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
[A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )

§8  スサノヲイスム(インタスサノヲイスム)およびインタムライスムへ向けて

スサノヲイスム:自治(個体の自己経営・愛)を基礎とする社会
インタスサノヲイスム:愛 ;S圏主導(民主主義)による《S圏-A圏》連関の社会
インタムライスム:国境を超えたスサノヲイスト市民社会連合

* ピントがずれたかも知れませんが たとえば 舛添要一は まだ スサノヲ人間語を語っているといった現実のことです。この頃 少し 歯切れがわるくなってきましたが。そのあたりなど つまり 客観A語に裏づけされた人間S語を語っているか このことを 公共の場にある一般アマテラス公民の言語表現について 分析するのも よろしいかと思います。社会としてのひな型をめぐる表現形式についてのひな型のようなものを作っていけるのではないでしょうか。

新しい社会へ向けて

§1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関

人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。
《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。
《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。

強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき...続きを読む

Q正しく生きるということ→どう幸せだったか?

こんにちは。

(1)正しく生きるとはどういうことか?
(2)貴方は、そうすることでどう幸せだったか?

よろしくお願いします。
例 実話ですが。
ある人は、世の中を幸せにしたいと思いボランティアで、難民に数千万の寄付を長年に渡ってしてきました、ところが、其のボランティア団体は、其れは自分達がしたことであって、彼に悪魔と告げて去って行きました。彼は、何も無くなりました。でも、彼は正しい人だったので、何も無くても人に楽しいことを教えようと思いました。私は、彼は正しいと思います。

何も仕事をしていない愚か者の回答は、ご遠慮ください。

Aベストアンサー

人間は若い頃、自分に約束された成功を夢想します。
才能を発掘される僥倖、白馬の王子。 いずれも同じ。

「ゴドーを待ちながら」のように待ちわびているうちに、
心躍る物語に自分を投じて夢想するようになります。

テレビやネット、身の回りにも様々な蠱惑的な成功譚が
満ち溢れ、心奪われる。 時に夢想は妄想となり、現実の
我が身の無為を嘆いて隔靴掻痒の思いに悶々とします。

幸せになりたくて、成功したいと願いながら失敗を恐れ
知でも財でも容易く手に入れることばかり考え、あれも
これもと皮相的な知識ばかり詰め込んで訳知り顔で
この世は大したことが無い、つまらないとため息を付き
ながら、気が付けばやたらと貼り付け、詰め込んだ
知識や訳知りに覆い隠され、自分が誰だか判らなく
なっていきます。

失敗をせず、何でも知っている万能を気取りながら
さりとて泥臭く努力することを忌避して生きてきた人は
余りにも簡単なことが理解できなくなってしまうのです。

正しい、とは勿論、自分が決めることですが、突き詰めて
考えていけば、自分が正しいかどうかを判断し、結論を
導き出さねばならないような、責任を負うべき場面など
そうそう無いことに気付くものです。

小さな小さな世界の一瞬にも等しいかすかな分岐点で、
責任と言う重い刃を突きつけられて、覚悟して下す判断。
それを「正しい」と申します。
だから、中々正しい、というものは目前には現れません。

そして、幸せとは何か、と考えることは、ともすれば瞼の裏に
夕暮れを想いながら、暗闇の森に分け入っていく如きもの。
いつしか、ただ 日輪を見つめ、自然や、風景や、人間に
心揺さぶられ心洗われる気持ちのありようであったものを
弄繰り回して口に入れられないものにしてしまう愚行を、
私も幾度繰り返したことでしょう。

やがて年老い、夢想は遠くなり、正論も野望も色褪せて
寂しさと侘しさと、悦びと楽しさと。
童のように無邪気に微笑む老人は、恍惚の人となりにけり。

幸せとは? かの恍惚の人は、生臭い脂っ気を失い、カサカサと
路傍の名も無き花のように微笑みながら揺れています。

そんなものなのかも、知れません。

「正しい」ということも、「幸せ」ということも、廻りから取り込んだ
様々な自分ではないものを一切振り落とし、純然たる自分だけが
残って、その自覚を持つ者だけが感じられる、「自分」そのものの
「手触り」なのかも知れません。

観自在・・・

人間は若い頃、自分に約束された成功を夢想します。
才能を発掘される僥倖、白馬の王子。 いずれも同じ。

「ゴドーを待ちながら」のように待ちわびているうちに、
心躍る物語に自分を投じて夢想するようになります。

テレビやネット、身の回りにも様々な蠱惑的な成功譚が
満ち溢れ、心奪われる。 時に夢想は妄想となり、現実の
我が身の無為を嘆いて隔靴掻痒の思いに悶々とします。

幸せになりたくて、成功したいと願いながら失敗を恐れ
知でも財でも容易く手に入れることばかり考え、あれも
これもと皮相的...続きを読む

Q社会を明るくするには 今まさに作文をかいているとちゅうです。皆さんは社会を明るくするにはどうしたら

社会を明るくするには

今まさに作文をかいているとちゅうです。皆さんは社会を明るくするにはどうしたら良いと考えたことは無いでしょうか。皆さんのご意見よろしくお願いいたします

Aベストアンサー

一般的には、不経済をなくす事や戦争をしない事、困っている人々を救済する事、歴史を尊重し文化を進める事だとは思ってます。

そういう事に縁遠い人々は、旨く行っているのかもしれませんが、身近なところから、ルールを守ることやルールを決めたり、改善する事などを考えてみるのもいいかと思います。

しかし、多くの人にとって、夜があるから、日中の健全さを伺う事が叶っているのも確かで、ただ明るい事が、単純に良い事だとも、実のところ、そうは思えてはいないのが現状なのですけどね。

・・窮屈な大衆社会ですから。

Q皆様は「人形として生きる者」と「苦悩して生きる者」とでは、どちらを選択して生きていきますか?

皆様は「人形として生きる者」と「苦悩して生きる者」とでは、どちらを選択して生きていきますか?

Aベストアンサー

「人形として生きる者」とは、他人に所有され他人の意思で他人の思うように生きる、「苦悩して生きる者」とは、自分の意思で自分の思うように自分で険しい道を切り開きながら生きて行く事だと解釈します。

人形の持ち主にもよりますが、どちらか選べと言われたら、「人形として生きる者」を選ぶかもしれません。
20代で人生の半分も生ききっていない若輩ですが、これまでの道がかなり険しかったもので、これからは楽に生きたいです。
例え誰かに所有されるとしても、穏やかで安定した気持ちで生活を送れるのなら、将来は人形も良いかもしれません。

ですが、独身一人暮らし、今の自分は「苦悩して生きる者」に近いです。


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