ギリギリ行けるお一人様のライン

「哲学者」と「思想家」の違い、あるいは、「哲学」と「思想」の違いは何でしょうか?

「現代思想」という表現は、よく見かけますが、「現代哲学」という表現は比較的少ないように思います。どのように使い分けているのでしょうか?

A 回答 (7件)

思想はイデオロギーですよね。

イデオロギーは、人間の行動の基本となる、根本的なものの考え(観念形態)です。したがって、思想には、行動が伴い、往々にして、社会的(集団的)な広がりを持ちます。これに対して、哲学は、世界や人生の究極の根本原理を追求する学問であり、あくまでも、個人的なレベルにとどまります。

「カント哲学」はカント個人の哲学であり、他の人の哲学にはならないのです。カントを研究する人は「カント哲学の研究者」であって、決して「カント哲学者」ではないのです。カント哲学に心酔する人も、カントと同じ哲学を持つことはありえません。仮に、カントと同じ哲学を持ったとしたら、その人は「哲学者」ではなく、「研究者」になります。自ら思索し、自らの哲学を創る人を哲学者といいます。

それから、東洋哲学というのも適切な表現ではありません。東洋には哲学はありません。哲学は古代ギリシャを発祥とする個人的で、自由な思考形式です。
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この回答へのお礼

>思想には、行動が伴い、往々にして、社会的(集団的)な広がりを持ちます。

確かに、そういう感じがします。

>「カント哲学」はカント個人の哲学であり、他の人の哲学にはならないのです。カントを研究する人は「カント哲学の研究者」であって、決して「カント哲学者」ではないのです。

「個人の哲学」という視点は、なるほどと思いました。哲学者と研究者の違いもわかりました。

>それから、東洋哲学というのも適切な表現ではありません。東洋には哲学はありません。哲学は古代ギリシャを発祥とする個人的で、自由な思考形式です。

キリスト教と縁が深い、スコラ哲学などは、どうなんでしょうね。スコラ哲学が哲学なら、東洋哲学も哲学と言ってもいいということはないでしょうか? もっとも、私は、スコラ哲学の中身を知らないので、単なる思い付きですが。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/05 22:41

思想家は「信じる系」、哲学者は「疑う系」という感じがします、なんとなく。



何かを(既に)信じていて、その正統性とか普遍性とかについて(論じようと)考えるのが思想家。なぜ自分がそれを信じているのか(いないのか)、根本から自分を疑って考えようとするのが哲学者だと思いますね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/17 09:09

哲学とは、古代ギリシャで発展した独特の世界観をもった思想であ


るphilosophiaの訳語です。基本的には、ヨーロッパという地域を生
みだす原動力になった物の見方のことです。古代ギリシャより積み
上げられた、独特の概念、用語、世界観、価値・倫理観を持ってい
ます。

そこから転じて、ある社会が保持するトータルとしての世界観を、
「~哲学」というように呼ぶようになっています。「イスラム哲学」
「東洋哲学」といった感じですね。
また、物事を深く突き詰めて考えることや、現世的な考え方を超越
して考えることを、「哲学的」と呼び、そのような思考を行ってい
る人を、「哲学者」と呼ぶようにもなりました。
ソクラテスやプラトンのようなイメージの人たちですね。

それに対して、「思想」とは、ある人間、あるいは社会が、自らの
体験を通じて積み上げた固有の世界観、しばしば、「生き方と切り
離せない思考の全体像」を、「思想」と呼ぶことが多いと思います。

違いの一つは、こうした「思想」は、古代ギリシャ源流の哲学や、
それに類する書物に影響を受けている場合もありますが、特に個人
の「思想」の場合には、個人的な経験により裏付けられたものだ、
ということが多い、ということです。
「哲学」が、様々な用語・概念により論理的に構成される学問体系
として成立しているのに対して、「思想」は、それに限らず、振る
舞いや慣習、政治的行動の仕方まで含むことも多いと思います。

いわゆる「哲学」的思考法を多く含むか、ということが、大きな違
いであることは、No.4さんが指摘している通りだと思います。
「吉本隆明の思想」とか「マルクスの思想」とは言いますが、これら
の「思想」を「哲学」と置き換えると、変な感じがします。両者とも
「哲学的」であることもありますが、吉本の文学的に、マルクスは
社会科学的に語る人ですから。
「デリダの思想」「デリダの哲学」だったらどちらでも違和感はあり
ません。デリダは哲学の用語で語る哲学者ですが、語る内容は、より
幅広い内容を含みますから。

「現代思想」が、なぜ「現代哲学」と呼ばれないかというと、上記の
ような違いを考慮に入れれば、わかることだと思います。つまり、
「現代思想」は、古代ギリシャより積み重ねられた「哲学」の延長に
ありながらも、精神分析学や人類学だったり、先端の科学的成果だっ
たりを内に取り込んでいて、もはや古典的な意味での「哲学」を越え
てしまっているからです。

「哲学者」と「思想家」の違いに関して言えば、前者は、ほぼ必ず
古代ギリシャ源流の「哲学」の素養を経験しているのに対して、後者
は必ずしもそうではない、ということでいいのではないでしょうか。

長くなりましたが、以上です。
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この回答へのお礼

色々な観点から、ていねいなご回答ありがとうございました。少し考えてみたいと思います。

お礼日時:2006/09/05 22:34

思想は、哲学や科学その他の過程を経て、紡ぎだされた「結果」なのだと思います。

つまり、どうあらねばならないのか、何を為さねばならないのか、という規範であり、それが対象化されたものだということです。
思想という範疇の中でも、個人の行動だけに関するものは「信条」と呼ばれるます。この「信条」と「哲学」を比較するならば、迷いは生じないのではないでしょうか。
また、日本語としては微妙ですが「哲学する」「科学する」ということばもあります。このことばが生じやすいのは、これらが動詞的な語なのだからだと思います。一方、「思想」は名詞的です。思想はするものではなく、結果として為されたものだからではないでしょうか。製品としての織物は名詞的ですが、デザイン、はた織、紡績、などは動詞的です。思想は出来上がった織物であり、哲学はデザインやはた織にあたるものだといえるでしょう。ついでにいうならば、その織物をどう衣服や装飾品として活かすかが「実践」ということだと思います(ま、そのまま実用にはならなくて織物ばかりが増えていったりするものですが)。

一般に、哲学書では動機から考察・実証などを経て結論までが書かれます。そういう意味では哲学書は思想を含んでいます。結論に重きをおいて考えるならば、その哲学書は思想書ともいえるものだからです。
一方、思想書でも動機~結論までが書かれます。その意味では哲学と同じことになります。しかし、思想書の場合は、考察・実証などのプロセスの部分が必ずしも哲学であるとは限りません。科学でも宗教でも、また道徳、経験、教養、マナー、ルール、法、しきたり、ならわし、等々でも構わないわけです。

ファミレスのデニーズとガストはどちらが好き(もしくは良い)か、というのをそのまま言ってしまえば趣味の範疇でしょう。しかし、理論化されていれば、それは思想です。でも哲学ではありません。哲学は、その「理論化」の中に潜んでいるものだと感じます。
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この回答へのお礼

>思想は、哲学や科学その他の過程を経て、紡ぎだされた「結果」なのだと思います。
>「思想」は名詞的です。思想はするものではなく、結果として為されたものだからではないでしょうか。

なるほど。「結果」という視点で見ると、区別ができそうですね。今まで、気付きませんでした。

>しかし、思想書の場合は、考察・実証などのプロセスの部分が必ずしも哲学であるとは限りません。

考えてみると、「思想」については、「社会思想」「政治思想」「科学思想」「教育思想」.....と、確かに様々な分野における「思想」があるということですね。

大変よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/04 20:21

明確な意味合いは(勿論)わかりませんが


哲学は「者」を使ってて、
思想は「家」をつけるという
属性の区別があるかも。

「哲学は理系」で、「思想は文系」で
理系の解説だと収束する方向で
文系の解説だと広大する方向に向かう気がします。
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この回答へのお礼

>哲学は「者」を使ってて、思想は「家」をつけるという属性の区別があるかも。

いつも、思いも寄らない発想、ありがとうございます。

そういえば、科学者○/科学家X、法律者X/法律家○、政治者X/政治家○、経営者○/経営家X、自殺者○/自殺家X、変質者/変質家、実業者X/実業家○......色々ありますね。初めは、パラノっぽいのが「者」で、スキゾっぽいのが「家」かと思ったのですが、経営者、実業家のところで、一貫性がくずれてしまいました。

>「哲学は理系」で、「思想は文系」で

えーっ? 哲学は理系なんですか? やっぱり、思いもよらない発想!
うーん、でも、感じとしては、わからないでもないような気がしてきました。その「感じ」というのは、「哲学」は、何か問題の中心に向かって突き進んでいく感じで、「思想」は、逆に、ある問題を中心に広く様々な問題と関連付けて広がっていく感じがしないでもない。やはり、「哲学」パラノ、「思想」スキゾという感じに近いかも。でも、よくわかんなくなりました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/04 19:44

学が無いので難しいことは判りませんが、辞書で調べたら哲学って、ものごとの原理、根本的な部分を考える、真理認識の学問ということみたいですね。



仏教では、ダンマ(自然法則)といってますが、ダンマはお釈迦さまがそれに気づいた(悟った)だけで、もちろんお釈迦さまが作ったワケではなく、ずっと昔からあったものであると言います。(当たり前のことですが・・)


論語に「述べて作らず、信じて古を好む(子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭)」とあるように、仏教も自然法則を述べてはいるが、何も作ってはいないんです。あくまでも真理を説いているにすぎないんです。言い方を工夫してはいるでしょうが、何も作ってはいないんです(まともな仏教ならば)

これが哲学であると想うんです。
原理、根本を探求するのが哲学であるのならば、これこそが哲学のあるべき姿だと想うんです。
「述べて作らず」です。




もちろん思想家とは何か?ということは、私なんかにゃ判らないのですが、もし、単純に上記の対極を示すのならば「述べて作る人」をいうのではないかと想います。

これも辞書で引いてみたら「人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解」とありました。
原理とか真理ではなさそうな予感です。。。
そうなると、たとえば、ヒットラーにも思想があったと想うんです。
人殺しには、人殺しの論理というのがあるんです。

それは述べて作っていると想うのです。

まあ、こんな感じがわたしの意見です。
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この回答へのお礼

真理を認識して「述而不作」が哲学で、人工的に「述而作」のが思想と言うことでしょうか。

確かに、「現代思想」とか「思想家」という熟語ではなく、単独で「思想」というと、対象は哲学より広そうだけど、深さは、哲学より浅い感じがしないでもないです。

もう少し考えてみます。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/03 21:12

哲学と思想の違いが気になるようですね。


前にも一度見たような気がします。

私はあまりというより、全く気になりませんが、考えて見ます。

一時間考えました、でも無駄でした。

結局、哲学者・哲学と思想家・思想と言う言葉の指示する具体的な内容がわからない。

以下は私の妄想です

物理の世界に、物質の階層性が有るのはご存知ですか。

量子レベルや、原子レベル、有機体のレベルには、数的な階層があるらしいです。
つまり、中間に言葉に出来ない空虚が有るのかな。

各レベルは水平の関係があるかも、
有機体は有機体のレベルで、知覚・・・うん言葉に出来ない。

突然ですが、哲学はレベルを乗り越えて、思想はレベルの中で考える
間違っているでしょうね、考える参考になれば。多分なりませんが。
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この回答へのお礼

>量子レベルや、原子レベル、有機体のレベルには、数的な階層があるらしいです。

量子が集まって、原子ができ、原子が集まって分子ができ、分子が集まって有機体ができるというような階層構造があるように思いますが、思想と哲学ではどっちが上位レベルなんでしょうね。

>突然ですが、哲学はレベルを乗り越えて、思想はレベルの中で考える

ということは、思想のレベルより哲学のレベルの方が上位なのか。

なかなかむずかしいです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/03 21:02

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