関ヶ原の合戦などの後の死者の片付けはどうしていたのでしょうか?

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A 回答 (2件)

 死体の処理法としての葬送の儀は古来から、


 (1)風葬 (2)水葬 (3)土葬 (4)火葬
の4つに大別される。
 日本では仏教伝来以前は、カメや石棺などに納める(3)の土葬の1種が行われたいた。
 仏教は(4)の火葬が本義である。釈尊自らがこの方法で葬られた。以来、日本の仏教徒は「火葬」なのです・・・
 ただし、火葬には、経費がかかり、場所の制約があるので、土葬が一般的でありました。(昭和40~50年ぐらいまで)
 例えば、平安時代、疫病などで多数の死者が出たとき鳥辺山などへ放り出した(風葬・鳥葬)のです。
 戦国時代は、やはり火葬が本来なのですが、「首実検」のため、武将の生首が必要で、土葬が行われることも多かったのです。
 ご質問の関ヶ原の戦いでは、ほとんどが放置されていましたが、しばらく後に埋葬(土葬)されました。これが現在の「首塚」として残っています。西首塚、東首塚があります。

参考URL:http://www.ginet.or.jp/sekigahara/kankou/kosen1. …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。TVで宮本武蔵を見ていて疑問に思いました。勉強になりました。

お礼日時:2001/01/03 09:09

基本的に野ざらし。


特に敗者側の死者は放ったらかしです。

そして足軽が死者の装備等の金目のものを物色していきます。それから農民が金目のものを物色します。

その後、周辺の農民が仕方が無く埋葬することもあります。それは死体にカラスなどが群がって気味が悪いからです。

・・・と脅かしたところで。

勝者の死者はたいてい味方が引き取ります。首やまげ、または脇差だけ形見に取ってその場に埋葬することが多いです。
でも、あまりに死者が多いとそれは身分の高い人だけであとはそのままということもあります。
それに身元が判別できない人もそのままですね。
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Q関ヶ原合戦について

 司馬遼太郎の「関ヶ原」には、家康が、上杉景勝攻めに、東北へ遠征している間に、改易で不満の多い越後の土豪たちを先導して一揆を起こさせ、家康が、中部地方まで取って返したとき、側面から家康軍に攻撃を仕掛けさせるような戦略のプランの記述があるのに、実際その一揆は起こったのか、顛末が書いてありません。書には越後のだれそれに三成が書状を送り、先導するようなことを書いてありますが。

 どなたかご存知ですか?実際の関ヶ原では、吉川広家や黒田長政、毛利輝元などが動かず、さらに小早川秋秀の裏切りで、勝負は決したと有りますが、もし越後州が、側背から家康軍に襲い掛かっていたら?と想像が膨らみます。

Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%B2%BB
旧臣による一揆はあった模様です。

何か事が起こると、一揆が起こるのはその時代の基本というか、ない方がおかしいようで、
本能寺の変の時も、その直前に信長に粛清されていた安藤守就が一揆というか挙兵しています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%AE%88%E5%B0%B1
他者にそそのかされて一揆というと葛西大崎一揆があります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86

上杉家の会津移転は、基本的には栄転、越後に残置された旧臣は少なかったかと思います。

Q関ヶ原の合戦で東軍につき大阪の役で豊臣についた大名は存在しますか?

関ヶ原の合戦で東軍について、その後大阪の役で豊臣についた大名、あるいは武将はいるでしょうか?
もしご存じでしたら教えてください。

Aベストアンサー

織田長益(有楽斎)が正しくそれに該当します。

この人は、関ヶ原の戦いの時は数千石の身代だったようですが、他の小勢力の武士と一緒に関ヶ原で備(そなえ。独立の戦闘単位)を形成して、西軍の石田三成隊と戦ったとされます。三成の侍大将で有名だった蒲生郷舎を討ち取ったとのことです。東軍について戦った功を賞され、大和の山辺郡に3万石の領地を与えられて大名となりました。かなりの優遇といえます。

長益は信長の末弟でしたので、大坂城の実質的な主である淀殿の叔父に当たります。その関係で、関ヶ原の合戦の後もずっと大坂城に出仕して「淀殿の相談役」の役割を果たしていたようです。大坂冬の陣では、長益は大坂城に篭城していました。即ち「関ヶ原の合戦で東軍について、その後大阪の役で豊臣についた大名」に該当されます。確か、徳川と豊臣の講和交渉でもいろいろ動いていた筈です。

その後、大坂夏の陣の前に長益は大坂城を去りました。事情は詳しく伝わっていない筈ですが、「長益は徳川に最初から通じていた。豊臣方に勝ち目がない状況が完成したので任務が終わり、大坂城を退去した」というのが定説です。

以下は全くの想像ですが、長益は淀殿と秀頼に
「大坂城は既に軍事的機能を失い、もう篭城戦はできない。天下は既に徳川家に移っているが、徳川は豊臣家を潰す意思はないと私(長益)に確約している。大坂城内の財宝を持って城を立ち退いて京に移り、公卿として生きよう」
とでも説得を試みたのではないでしょうか。私見では、そうすれば徳川家は豊臣家の存続を認めたと思いますので。秀頼の正室の千姫は家康の孫であり、この時点で依然として豊臣方にいます。千姫は、徳川家が豊臣家に差し出している人質と言えます。
※ 逆に、豊臣家から徳川家に差し出している人質はいませんでした。

淀殿が「大坂城から絶対に出ない。白と共に死ぬ」という態度を変えなかったため「今はこれまで」と長益は匙を投げて城を出た…ということなら名分も立ち、周囲も納得したでしょう。長益の内心は「これで命拾いした」であったかもしれませんが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%8A

また、豊臣家の家老の立場にあった大野治長は、関ヶ原の戦いでは東軍の一員として戦っています。その後は豊臣家の家老の地位に就き、最後まで豊臣家を離れずに淀殿・秀頼と共に死んでいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B2%BB%E9%95%B7

織田長益(有楽斎)が正しくそれに該当します。

この人は、関ヶ原の戦いの時は数千石の身代だったようですが、他の小勢力の武士と一緒に関ヶ原で備(そなえ。独立の戦闘単位)を形成して、西軍の石田三成隊と戦ったとされます。三成の侍大将で有名だった蒲生郷舎を討ち取ったとのことです。東軍について戦った功を賞され、大和の山辺郡に3万石の領地を与えられて大名となりました。かなりの優遇といえます。

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Q関ヶ原の合戦の参加

関ヶ原の合戦で毛利家?は軍隊を派遣していながら東西どちらにもつかなかったような気がするんですが、実際はどうだったのでしょうか。

Aベストアンサー

吉川広家が前にいた上に、全く動かなかったので
まるで合戦に参加できなかったのです。^^;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2:Sekigahara.png

吉川は戦いに参加しない事を条件に
毛利の領土の安堵を家康に約束させます。

しかし、戦後に毛利の領地の石高を削られたので話が違うと食ってかかりますが、後の祭りになったのです。

かわいそうなのは長曽我部。

島津は家康から伏見警護を頼まれますが驚くことに門前払いを受けます。入城していたら滅亡しています。

やむを得ず西軍に加担しますがあまりにやり方がおかしいと思い、
攻められなければ動かない事にします。

江戸に行くと殺されると思い病気を理由に断りました。
「示しがつかない。頼むから臣下の礼を遂げてくれ。」
家康は秀吉にされたように頼みまくります。
石高は変わりませんでした。

Q関ヶ原の合戦の裏話

初めまして。
今関ヶ原の裏話について調べているのですが、資料がなく困っています。
東西軍関係無しに何か裏話・考察等ありましたら教えてください。

Aベストアンサー

例示してもらって、更に困りました。
関ヶ原合戦があったことを否定する文献を見た事はありませんが、細かい所は様々な説があります。
例示にある、島津豊久の最後も諸説あり、司馬遼太郎の関ヶ原の中では、烏頭坂で戦死していますし、烏頭坂で重傷を負い、多良と言う所で自害した説もあります。また、五大老、五奉行制は多くの本で見ますが、三中老は否定的な説も実はあります。
石田三成と秀吉の出会いもそうですが、寺の小僧で三杯の茶を献じる話が有名ですが、三成の子孫の話では姫路で秀吉に仕えた事になっています。
裏話はこのように諸説ある一つの紹介になる可能性があり、難しい部分があります。

私が知っている話を紹介しておきます。(既にご存知ならごめんなさい)
石田三成が真田家に西軍加担の勧誘状を出しますが、今もこの勧誘状が残っています。真田家ではこの書状を長持の底に隠し寝ずの番を置いて守ってきたと聞いています。

石田三成の墓が京都・大徳寺の三玄院にありますが(非公開)墓石には何も文字が見られず、明治時代に学術調査のために墓が掘り起こされています。この時三成と思われる頭蓋骨が出てきています。

西軍の旗頭になった毛利家ですが領地を減らされ、吉川家の岩国は藩と認められず、(石高6万石)明治時代になって初めて藩と認められました。

こんな感じですが、裏話になりますか?

例示してもらって、更に困りました。
関ヶ原合戦があったことを否定する文献を見た事はありませんが、細かい所は様々な説があります。
例示にある、島津豊久の最後も諸説あり、司馬遼太郎の関ヶ原の中では、烏頭坂で戦死していますし、烏頭坂で重傷を負い、多良と言う所で自害した説もあります。また、五大老、五奉行制は多くの本で見ますが、三中老は否定的な説も実はあります。
石田三成と秀吉の出会いもそうですが、寺の小僧で三杯の茶を献じる話が有名ですが、三成の子孫の話では姫路で秀吉に仕えた事にな...続きを読む

Q関ヶ原の合戦の秀秋との距離

初めにお断りしておきますが質問複数ありますのでご勘弁を。

小早川秀秋は三成勢の武将誰だったか忘れましたがナントカ山にいたのを遅れてきて追っ払い布陣したとありました。この秀秋隊、三成側、家康側、双方の考えとしては本来ならどの「場所」に配置される予定だったのでしょうか?

そもそもそうなった番狂わせな時点でいくら鶴翼の陣を敷いていたとしても石田三成は秀秋のことを怪しんだと思います。三成も背後の街道に逃げやすいナントカ山にいたのは解りますし秀秋隊が再三の要求に対し動かなかったのも解ります。それはそういった配置になってしまったからです。でしたらなぜ初めから自分が背後に付くような前方に置けなかったか?置かなかった?か不思議です。
先鋒きらせればいいのに・・・と。遠くの山って・・・。

三成は現場の指揮官として武将の配置さえ決める権限なかったのでしょうか?あのよく見る関ヶ原、西軍の鶴翼の陣はそもそも誰の采配で決められたのでしょうか?

三成は裏切られることをある程度予測して大谷吉継等々、抑えとして配置してますがそれだったらもう「初めの戦評定で自分の真正面に布陣させる構え」の方いいような気もします。

ましてや秀秋はギリギリまで情勢が有利な方を見極めようとしていたのだと思いますが、そんな危ない隊は本陣の手前、島左近や宇喜多隊の手前に布陣させればって思いました。もしくは参加しないで下さいと・・・。

家康にしても裏切る約束してたのであれば秀秋をもっと近くに置けなかったのでしょうか?(黒田長政は父親関係で裏切りそうだから本陣の前線に配置した、という噂もありますよね)
ましてこの戦さ前までは秀忠の増援も当然期待してたでしょうし秀秋の裏切りが絶対必要だったのでしょうか?来なくていい、もしくは他の西軍同様動かなくていい、でイイと思いました。

三成隊も間違って西軍になってしまった完全に乗り気でない島津隊をあの位置に配するなんておかしい気が・・・。

全ては結果論ですがこの秀秋隊との「双方本陣との距離の問題」が戦を決する一因になってたような気もしたので質問させて頂きました。
長文になり何を問いたいのか分からなくなりましたが適当に回答お願いします。

初めにお断りしておきますが質問複数ありますのでご勘弁を。

小早川秀秋は三成勢の武将誰だったか忘れましたがナントカ山にいたのを遅れてきて追っ払い布陣したとありました。この秀秋隊、三成側、家康側、双方の考えとしては本来ならどの「場所」に配置される予定だったのでしょうか?

そもそもそうなった番狂わせな時点でいくら鶴翼の陣を敷いていたとしても石田三成は秀秋のことを怪しんだと思います。三成も背後の街道に逃げやすいナントカ山にいたのは解りますし秀秋隊が再三の要求に対し動かなかったのも...続きを読む

Aベストアンサー

>小早川秀秋は三成勢の武将誰だったか忘れましたがナントカ山にいたのを遅れてきて追っ払い布陣したとありました。この秀秋隊、三成側、家康側、双方の考えとしては本来ならどの「場所」に配置される予定だったのでしょうか?

●回答・・・どこでもありません。三成にしても家康にしても配置する場所などは考えていませんでした。
小早川秀秋が勝手に松尾山に陣取りました。そして関が原の戦いが起こりました。

小早川秀秋は伏見城落城後、安濃津城攻めに行くよう石田三成に言われたにも関わらず、それに従わず近江と伊勢付近をうろうろして裏切りを疑われていました。この時、石田三成、大谷吉継らが小早川秀秋を討とうとしたという話もあります。
そして、9月14日の時点で、石田三成らが大垣城におり、その北に位置する赤坂の東軍と睨みあっている時に、突如、小早川秀秋が、大垣城から西に8キロ以上離れている関が原付近の松尾山に陣取ります。
この小早川秀秋の動きについては、戦闘に参加するためではなく、西軍から危険視されているために、ここに籠城するような形で陣取ったという説もあるようです。

石田三成らは東軍の動きと小早川秀秋の動きに対処するため、大垣城を出て西に移動し、戦線後方だったとも言える関が原に陣取りました。
そして西軍は裏切りの疑いのある小早川秀秋を西軍に味方させるため、関白にするとか播磨一国を与えるとか、色々書いた誓書を小早川秀秋に届けます。

東軍も小早川秀秋に二カ国与えるという誓書を送り味方にしようとします。
家康の場合は黒田長政を通じて小早川秀秋を味方に付けようとしますが、小早川秀秋が東軍に味方するという返書が来たのは、開戦の約三時間前というタイミングでした。

つまり、東軍、西軍共に最初から小早川秀秋を「配置する場所」などはなく、双方共に戦場近くに現れた小早川秀秋を懐柔して味方に付けようとしたというのが実際のところです。
小早川秀秋が松尾山に陣取った事から、関が原での決戦となったという部分もあります。


>そもそもそうなった番狂わせな時点でいくら鶴翼の陣を敷いていたとしても石田三成は秀秋のことを怪しんだと思います。三成も背後の街道に逃げやすいナントカ山にいたのは解りますし秀秋隊が再三の要求に対し動かなかったのも解ります。それはそういった配置になってしまったからです。でしたらなぜ初めから自分が背後に付くような前方に置けなかったか?置かなかった?か不思議です。
先鋒きらせればいいのに・・・と。遠くの山って・・・。

●回答・・・先にも述べたように、既に関が原の戦い以前に小早川秀秋は石田三成の命令を受け付けなくなっていました。
小早川秀秋が松尾山に陣取った事自体が、石田三成の想定外の話です。


>三成は現場の指揮官として武将の配置さえ決める権限なかったのでしょうか?あのよく見る関ヶ原、西軍の鶴翼の陣はそもそも誰の采配で決められたのでしょうか?

●回答・・・一応は石田三成ですが、もともと厳密に定められたものではなかったようです。
西軍が関が原に着いてからも陣の移動が行われています。
小西行長は初め藤川の向かいに陣取っていましたが、三成の求めで小関村の南に陣を移しました。
そもそも石田三成は自軍の前に先鋒として島津義弘を置こうとしたようですが、島左近が石田勢が先陣にあるべきだと諌められ、島左近の隊を先陣とし、島津に横撃を頼んだようです。
なお関が原での決戦を決める前、10日以上前の9月3日の時点で大谷吉継らが関が原の山中村に着陣し周辺の守りを固めていました。ここに石田三成らが北から順に着陣する形になったようです。


>三成は裏切られることをある程度予測して大谷吉継等々、抑えとして配置してますがそれだったらもう「初めの戦評定で自分の真正面に布陣させる構え」の方いいような気もします。
ましてや秀秋はギリギリまで情勢が有利な方を見極めようとしていたのだと思いますが、そんな危ない隊は本陣の手前、島左近や宇喜多隊の手前に布陣させればって思いました。もしくは参加しないで下さいと・・・。

●回答・・・先にも述べましたが、既に小早川秀秋は勝手に動いており、西軍に味方させるための恩賞を約束するというような状況でした。
関が原付近の松尾山に敵と通じている疑いがある小早川勢が着陣したため、石田三成は主力を大垣城から出し、後方にあたる関が原を戦線にしなければならなくなったとも言えるかと思います。


>家康にしても裏切る約束してたのであれば秀秋をもっと近くに置けなかったのでしょうか?(黒田長政は父親関係で裏切りそうだから本陣の前線に配置した、という噂もありますよね)
ましてこの戦さ前までは秀忠の増援も当然期待してたでしょうし秀秋の裏切りが絶対必要だったのでしょうか?来なくていい、もしくは他の西軍同様動かなくていい、でイイと思いました。

●回答・・・先にも述べましたが、小早川秀秋が東軍に味方すると書状を送って来たのが開戦3時間前ぐらいです。
家康も小早川秀秋が味方しない可能性を考えていたと思います。

>小早川秀秋は三成勢の武将誰だったか忘れましたがナントカ山にいたのを遅れてきて追っ払い布陣したとありました。この秀秋隊、三成側、家康側、双方の考えとしては本来ならどの「場所」に配置される予定だったのでしょうか?

●回答・・・どこでもありません。三成にしても家康にしても配置する場所などは考えていませんでした。
小早川秀秋が勝手に松尾山に陣取りました。そして関が原の戦いが起こりました。

小早川秀秋は伏見城落城後、安濃津城攻めに行くよう石田三成に言われたにも関わらず、それに従わず...続きを読む


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