1868年(明治元年)に、陸奥(みちのく)は、
陸奥(むつ)を、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥に分け、
出羽を、羽前、羽後に分けましたよね?

これと同じように、越国が、越前、越中、越後に分かれ、
そのうち、越前が、越前、加賀、能登に分かれたり、
毛野国が、上野、下野に分かれたり、
総国が、上総、下総に分かれ、後に阿波からやってきた人により、上総から安房が分離したり、
伊勢から志摩が分離したり、
吉備が、備前、備中、備後に分かれたり、
筑紫が、筑前、筑後に分かれたり、
豊国が、豊前、豊後に分かれたり、
肥国が、肥前、肥後に分かれたり、

分裂して、旧国境が誕生した年代を教えてください。


大和政権が誕生する前後だと思うのですが。
詳しい人、お願いします。

A 回答 (3件)

越国が、越前、越中、越後に分かれ、>


 天武天皇時、3つに分れました。
越前が、越前、加賀、能登に分かれたり、>
 741年、羽咋、能登、鳳至、珠洲の4郡が越中に属することになり。757年、これらは能登国になりました。これより前、702年越中国より、頚城、魚沼の2郡が越後になっています。
 823年、江沼、賀我2郡が加賀国になっています。
毛野国が、上野、下野に分かれたり>
もと、上毛野国、那須国、下毛野国の3国が大化の改新で上野、下野(那須・下毛野)の2カ国になりました。
総国が、上総、下総に分かれ、後に阿波からやってきた人により、上総から安房が分離したり>
大化の改新で上下に分かれ、718年安房国が上総国より分離されるが748年、上総国になり、757年また置かれました。
伊勢から志摩が分離したり >
武烈天皇時、伊勢国より志摩国が分離、680年、伊賀国が分離。
吉備が、備前、備中、備後に分かれたり、>
天武天皇時、3国に分かれ、712年、備前国より美作国が分離。
筑紫が、筑前、筑後に分かれたり>
豊国が、豊前、豊後に分かれたり>
肥国が、肥前、肥後に分かれたり>
 これらは、7世紀末の文武天皇の頃らしい。

他に、日向国から薩摩国(701)、大隈国(713)タネガシマ(701・のち824大隈に)が分離されてます。
また、佐渡国は743-752越後国に属しいます。また、721-731、信濃国より諏訪国が分離しています。713年、丹波国より丹後国が分離しています。
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この回答へのお礼

これはこれは、手元の資料が乏しかったので助かりました。
質問した国以外の国についても答えてくださって、本当にありがとうございます!

お礼日時:2002/03/26 09:03

歴代天皇表などはこちらにあります。



参考URL:http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/rekishi.htm
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この回答へのお礼

詳しいサイトを紹介してもろて、おおきにです。
たすかりました!

お礼日時:2002/04/02 22:26

追加です。

718年、陸奥より石背(いわしろあるいはいわせ)国が分離し、724年頃、廃止され陸奥国に編入。同じく718年、陸奥国より5郡と常陸国より菊多郡を割き石城(いわき)国が置かれるも724年頃、全郡陸奥国に編入。
1869年、北海道開拓使のもとで、千島、根室、十勝、北見、日高、石狩、天塩、胆振、後志、渡島の11ヶ国が設置されています。
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この回答へのお礼

追加、ありがとうございます。

ぬむむ、「○○天皇の頃」の年代が、はっきりすれば、助かるのですけど、
他の人は、書き込んでくれないのかな…。
もう少し待ってみます。

お礼日時:2002/03/30 20:48

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奥州が日本に組み入れられたのは、1189年の源頼朝による奥州征伐で、
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現代人は、陸地で世界を見るので、なんだか肥前・肥後分かれているじゃんと思う。
しかし、古代のクニというのは、交易圏の概念に近い。
そして、有明海をはさんで交易していたのが、現在の長崎と熊本。
たとえば、天草四郎の一揆は、島原で最後籠城戦になりましたが、参加者は島原半島(長崎県)と天草諸島(熊本県)。
縄文時代の縄文海進を想定すると
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/img/267_kyushu_7m.jpg
佐賀県北方の 唐津から西まわりで長崎そして天草から八代海までが、多島海としての一つの文化圏であったろうと推測されます。


また、筑紫が、筑後川の河口部(縄文海進では、現在の甘木市あたり)を中心にしていると見えてきます。
※ そういえば、甘木市のあたりって邪馬台国の候補になっているなぁ。


縄文海進時代の地図を見て、クニが成立した弥生時代を想定するのは変じゃないか?
とも、思うかもしれませんが、弥生時代になってから陸地になった部分は、ぐちゃぐちゃで当時の農法では、水田にできません。
吉野ヶ里遺跡を地図で見ますと、有明海に近くはなく、背振山地のそばです。
うまい具合の地図がないので、適当に「吉野ヶ里遺跡」で地図を検索してみてみてください。


縄文海進はここで 7メートルを設定した
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267/?bzb_pt=0

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267_data/index75.html
国引きの神話が、リアルに見える。
ほんとに、縄文時代は 島で それが くっついて半島になっている

現代人は、陸地で世界を見るので、なんだか肥前・肥後分かれているじゃんと思う。
しかし、古代のクニというのは、交易圏の概念に近い。
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たとえば、天草四郎の一揆は、島原で最後籠城戦になりましたが、参加者は島原半島(長崎県)と天草諸島(熊本県)。
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Aベストアンサー

追伸

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コンビニで強い興味を惹かれて買ってしまった、『世界の黄金伝説FILE 消えた財宝・軍資金・埋蔵金の謎』 (Gakken) という本の中に、日宋貿易において海中に沈んだ貿易船とその財宝に関する話が載っていました。

その本の中で、
「貿易は日本・高麗・宋の三点貿易で、日本では越前敦賀や博多に宋人が住み、国際都市となった」という記述がありました。
たしかに、2001年のNHK大河ドラマ『北条時宗』でも、博多にたくさんの宋人が住んでいる描写があったように思います。

その本には、貿易航路の絵も合わせて載っているのですが
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高麗; 開城
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という地名と、これらを結ぶ海上ルートが載っているだけで敦賀が載っていません。

敦賀は、日宋貿易において貿易基地になっていたのでしょうか?
敦賀は、出羽・北陸・山陰地方など日本海側の諸国の物資を集めたり、畿内からの物資を集積する機能だけを持っていたのでしょうか?
あるいは敦賀 → 高麗へと日本海を突っ切るルートは存在したから貿易港として機能していたのでしょうか? (日本海を突っ切ってもたどり着けるのはせいぜい高麗で、それより北に船がたどりついても、そこはすでに宋の領内ではありませんから、あくまで高麗への航路のみが存在した、と)。

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Aベストアンサー

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-05-02-12.htm

・「福井県史」より

第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      若狭・越前国と日宋貿易の衰退


 これまでみてきた来航記事やそれにかかわる交易記事、また康和二年の例にみえるような敦賀津での宋人の長期滞在者の存在などから、若狭・越前国では大宰府に次いで日宋貿易が盛んであったようである。それとともに、宋人と国司らとのトラブルも多発したようだ。たとえば若狭・越前国への宋人の来航に関する現存史料では、平安時代では元永二年ごろが最後となる。最後の史料である『唐大和上東征伝』(東寺観智院旧蔵本)第十九紙の紙背文書では、若狭国にここ一、二年ほど宋人が来ないのは、国司の「御苛法」によるとされている。これ以降、宋人の若狭・越前国への来航記事がみえないのは、国司が宋人から不当に貨物を差し押さえることをしたために来航しなくなり、貿易そのものが衰退したと考えるか、あるいは史料的制約によるのかなどを容易に判断することはできない。文献史料が乏しいだけに、今後は考古学的な発掘成果に期待をかけざるをえない。その点、注目されるのは中国製の釉をかけた陶磁(貿易陶磁)の出土である(亀井明徳『日本貿易陶磁史の研究』)。貿易陶磁は福井県下での出土例がきわめて少ないものの、敦賀市深山寺経塚群などで出土しており(写真118)、今後このような貿易陶磁の出土が大いに期待されるところである。

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平戸、太宰府と共に、日宋貿易の拠点でした。
敦賀は、琵琶湖経由で京都の海の玄関でした。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-05-02-12.htm

・「福井県史」より

第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      若狭・越前国と日宋貿易の衰退


 これまでみてきた来航記事やそれにかかわる交易記事、また康和二年の例にみえるような敦賀津での宋人の長期滞在者の存在などから、若狭・越前国では大宰府に次いで日宋貿易が盛んであったようである。それとともに、宋人と国司らとのトラブルも多発したよ...続きを読む


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