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上記の質問をさせて頂き、自分なりに改善策を考えましたが、簡単にはいかず、やはり、この性格とは一生、付き合っていくべきなのか…とも考えました。自分のこれまでの人生の反映でしょうし、容易く変えられないものだと…

しかし私は、簡単に言うと、薄情な人間になりたいのだと思います。

心理学的に、解決策を伺えればと思い、質問致しました。
宜しくお願い致します。

A 回答 (9件)

年の瀬も押し詰まり、この気忙しいなかを、わざわざズレる可能性の高い投稿をすることもないかと思ったのですが…3度も御質問を繰り返しておられるということは相当のお苦しみかとお察しします。

なかなか心底からの御納得が得られないのでしょうか。

私自身は御陰様で他の御回答のいくつか「なるほど!」と参考になりました。特に、個人的にNo.4様の御意見に思い当たるところがございます。
なぜかと言うと私の場合は出発点に「罪悪感」が横たわっているからなのです。
その「罪悪感」の源は私の出自のあり様と母親にあるのですが、早くから薄々は気づいていたものの何しろ母親は私にとって最大の弱点であり普通ではあり得ないだろうというくらい絆が強過ぎたものですから結果的に私の人生の殆んどは「贖罪の人生」になってしまいました。
しかし、ただ今は、かつて母が座っていた私の内なる「玉座」に座ろうとしている全ての者に対して拒絶作戦を実行中です。それはやはり『「喪失感」「不安」も引き受けなければならないということ』ANo.7様が仰るとおりです。それを引き受ける覚悟があればこそ、です。

いかがでしょうか御質問者様には、まだ、その覚悟ができる地点に至っていないということでしょうか。要するに気が小さいのでしょうか(失礼!)。思い切って我と我が身を谷底に突き落とすことができればよいのですけど。落ち切ってしまえば、あとは這い上がるだけですので、いっそスッキリするんですけどね。
ただし、それもやり過ぎると私みたいにリスクが非常に高い事態になってしまいます。這い上がることもできなくなっては元も子もありませんが御質問者様の場合は、いわゆる「石橋を叩き過ぎて…」という御性分かなあという印象を持ちました。
結局そこの部分が変わらないと、考え方は分かっていても、どうにもしょうがないということになりますよね。だって性分なのだから。持って生まれた気質を変えるのって難しいことは世間でもよく言われることです。

でも本当に心底イヤだ、このままでは困るんだ!と感じているなら少しは何とかできるはずです。何だかんだ言って一歩も動け(か)ないのは余裕があるからだと思います。真実、身じろぎもできないのであれば、それは死に直結しているわけで、何だかんだ言ってる余裕はないはずです。
今の御自身を本当にイヤだ、困る、と思っていらっしゃいますか?もしかして本当は変えたくないのではありませんか?心の底では愛着・執着しておられませんか?無理もないですよ、他のかたも仰っておられるように表面的には、他者から見る限りでは、むしろ結構な模範的と言っていい生きかたですもの。私とは或る面で正反対です。

ただ貴方がガンバッテしまう理由が「認められて評価されて安心したい」がためだとして、そのまた裏の理由が「支配欲」にあるとして、なぜ「支配」しないと、そこまでいかないと「安心」できませんか?追い出されてしまうんじゃないかと恐いですか?追い出されてしまったら、もう居場所はありませんか?一巻の終わりですか?

私の場合は自分でもバカじゃないかと思うくらい野心がありません。損得計算とか、そういう類のことに頭も回らないし関心が薄いのです。小学生の頃、担任に「自己主張ができなさ過ぎて将来困る日が来ますよ」と見抜かれたとおりです。ただただ罪悪感めいたものがあって、だから「義務感」でやるんですけども、だから、やって当然であり感謝されたいとも思いません。だって「義務感」ですもの、所詮。
それでも始末の悪い問題はあります。それは周囲から「もうこれでいい」とは、なかなか言ってもらえないことです。何の関係もないはずの他人からですら「もっともっと、あなたは頑張れるはずだ、我慢できるはずだ、犠牲を払えるはずだ、誰よりもそうするべきだ」と叱咤激励されます。こちとらは体弱いは病気した(てる)は障害は抱えてるはで他人に大きな迷惑かけずに普通に生活していくだけでイッパイイッパイなんですけどね。。。ここまで来たら体のいいイジメです。要するに「下僕」と見なされているんでしょう。貴方は、その「叱咤激励」を、わざわざ自分で自分にかけておいでなのでしょうか。

私は最大の弱点であった母親には、とうとう最後まで逆らうことができませんでしたが、なぜか次から次へとやってくる「母に似た」人たちが、ある線を越えて押し入って来たときにはキッパリと拒絶してきました。これは私のやり方がヘタなんです。どうしても不評とリスクを買ってしまいますから。

貴方が何事にも頑張り過ぎてしまう完璧主義であるとして、その理由は本当に「支配欲」ですか?いわゆる「おせっかいさん」の裏に支配欲が潜んでいる、というのは、よく聞きますし私も、そんな人は身近で何人も見てきました。それを御自身で認められるのですね?

裏に潜む理由が本当のところ何なのか、それは御本人にもつかみきれないとしたら私には分かりません。けども、これだけは間違いなかろうと思いますのは…
結局、「自分自身が心から」やりたい、せずにいられない、そうすることが「自分の喜び」になっていなければ外側が「親切」に見えようが決して本意にかなう結果は返って来ない、ということです。もっと言えば本意にかなわなくても腹も立ちません。自分がしたくてやったことなら、その時点で、もう気は済んでいるわけですから。
気が済まないのは、そこに何らかの「無理」があったからです。お分かりになりますよね?
昔から、よく言われる「させていただく、と感謝の思いでせよ」そういうことなのです。とてもそんな気になれないのなら、そもそも、それをする器でないということ、自分の喜びでしていないのなら相手からも「喜び」で返って来なくて当たり前なんですね。
そういう意味で、この世の摂理とは「自己中心」が本当なんですよ。え、うそ…って言いたくなりますけど、厳密には「自分のためになる、自己中心」です。そうしてみれば悪いやつほどオイシイ思いをしていることも「正直者ほどバカをみる」ことも或る意味、思い当たるでしょう?もっとも、これ自体は、まだ追究の余地がありそうですけど。

シツコク言いますけど「支配欲」があると思い当たりますか?それをこれからも保持し続けたいと思いますか?
「安心」するためには、やめるわけにいかないと思うなら、何のために「安心」したいのでしょうか?やめることは、どう考えても危険でリスクが高いですか?やめないことよりも。

生まれ持ったものや長年手離さなかったものを断ち切るのは、そりゃ至難の業です。誰しもです。そもそも「気づける」ということ自体が難しい。でも!本気が試されているのだと思います。

他者を恐れるがゆえの支配者は哀れにも真の小心者。他者の思惑やつごうを最優先して自分をないがしろにする者は下僕扱いで当然です。「本当の意味で」(甘ったれとは違います)自分を大事にしない者は他者が「この者は丁重に扱う価値なし」と判断して不思議はありません。自分でそうしてくれと知らず知らずアピールしているわけですから。

こんな簡単なこと、私自身も最近、やっと気がついたんですよ。あまりにも自分の気持ちと裏腹な結果ばかりが返って来る…。なんでや!!と悩み抜いた末にね。
自分との戦いですね。呪縛から解き放つための。
でも気づかれたのなら、次のステップに上がりましょう。
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この回答へのお礼

回答者様ご自身の、経験からのアドバイス、参考になりました。
ありがとうございます。

沢山の回答を頂き、段々と、自分自身の様が浮き彫りになり(浮き彫りにされ)辛くなりながらも、見つめ直すことができました。

もうすぐ2006年もおしまいですが、頂いた回答、アドバイスを参考に、励みに、何とか頑張って生活していこうと思います。

皆さん、本当に、ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/31 21:56

回答のお礼ありがとうございます。



無理に自分を動かし、誰かに勝手な期待をし、それに応えてくれないから不満になってしまう。

自分のやりたいことをして、誰かが何も反応してくれなくても、自分のしたことに満足できることがなかなかできないのですよね。

自分のしたことに何か反応してくれることは嬉しいことかもしれません。
でも、人は自分の思ったとおりにはなかなか動いてくれないものなのです。
あなた自身も常に誰かの思い通りになりたいとは思わないですよね。

誰かを思い通りにしたい気持ちは普通にあるものです。
同じように誰かが思い通りにならないことも普通にあるのです。
思い通りにならなかったら、『やっぱり思い通りにならなかったか』と楽しんで次の解決策を考えてみることもできると思いますよ。

無理に何かを思い通りにしようとすることをやめることで、無理に自分に何かを強いる必要はなくなると思います。
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この回答へのお礼

こちらこそ、度々の回答、本当にありがとうございます。

相手はおそらく、私にこうして欲しいのだろう…そして、私がこうすれば、相手はこう応えてくれるだろうと…こういう考えが、常に私の頭の中にありました。

その考えが、どんどん膨らみ、妄想となり、どうしようもなくなっていたのだと思います。

本当に、楽しめるくらいの気の持ちようになれると良いのですが…

お礼日時:2006/12/30 23:22

こんにちは。



薄情になりたいということですが、別の言い方をすると、
もっと自分(の欲求や感情や意思)を尊重したいとか、
他人(の顔色や価値観)から解放されたいとか、
自分と他人との間に境界線を引きたいとか、そういうことでしょうか。
(だいたい合ってますか?ズレてたらすみません。)

過去の質問を拝読したのですが、なんだか「見捨てられること」「評価されなくなること」
「認められなくなること」「必要とされなくなること」などを恐れておられるように感じます。
そのために、自分(の欲求や感情や意思)を無視し、他人(の顔色や価値観や欲求や感情)
によって自分の行動が決まってしまい、窮屈な思いをされているのではないですか?
「境界侵入されっぱなし」の状態に慣れ、自分と他人と同化してしまい、「自分が」生きて
いるという感覚が消えてしまいそうで、そのことに苦痛を感じているのではないですか?

以下は、シビアなことを書きますので自己責任でお読みください。




これは、「自分の価値」を他人の評価で決めているからではないかと思います。
別の言い方をすると、自分の「安心」「満足」「幸福」を他人(の評価)によってのみ得て
いる、さらに別の言い方をすると、自分の幸福を他人にゆだねている、ということです。
この状態だと、他人を失うというということは、つまり自分の幸福を失うことになるので、
それを防いで自分を守るために、自ら他人の奴隷になっているのではないですか?
そのことに、不満を持っているのではないですか?
そして見返りを期待して、裏切られるのを怖れているのではないですか?

この状態は、自分に「厳しい」のではなく、自分に「冷たい」ように思います。
そして、自分に「優しい」のではなく、自分に「甘い」ように思います。
別の言い方をすると、自分の幸福に責任を持つことを放棄しているように思います。

まず、「自分は自分の幸福に責任を持つことができるのだ」と考えてみてはどうでしょう。
実際、当然、自分を大切にしてもよいし、自分に優しくしてもよいのです・・というより・・・
自分を大切にするべきで、自分に優しくするべき・・というより、しなければならないの
だと思います。自分を大切にし、自分に優しくすることができて、初めて、「人はみんな、
それぞれ自分を大切にし、自分に優しくしたがっている」ということも理解でき、それが
理解できて、初めて、本当に他人を大切にし、他人に優しくすることができるのだと思い
ます。他人が「どうされたがっているか」については、質問者様には責任のないことで、
それよりも、大切なのは「自分がどうしたいのか」「自分がどうしたら快適でいられるのか」
について、自分で考え、思いついたことを実行して行くことだと思います。
これができないと、結局、他人を尊重することもできません。

分かりやすい例をあげると、「ボクはこんなにキミを愛しているのに、こんなに大切にして
やっているのに、どうして愛してくれないんだコノヤロー」というのは、
つまり「愛してくれよコノヤロー」と言っているようなもので、
このとき「愛している」のは、実は、「愛されたがっている自分」だったりします。
つまり、この場合、「愛されたい」という気持ちを、相手に押し付けていることになります。
相手には相手の人生(を大切にする権利)があるにもかかわらず・・です。

気をつけてほしいのは、「境界侵入されっぱなし」に慣れてしまうと、そもそも自分と他人
との境界が曖昧になってしまうので、他人に対しても(悪意は無いにしろ)境界侵入しが
ち(依存しがち)になってしまうということです。

意識的に「境界」を作ることを心がけ、「自分」を「独立」させ「確立」してみてはいかが
でしょう。これも、自分には自分の境界を守る権利があるということを理解できて初めて、
他人には他人の境界を守る権利があるということも理解できるのではないかと思います。
それができて初めて、他人から解放され、他人を解放する(他人に対する依存を手放す)
ことができるのではないかと思います。

ちなみに「境界」というのは、相手や状況に応じて、鉄壁にしたり、木の板にしたり、
生け垣にしたり、カーテンにしたり、透明のベールにしたり、オブラートにしたり、
自分で、自由に作り変えたらよいと思います。

「境界」で「守られる(他人から解放される)」安心感を得るには、同化から抜け出す時の
「喪失感」「不安」も引き受けなければならないということも頭に入れておいてください。

長くなってすみません。参考になる部分があれば幸いです。それでは。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

今までの自分をえぐられているようで、しばらくお礼を書くことができませんでした。

しかし、回答を読みながら、とても辛かったのですが…同時に、こんなにも私自身を解って頂けていることに嬉しさを感じました。

本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/12/30 23:00

前回も前々回のご質問でも良回答をいただきましてありがとうございました。


質問者さまの悩みの回答になるかどうかはわかりませんが、ちょっと参考になるかなと思うことを書きます。

人間というのは、自分を犠牲にできる人は、人も犠牲にできるものなんです。
逆に自分を犠牲にできない人は、人を犠牲にもできない。

例えば、待ち合わせの時間に絶対に遅れないように行く人は、一分でも遅れてきた人に腹を立てるのです。
逆に、自分が遅刻する人は、人が遅刻してもなんとも思わないのです。

犠牲という言葉は悪いかもしれませんが、自分も人も犠牲にできる方が精神的には健全ではないかと思います。
なぜなら、自分は絶対に犠牲になりたくないというのは、何か心の中に不満や不足感がある場合が多いのです。
自分は100円しか持っていないと思ったら、100円のジュースを人に奢ったりできないでしょう?
でも自分は千円持っていると思ったら、ジュースくらい人に奢ってやってもいいかなと思える。
自分の中に不満や劣等感や被害者意識などがある場合、人は自分を犠牲にできないのです。

質問者さまの仰る、薄情になりたいというのは、人を犠牲に出来るようになりたいということではないでしょうか。
今の質問者さまは人を犠牲にできないから頑張っている。頑張って頑張って人を犠牲にしないように努力している。
それは一見、人を犠牲にしないように自分を犠牲にしている・・・ように見えますが、実は真の目的は自分を犠牲にしないためなのではないでしょうか。
人を犠牲にしないようにすれば、人に「自分が」評価される。
つまり自分が損をしないために頑張っているのではないでしょうか。
だから結果として評価されなければ虚しくなるのではないでしょうか。

人にも自分にも寛大になれると、人も自分も犠牲にできるんです。
私もよく以前は頑張りすぎていましたが、見返りを求めないで仕事をするようになってからは、精神的にバランスが取れてきたと思います。
仕事してると、とんでもない迷惑を人にかけてしまうことってありますが、そういう時も過剰に落ち込まないで(まあこういうこともあるし、仕方ない)と思い、別のところで埋め合わせをすればいい、と楽に考えられるようになりました。
別のところで埋め合わせというのは、見返りを求めてとか、評価されるためということではありません。
ただお互いに持ちつ持たれつで、自分も人もお互いに犠牲になることはあるし、と思うと、少々迷惑をかけてもかけられてもそんなに大きなショックを受けなくなるんです。
質問者さまの望む回答であるかどうかはわかりませんが、参考にしていただけたら幸いです。
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この回答へのお礼

何度もアドバイスを頂き、本当にありがとうございます。

‘人も自分も「犠牲にできる」’というのは‘人も自分も「許す」’ということですか?

許すということは自分の為に、人の為にもなるのでしょうか。

どうして私は、こんなにもエネルギーを使っているのだろう…と、ずっと悩んでいましたが、結局、自分を守ろうと必死だったのかもしれません。

何度も読ませて頂き、これからの自分の参考に致します。

お礼日時:2006/12/28 22:01

何のために自分はそれをしているのか。


たぶん、思いもつかないと思いますが人を支配したりコントロールしたりしたいという気持ちが隠れています。

自分の思い通りにしたい気持ちは誰でも持っていると思います。
でもそれを実現するには、様々な働きかけが必要ですよね。
自分を強いものに見せたり、弱いものに見せたり。
実力以上に見せようとしたり、実力以下に見せようとしたり。
自分が持っているものだけでは不十分だと感じてしまうことも多いでしょう。

でもそのような努力をして、何かが思い通りになった時に何が起きるのです。
自分を偽らなければ目的を達成できないという思いです。
飾らない自分では何も出来ないという気持ちを大きくしてしまっているのでしょう。

本当は、飾らない自分でいることが気持ちよく楽しいのです。
でも人はなかなかそれが理解できずに苦しんでしまうのだと思います。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

とても、納得できます。私は、人を支配したい気持ちが強いのは、気付いておりました。

「私がこうまでしているのだから、こうしてくれるはず…」

このような思いが常にあり、思い通りにいかないと、猛烈に憎悪を膨らましていました。

ただ…飾らない自分が、どのような自分か解らなくなってきています。

お礼日時:2006/12/28 21:20

「手を広げすぎている」のかもしれませんね。


ご自身も確か言及していらしたと思いますが、一種の強迫観念的傾向があるのかもしれません。
尤も、強迫観念などというものは誰しも持っているもので、ご質問者の方の場合は、他者を利することに関してそれが働いていることになるのでしょう。

ただ、「他者を利する」ことは、「自分を利する」ことの上に(あるいは「ことと同時に」)築き上げられるべき超自我作用であるのが健全な精神と言えます。
自分を利することを忘れて他者を利することに思いを致すのは、生命力的には健全とは言えないということです。
自分という土台の強度を無視してその上に何かを積み上げようとするのは、論理的にも不都合が生じるでしょう。

自分を利することに関心が薄いということになりそうですが、むしろ、
自分を利する方法がよくわからない、ということだろうと思います。
いずれにしても、これは自我が脆弱な証明と言えるような気がします。
一般的な場合で言うと、自我が脆弱であるということは、乗り越えるべき過程を乗り越えてきていない、あるいは壁を乗り越える機会に恵まれなかったという解釈ができるかもしれません。

自分が本当に解決しなければならなかった(または解決したかった)問題がなおざりにされているような印象を受けます。
そして、他の問題を解決したり、乗り越えたりすることで帳尻を合わせようとしているのではないでしょうか。
仕事に対する積極性や、他者への気遣いなども、その帳尻合わせの手段として利用されている可能性があるように思います。

「>薄情な人間になりたい」という言葉は、悲痛な叫び、あるいは喰いしばった歯の間から吐き出される呻きと感じます。
そして、
「帳尻合わせなんかもう止めたい。おためごかしの優しや、いい子ぶることで自分を偽るのはもううんざりだ。」
という至極健全な叫びでもあるでしょう。
「他者に対しての薄情」ということには恐らくならないだろうと私は推測します。
むしろ、客観的には、他者の人格を今まで以上に認める結果を招来するでしょう。
質問者の方にとっては、薄情になること、賛成です。
良く気がつかれたと喝采を送りたい気持ちにもなります。

それは偽りの自分に対して薄情になることであり、
また、他者を、庇護するべきものでも庇護されるべきものでもない対等の人間として認識するきっかけともなり、
真摯に生きようとすれば、そこで本来の自分をさらけだす必要も出てくるでしょう。

視点を大きく転換する時を自ら迎えていると思います。
変革の先に、世界が新しく見える時が近づいているような気がします。
厳しさの裏づけのない優しさなど、単なるマスターベーション以外の何ものでもないでしょう。
 
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

今までの自分を思い返しながら、何度も読ませて頂きました。

そして、希望が持てるようなお言葉に感謝致します。

お礼日時:2006/12/28 20:54

仕事をする限りは薄情だと思いますので心配する事も無いですよ。


売上とか伸ばしていく過程で誰か・何かを捨てます。
ライバルよりも上を目指すのですから。

ライバルが辞める時諦める時、商談成立の時に相手のことを思ってください。
何も出来ない・しない自分を薄情だと思いますよ。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

本当に自分に対して、薄情にならないようにしたいです。

何度も読ませて頂き、参考に致します。

お礼日時:2006/12/28 19:41

血液型占いでいくと、完全にA型人間で、胃潰瘍にもなりやすい体質だと思います。


日本人に多いですよ。一昔前は、胃に穴が開くほど仕事をし、倒れるまで会社に忠誠をつくす社員が大勢いました。
完全癖のおかげで、学校や就職、評価を受けるものは、そう困らなかったのではありませんか。
私自身もそうです。経歴だけ見ると、相当鼻持ちならない人間のように見られます。
ただ、会社勤めというのは、誰かから評価されると言うより、収入を得て、自分の財を増やすため、結婚すれば、妻子を養うため、自分自身のためにするものです。
仕事の割りに、収入が見合わなければ、見切りをつけてよい問題ですよ。
自分の健康のため、自分が裕福になるため、自分の夢を実現するため(家庭も自己実現です)それがなければ、違う道を見つけて、ゆとりのある人間的な生活を選んだ方がいいと思います。
ただ、今我慢すれば、昇進して、収入が増え、社会的地位が得られるなら、我慢もありです。
他人の評価に敏感になるのは、頭がいいからです。
みんな、限界まで働いて、自虐的に仕事に向かっているサラリーマン、多いですよ。
嫌だ、嫌だ、と思っていて縮こまっている今の状態では、その境地までまだないでしょう。
薄情になりたいと言うよりも、みんなは、それを抑えて、無理に積極的に仕事に取り掛かっているだけです。
将来の配偶者に会う機会もない、非人間的な生活だと思うなら、辞めればよいと思います。
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この回答へのお礼

アドバイス、ありがとうございます。

背中を押されるような気持ちで、読ませて頂きました。

本当に今の私は、縮こまっている状態と思います。

何度も読ませて頂き、参考に致します。

お礼日時:2006/12/28 19:31

「薄情な人間」になりたい理由は私には分かりませんが、その「薄情な人間」とはどんな表情をして、どんな仕草をして、どんな話し方をして、どんな生活をしているのでしょう。

それを一つずつ真似していくと「薄情な人間」に近づいていくと思いますよ。行動から心を変えようという作戦です。しかしながら、私はあなたがそのような「薄情な」行動をしているうちに自分は「薄情な人間」になりたいのではなかったんだと気づくのを期待しています。
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この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございます。

何といいますか…あまりに人のことを気にしすぎて、自分を抑えていることが辛いのです。

薄情といった表現は大げさかもしれませんが、今の私にとって、薄情になるくらいのほうが、社会で、職場で、生きやすいのかと考えてしまいます。

しかし、実行できず…またそれも、辛いのです。

お礼日時:2006/12/27 21:53

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