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バターン死の行進とはアメリカ軍の捕虜を遠くの捕虜収容所まで歩かせその結果多くの米兵が死んだ事件です。これは戦争犯罪と言われていますが、捕虜を収容所まで歩かせるのは普通ではないでしょうか。8万もの捕虜を収容所まで車等で送るのは当時、機械化が進んでいた米軍でも無理ではないでしょうか?ましてや機械化が遅れていた日本軍ならなおさらです。しかも日本軍は鉄道があるところでは鉄道を使ったといいます。護衛の日本軍も歩いて護衛したらしいのですが、日本軍は、銃などの荷物を持っています。丸裸の米兵より過酷なはずです。さらに収容所までの道のりで十分な水を与えなかったといわれていますが、護衛の日本軍も多くがこの行進で死んでいます。(生きて虜囚の辱めを受けず)がモットーの日本軍が予想を大きく上回る8万もの捕虜をえたとき水が少ないジャングルで8万人の水を確保するのは無理なんじゃないでしょうか。

結論としては、8万人の捕虜を得たときそれを収容所まで歩かせるのは、そのままそこで殺したりするよりはよっぽど人道的だと思うのですが、なぜこれが戦争犯罪なのですか。

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A 回答 (9件)

1942年当時のアメリカ人は、今の日本人と同じように「歩くのは自分で希望する場合。

遠くに行くのや重いものを運ぶには動力車両(自動車、列車)を使う」のが常識でした。米陸軍も当然その常識に則って運営されていました。今の陸上自衛隊も同じで、通常は、陸自隊員は車両に乗って移動します。レンジャー訓練で、30キロを重装備を負って走破したりするそうですが、それはあくまで「訓練」です。

一方、昭和17年当時の日本人一般はともかく、日本陸軍は「どこにでも歩いていくのが基本。荷物は本人が担ぐか馬などの駄獣で運ぶ」のが常識でした。実際、中国大陸を南北に歩いて満洲から香港まで移動した、なんていう体験談も聞いております。日本陸軍ではそれが普通でした。先ほど「今の陸自では、レンジャー訓練で30キロの道を重荷を背負って走破」と言いましたが、戦前の陸軍では
「30キロ以上の装備を背負って、足に合わない軍靴を履いて行軍する。1時間に10分の休憩を込みで時速6キロで行軍する『6キロ行軍』では、『30キロの重荷を背負ってのマラソン』であり、一回の行軍で半数が倒れることもあった。足には大きな血豆ができているのが当然、針を刺し、タバコの灰を擦り付けて『治療』した」
のが「普通」でした。今の自衛隊のレンジャー訓練が日常繰り返されていたようなものです。成人男子の平均身長が150センチ台、今よりずっと小さかった当時の日本人に何でそんなことができたのか、正直私には全く理解できません。日本陸軍の兵士になるくらいなら自決しますね。私なら。
# 上記は歩兵部隊の話で、重機関銃や山砲を担ぐ兵はもっと辛い目に遭いました。想像もしたくありません。

この「どこにでも歩いていくのが基本」と言う日本陸軍の常識を「クルマに乗って移動するのが基本」の米軍捕虜に当てはめたからたまりません。護送の日本兵から見れば「何も持たずに歩いてるんだから楽だろう」と思えるわけですが、米兵から見れば「地獄の責め苦」です。

「バターン死の行進」は約70キロだそうですが、70キロというと東京から小田原くらいでしょうか。この距離を
「8月の一番暑い時期、時々激しい雨(スコール)が降るが雨宿りせず歩き続ける」
「未舗装路。ズック靴でも履いた足は泥水で容赦なく濡れるが、乾かすことはできない」
「食料と水は僅か」
「地面に横たわっての休憩のみ。宿泊などはない。」
条件で歩かされたらどうですか?21世紀の日本人である私ですと、途中で落伍しそうな感じがします。当時の日本兵からは笑われるかもしれませんが。

というわけで、日本軍の実情など一切顧慮しない米軍軍事法廷により、「バターン死の行進」が「捕虜虐待行為」と認定されたわけです。
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 参考までに。



 日米の攻守が所を変える転換点となった昭和17年頃は、戦線の状況について大本営陸海軍部は日本国内に戦況情報が漏れないように情報操作・検閲をかなり徹底して行っていました。

 しかし、私の伯父が出征し戦死した昭和19年頃には、軍がいくら情報隠蔽を行っても国民には状況がかなりわかっていました。
 敵軍撃破の新聞記事はほとんど信じていなかったし、細かい状況の書かれていない手紙は、苦難を意味しているとはっきり認識していました。

 私の父の兄弟は7人、母の兄弟は8人で(15人の内、3人が戦没。)、従兄弟はそれぞれ50人以上いました。(百人以上の従兄弟の内、10人以上が戦没しています。)

 従兄弟の中には、職業軍人であった人や軍属・輸送船の乗組員(この人は二度撃沈され、生還しています。)であった人もいました。(決して特殊な家族構成ではなく、当時の一般的家族構成です。)
 ですから、国内で食料が配給になったり、学徒動員がなされるころには、国民にもほぼ戦地の状況がわかっていて、祖父は祖母に「伯父(の戦死)を覚悟して送り出すように。」と言ったことを母から聞きました。結局フィリピン近海で輸送船が撃沈されて死にました。
 送り出す方のおば達の話を聞いた感じでは、どちらにせよ本土決戦となって、1億総玉砕だから早いか遅いかの違いだという気持ちであったそうです。

蛇足:
 身長175センチ、体重75キロあった父は、重機関銃の担当で3人一組でそれぞれ50キロ以上の機関銃部品を持って歩いたそうです。(ロシア国境にいて、移動があまりなかったので戦争中は比較的楽であったそうですが、終戦後シベリアに抑留され、何度も死ぬような思いをしたそうです。)
 
 インパール作戦に参加し生還した伯父は温厚な紳士でしたが、インパール作戦について法事で甥・姪が集まったときに聞いたところ、「陸軍の馬鹿が・・・」と吐き捨てるように言ったきり、何も詳しいことは喋りませんでした。
 おばによると、伯父は現役召集であったため、同じ部隊に小学校の同級生が何人か居て、彼らの餓死を見取ったそうです。

 新聞にあったある人の「父の怖い話」
>>父は船乗りで、戦争中は兵員の輸送船に乗っていた。船倉を何段にも仕切って、兵士をぎっしりと乗せていく。だが、5回出撃して5回ともアメリカ軍の潜水艦に撃沈された。
 護衛艦が台湾あたりまでは一緒に航行してくれるのだが、制海権の外へ出ると、つまり本当に危険な海域に出てしまうと損失を恐れて帰ってしまったというのである。
 無論、護衛艦に見放されると、船乗り達はもう先が読めるので、身軽になって覚悟をする。ところが船倉の兵士達は攻撃に備えて装備を固めようとするのである。
「そんなことをしていては、船と一緒に沈んでしまう。銃も弾も捨ててしまえ。」と船乗り達は盛んに言うが、兵士達は頑として首を振る。
「お国から賜った銃である。捨てるなんてもってのほかだ。」
 兵士達はなおのこと力をこめて銃を抱き、ゲートルをきつく巻き直したというのである。そして船はいつも二発の魚雷で夜の海に沈められた。船倉の兵士たちは一発の弾丸を打つこともなく海の底へ沈んでいった。
 そのような戦死を遂げた兵士達が南方への航路に沿って、おびただしく眠っている。<<

 合掌。
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No3の者ですが、No6さんのご回答に補足させて頂きます。

なお、「ガダルカナルやインパールの戦闘は、仮に米軍であれば責任者が軍法会議にかけられるべき『日本軍による日本兵の殺害』である」と言うご意見には同感です。

「餓死が待っているような戦場に親族を送り出した、一般の日本国民の意識も異常となっていたように思います」

内地の家族に、自分の身内がどこでどのようにしているのかは一切知らされません。戦死した場合に、戦死公報と言う形で伝えられるだけでした。それもしばしば遅延や漏れがありました。

昭和17年の時点で、太平洋戦線の少なくとも3つの戦場では飢餓が発生していました。

1. アリューシャンのアッツ、キスカ。占領早々に米軍の封鎖が始まり、餓死者こそ出たと記録されていませんが、多くの輸送船がアッツやキスカの近海で沈められ、守備隊は2分の1、3分の1の減食を強いられました。アッツ玉砕から奇跡的に生還した兵士の手記では「上陸の直後から米軍の空襲に曝され、まともな兵舎は最後まで作れなかった。補給はほとんどなく、まともに食ったこともなかった」と記されています。

2. ニューギニアのポートモレスビー攻略を目指した南海支隊。昭和18年に入り、この部隊の生き残りはブナ周辺で玉砕します。

3. ガダルカナルの将兵。

日本にいる家族は誰も
「自分の夫や父や息子が補給を絶たれた島で餓死しつつある」
なんて知りえません。どこで戦っているのかも、通常は知ることができませんでした。兵士が家族に居場所を知らせようとすれば、軍事郵便のハガキに検閲を潜り抜ける形で書くしかありませんでしたが、そんな兵士は普通いません。下手すればスパイとして摘発され、軍法会議ですから。

さらに、日本陸軍の兵士は、「召集解除」や「帰省休暇」なんてことはありません。中には、支那事変(昭和12年)の最中に召集されて、昭和20年まで家に戻れなかった兵隊さんもいたくらいです。米軍では一定期間前線に出れば一定期間は後方での休養、慰労休暇を与えられましたが、日本陸軍の常識にそんなものはありません。「動員されて戦地に出れば、戦争が終わるまで生きては内地に戻れない」のです。

#日本海軍の場合、軍艦が内地に戻った際はある程度帰省が許され、戦争の実情が家族に漏れることがあったようです。

ガダルカナル戦の後も、生き残りの将兵は、例えば仙台の第二師団は内地には戻らずにマレー方面に駐屯、次いでビルマに転戦します。

第2師団
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%B8%AB …(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

ガダルカナルで生き残った第二師団将兵で、その後のビルマでの悲惨な戦闘をさらに生き残った人は実在したようですが、家族がガダルやビルマの悲惨な飢餓、米英軍との絶望的な戦闘の様子を知ったのはあくまで戦後のことです。軍事郵便では「自分が生きている」ことしか伝えられず、本人が帰省して自分の口で話すことは論外なのですから当たり前です。

なお、戦闘を重ねれば兵士は死傷して、あるいは病気で減って行きます。ですので、上記の第二師団の場合は、支那事変以来常に外地を転戦し、確か「数十回」の補充を受けています。死んだり重傷で戦えなくなった兵士の補充は常に内地から戦地の一方通行ですが、重傷で召集解除となって戦争継続中に内地に戻れた兵士がどのくらいいたのかどうか?この辺は識者の方にお願いします。軍隊での重傷とは「四肢を一本以上失う、両目の視力を失う」というくらいのものです。
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死の行進が原因で死亡した捕虜は全体の3%(8万人中2300名)で2万数千名は行進中に逃亡したといわれています。


2300人が多いか少ないかは置いといて、
日本軍監理下の捕虜が死んだのですから、理由はどうであれ、その責任は負わなければなりません。
こうするより方法は無かった、といった類は、死んだ人間から見れば正当な理由とはいえません。
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 No1.3の方の回答が最も適当ではないかと思います。



 日本は、第1次世界大戦でドイツ・オーストリアと戦い、これらの国の捕虜4700名ほどが日本の捕虜収容所で暮らしました。
 それぞれ断片的ですが、以下のサイトに記された参考サイトなども訪れて見れば、大体全体像がつかめると思います。

 ​http://www.geocities.jp/kraumjp/reisenaruto2newp …
 ​http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/hur …
 ​http://homepage3.nifty.com/akagaki/furyo.html

 人道的に扱われましたし、後に日本に帰化した人もいたくらいです。

 これが、第二次世界大戦では一変します。

 アメリカと開戦した時点で、中国戦線が既に泥沼化し、前線へ補給物資が届きにくくなり、食料の現地調達はかなり一般化していました。この頃既に前線では日本軍の「捕虜の保護」は、実際上かなり困難になっていました。(普通の国の軍隊なら、この段階で撤退するわけです。)

 しかし、そのまま国力の限界を超えて戦争の継続をし、人道的配慮をすることができなくなり、そのうち人道的配慮をしないのが普通となってしまった結果、当時の日本軍の基本的考え方・処置が、「当時の国際的基準から見て異常である」という状況が恒常化してしまいました。
 
 更に戦況が悪化してから日本軍の行ったインパール作戦やガダルカナル島攻防戦(餓島と言われました。)などは、被害者が日本軍であったために人道問題になっていませんが、異常そのものの作戦です。
 こんな作戦がアメリカで立られ実行されたとしたら、作戦指導した者は軍法会議で確実に責任を取らされ、餓死者に対しては一般の戦死者の遺族年金だけでは済まず、慰謝料請求の裁判沙汰となるはずです。
 餓死が待っているような戦場に親族を送り出した、一般の日本国民の意識も異常となっていたように思います。

 インパール作戦では、徒歩主体の日本軍の進行速度を早くするために携帯する食料は5日分とし、その後の食料はイギリス・アメリカの中国援助ルートの拠点であったインパールを占領しているから、多量の物資が手に入り問題ないとの計画でした。(もちろん、インパールは占領できませんでした。)

 このインパール作戦の立案をした参謀は、ノモンハン事件(当時、小競り合いという印象を与えようとして事件という名前をつけたようですが、立派な対ソ連戦争です。日本軍の機械化・機動力・補給能力の不足を露呈した戦いでしたが、その後の戦争に生かされることはありませんでした。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2658227.html )で関東軍参謀として作戦計画を作成しました。

 アメリカの行った日本国内に対する無差別爆撃・原爆投下も明らかに戦争犯罪です。(無差別爆撃は、日本が中国の重慶に先に行っています。アメリカが、日本に対して無差別爆撃を行っていなかったとしたら、重慶爆撃も南京大虐殺と同じように問題化したでしょうね。)
 戦争の後半には、アメリカも長期にわたる総力戦と戦死者の増加で経済的・精神的余力がなくなってきて、異常が目立つようになります。
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もう一つの問題としてバターン半島にいた米軍は既に5ヶ月も籠城しており、当たり前の話ですが大半の兵士が疲労困憊し、食料も欠乏し、マラリアにかかっていたものも大勢いたことがあげられます。


このため犠牲が大きくなってしまったわけですね。
とは言え行進をさせなければ、当然ながら犠牲者は更に大きくなっていたわけですから、勝者の言いがかりなのは確かでしょう。
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「8万人の捕虜を・・・そこで殺したりするよりはよっぽど人間的だと思う」


恐ろしい考えですね。
「人間的」と言うのであれば、過酷な条件で行進させ、多数の捕虜を死なせてしまったことを、率直に反省するのが良いと思います。
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アメリカが戦勝国で、日本人が黄色人種だからですね。

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そういう考え方もあるらしいね。



捕虜を収容する余裕がないような国家が戦争なんかやるな、ってことなんだろうね。
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Q「バターン死の行進」て、嘘なんですってね?!

大東亜戦争中、フィリピンで、日本軍の捕虜になった7万人のアメリカ兵が、「バターン死の行進」で、大勢死んだことになっています。
ところが、ジャーナリストの笹幸恵(ささゆきえ、もちろん、女)が、同じ道を歩いたところ、簡単に歩けちゃったそうです。
考えてみると、たったの80キロです。
「フィリピンは、暑いだろう」と思うかもしれませんが、実は、東南アジアは、日本の夏より、ずっと、涼しいんです(日本は、湿度が高くて、東南アジアより、ずっと、暑く感じます)。
”日本歩け歩け協会”(私も、一時期、会員でした)の会員は、毎月のように、日本や外国のどこかで、ウォーキングの大会をやっています。
1日~4日くらい(大会によって違う)の期間でやりますが、1日に歩く距離は、20キロ~50キロです。
80キロなら、2日で歩けます。
「健脚だからできるんだろう」と言われそうですが、歩いていたら、健脚になるんであって、はじめから、健脚の人は、いません。
しかも、この”歩け歩け協会”の会員の方々は、「寝たきりになりたくない!」とがんばっている高齢者(年金生活者)ばかりです。
平均年齢は、65歳を超えていて、80歳を超えている人もいます。
「日本の高齢者が歩けるのに、アメリカの若者が歩けない」なんてことは、ありえません。
「バターン死の行進」は、日本軍を貶(おとし)めるための、でっちあげなんですね?

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Aベストアンサー

米比軍のフィリピン防衛計画ですが、12万人が6ヶ月間バターン半島に立て籠もる計画です。
この計画に伴い、A/Bレーション12万人分を180日分ストックしております。前線兵士が孤立した場合はDレーション(野戦用チョコ)をかじり1週間過ごす事になっています。
医薬品は全兵士に支給され、それプラス野戦衛生兵が各中隊に配備されています。後方には野戦病院が設置されます。
医薬品セットには包帯・消毒薬・化膿止め等がコンパクトに納められております。
野戦に向かう兵士は背嚢に6缶食料を持ちます。

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
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Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
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という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

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 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

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Q夫が私の実母にキレました。感想だけでも結構ですので

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夫は里帰り中、土日に実家に来ていました。その時は夫と私の母は普通に接しているようでしたが、


(1)私の母がよく「~したら、いいんちゃう?」と、私たちの生活についてや、子どものことについて、雑談程度に話すことがありました。(本気でそうしろと言っているわけではなく、提案みたいな感じです)

(2)また、里帰り中は双子で寝かしつけや、夜中に起きたときにおむつ交換をするのが大変ということで、私が子どもたちと寝るときには母にも隣でいっしょに寝てもらっていました。なので、今も、私たちが実家に帰り、子どもたちが寝た後に私たちがリビングでくつろいでいると、母は「私があやしてくるから、ゆっくりしとき」と言って、あやしに行ってくれることがありました。(いつも子どもたちが寝ている部屋はリビングの横の和室で、私たち夫婦も寝るときはその部屋で寝ます。

(3)また、母はかなりの節約家で「トイレットペーパー200円!」とか、「~が得した」とか、「ガソリンスタンドで~をもらえる」とか、「○○スーパーいつも土曜日に20円引きをしてるから、土曜日に買い物するのがいい」、(私は育休中なのですが、)「育休中に手当がもらえるなんていいね~」など、人よりお金の話題が多いです。

そこで、今回も家族一家で私の実家に行っていたのですが、そこで、子どもたちが寝た後、私たちがリビングでご飯を食べているときに子どもが泣きだし、私が行こうとすると。母が「私が行くからご飯食べときといって代わりに行ってくれました。私はたまにのことだし甘えようとおもって「お願い」といって母に任せました。その後、ご飯を食べ終わったので、和室へ行き、ありがとうと声をかけると「こっちも泣き出したよ~((笑))」と少し大きめの声で言っていました。その後、私たち夫婦もすこし和室におり、3人で話をしていました。私が依然冗談で、「男の子やから、坊主かわいいよね」という話をしていたのもあって、母が、「この子達大きくなったら坊主にするの?」ということを言い、私は「坊主にしたいな~」という話をしていたのですが、そこで夫が「坊主はあかん~!髪質が変わるから」と笑いながらいっていました。そこで私が母に「坊主かわいいやんな~?髪質変わるなんて聞いたことある?」というやりとりをしたいたところ、旦那が「いい加減にしろ!!」と切れてしまいました。うちの母が、

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私も旦那の実家に対して多少は嫌なところもあるけど、せっかく親戚になったのだからと、嫌なところには注目せずに仲良くしようと思っていましたが、どうして私ばかりが頑張らないといけないのかと、つらくなり、夫がうちの家族と公共の場でしか合わないというなら私もそうさせてもらうことを伝え、現在は話がまとまりました。
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この文章をよんで感想だけでも結構なので、ご意見ください。お願いします。

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Aベストアンサー

【この文章をよんで感想だけでも結構なので、ご意見ください。お願いします。 】

二人子育てしました。
すでに成人ですが。

双子・・・というのは大変だろうと思いますので、ご実家の援護を受けるというのもわかりやすいですが、
私は、実家での出産というのをしてませんので、実家という便利さ・ありがたさを体験したら「抜けだせない」トラブル
を回避できました。

問題は、双子は大変ですが、あなたが実家を頼りすぎたということの姿勢だとおもう。

どこかで父親の家庭内での働きを一本立ちさせなくちゃいけない。
それは未経験ですから、あなたの実母様にかなうわけは無い、でも、父親として子育てに参加する気持ちがあるなら
まかせてくれる時を待っているのではないかとおもう。

二人ベビーがいるんだから、ママが何も手早く全部をすることなく、一人はパパでもいいわけだし。
ママが、悲鳴をあげて、パパ助けてとね。

それに、土日休みに来ているということは、パパの休みは義母と一緒の育児訓練、説教の週末だという言うこと、
思い至ったほうがいいかもしれない。

だから、(1)の提案的、ばばさまの発言も、何も手出ししてないできない、やらせてもらえないパパは
最初はともかく、3ヶ月ただの土日のお泊りだけなら、ベビーをいじりたい欲求不満がたまるでしょう。

(2)の寝かしつけだって、ご夫婦の語らいのためにばばさまの配慮だとはわかる。
でもね、新米ママとパパがやりなさいと私がばばちゃんならするでしょう。
気遣いは気遣いとして、なるべく新米を一人前にするためには自分たちで何とかしなさいというのも必要です。

(3)のお金に関しては、面白おかしく話として聞ければいいですが、そういう節約パターンをみみっちいとして
嫌うこともありです。 
 かなり方向性は違うが、「馬鹿との」を面白いと思うか、嫌いと思うかとか、
大食い選手権を面白く見られるか、なんてことを・・・とおもうかとか、価値観の相違です。

だから、これを得意顔して毎週末に聞かされるパパとしては、「なんだこの、貧乏くさい話は、ドコがおもしろいんだ」と
考えて、我慢していたとしてもおかしくないです。
ましてや、新米ママにそれをすりこむようなことだと、「俺の嫁もこうなるのか?」とね。

いえ、別にあなたの実母様を否定するわけではないです。
年齢的にも私は実母さまに肩入れしますが、ただ、できることをするのではだめなんです。
責任者は【親】だから。

任せるべきは「パパ」であって、援護するなら、直接的なベビーの世話をじじ・ばばが手出ししちゃだめだと思う。

双子で大変だとはおもう、でも、どこかで、その大変さを二人して、二人だけで乗り越えて、
大変だったねといえるために「ばば」の手を切らないと、あなたが楽するだけのこと。
そして、「パパ」の一本立ちの妨げです。

あなたの体調が悪いとはドコにも書いてないです。
ならば、必死にあなたが、育児すれば、「パパ助けて」と言えばいいだけのこと。

ばばさまは自分が楽しい、そして、それを誇れる、そして、教えるという責務だとおもっておぼれている。
坊主の件は、昔はいい髪の毛を生やすためには一度、剃ってまで坊主にしたということもありますが、
「パパ」は自分の子供なのに、なにも自分の意見が通らないことに悲観したんです。
誇るばばさまの前には無力な自分でしかないと。
表明する「演技態度?」にはいかがなものかということはありますが。
そこまで「坊主」には切羽詰った象徴的なものを見たのでしょう。

だって、かわいいベビーそれも、自分の嫌いな坊主をずっと見せ付けられるのかと・・・・想像してみてください。
あなたの大嫌い(・・だと想定して)などピンクのシャツでも厄除けだからとでもいう理由で、
あなたの義母様がベビーに毎日着せることを強制したらとでもイメージしたらわかりやすいですか?

年齢が近いだけに、私には自戒すべきことと思える。
もちろん、我が家の娘なら、「もっと面倒見てよね」と思うかもしれないが、体が許す限り自分ですることは
【自分たち】でするほうが育児戦争としての戦友としても、「パパ」を見直す好機を失うことになるでしょう。

もっと、親戚は仲良く・・・とか、どうでもいいことを考える前に、
もっと、もっと、お二人の子育て、二人で必死になってやってみたら?
あなたが体調不良で倒れたりしたら、初めて、実母様に登場してもらって、起きられるようになったら
すぐに「ママ活動」開始です、もちろん、実母様にはありがとうです。

育児、生活とはそういう、ものです。

【この文章をよんで感想だけでも結構なので、ご意見ください。お願いします。 】

二人子育てしました。
すでに成人ですが。

双子・・・というのは大変だろうと思いますので、ご実家の援護を受けるというのもわかりやすいですが、
私は、実家での出産というのをしてませんので、実家という便利さ・ありがたさを体験したら「抜けだせない」トラブル
を回避できました。

問題は、双子は大変ですが、あなたが実家を頼りすぎたということの姿勢だとおもう。

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広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
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イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
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つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q電車に飛びこんで自殺した方の親族は本当に多額の賠償金みたいなのをはらうのでしょうか?

電車に飛びこんで自殺した方の親族は本当に多額の賠償金みたいなのをはらうのでしょうか?

 そのまんまです。よくそういう話は聞きますけど、噂以上にわかりません。家族だからと言って連帯保証人でもないと思いますし、仮にそうでも額がでかいと即自己破産なきもしますし、死者の財産を放棄すれば債務放棄ということにもなるような気がしますが、良く分かりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

以前聞いた話しでは実際に請求、支払までいくことはないと言ってましたが・・・

自殺→電車に飛び込む→通常の精神状態では出来ない

のような理由だそうです。一億円以上等、高額の賠償金や
慰謝料の話しは鉄道関係者がある程度意図的に流しているようで(そう簡単に電車に飛び込まれては困る)。
それよりも飛び込まれた電車の運転手さんの精神的ショックのほうが大きくて事故後強制的に1ヶ月の休暇をとらされるようです。

いずれにしろ、電車で飛び込み自殺なんて絶対にいけません!!

Q朝鮮戦争の原因は何ですか?

映画「BROTHERHOOD」を観ました。
突然に北側から攻撃が始まるのですが、この戦争の原因は何でしょうか?
主義が違うからといっていきなり同じ民族同士で戦争を始めるというのが理解できません。
また韓国にはアメリカ軍もついているわけですから、勝てる見込みもありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり、補給も中国を経由して確保できますから短期決戦で勝利出来る計画でした。
開戦当初は計画とうり戦車部隊を先頭にした北朝鮮が優勢でしたがアメリカ軍がその背後の仁川に逆上陸し、補給路を切断したので補給を絶たれた北朝鮮軍は敗北後退し、アメリカ軍の優勢な空軍力により中国国境近くまで追いつめられました。

緩衝地帯の消滅を恐れた中国が義勇軍を送り中朝連合軍と国連韓国連合の戦争になり持久戦となりました。

この時点で中国とアメリカの戦争になったのです。

戦争に残虐な行為はつきもので、双方の兵士、民間人を問わず戦場になった所は悲惨な運命にあいます。

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり...続きを読む

Qアメリカは日本になぜ原爆を落としたのでしょうか

先日、テレビで広島に落とした原爆と長崎に落とした原爆では、種類が違うということを聞きました。
私はなぜ違うのだろうと疑問を感じました。

早く戦争を終わらせるためという理由だけでしたら、同じ種類の原爆でいいんじゃないかなと思ったのです。
アメリカが日本に原爆を落としたのは、実験の意味もあるのでしょうか?

だけど、実験で何十万という人間が死んでしまうわけですから、アメリカが実験でそのようなことをするのかなとも思います。

すみませんが、お教えいただけましたら助かります。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

質問の主旨は↓でよいのでしょうか。

>アメリカが日本に原爆を落としたのは、実験の意味もあるのでしょうか?

回答:そうです。

原爆使用の目的は↓です。

1:原爆(2種類)の効果を、実際の都市や人間で確かめ、データをとる事。
2:他国に使用可能な核保有国であることを示し、戦後の国際関係で優位に立つ為。

1についてですが、上記の目的を満たす為に、投下する都市は↓のような経緯で選ばれています。

A:周囲を山に囲まれた直径3マイル以上の市街地を持つ都市。
アメリカは、↑の条件をより満たす為に、広島への空襲を停止して建築物を保存し、人口を集中させました。

B:警告無しの使用の決定
トルーマン大統領は、自分が設置した暫定委員会で、原爆の使用は「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で行われるべきだと語り、そのように決定しています。
(開発に携わった科学者は、無警告の原爆投下に反対しています。)


この質問は過去にも何度か出ており、警告については、連合軍は爆撃前にビラをまいて避難を呼びかけていたという意見がありますが、それには【広島】と【小倉】は入っていません。(画像参照)

実は、小倉は広島と同じ理由で選ばれていましたが、爆撃機が航路を誤って、長崎に落してしまいました。
長崎の投下地点の真上には、日本に始めて建設された「教会」がありました。
(アメリカはこの事を隠していますが)


アメリカの原爆の使用について、日本が降伏をしなかったからだという意見もありますが、それは間違いです。

当時の日本は条件さえ合えば降伏(というか講和)をするつもりでした。
しかし、アメリカは曖昧な降伏条件(国体の護持、天皇制の維持等が保証されていない)を出すことで、日本が降伏できないようにして、原爆を使用する準備をしました。
(降伏条件の起草段階では天皇制の維持が含まれていましたが、トルーマンはこの部分を変更しています。)

ただ、これについてはいつまでも戦争を続けていると、ソ連が参戦してしまい、戦後処理についてソ連に発言力を与えることとなり、タイミングが難しい作戦でした。(実際そうなりました)

日本は↑のような条件が不明な状態で降伏した場合、国が消滅する事もありえるので、安易に降伏はでいませんでした。
更に、降伏後に天皇が処刑された場合、国民や軍部が政府の意向に関係なく戦闘を行う場合もありえます。
そのような内戦になった場合、中ソが介入して朝鮮やドイツのような分断国家になり、冷戦の最前線になってしまう事も考えられます。

以上から、敗戦後の外交や政治まで考えれば、安易に降伏できる状態ではありませんでした。
そもそも、原爆の使用自体が、民間人の虐殺という国際法違反であり、日本が降伏しないことを理由に正当化するのは間違いです。


原爆の使用について、東京裁判で糾弾されていたという意見もありますが、それは誤りです。
原爆については、日本の弁護についたアメリカ人(ブレイクニー氏)が語っていますが、その目的は↓を指摘することで「裁判自体の無効」を訴えるもので「原爆の使用そのもの」を糾弾するものではありません。

【戦争は国家の行為であり、戦争指導者であっても個人に責任は発生しない。
なので、日本の戦争指導者が個人として責任を追及されているのは間違っている。
日本人が「個人」として裁かれるなら、原爆の使用を決定した者も裁かれるべきである。】

それに、彼の意見は、↓の動画では、裁判所の意向に拠って却下されています。

【A級戦犯は冤罪】(動画:東京裁判の映像)
http://www.youtube.com/watch?v=sDTJVZheUwo


この類の質問ではよく言われることですが、戦争は政治であり、外交の一手段です。
である以上、国家間の約束や契約である条約は守る必要があります。
戦争では【国際法】がそれにあたります。
そして、【法】である以上、一国の【都合】や【政治的判断】とやらで解釈や判決が変えられるべきではありません。
勝てば何をしても不問になるなら、国際法は無意味になります。


ご質問の主旨とは外れますが、
対立する意見の者を「ネトウヨ」と呼んで、「歴史の一部」だけを取り出して、「事実」を歪曲したり、印象操作、誤解、させるのは愚の骨頂である。ということを書き加えさせて頂きます。



>だけど、実験で何十万という人間が死んでしまうわけですから、アメリカが実験でそのようなことをするのかなとも思います。

質問者様は、WW2が人種差別との戦争であると言われている事をご存じないのでしょうか。
またアメリカ国内の人種差別を知らないのでしょうか。

アメリカには1964年までジム・クロウ法という、黒人は白人と同じ公共施設を使用できないという内容の法律がありました。
こんな法律があるくらいなので、民間でもそれぞれ専用の店があり、トイレも分離されていました。

徴兵されたアメリカの黒人兵は、
【何故我々が、白人と戦っている日本人と戦争をしなければならないんだ】
と言っています。
(アメリカ軍内では、戦闘では黒人がまず先に出され、枢軸軍に応戦させて位置を調べてから、砲撃をしています。)

黒人だけでなく、日系人(アメリカ国籍)も差別の対象でした。

【第442連隊戦闘団(アメリカ日系人部隊)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3
(アメリカ政府は、アメリカ国内の日系人社会の動向を、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。)

同じアメリカ人同士ですらこの有様なので、日本人への扱いは更に酷いものでした。

【大東亜戦争における米軍の残虐行為】(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=g6MmpEuGipQ

質問の主旨は↓でよいのでしょうか。

>アメリカが日本に原爆を落としたのは、実験の意味もあるのでしょうか?

回答:そうです。

原爆使用の目的は↓です。

1:原爆(2種類)の効果を、実際の都市や人間で確かめ、データをとる事。
2:他国に使用可能な核保有国であることを示し、戦後の国際関係で優位に立つ為。

1についてですが、上記の目的を満たす為に、投下する都市は↓のような経緯で選ばれています。

A:周囲を山に囲まれた直径3マイル以上の市街地を持つ都市。
アメリカは、↑の条件をより満たす為...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Q旧日本軍が関わった民間人虐殺など戦争犯罪行為

旧日本軍が関わった民間人虐殺など戦争犯罪行為をリストアップし、ひとつずつ調べていこうと思っています。
こういう事件があった、というものがあれば教えてください。
明治から昭和の終戦までで、場所は問いません。
事件の概要と年月日を教えていただければ、後は自分で調べます。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

「世界戦争犯罪辞典」(編・秦郁彦、文藝春秋)を入手していただくのが一番手っ取り早いと思いますが、手元にありますので、日本軍関連のものをピックアップしてみました。
内容についてはご自分で調べていただけるようなので、概要のみとしています。

「旅順虐殺事件」(1894年11月21~25日)
日清戦争で大山巌大将指揮の陸軍第二軍が旅順攻略の際に発生した事件。被害者は2千~2万人と言われている。

「朝鮮東学党に対する掃討作戦」(1894年8月~1895年3月)
日韓両軍による朝鮮東学党農民に対する苛烈な掃討作戦。日本軍の記録によれば戦闘で6000人、処刑5600人とされているが、5万人という説もある。

「閔妃暗殺事件」(1895年10月8日)
朝鮮正妃である閔妃が、王宮で日本軍兵士、壮士、大陸浪人らによって惨殺された事件。

「3.1独立運動事件」(1919年3月1日)
朝鮮における最大規模の反日運動で日本官憲により多数の死傷者をだす。

「台湾霧社事件」(1930年3月27日)
日本統治下の台湾霧社で先住少数民族タイヤル人の武装蜂起に対し日本軍、警察が毒ガスを使用して鎮圧。

「平頂山事件」(1932年9月)
満州国建国半年後、満鉄の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊が近くの平頂山集落の中国人住民を大量殺害した事件。被害者数は400~3000名

「陽高事件」(1937年9月)
支那事変初期において内モンゴルの陽高で関東軍チャハル兵団(兵団長:東条英機)が引き起こした中国人虐殺事件。被害者数350~500名。

「南京虐殺事件」(1937年12月)
日本軍が首都南京を攻略した際、2ヶ月にわたって多数の中国人捕虜、敗残兵、便衣兵、一般民間人を殺害した事件。

「百人切り」(1937年11~12月)
南京攻略戦において野田少尉と向井少尉が敵兵百人切り競争をし、それを報道した東京日日新聞の記事が証拠とされ、戦後戦犯として処刑された事件。実際は100人も切っていなかったらしいが、0人ではなかったらしい。

「重慶戦略爆撃」(1938年12月~1941年9月)
日本陸海軍航空部隊が首都重慶に対し反復実施した大規模な戦略爆撃で多数の民間人死傷者を出した事件。しかし戦犯として訴追された日本人なし。

「七三一部隊と細菌兵器」(1933年~1945年)
石井機関の七三一部隊と一六四四部隊が組織的に人体実験を行う。七三一部隊の記録によれば1943年までの検体数は850体。
1940年10月27日に南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤を散布。この攻撃後から2ヶ月間の寧波市でのペストによる死者106名。ちなみに、日本は生物兵器を禁止したジュネーブ議定書を批准していない。

「真珠湾奇襲攻撃」1941年12月7日
ハーグ開戦条約に違反するとされ、この相殺として原爆投下が正当化された。

「中立国タイとの交戦」1941年12月8日
シンガポール攻略を目指す日本軍が、タイ政府の許可前に南部タイへ上陸、タイ軍と交戦し、タイの中立を侵犯する。

「香港戦における英軍捕虜の処分」1941年12月18日
香港戦における投降英軍兵士に対するいくつかの殺害事件。

「バリスト・スロン捕虜殺害事件」1942年1月22日
近衛師団長西村琢磨中将が、バリスト・スロン捕虜収容所で捕虜の処分を命じ150名が処刑されたとされる事件。
事件自体でっち上げの説あり。しかし西村中将はこの事件の責を負わされ戦犯として処刑される。

「アレクサンドラ病院事件」1942年2月14日
シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサンドラ病院を襲撃。軍医、看護婦、患者を殺害。被害者数200名

「シンガポール華僑虐殺事件」1942年2月15日
シンガポールを占領した第二十五軍が行った反日華僑粛清事件。被害者数6000人~2万人。

「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」1942年2月
シンガポールからバンカ島の脱出した豪陸軍看護婦20名が日本兵により殺害された事件。

「ラハ事件」1942年2月
日本軍によるインドネシア・アンボンのラハ飛行場占領時に約200人の捕虜を殺害した事件。

「バターン死の行進」1942年4月
フィリピンバターン半島を攻略した日本軍が、投降した米比軍7万人をルソン島中部オドンネル収容所まで炎天下を徒歩行軍させ3万人近い死者を出した事件。

「マキン島米捕虜の処刑」1942年8月
日本軍が占領するマキン島へ奇襲上陸してすぐに撤退した際、取り残された9名の米海兵隊員を処刑。この処刑された9名に米大統領の息子ジェームス・ルーズベルト少佐が含まれていたとかいないとか。

「駆逐艦秋風虐殺事件」1943年3月16日
ニューギニアからラバウルへ約60名の外国人抑留者移送中の駆逐艦秋風が、洋上で全員を処刑。

「泰緬鉄道」1942年1月~
連合軍捕虜6万2000名が鉄道建設工事に投入され、過労と伝染病などで1万2000名が死亡。

「潜水艦による捕虜洋上処分」
1943年12月14日、呂110潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
1944年2月22日、伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
1944年3月26日、伊8潜が蘭船を撃沈し、生存者98名を艦上で処刑。
1944年3月29日、伊26が米商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明
1944年7月2日、伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。

「ビハール号事件」1944年3月
重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。

「ババル島事件」1944年10月~11月
インドネシア・ババル島の日本軍守備隊による住民虐殺事件。被害者数704名。

「ポンナチャック事件」1943年10月~1944年1月
インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模な住民検挙粛清事件。被害者数4000~2万人

「デュエナス神父処刑事件」1944年7月
日本軍占領下のグアム島で島民への影響力が強かったデュエナス神父を逮捕、公衆の面前で拷問し処刑した。

「メリッソ村民虐殺事件」1944年7月15日
グアム東南部のメリッソ村民が日本軍により虐殺。被害者数46人。

「トラック病院の捕虜生体解剖事件」1944年2~7月
米兵捕虜4人に生体切開を行い、このうち2名がショック死。生き残った二人はダイナマイトで爆殺された。
さらに他の4名にぶどう状球菌を注射し全員死亡させる。

「ティンブンケ事件」1944年7月
東部ニューギニアのティンブンケ村で、約100名の村民が日本軍に集団殺害された事件。

「パラワン島米兵捕虜殺害事件」1944年12月13日
米軍の上陸が迫るフィリピン・パラワン島で飛行場の保守作業に従事していた米軍捕虜150名が処刑される。

「父島人肉食事件」1945年2月
撃墜され落下傘降下した米兵を捕らえ処刑の後、その肉を食べた事件。当時の父島は食料に困っていたわけではなかった。
被害者数8名。

「九州大医学部生体解剖事件」1945年5月17日~6月2日
米兵捕虜8名を生体実験。肺の全摘出を行った後、輸血の代用として海水を点滴。どのくらい生きながらえるかを実験した。

「マニラ市街戦での虐殺事件」1945年2月
マニラ市街戦で多数の民間人が虐殺された事件。
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄での集団殺害など。

「石垣島事件」1945年4月15日
石垣島で米兵捕虜3名が処刑される。

「ランソン事件」1945年3月
仏印北部のランソンで仏兵捕虜を処刑。

「サンダカン死の行進」1945年2月~6月
北ボルネオのサンダカンから260キロ離れた西海岸へ移動させられた2000人の英豪捕虜の大部分が飢えと病気のため死亡した事件。

「花岡事件」1945年6月30日
日本へ強制連行され、秋田県花岡炭鉱で働かされていた中国人労務者がおこした蜂起・逃亡事件。
警察、自警団、鹿島組などが鎮圧、見せしめの為100人が拷問後処刑される。

「ヤルート島民処刑事件」1945年5月
マーシャル諸島ヤルート島で陸海軍将校が島民21名を殺害。

「カラゴン事件」1945年7月
日本軍が南ビルマのカラゴン村の村民600名を集団殺害した事件。

「オーシャン島住民殺害事件」1945年8月19日
島民140名に終戦を告げた後、全員をがけの上で銃殺。

「世界戦争犯罪辞典」(編・秦郁彦、文藝春秋)を入手していただくのが一番手っ取り早いと思いますが、手元にありますので、日本軍関連のものをピックアップしてみました。
内容についてはご自分で調べていただけるようなので、概要のみとしています。

「旅順虐殺事件」(1894年11月21~25日)
日清戦争で大山巌大将指揮の陸軍第二軍が旅順攻略の際に発生した事件。被害者は2千~2万人と言われている。

「朝鮮東学党に対する掃討作戦」(1894年8月~1895年3月)
日韓両軍による朝鮮東学党農民に対する苛...続きを読む


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