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すみません、以前から考えていたことがありますので、数学の専門家でお詳しい方がいらしたら教えてください。

数学の自然数の公理で、「どんな自然数pにもその後者p+1が存在する」という公理があったと思いますが、もし、最大の自然数mが存在する、という公理のもとに数学を展開させた場合、どの程度の支障が出ますか?

たとえば、われわれの日常生活を送る上ではまったく支障がなく、純粋数学でやっと支障が出る程度のものなのか、それとも根本的に論理展開が進まないような世界になってしまうのでしょうか?(純粋数学で、という意味ではなくてわれわれの現代の日常生活や科学レベルで、の話です。)

たとえば最大の自然数mが存在するとするとあらゆる計算が不可能になってきますが、それはわれわれの生活を脅かすほどの問題でしょうか?

ちょっと言っていることが意味不明かもしれませんが……(笑)分かる方がいましたらお教えください。

A 回答 (13件中1~10件)

No.7 です。


後半訂正します。
「どんな自然数でも次の数が存在する」というのは、ペアノの公理のひとつですが、他の条件の前提となっているような条件なので、

「ペアノの公理のうち、『どのような数にも次の数が存在する』という条件を、他の条件と変えたもので自然数のような体系を構築できる可能性があるということです」

というのは、さすがに無理です。
失礼しました。

と、これだけではなんなので……

たとえば、こんな問題を考えてみましょう。

1,2,3,…… と自然数を並べた時(つまり、次の数、次の数……)と並べた時に、全部の自然数を並べることはできるかどうかという問題です。
一件当たり前ですが(そして、並べることはできる)のですが、「どのような数にも次の数が存在する」というだけだと、実は、別の系列があって、並びきらないかも知れません。

つまり、
1,2,3,……とば別に、
A,B,C,……のような自然数の要素が残っているかどうかはわかりません。(それぞれ、個別に、「次の数」が存在するのですから)
これは、ペアノの公理の他の条件と合わせると、系列のスタートとなる数字がひとつしかないことがわかって、従って、1,2,3,……とは別の系列など存在しないことがいえます。

こういう議論は、「実際に自然数全部を並べてみる」ということができないので、自然数の厳密な定義をもとに、矛盾がないように議論を進めるわけです。
ところが、最大の自然数mが存在ということになれば、実際に並べてみればわかってしまうことです。
ということで、要素が有限だと、そんなに困ったことはおきないわけです(と、予想されます)
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この回答へのお礼

続けてありがとうございます。
ごめんなさい、No8の追記を読まずに#7にお礼を書いてしまいました……。独立性が成り立たない、という意味でしょうか??

なるほど、面白い話ですね! 確かに、後者の存在だけでは、並びきるということが言い切れません。最初の数1がひとつしか存在しないという条件がなければ(後者が存在するというだけでは)説明できないという意味ですね? 有限だと確かに大丈夫そうです。

書いているうちに、最大の自然数mが存在するという私の質問の意味自体がだんだん分からなくなってきました、、、ここで言っている「自然数」というのは結局どういう意味の自然数なのだろう、とわけが分からなくなってきました……。自分で質問をしておいてすみません。

お礼日時:2007/03/21 00:38

「無限大の観念がなくなる」ことで困難になる日常的なことでしたら


「精神世界」に関することだと思います
思考する、知識を習得する、などのことが有限だとすれば
「哲学的に」困ることになり 子供の学習意欲も
なくなるでしょうね
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
哲学的に困る、というのはおっしゃるとおりだと思います。虚数iも、ありえもしないような数を創造したことにより色々なメリットがあるのですよね。いっけん事実と違いそうなのにそれを想定することにより理論が豊かになるので数学と言うのは不思議だなと思います。

お礼日時:2007/03/25 01:21

「最大の自然数は存在しない」という公理を捨てて、「最大の自然数mが存在する」という公理を採用した場合、どれだけ現在の数学がダメになるか?という質問でしょうか?



さて、例を挙げます。
ユークリッド幾何学の公理の一つに平行線公理というものがあります。
『ある直線上にない点を通り、もとの直線に平行な直線がただ一つ引ける』というものです。
この公理からお馴染みの「三角形の内角の和は二直角(180°)」などが導かれます。

ある時、平行線公理の代わりに『ある直線上にない点を通り、もとの直線に平行な直線は存在しない』という公理を採用したらどうなるだろうと考えた学者がいました。
この新しい公理から導かれるのが「三角形の内角の和は二直角より大きい」等です。
当時、この新しい幾何学はえらくバッシングされたようです。
あり得ない公理から理論を組み立てるなんて、ただの遊びだ机上の空論だと。
しかし、この新しい幾何学はそれ自体どこにも矛盾はなく、しっかりと理論として成り立っているのです。

この新しい幾何学は、現在では非ユークリッド幾何学と呼ばれ、あの相対性理論を完成させるために必要だったといいます。


なにが言いたいかというと、今回の質問者さんの新しい公理も理論に矛盾がなければ、役に立つ場面があるかもということです。
数学の理論には役に立つ場面と役に立たない場面があります。

もう一つ例を、
例えば家を建てるために土地の面積を測ろうとします。土地に三角形を書いてその面積から土地の面積を考えます。
地面は平坦ですからユークリッド幾何学を応用すれば土地の面積を求めることができます。
このときユークリッド幾何学はとても役に立ちました。

今度は船で海に出て長旅をすることにしました。海図を広げ目的地までどの方向にどれだけ進めばいいか考えます。
先ほど地面は平らと書きましたが、大きな目で見ると地球は球面なので、実は平行線公理は成り立ちません。
つまりユークリッド幾何学は役に立たないのです。
ではどうしようかと考えたときに、先ほどの非ユークリッド幾何学がありました。非ユークリッド幾何学は別名球面上の幾何学と呼ばれ、球面上の図形を考えるときには大いに役立ちます。

このように、数学を使うときには、現象をどのようなモデルで捉えてどの理論を応用するかという事が重要になります。
ある場面で応用できない理論でも別の場面で応用できることもあり得るのです。
最大の自然数mも、自然数に限りがないと思われるような場面では役に立たないかもしれません。
しかし、逆に最大の自然数を考えなければ説明がつかないような現象が観測されたとき、その現象の研究には大いに役立つでしょう。

馬鹿とハサミは使いようです。数学もおなじですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
おっしゃるとおりです! そういうことが言いたかったのです。
ユークリッド幾何学についてもかねてからそんな感じのことを思っていました。大学で公理論を少しかじったのですが、どうも数学というものがうさんくさく感じられてきてしまったんです。公理というのを先に定め、論理式の公理を定めておいて、公理を同値で式変形したものだけですべての数学というものが成り立っているとするなら、もっと公理について真剣に議論した方がいいのではないか、と思いました。
たとえば平行線が引けるというのも、紙の上ではいいと言っても、まっすぐな紙そのものが存在するのかどうかは疑問です。宇宙そのものが湾曲していて、われわれが見ているのはその湾曲の誤差が少ないほんの一部であるだけかもしれません……(どうなのでしょう??)
ただし幾何学の場合と違うのは最大数をmが存在するというときは、自然数をただmまでに制限しただけの世界が作られるような気がするのであんまり使い道がないような気もします。

お礼日時:2007/03/25 01:18

まず、ペアノの公理全体は、



1) 自然数 0 が存在する。
2) 任意の自然数には「次の数」が存在する
3) 「次の数」が、0であるような数は存在しない。
4) 互いに異なる数の、「次の数」は、互いに異なる
5) 0 がある性質を満たし、任意の自然数aが、ある性質を満たせばその「次の数」もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。
(伝統的に、ペアノの公理で扱う自然数には、「0」を含みます。こうしないと、足し算に単位元(どんな数に足しても、その数が答えになるような数。かけ算の単位元は、もちろん、1です)が存在しなくなって、その後の展開が面倒になるので)

ここで、3)と4)で「次の数」を用いた定義がなされているので、2)については、他の公理と独立とは言い難いということです。

また、おもしろいのは、5)が公理として採用されているということです。これは、いわゆる「数学的帰納法」の原理でして、「どうも数学的帰納法というのは嘘っぽい」という意見がよく出てきますが、これは、他の公理から証明できないので、自明ではないわけです(だから、わざわざ公理の一つとして定めるわけです)

さて、無限を扱う際には、厳密な定義が必要となるのは、ひとえに、無限の要素を実際に並べてみるということが不可能だからです。
たとえば、よく知られた公式に、

1からnまでの和は n×(n+1)/2

という式があります。
これが、「すべての自然数について成り立つ」ことを示すには、数学的帰納法による証明が必要です。
一方で、上限の数があるとしてしまえば、その数まで(答えの方が大きくなるので、答えがエラーにならない範囲で)調べ上げることは、とりあえず、可能です。
また、「任意の自然数nについて」成り立つことも、たとえば、碁石を3角形に積み上げたものを、重ね合わせるような図形的な説明で可能です。

実は、最後の、「任意の自然数nについてなりたつ」ことと、「すべての自然数nについてなりたつ」というのが、微妙に違いまして、このあたりの議論になると、厳密な定義が必要になったりします。

※最後の、「任意の自然数nについてなりたつ」と「すべての自然数についてなりたつ」というの違うというのは、上述の公理5)がわざわざ明示されていることと関係あったりします。
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この回答へのお礼

「任意の自然数nについてなりたつ」と「すべての自然数nについてなりたつ」という違いはどのようなものでしょうか。(「すべての自然数n」というよりも「すべての自然数」ですね。)
ある性質が、任意の自然数nについてなりたつことを示しても、すべての自然数nについてなりたつとは限らないということでしょうか??
(とはいえ、そもそもの質問の主旨とは離れてしましました……m(__)m)

お礼日時:2007/03/25 01:08

#6です。



自然数に最大値mがある仮定の下では、極限という概念がどうなるか
気になります。すなわち、通常の数学では、
lim_{n->∞}(1/n)=0
ですが、自然数に最大値があると極限は1/mになります。
そうすると、微分や積分がどうなるのでしょうか(破綻?)
いずれにしろ、かなり制限の強い仮定ですので、
現代数学のような広大で深遠な世界を構築できるか不明です。
たとえ、微分・積分が定義できたとしても応用範囲はかなり限られると思われます。そうすると、現代のように科学が発展するためには
非常に時間がかかると思いますし、もしかしたらここまでの発展は難しい可能性があります。

>どの程度の支障が出ますか?
現在のような高度なテクノロジーを享受できていないと思います。
数学に関係ない技術(農業とか)には影響ないですね。

ちなみに、われわれのいる宇宙は有限なので、
素粒子と数を1対1に対応させれば、自然数が定義できますし、
文字通り自然です。さらに、自然数に最大値が存在しても、
われわれの宇宙の存在にとって何の影響もないですね。
数自体は抽象的な概念で実体がないので。

あまりまとまっていなくて失礼。なにしろ難しい問いなので。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
極限とかは定義できなくなりますし、現代数学のほとんど100%は破綻してしまうと思うのですが、どの程度破綻するのだろう、と思ってしまったのです(笑)でも、おっしゃるように、微分とかも今と同じようには定義できなくなるのですね、、、? む、難しいです。

ただ、思ったのは、どんな数にもその後者がある、というのはそんなにまっとうな公理だろうか、と感じたのです。無理があるというか、実態に即してないような気もします。むしろ一番大きい数がある、と考える方が実態に即しているような感じを受けます。たとえばひもを分割していっても、実際には素粒子以下の長さには分割できないため、無限小なる概念を考える必要はない気もします。実際にはそれを考えることで微分とかができるというのもわかるのですが、、、

お礼日時:2007/03/21 01:06

私は市民大学(私も含めて、生徒はほとんど高齢者)で、点が4つ(?)しかない場合の幾何学を教わりました。

それから考えると、有限な数しかない公理系も、可能なのではないでしょうか?日常生活との関係は、そういう数学が適用できるところで、役に立つし、適用できないところでは、役に立たない、と言うことでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
元が4つしかない集合のような空間で演算を定義する、というのはおっしゃるとおりできることだと思います。有限の場合でも可能だと思います。ただ、そうしてしまうと、おおよそ日常生活とはかけ離れた世界になってしまうのがネックですね……。たとえば、mまでしかない空間で(m-1)+2=1と定めれば簡単ですが、この世界はもはや日常生活とはかけ離れてしまうと思います……。

お礼日時:2007/03/21 00:43

これは、かなり難しい問題ですね。


というのも、「日常生活」というのをどう考えるかで見解は変わってきます。

まず、「どんな自然数にもその後者が存在する」というのは、ペアノの公理のひとつで、確かに、自然数を定義する大切な性質です。
ついでに言えば、足し算の定義が矛盾なく行えることや、自然数が1系列しかないことを保障するにはこの性質が必須になります。
そういう言う意味で、自然数から出発する数学全体が瓦解するのは確かです。

一方で、そもそも、ペアノの公理をはじめとした、自然数・四則演算の厳密な定義がどのような経緯で要求されたかと言えば、「無限」を取り扱う際に、このような厳密な定義が必要だったわけです。
逆に、「無限」を取り扱わなければ、そんなに目立った不都合はでてきません。

既に、補足に書かれているように、例えば、Execel で取り扱える数には上限があるにもかかわらず、大抵はこれで事足りているように、実は、上限を決めてしまって、計算結果がそれに収まらない範囲の計算は全部エラーとしてしまえば、エラーが起こらない範囲での計算はできてしまいます。
では、その間の計算で矛盾がないのかということは、厳密な証明ができなくなってしまいますが、扱う数そのものが有限なので、例えば、取り扱い可能なすべての数に対する四則計算の表を作ってしまえば、その範囲では、矛盾はおこらなくなります。

いずれにしても、「どのような数にも次の数が存在する」というのが、ペアノの公理の「ひとつ」であるというのは、(自然数を決定づける)ペアノの公理の他の条件とは独立であること言うことを示しています。
つまり、ペアノの公理のうち、「どのような数にも次の数が存在する」という条件を、他の条件と変えたもので自然数のような体系を構築できる可能性があるということです。
ただ、それが、日常生活における、四則計算と同じものになるかどうかはわかりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
大変分かりやすい説明でした。その後、考えたのですが「最大の自然数mが存在する」と言うときの「自然数」という定義がなされていないので、私の質問自体が意味をなしていないように思われます。(ペアノの公理で定める「自然数」に最大数がある、という意味ですともちろん矛盾が出ますので、#7さんは私の意味を好意的に解釈してくれたのだと思います。)

なるほど、無限を扱う上で厳密な定義が必要なのですね……。逆に言うと、無限を扱わないとどのような場合に不都合なのでしょうね、、、そういう基礎の部分って意外と数学をやっていても考えたことがないのです。後者が存在するという公理は他の公理と独立なのですね。

四則演算についても考えてみたのですがよくわかりませんでした。とりあえずすごく難しそうです……。

お礼日時:2007/03/21 00:25

もし、mが最大値とすれば、m+1<=mなので、


1<=0となります。したがって、
足し算自体意味がなくなるので、数学自体が破綻します。

これを回避し、かつもし自然数に最大値があると
仮定し論理展開をするのであれば、
まず、四則演算(+ー×÷)を定義する必要があります。

例えば、新しい和の演算子++の定義例としては、
mが自然数の最大値として、a、bが自然数のとき、
a++b:=(a+b-1) mod m+1 (mod:剰余)
など。(この定義は単なる思いつきなので、
この定義でうまくいくか知りません。)
こうすれば、m++1=0+1なので、
m++1<=mは成り立ちます。

もし、基本的な演算の矛盾無く定義できれば、
自然数の最大値が存在する数の世界を作ることができます。
(そもそも自然数自体をまず定義しないければいけないと思いますが。)

こうなると、新しい数学を作るということになるかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
#6さんが唯一、私の意味を分かっていただけたと思うのですが(私の説明が悪いのかもしれないのですが)。
もちろん、通常の数学は破綻するので、最大数があるという仮定のもとで四則演算を定義して体系を構成する必要があります。(modなんかも雰囲気は似ている感じですが)
その際に、その限られた体系の中で、われわれの科学のだいたいどのくらいを説明できるのかなあ、と思ったのです。たとえばふと思ったのは、パソコンの演算をするときに、半導体の数みたいなものは決まっているので最大の自然数mが存在する世界と似ていますよね?(パソコンでいくらでも大きい自然数を表現することはできないです。)でも、大方の計算はできるし、地球のシミュレートもできます。それは近似だと思うのですが、いっそ最大の自然数mが存在するという公理のもとでも、科学は破綻しないのかなあ、と思ったのです(純粋数学は破綻するのでしょうが……)。やっぱりくだらない質問でしょうか……笑

お礼日時:2007/03/20 00:57

>それはわれわれの生活を脅かすほどの問題でしょうか?



はい、われわれの生活を脅かすほどの問題です。
「無限」の概念が実在しないと困る現象は現実の世界にいくらでも転がっています。一番わかりやすいのは無限級数の収束に関わる現象だと思います。

例えば、有名なゼノンの逆理の一つ「アキレスは前にいる亀を追い越せない」について考えると・・・

「先行する亀が居た位置にアキレスが到達する頃には、亀は常に居た位置より少し前に進んでいるから、アキレスは永遠に亀を追い越せない」
は、試行回数が有限(m回)に限定されてしまうと真実になってしまいます。つまり我々は、どんなに急いでいる時でも、自分の前をのんびり歩いている人を絶対に追い越せなくなってしまいます!!

無限回試行して、初めてアキレスは亀に追いつくことができます。この「無限回の試行」が実は「有限時間内」に達成できると言うことが、この逆理を解く時のポイントです。無限(特に自然数の無限)なんて意外にたいしたことなくて、ぎゅっと縮めると手のひらに乗る程度のちっちゃな存在です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
アキレスの話を有限回(m回)に制限すると、m回以内には追い越せないというしごく当たり前の結論が出ると思うのですが、どうなのでしょう、、、(だんだん混乱してきました。)

お礼日時:2007/03/20 00:50

jokerswild_2006さんがいうように最大の自然数mが存在するとしましょう。


m*mも自然数の積だから、自然数である。
仮定よりmより大きい数はないのだから
m*m <= m
が成り立つ。
式変形すると
m(m-1) <= 0
これを満たすmはm=0,1。mは最大の自然数であるから大きい方を選んで1。

つまり、最大の自然数を想定すると1以上の数は考えてはいけないことになるんです。
1以上の自然数がない世界で、支障をきたさない日常生活を送るのは難しいと思いますよ。

※最大の自然数を考え、それにあわせた論理を確立すればいいのかもしれません。
しかし、現行の数学(最大の自然数を仮定しない数学)で日常生活をきたすような事態が起きていない以上、最大の自然数を考えた数学が一般的になるとは思えません

この回答への補足

ごめんなさい、ちょっとずれたお礼を書いてしまいました。普通の意味での自然数ではそんなことはできないよ、という意味ですね、、、質問がちょっとあいまいでした。最大の自然数を仮定するような論理を確立する、というのはおっしゃるとおりです。

補足日時:2007/03/21 00:46
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
最大の自然数mが存在する場合はm*mという演算は定義できないと思います。

ですから、おっしゃるように最大の自然数mを考えてそれにあわせた論理を確立するしかないのは正しいのですが、そうしてしまうとどんな支障が起こるのか、、、という点をご存知の方がいないかな、と思った次第です。そんなこと研究している人なんているのでしょうか、、、

お礼日時:2007/03/20 00:45

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