「忠犬もちしば」のAIボットを作ろう!

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、


北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。
    • good
    • 5

今、読んでいる本、岩波書店『ものがたり日本列島に生きた人たち』3文書と記録(執筆者・笠松宏至氏)の中に、ご質問に関連のある記述があります。



「米価といっても、豊凶作の差の激しい当時のこと、その変動は今よりずっと激しいものがありますが、大まかにいって銭一貫文で米一石、というのが中世の基準的な相場であったといわれています」
としますと、百貫文は百石になります。

武田晴信の頃の甲斐国の米価が次のHPに載っています。米1升(武田枡は他国の3倍)の値段は40~100文なので、百貫では30~75石、買えることになります。
個人のHP「コインの散歩道」の中の「中世の物価」によります。
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/index.html

「禄高百石の武士といえば、水戸家は35万石で家臣は約千人、その内百石以上が3百人で相当な地位である。ただし、実収入は30石(70石は藩借り上げ)なので、家来・女中2,3人を養うのはたいへん」と、山口博著『古典でたどる日本サラリーマン事情』にあります。

山本勘助の場合は、素浪人がまるまる百石もらえるわけですから、高給で優遇されたことになると思います。

参考URL:http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/J020.htm
    • good
    • 0
この回答へのお礼

3人の識者の方から、「1貫=1石、2石、4石に相当」とそれぞれ異なるお答えを頂きました。この問題は、明確な答を示し得ない性質がありますので、どのデータを基礎にするかで回答が分かれるのは当然と思います。

「足軽大将の適正な禄高は?」という視点から考えますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD% …
で「戦国時代後期における足軽大将の家禄は、おおよそ200石から500石程度で中級の武士として認められる存在になった」とあり、私見では「当たらずとも遠からじ」と思われます。足軽大将自身も自前の兵(陪臣)を持たなければ指揮できませんし、足軽を自らの判断で進退させる足軽大将は騎乗の士分の者でなくてはなりません。

こう見ると「山本勘助に200貫を与え、足軽大将を命じる」という「風林火山」の設定は、「新規召抱えの浪人にいきなり200石(1貫=1石説)~800石(4石説)の禄と足軽大将の地位を与える」ということで、武田家の中に波乱を呼ぶのは当然ですね。

これで質問を締め切らせて頂きます。ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/30 18:38

石高制の前の貫高制の事ですね。



詳細は専門家様にお任せするとして、
甲斐の国の知行は12万貫。(約23万石)
ですので、1貫=2石が妥当だと思います。

100貫=200石の禄をもらったのです。

当時の足軽の給料が年間2石も無いので、
いきなり足軽の100倍の給料を貰った事になります。
200貫ならほぼ足軽の200倍の給料です。

江戸時代、400石と言えば、まあ良いクラスではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。「甲斐の国の知行は12万貫。(約23万石)」だったのですか。

1貫=2石
100貫=200石
ということなら、確かに「特に戦功もない浪人を新規に召抱えるには過分な禄」でしょうね。「知行200貫(400石)、足軽大将とする」という晴信の「辞令」も違和感は感じません。
※「風林火山」、勘助に関する部分は全てフィクションとは重々承知しておりますが、それ以外はかなりリアルに作っていますよね。

「江戸時代、400石と言えば、まあ良いクラスではないでしょうか?」
仰る通りですね。数十万石の大藩でも家臣団のトップ100くらいに位置するはずです。

お礼日時:2007/03/29 00:07

貫高というのは、米を売って得られる金額なので、取れる米の量は価格によって変わります。

室町期の甲斐における米の値がわからないと、石高と比較できません。
百貫が大金なのは、間違いないのですが。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q石高について

石高が具体的に想像できません。時代ごとで石盛がことなることは理解できるのですが、例えば加賀百万石や慶長年間の30万石とは、玄米にして何表にあたるのか、米にしたら何表になるのか、金額にしてどれくらいなのか、などの具体的なものを教えていただけませんか。時代ごと、地方ごとでその意味は異なるとは思うのですが、概略だけでも掴みたいと思います。

Aベストアンサー

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのうなぎを食べていたというのが実情で、しかも、精力がつくというので、人足などの肉体労働従事者が食べていたもので、一般的ではありません。

食品としては、海から取れるものは、各種の魚、貝、たこやいか、海草などで、池や川や田などでは、魚や貝が取れました。これらを調理して料理にしたのです。また陸では、米、麦、豆、粟・稗などの雑穀、大根、芋などを含む各種野菜、そして兎やかもの肉などがあり、例外的に、猪の肉などもありました。

しかし副食はそんなに多くなく、庶民だと、米に雑穀、豆から作った味噌や豆腐、それに野菜、魚、貝などが食物でした。やはり、米と雑穀、麦が多く、それに味噌、野菜を少し加えて、これで大体食事です。宮沢賢治の「雨にも負けず」にあるようなのが、江戸時代の食事です。

生活費は大体、食べるのに使ったのだと考えるのがよいでしょう。衣類や調度、その他、多少の道具も必要だったでしょうが、やはり食べることが主で、食べられることが、生活の条件だということになります。

だから、食べるための米の量で計算するのが、江戸時代の価値観では合理性があるのです。

一日に米五合というのは、そんなに食べないと思えますが、昔は、副食がないので結構食べたのです。米だけ食べたのでないので、雑穀も米に勘定して、副食もこれに入れます。すると、大まかに、1石は、200日分の米だと出てきます。

1石=10斗=100升=1000合 でした。それゆえ、1石半で、一人の食料一年はまかなえたことになります。5人家族で7石か8石です。もう少し多く必要だとして、庶民は、一年間に一家で10石あればよかったということになります。

最下級の武士で、禄高30石とかがありますが、30石でも、食べるだけなら、十分余裕があったということになります。

米10石が庶民の年間の収入だったと考えると、現代の庶民の年間収入を仮に300万円とすると、1石は30万円になります。米1升は、1.5kgほどで、1石は150kgだとすると、現代の安い米だと、1kgは500円かそれ以下です。1石は7万5千円になり、10石は75万円になって、先の300万円と合いませんが、江戸時代の方が米の価値は高かったのだと云えます。

中級武士は、禄高100石ぐらいありました。これは3000万円になり、非常に高給のように思えます。しかし、江戸時代は、人件費が無茶苦茶に安かったという事情があります。商家の手代や丁稚が一年、働きに働いても、大した給金はなかったのです。食べさせてもらうことが、給金の主たる部分だったとも云えます。

また武士は、人口の一割にも満たない、エリート階層だったのだということも重要です。中級武士だと、少なくとも4,5人の下男・下女などを専属で使っていたのであり、現代の日本で、4,5人の成人を丸抱えで雇うとなると、年間1000万円の収入では無理でしょう。一人300万円出すとしても、1200万円とか1500万円必要になり、これを考えると、100石の中級武士が年収3000万円というのは、それほど多い金額ではなくなります。

1000石の旗本というと、殿様であって、裕福ということになりますが、これは年収3億円ということになります。

1万石の大名は、石高30億円です。しかし、1万石の大名になると、相応の数の武士の家来を持たねばならず、小者や使用人など、抱える家来や使用人は100人は軽く超えたはずです(また収入は、以下の前田家と同様、15億円と半分になります)。

加賀100万石の前田家は、石高3000億円ということになりますが、これは大土地所有者でもあるのであり、日本の面積の50分1ぐらいを所有する大金持ちだとも云えます。(また、これは、加賀の総生産高で、課税がその半分とすると、1500億円が収入です。領地を持つ大名などは、領地からの税収が収入であったのです)。

徳川の直轄領を仮に1000万石とすると、徳川宗家は年収1.5兆円だとなりますが、これはむしろ、少ないのではないかという気がします。

1石30万円というのは、江戸初期の米の価値で、米の価値は段段落ちてきます。江戸末期には、1石10万円に、もしなっていたとすると、幕府収入は3750億円になります。

これでも多いように見えますが、幕府が何人の人間を養っていたのか、行政手順など、どれぐらい費用をかけていたか、こういうことを考えると、3750億円などでは、とても足りないということになります。

幕府1000万石1.5兆円は、純利益ではなく、粗利益で、ここから人件費その他諸費用を出さねばならないのです。それは大名家も同様で、武士の家も似たようなことになります。

なお、1石は2.5俵です。40石が100俵です。また玄米と白米は、昔は食用の米はほとんど精米していません。だから、そんなに差はないことになります。清酒用の米はかなり精米したようですが、分量的には、それほどではないでしょう(ただ、糠が出る程度には精米したはずです。糠も貴重な食料原料だったのです)。

(農家の次男・三男などが商家に丁稚などで働きに出ると、食事に、たくあん一切れ二切れとか、梅干が出たそうですが、これが何とも美味しく、魅力的であったという話があります)。

なお、参考2では、1石=5万円としていますが、これは話がおかしいのです。現代の米の価格をそのまま戦国時代や江戸時代に当てはめるというのが無理があるのです。一日5合が、一人の庶民の生活費で、1石=5万円だと、1合=50円で、一日5合は、一日250円となりますが、そんなはずはないのです。

1日250円なら、1年で9万円ですが、5人家族で45万円とは、現代日本では生活できません。米の価値が、江戸時代では、現代よりも遥かに高かったということを失念しているのです。

>参考1:石高とは
>http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm
 
>参考2:関ヶ原
>http://www.ryusaku-kuroya.net/sekigahara.htm
 
>参考3:上田藩の支配組織
>http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm
 

参考URL:http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm,http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのう...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q10万貫という貨幣単位は今の価値で言うとどれくらいでしょうか?

色々な前提でさまざまな回答があることを承知の上で質問させていただきます。

物語で10万貫というお金の単位が出てきました。

これは今の貨幣価値になおすといくらくらいに相当するのでしょうか?

かなりアバウトでもよいので教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

結論としては、『銭』10万貫であれば、現在のお金で約10億円のようです。
「貨幣価値の換算」が「色々な前提でさまざまな回答があることを承知の上で質問させていただきます」ということは既に理解されているようですが、
http://hirose-gawa.web.infoseek.co.jp/mame/kahei.html
が参考になるでしょう。
銭1貫が約1万円とすれば、銭10万貫は約10億円という計算になります。概ね「普通の人が想像できる範囲の巨額のお金」ではないでしょうか。

ただし
「10万貫=銭10万貫=現在価値10億円」
というのは、江戸を中心とする「金遣い経済圏」の話です。

大坂を中心とし、東北地方の日本海側にまで広がる「銀遣い経済圏」の方が江戸時代の日本では大きかったのですが、そこでの話であれば
「10万貫=『銀』10万貫=現在価値1千億円」
となります。上記のHPを再度参照して下さい。
(銀1貫=現在価値100万円)

ただ、いくら物語であっても「銀10万貫」というのはあまりに金額が大きすぎて現実的ではないでしょう。

江戸時代の大商人で「越後屋」を創業して大成功し、現在の三井グループにつながっている三井高利という人がいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%88%A9
天下の大商人と言われた三井高利の遺産は、銀4900貫であったようです。現在価値で言うと50億円です。銭に直すと50万貫になります。
http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/02-19.html

結論としては、『銭』10万貫であれば、現在のお金で約10億円のようです。
「貨幣価値の換算」が「色々な前提でさまざまな回答があることを承知の上で質問させていただきます」ということは既に理解されているようですが、
http://hirose-gawa.web.infoseek.co.jp/mame/kahei.html
が参考になるでしょう。
銭1貫が約1万円とすれば、銭10万貫は約10億円という計算になります。概ね「普通の人が想像できる範囲の巨額のお金」ではないでしょうか。

ただし
「10万貫=銭10万貫=現在価値10億円」
というのは...続きを読む

Q戦国時代の知行について

見てくださった方、ありがとうございます。

知行についてよく分からないことがあるのですが…武士は主君の為に働く見返りに土地という給料をもらうわけですよね?
柳川13万石ならば13万石ほどの米を生産できる土地をもらい、治めるわけですが、例えば300石などの低い知行しかもらっていない武士でも300石の土地を与えられたのでしょうか?
そんな細かく土地を分けているのかなぁと疑問に思ったので聞いてみました…。

また、部隊を率いるようになるにはどの程度の知行をもらっている武士だったのでしょうか?
どなたかご回答よろしくお願い致します!

Aベストアンサー

あまり聞いたことのない言葉や内容が出てきますので、参考資料をつけることとしたいと思います。書籍のコピーは著作権の問題があるので、ウィキペディアが中心となりますがご容赦ください。

江戸時代と戦国時代は同じようでまるで違うということです。まず、最初に戦国時代の知行ですが、石高制ではなく、貫高(かんだか)制がほとんどであったことです。1貫を2石(他の考え方もあります)に換算する方法もあるので、それに従うと300石は150貫になります。
石高制について。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6
貫高制および石高制の移行(貫高制の終焉の項目を参照してください)について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AB%E9%AB%98%E5%88%B6

次に武士の居住について、江戸時代は島津藩などの例外を除き、城下町などの藩主居館・藩庁のある場所であったのに対して、戦国時代の武士の多くは農村に住み、農業経営者でもあったことです(後期になるに従い戦国大名の力が高まると城下に集住するようになります)。

戦国時代の下層武士であった地侍について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%BE%8D
地侍より上層の土豪について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%B1%AA
より上層の国人について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA
関連項目として寄親・寄子について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E8%A6%AA%E3%83%BB%E5%AF%84%E5%AD%90

三番目に武士と主人の関係について御恩と奉公と言われますが、この内の御恩については新恩給与と本領安堵の二つがあり、本領安堵も多かったのです。地侍クラスであれば自分が耕作している土地や、支配していた土地を含めて本領安堵を受けることが多くありました。戦国大名などの主人にすれば、本領安堵することにより武士を家臣化しようとするわけです。また主人は、本領安堵によって支配の公認と、もしもの時にその土地を守っていくことになり、これが御恩になります。武士は、この見返りに軍役奉仕することになります。ですから、武士は主君の為に働く見返りに土地という給料をもらうだけではないのです。当然軍役奉仕に伴って手柄を立て、新恩給与として新規に土地を与えられることも多くありますが、この場合は占領地であることが多く、本拠地からは離れていることになります。
なお、残っている資料からは新恩給与・本領安堵ともに10貫未満のものも多くみられ、中には1貫に満たない場合もあります(一か所ではなくあちこちに知行地を持つものが多いので、一か所とは限らないのですが)。当時、1町(約1ヘクタール)当たり10石の米収があったとされ、これを貫高に換算すると5貫となります。広さとしては約100m×100m=10000m2です。現在の田圃でも1町の田はそれほど多くありません。数反(1町=10反)程度の田も多く存在します。戦国時代ではこの傾向はもっと高く、田一枚ごとの知行宛行(あてがい)もあったと考えられます。さらに、土佐に一領具足という制度があります。半農半兵の存在ですが、このような階層は多くの地域にあり、また農業経営の規模も、武士としての格(兵か士か、徒歩か騎乗か、単身か従者ありかなど)や規模についても各自バラバラですが、手作地の年貢免除だけで軍役奉仕の層はかなり存在しています。ですから、300石=150貫程度でも少ないとは言えません。また、100石程度から騎乗身分とみなされますので、騎乗の武士(ひとかどの武士)で、従者が数人付きます。300石となると在地領主としての土豪くらいになります。
後世の資料になりますが、旧高旧領取調帳(明治初年の近世末から明治の郷村調査表)を見ると、村(現在の大字―おおあざ―程度の広さ)の持高(年貢高)が1000石を超える村は少なく、だいたい数百石規模です。

一領具足
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%A0%98%E5%85%B7%E8%B6%B3
騎乗身分(士分)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%88%86
旧高旧領取調帳データベース(調べられます)
http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param

長くなりますが次に続きます。

あまり聞いたことのない言葉や内容が出てきますので、参考資料をつけることとしたいと思います。書籍のコピーは著作権の問題があるので、ウィキペディアが中心となりますがご容赦ください。

江戸時代と戦国時代は同じようでまるで違うということです。まず、最初に戦国時代の知行ですが、石高制ではなく、貫高(かんだか)制がほとんどであったことです。1貫を2石(他の考え方もあります)に換算する方法もあるので、それに従うと300石は150貫になります。
石高制について。
http://ja.wikipedia.org/wik...続きを読む

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
...続きを読む

Q豊臣秀吉が貫高制を廃して石高制に統一した理由

 信長は両者を併用していましたが、それは何故でしょうか?
 秀吉が石高制を採用したのは、貫高制より優位性があったからでしょうが、つまりそれは何なのか、端的具体的に教えていただきたいのです。

Aベストアンサー

貫高制は土地から得られる収益を銭に換算し金納させる制度ですが銭そのものの普及率が低く、絶対量が不足しており実際には米納と併用でした。

領主が家臣に課す軍役や負担は貫高によって決められていました。
貨幣の品質、数量もまちまちなので基準も同一に成りにくかったのです。

秀吉は太閤検地を全国規模で同一の基準で行いましたから全国の収益を把握出来たのです。  貨幣の供給量の不足は改善されなかったので米納に切り替え軍役の負担も石高によると定めたのが石高制です。

Q戦国大名の国力(石高)について

江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。
戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q懲役刑と禁固刑の違い

ニュースで良く耳にする「懲役」と「禁固」とはどう違うのでしょうか?
禁固刑はずっと牢屋に閉じ込められて一切外には出れないのでしょうか?
この犯罪は懲役刑、この犯罪は禁固刑と犯罪によって決まるのですか?
わたしなら、牢屋に閉じ込められるくらいなら禁固刑三ヶ月なら、ある程度自由のある懲役刑1年くらいの方がまだマシです。

独り言のような疑問なのでおヒマな方、回答おねがいします。

Aベストアンサー

処遇の内容については皆さんお答えのとおり
刑務作業(要は強制労働)の有無のちがいです。

懲役刑は軽蔑すべき犯罪を故意に行った「破廉恥犯」に課されますが
禁固刑は政治犯など、自分の政治的信念に従って「正しいこと」と信じて行動した結果が犯罪になった場合、また過失犯など「非破廉恥犯」と言われる場合に課されます。

禁固受刑者で作業をしない人は1%にも満たないそうです。ほとんどの禁固受刑者は自ら望んで刑務作業(請願作業といいます)をします。

と、大学で習いました


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング