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将軍・大名の子は側室腹が多く、正室の子が家督を相続するというケースはかなり少なかったようです。
正室は死別・離別しない限り1人しか置けず、側室は複数もてたということもあるのでしょうが、妻を1人しか持てないのは現代人も同じことです。

もう少し、正室の子が嫡子になっても良さそうなものですが、やはり大名の姫や公家のおひいさんは子を産むには体が丈夫ではなかったのでしょうか?
それとも、外戚の影響力が増すのを望まなかった家臣や奥の年寄・上臈が、意図的に正室が妊娠しないように動いていたのでしょうか。

ご意見を賜れれば幸甚です。

A 回答 (3件)

以前、私も同じ疑問を抱いて調べたことがあります。


名目上は正室や側室の子、でも本当の生母の出自はよくわからない
なんてこともけっこうあり、お手上げ状態でしたが‥
ただ、側室が多い・産んでも育たない・側室の場合は好みでも選べ
る(お手つきでお女中から側室に昇格)などが、まあ考えられるかな、
と言うことで妥協して諦めました。

>大名の姫や公家のおひいさんは子を産むには体が丈夫ではなかった

平安以降昭和までの天皇の場合、桓武・六条・光格を除く圧倒的多数
の天皇の生母は、皇后・中宮ではなくても皇族や上中級貴族のおひい
さんです。もし嫁ぎ先が大名や公家であったなら正室の身分ですから、
深窓の令嬢が子を産むには体が丈夫ではなかったとは一概には言えな
いと思います。例えば、後陽成・後水尾天皇など2代にわたって子沢
山ですが、おひいさん正室が側室に負けず劣らず沢山産んでいる例は、
他にもあります。
後陽成天皇 中和門院近衛前子 
 後水尾天皇・有栖川好仁親王・近衛信尋・一条昭良・鷹司信尚室・
 二条康道室など10人以上の生母
後水尾 東福門院徳川和子
 明正天皇・近衛尚嗣室・二条光平室など7人の生母

>外戚の影響力が増すのを望まなかった家臣や奥の年寄・上臈が、
>意図的に正室が妊娠しないように動いていた

というような話、歴史小説にたまに出てきますね。どうなんでしょ
うか。
上記の後水尾天皇なんか、東福門院徳川和子が入内し、長女明正天
皇が生まれるのが天皇27歳の時ですが、40人近く皇子女がいる
のに、27歳まで他の側室からは2人(公式には1人)だけしか皇子
女がいなかったということでおかしいということで、話のネタにな
っていますね。
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この回答へのお礼

>側室の場合は好みでも選べる
自分で相手を選べない正室の場合と違って、寝所に呼ぶ回数の違いとか、やる気の差があったのかもしれないですね。

おひいさんだからといって、特に町の娘に身体的な丈夫さで負けていたというほどでもなかったのでしょうか。

やはり自分で選んだ訳じゃない正室と、自分で選んだ側室とでは意欲も違ったのでしょうか・・・

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/31 23:32

 たとえば水戸徳川家は幕末までの藩主が11人、そのうち正室の子が3人で、名前の残っている分だけでも藩主一人当り平均3、4人の側妾がいたことを考えると、それほど少ないという感じは受けません。


 正室の子が藩主になることの少ない理由には、側室の数の多さのほかにもいくつか理由が考えられます。たとえば当時の大名は幼年期に結婚が決まることが多かったため、正室が早世してしまうと、実質的に子供をつくれる期間がごく短くなってしまいます。また側室は正室を補う意味でおかれるものですから、つねに若い女の人であり、妊娠しやすいということも考えられます。正室は基本的に江戸から離れることができませんが、側室ならば国許にも置くことができるのも大きく影響しているでしょう。
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この回答へのお礼

早世している正室も多いみたいですね。かといって皆が継室を娶った訳でもなかったのでしょうね。

側室が常に若い女性というのは大きそうですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/31 23:25

こんにちは。


今でも男の子はよく熱を出しますよね。
一般的に女の子の方が丈夫です。

昔は男の子を成人させるのは非常に大変な事で、生まれる数自体は現在もそうですが、男の子の方が多いのに、成人前に沢山死んでいました。

士農工商どの階級でも男の子を立派に成人させた母親は大変な名誉だったようで、数人の男の子を成人させたら武士階級から乳母に抜擢されるような事さえあったようです。

医学が今のように普及してない時代、男の子を育てるにはやはりそれなりの経験と知識、体力なども要だったと思われますので、お姫様育ちや公家育ちでは技能的に難しい事もかなりあったのではないでしょうか。

また、正室では、側室とは違って特に大名では主の留守など男張りに働く必要があったと思いますので、ストレスなどから妊娠にも不利だった可能性があります。
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この回答へのお礼

当時は数人の子を成人させたら乳母に抜擢されるようなこともあったのですね。

正室は藩主が国許にいる間、江戸屋敷の差配なども大変だったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/31 23:24

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