プロが教えるわが家の防犯対策術!

唐突ですが、現在の国語科が抱える最も大きな教育課題は何だとお考えですか?できれば、現場の先生のお話を伺いたいと思って質問しました。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

丁寧な返信、お礼ありがとうございます。


私のツボにはまった質問だったので、くだくだと書いてしまいました。

とても、散文的に書きなぐってしまって恥ずかしいかぎりですが、私が書いたことの背景には、

「大人は、子供を子供扱いするのはやめよう」
の一言につきます。

たとえ、子供の理解力がないからと言って、社会の現実を教えないのはよくない。
そういう小ざかしい嘘が大人をもだめにしている。
そういうことです。
大人の社会が理想とは遠いものなのに、理想しか教えない。
そういうことが、社会主義という理想が挫折した今日、とても旧態然として思えるのです。

大人のいいところも悪いところも、みんなこどもに見せる。
そのことがこどもに対する誠実だとわたしは思うのです。
たしかに、性の問題など、小学生が知らなくてもよいことはあります。でも、大概のことは、大人が真剣に子供に教えればよいのです。

すべての大人が子供と対等に接する。そのことはほとんどの子供が願っていることのはずです。

>興味深いご指摘、どうもありがとうございます!原稿を書くことを生業となさって>いる方の目には、国語教育(今回は主に表現教育でしょうか)はこのように映って>いるのか、と新鮮な気持ちで読まさせていただきました。その中で、いくつか気に>なったことと感想を書きます。
 
著述業などではなく、企画書やナレーション原稿などを書いているものですので、たいしたことはしておりません。
(^^;)

「1.大人の現実と乖離した表記法を行っている」について

>。」←なんていうのは、大人は絶対に使わない。
これはどういうことですか?会話文の最後に句点を付けないということですか?

句点と話カッコをおなじマスに書くことはありません。
出版界では、二重に記号をつけるのはおかしいといっています。
私は、文芸春秋にかかれている日本語を標準的な日本語だと思っています。

>>読点やスペースの使い方も独特です。
>何年生の教科書でしょうか?
>基本的に、低学年の教科書は、発達段階を考慮して、文節ごとにスペースを入れて>いる教科書会社が多いようです。読点も同じ感覚で使われていると考えられるの
>で、小学校低学年の教科書は、大人社会の使い方と比べないほうがいいと思いま
>す。ただし、そのような配慮はいらないという考え方をお持ちでしたら、教育界に>はない新しい発想なので、ぜひ詳しく教えて下さい!

主語と述語の関係は例文で教えるべきではないでしょうか。

私は同じ職場で、日本語なのにスペースを使う女性を見たことがあります。
これなどは弊害のひとつといえないのでしょうか。
実社会とは違う掟をこどもに強要することがいいのかどうか。
わたしは、実学をもって尊し。
と考えます。

「2.作文の紋切り型」について

>>そもそも、思ったことを書いているのが文章なのですから、
>>その文章の中で「思いました」と書くのは、重複。
>>まだろっこしい文章にしかなりません。
> 「思いました」ということばは、とても便利なことばですよね。自信がないとき>などは最適です。しかし、小学校でこの「思いました」を教えるのは、事実と感
>想・考えを区別するということが一つの学習課題となっているということが考えら>れます。 
]
そうですね。
事実と考えを区別するということが学習課題となっているのだとしたら、よいことなのかもしれませんね。

しかし、自分が思うということは至極あたりまえのことです。
知合いのいとこのドイツ人の中学生が日本に来たとき、知合いはその女の子に折角日本に来たのだから、東京の感想文をかきたらといって、指導したそうです。
すると、その女の子は、東京タワーからの風景などを文章にしたそうですが、そこで彼女が何を思ったかは書かなかったそうです。というのは、ドイツの授業ではそういうことを作文で書くことをならわないからだそうです。
その話を聞いたとき、私は「ドイツの実学は筋金入りだ」と感嘆したわけですが、それは極端な例だとしても、「思う」という人間存在の根幹なことを、使い放題に使ってよいのでかと疑問に思えてなりません。

また、実社会に出たとき、「…と思いました」という文章を書くことがためらわれるということであれば、そこに学校での教育との乖離があるのは事実だと思います。
子供は子供らしく、無垢でいい。という主義であればそれでいいのかもしれませんが、私はそういう嘘(実社会で使えないという意味)を教える先生を尊敬はできません。…事実、私は小学生低学年のテコの授業で、テコを使うと力が大きくなると教えられました。勿論、エネルギー保存の法則がありますから、力は大きくなんかならないことを中学生になってようやく教えられるわけです。中学生になって本当のことを教えられた私は、だまされたと、とても悔しい思いをしたのを今でも痛恨事として覚えています。

>「きれい」という形容詞についての具体例についてですが、これは大人と子どもの>認識の違いをよく表わしているように思います。子どもは大人のように、すらすら>文章を書くことはできません。経験が圧倒的に不足しているからです。そのため、>まず思ったこと、感じたことをそのまま文字として残す、という表現形式をとって>きているのです(これは日本の作文教育の特徴で、現在世界各国の教育で認めら
>れ、研究されているものです)。そのような過程を経て、「チューリップの黄色い>花が咲いている」という文に自分の気持ちを込めるという表現ができるようにな
>る、そして、読み手としても、筆者の含意に気がつくことができるようになる、と>考えます。

反論のための反論になってしまうのかもしれないので、話半分で読まれてけっこうです。
言葉とは所詮、集団における共同幻想です。
つまり、私が「きれい」と思う内容と、他人が「きれい」と思う内容は違うかもしれない。あっているかもしれない。それは誰にも確認することができない。
このあたりは、一昔はやった記号論的な話になります。
だとするならば、なぜ、そのチューリップの感動を紋切り型の「きれい」という形容詞で限定してしまうのか。そこにこそ紋切り型の表現の根っ子があると思うのです。
すべての言葉には発する人、書いた人の気持ちがこめられている。
わたしは、安直に「きれい」と記してしまう、その安直さが耐えられないのです。

>作文が文芸だとするなら、
>目の前の花をみたときに、
>きれいという手垢のついた紋切り型の文章表現ですましてよいのだろうか…。
>そのことが、作文というものから楽しみをなくしてしまっている。
文芸ということばをどのように使っているのかがはっきりしないので的外れなことをいうかもしれませんが、もし、芸術や文学という意味でしたら、小学校で行う作文は、決して文芸ではないと思います。表現教育は、文筆家を育成することが目的ではないからです。

どういう意味で文筆家とおっしゃっているのかわかりませんが、文章とは、人に向けて書くものです。日記にしても、将来の自分にむけて書くものです。
だとするならば、深みのある文章、美しい文章を書くことは当然です。
もし、誰かに自分の書いた文章を読ませて相手を喜ばせたいと思うのならば…。
紋切り型の表現は、テストの採点者の作業を軽快にすることはあっても…。
と、思うのですが。

>でも、娘は文の最後に「思います」と付けるように学校で教育されているので、私には従いません。
 これは、国語を教えている先生に問題がありそうですね・・・事実と意見等を
わけて書くということを目的に、「思います」を教えているわけではないのか、子どもたちに教えたいことがうまく伝わっていないのか・・?
先生じゃなくてお父さんがいうことだから聞かない、となると、お父さんとしてはちょっと寂しいですよね・・・
 私自身、ことばに対するこだわりというものがあまりなかったのですが、これからは自分の表現に、もっと責任と緊張をもたなければと気がひきしまりました。

学校というのは、こどもにとって社会そのものです。
父親というのは、家庭という単なるローカル。
そのことを学校関係者は知るべきです。
たとえそれが子供の錯覚だとしても、素直な子供は学校が社会だと信じてしまう。
話はとびますが、私は、池田小の刺殺犯は、小学校で競争はよくないと教えられ安穏とすごし、中学3年で突然、世の中は競争だと宣告されたが勉強しても追いつかない、そして、高校受験に失敗。否応もなく、人生の落伍者と自分を感じ、いつしか、学校を社会を恨んだのだと考えます。
犯人は、自分の両親ではなく、何故無差別殺人に走ったのか、それは、彼の恨みが社会や学校に向けられていたからです。

…脱線、失礼しました。
でも、言いたかったのは、
刺殺犯に恨みをかったのは教員。なのに殺されたのは子供達だけ。
そのことが辛いし、そのことに反省せず、保身のために防犯訓練をする教員たちのニュースに呆れるばかり…。
(*_*)

3.日本語としての美しさ。

>>大人が社会に出て文章をかくと、文末に「…ます」ばっかりつづくとおかしい。とか思いますが、教科書ではそうではない。

>表現が不自然だと思われたら、教科書会社に苦情を出せば、次回の改定から表現が>変わるかもしれません。親のそうした意見は、親の側からもっとオープンにしてい>ったらどうでしょうか?

そういう作業は私はあまり好きではありません。
私は、「自分の娘に人の欠点を指摘するような仕事や人を助けるような職業につくな。人がお前の生き方や作品を見て明日も生きていこうと勇気付けられるよう職業につけ」と、繰り返し唱えています。
悲惨な現状を変えるには、現状を繕ったり、否定するのではなく、明確な指標や希望を提示する。そのようにして世の中が変わっていくと素晴らしいのだと思います。


>また、日本語の特徴は、主語の省略なのですが、そのことを日本語の欠点ととらえているのか、
>主語を省略していない文章をよく見かけます。
小学校低学年の教科書であるのなら、発達段階を考慮してのことかもしれません。

そうかもしれませんね。
ただ、目標は高く。
小学生の能力におもねるだけでは、教育にはならないと思う。
教える側の軸足が揺らいでいるから、だめなのだと思う。

たとえば、児童合唱団の指揮者がいるとします。
下手な指揮者は、子供達のテンポに自分の棒をあわせてしまいます。
上手い指揮者は、自分のテンポにこどもたちをあわせようとします。
あなたがおっしゃる理由は、下手な指揮者の例と思えてなりません。

>日本語が英語文法をついづいする。
>実は、英語のほうも、日本語をついづいしているのに…。
>日本人も、もっと中華思想をもっていいのだと思うのだが…。

この部分がよくわからなかったのですが・・・
英語圏の人に日本語を教えるのなら、日本語が英語文法を追随するのは当たり前のような気もするのですが・・・

私が社会に出たときに書いていた文章は、まるで英文解釈のときの訳文のようなものでした。英文解釈などではreferをよく使ったので、「言及する」とか、恥ずかしげもなく使っていたものです。
国語を教える人や、論理的にものごとを考えようとする人の中に、英語の構造が論理的ですばらしいと勘違いしている人が多いように思えるのです。
翻訳小説のようなオリジナルな日本語に出会うこと。そういうことがよくありませんか?
わたしはそういうことの芽を国語の教科書の文章に感じたのです。(邪推かもしれませんが…)

>本当に美しい日本語に触れること。
>そして、美しい日本語を書くこと。
>そのことが一番重要だと思います。

私は、どうしても上の類の表現が気になります。
個人的にこれは美しい日本語なので好きです、のように使うのはかまわないのですが、
美しい日本語が万人共通であるように使われると、拒否反応を起こしてしまいます。「正しい日本語」もそうですが、「美しい日本語」とは何ですか?本当にそんなものが存在するのですか?「美しい日本語」と「美しくない日本語」の基準はなんでしょう?

文章における美にも多様性がある。
と、言及していたはずですが…。

つまり、
ルネサンス絵画における美と、
マニエリスム絵画における美、
印象派における美、
フォービズムにおける美はそれぞれ違うということを
限定したあとの議論のはず。

つまり、「美しい」とは主観的な言葉なので、「正しい」というような主体を自己の外に置くような卑怯なところがない。
そういうことで使ったわけです。
その一方で絶対美という概念も存在する。
芸術が美学に含まれるように、美しいという以外いいようがない…。

私はすべての芸術家は、美を追求して作品を作り上げる。
だが、それぞれのアプローチは違う。
そういうこともある。
形容詞としての美しいは抽象的だが、美にはそれを越えたものがある。
なかなか難しい表現で失礼しました。(^^;)

>また、日常においても、紋切り型でなく、みずみずしい言葉を使うこと。それが重要だと思います。

確かに、日ごろ、ことばに対して無関心であることは反省しなくてはいけませんね・・・ことばにこだわる、ということを、国語教育の中にもっと取り入れていくことのできるような〈例えば詩のボクシングとか)工夫をしなくてはならないですね。

やってましたねぇ。たしかねじめ正一さんかなんかが音頭をとっていましたか。
ただ、文芸春秋のやっている文章の甲子園は最悪です。

>美しい文章とは何か。そのことをそれぞれが考えるべきだと思います。

そうですね。もっといろいろな種類の文に触れて、自分はどのような文章が好きなのか、ということを考えるような、それぞれの文章を自分の中で価値付けられるような場が必要ですね。

そうなんです。
大人の側が自分が好きな文章があれば、それはその大人の名において、子供に押しつければいい。
いまの大人は子供に自分の価値観を押しつける自信もない。
大丈夫、大人の押しつける価値観なんて、おかしなものだったりしたら子供はちゃんと反発するのですから。

spontaさんのおっしゃることは、現在表現教育の問題点として改善していこうとさまざまな試みがなされていると思います。先に述べた、生活文的文章の書きかたから、論文的な文章の書きかた、実用的な文章、書類の書きかたなどの表現教育が行われるべきだったのが、中学校、高校と文章を書くということの教育がおろそかであったため、時と場合によって文章を書き分けるという能力を伸ばすことができないという現状は、ほとんど今も変わっていませんが・・・

文章を書くことの前に、いかに自分を表現すべきかということを習得すべきです。
でも、その前に自分とはいかなるものかという命題を解決することが求められます。
しかし、そのことは一生かかっても分からないものですよね。

私は、「ゆとり」や「新学習指導要領」などについていろいろと回答しておりますが、発言の根っ子にあるものは、「独立した個」を育てる。尊重する。
ということです。
「独立した個」があれば、民主主義は健全にすすみ、サラリーマンがリストラされることはなく、ベンチャー企業がわんさかでき、お役所が活性化する。
日本の教育が「やさしい組織人」を育てるのではなく「独立した個」を育てる。
そのためには、まず、教育する側(大人)が「独立した個」にならないといけないわけです。

国語教育における課題もまさにそこにあると思います。
「らぬき」とか枝葉末節を気にかける前に、もっと根っ子の部分を考え直そう。
要はそういうことなんです。
教科書だって、もっとイビツでゴツゴツしたもんだっていい。
そうすればもっと魅力的になるはずです。

ということで、ながながとなってしまい失礼いたしました。
また、途中から、引用を示す不等号がぐちゃぐちゃになってしまいました。
ごめんなさい。

反論めいて書いてしまって、ご立腹されるかもしれません。
あわせてお詫び申し上げます。

追記:
ところで、こんなこと、何でしりたいんですか…。
質問の最初の「唐突ですが」の一言に笑ってしまいましたので…。
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一応現場のものですが、国語科を専攻してきたわけではないので、単なる感想であります。



国語の力の向上は、あらゆる面に影響します。

私としては、(大変個人的なとらえで恐縮ですが)
1.意思疎通の能力向上を目指しております。
2.状況によって言葉遣いが使い分けられるようになるだけの(特に公式の場)基本を教えたい。
3.変化と不易を教師が踏まえて、守るべき日本語の形を見極めること。その上での言葉に関する感性の向上を目指します。言語操作を促します。

1について
やたらに「超」をつけたり、「むかつく」を連発したり、攻撃的で刺激的なな言葉をたくさん覚えたり。これを昨今の世情によるものと原因を求めることもできますが、私は、子どもたちの、思いを思ったとおりに相手に伝える、あらゆる国語的技能が平均的に落ちているからだと考えております。

古い言葉ですが、「虫酸が走る」とか、「ほっぺたが落ちるほど美味しい」とか。感情を伝えるためには、いろんなたとえを用いて聞き手に意思が伝わるように、言葉の文化は発達してきました。
「超超超超むかつくむかつく」とどれだけ重ねて絶叫したところで、聞き手には、「ああ、あの子は腹が立っているんだろうなあ」以上のことは伝わりません。その結果、意志の疎通は成立しなくなります。

胸の中にあるもやもやとした思いのようなものが、できるだけそのまま相手に伝われば、人の心ももう少し豊かになってくるように思います。

2、3について
言葉は常に変化していくものです。しかし、変化を意図的に仕組んでいる場合もあり、その場合、必ず「原型」があります。この原型を知っている人にとっては、言葉の遊びは楽しい。しかし、その造語が一人歩きをし始め、市民権を得る。

このスピードが、上がりすぎています。マスコミなどによって。
すると、今までの正式な場で私たちが使うべき言葉が、もうわからなくなります。どうせ言葉は変化していくのだから、いっそ公式の場の言葉も変えていけばいいじゃないか、という声も聞こえてきそうですが、そんなとんでもない言葉で、日本語を変化させてもよいとは思えません。

変えてはいけない言葉、本来の使い方、というものは、知っておくべきだと思うのです。

言葉を使って、日本人は素晴らしい文化を数多く残してきました。それを少しでもたくさん味わい、豊かな心の持ち主にさせていきたいという切望があります。もうこれ以上、殺伐とした、人を攻撃する言葉ばかりを増やしている言語文化を増長させたくありません。

乱筆、失礼いたしました。専門外のものからの感想です。
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この回答へのお礼

 丁寧な回答をどうもありがとうございます。
 songbookさんは、小学校の先生をしてらっしゃるんでしょうか??現場の方からも、ことば自体への危機感が回答として返ってくるということは、それだけ多くの人たちが、子どもたちの使う日本語、マスコミの使う日本語に対して違和感を持っているということなんでしょうね。
 そのようなことば自体を教えることも大事ですが、国語という教科で行われなければならないことは、もう少し先まで見据えたものでなければならないと私は考えています。ことばからどんな感情が引き出されるのか、想像されるのかということとともに、どのような述べ方がされているのか、単語、単文レベルではなく、段落として、文章全体として、どのような構造があって、その構造と内容は妥当であるのか、という批評、批判的な読みやそれを自分の表現活動に反映させるということが必要です。ことばと中身の両方にこだわる授業をどう組み立てていくのかが、課題の中心となってくるのでしょうか。
 みなさんのおかげで色々な考え方を聞くことができました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/07/09 21:27

小学2年生の娘を持つ40代の父親です。


課題というのは分かりませんが、問題は娘が使っている教科書や、先生のつくったプリントで分かります。

問題を羅列すると…。

1.大人の現実と乖離した表記法を行っている。

。」←なんていうのは、大人は絶対に使わない。

読点やスペースの使い方も独特です。


2.作文の紋切り型。

~と思いました。
とか、
~感動した。
という形で作文を終わらせたがりますが、そういう表現は紋切り型です。
そもそも、思ったことを書いているのが文章なのですから、その文章の中で「思いました」と書くのは、重複。まだろっこしい文章にしかなりません。

このことは、多分心理主義的な意図が働いてのことかもしれません。

たとえば、小学生が書くような文章では、
「お花がきれいだ」
は気持ちが伝わってくるけど、
「チューリップの黄色い花が咲いている」
というのは、味気ないと思われるのだと思う。
しかし、大人になると、「きれい」などという形容詞的な表現は主観だから、避けられる。小説を書くようになると、形容詞を使うということが禁じ手にさえなる。
小学校の国語の授業で、芸術を持ち出すのは早すぎるのかもしれないが、
芸術では、きれいという気持ちを、きれいという言葉で表現するのではだめ。
作文が文芸だとするなら、
目の前の花をみたときに、きれいという手垢のついた紋切り型の文章表現ですましてよいのだろうか…。
そのことが、作文というものから楽しみをなくしてしまっている。

私の娘は、今年の年賀状に、
「昨年は一輪車ができるようになりました。今年は、逆上がりができるようになりたいと思います」
と、書きました。
私は、最後の「思います」は蛇足だからいらない。と、指導しました。
その意図の裏には、言葉の歯切れのよさのほかに、逆上がりをやりとげる意志の弱さを感じたからです。
でも、娘は文の最後に「思います」と付けるように学校で教育されているので、私には従いません。

世の中には、「…させていただく」などという言葉を連発するタレントがたくさんいます。それらは、誤用とまではいいませんが、使用する人の日本語を発するときの気概のなさを印象づけます。


3.日本語としての美しさ。

大人が社会に出て文章をかくと、文末に「…ます」ばっかりつづくとおかしい。とか思いますが、教科書ではそうではない。
また、日本語の特徴は、主語の省略なのですが、そのことを日本語の欠点ととらえているのか、主語を省略していない文章をよく見かけます。
この他、体言止めの連発などもあったかと…。
(これらは、理系の文章だったと思いますが、確認していません)

日本語では、
私は男です。

男です。

使うことができますが、
英語では、
I am a man.
はありですが、
a man.
では文章になりません。

ですから、外国人に日本語の主語の省略について教えるときに
私は男です。
という文を英訳するときに、
I talk about me, I am a men.
だかなんだかと教えるそうです。
これだったら、
私は、
を省略しても、英語訳が残りますからね。

日本語が英語文法をついづいする。
実は、英語のほうも、日本語をついづいしているのに…。
日本人も、もっと中華思想をもっていいのだと思うのだが…。



本当に美しい日本語に触れること。
そして、美しい日本語を書くこと。
そのことが一番重要だと思います。
それは、言葉というものが、それぞれの個が外界と接する唯一の手段だからです。

また、日常においても、紋切り型でなく、みずみずしい言葉を使うこと。それが重要だと思います。

具体的に悪い例を言うと、
ある日のニュース番組
「○○ゲレンデでは、多くのスキーヤーが思い思いのシュプールを描いていました」←そんなことスキーヤーにきいたんかい。っていう感じ。

わが校長先生のPTA向けのプリント
「時下ますますご盛栄のことと…」←おいおい、サラリーマンの相手の挨拶か。
それそれ俺がご盛栄って確かめたのかい。って思う。

まさに、噴飯です。

美しい文章とは何か。そのことをそれぞれが考えるべきだと思います。

世の中に認知されている文章でも、私には新聞の文章や、美術展のカタログに学芸員が書いているような文章が許せません。
ぶっきらぼうな新聞の文を簡潔といって尊ぶ意識、一文が長く難解を持ってよしとするような論文の世界。
そういう衒学的な世界は世の中から抹殺したいものです。

文章における美も多様性がある。
…ですが、

ひとつの文は短く、簡潔に。
抽象的な表現はさけ、具体的に。
感情表現は、「秘すれば花」。
文章には進行感をもたせよう。

それらは、私が社会に出てから、学校教育と大人の世界の大いなる乖離に目覚め、そして、過去に教えられたことを抹殺していく歴史の中から体得したものです。

そういう確信にいたったのは、学校を卒業してから、10余年かかってしまいました。わが娘には、同じ轍は踏ませたくない。



国語とは、言葉を発すること。何故言葉を発するのか。
それは、人に自分をわかって欲しいから。
じゃ、自分って何なの。
それは、他の人と違う、わたしだけの自分・個性よ。
だとしたら、紋切り型の表現はできない。
それが結論。
もんだいは「らぬき」なとという末節の話ではないと思います。

相手に分かって欲しいという「切実な思い」。
相手に、短時間に、明確に分かって欲しいという「やさしい思い」。
相手を楽しませたいという「サービス精神」。
相手を傷つけたくないという同じ時代を生きていることへの「感謝の思い」。
それらの、思い。ムーブメント(動機)が国語教育の底に、それさえあれば何にも問題はない。

…と、思います。←(と、ここまで書いておきながら蛇足ですね)
(^^;)



追記:
…ということで、国語教育にどっぷりはまっている現場の先生には、私のような感想はないでしょうね。
だって、国語の教科書を見て、吐き気が起きない。自己矛盾に苦しくならない。そういう人達なのですから…。

ということで、暴論を吐いてしまいました。ご気分を害されるかたがいらっしゃいましたら、阿呆物のたわ言と無視していただければ幸いです。
でも、これが小学校2年生の娘を持つ、原稿を書くことで飯をくっている人間の素直な意見です。

この回答への補足

 興味深いご指摘、どうもありがとうございます!原稿を書くことを生業となさっている方の目には、国語教育(今回は主に表現教育でしょうか)はこのように映っているのか、と新鮮な気持ちで読まさせていただきました。その中で、いくつか気になったことと感想を書きます。
 
「1.大人の現実と乖離した表記法を行っている」について

>。」←なんていうのは、大人は絶対に使わない。
これはどういうことですか?会話文の最後に句点を付けないということですか?

>読点やスペースの使い方も独特です。
何年生の教科書でしょうか?
基本的に、低学年の教科書は、発達段階を考慮して、文節ごとにスペースを入れている教科書会社が多いようです。読点も同じ感覚で使われていると考えられるので、小学校低学年の教科書は、大人社会の使い方と比べないほうがいいと思います。ただし、そのような配慮はいらないという考え方をお持ちでしたら、教育界にはない新しい発想なので、ぜひ詳しく教えて下さい!

「2.作文の紋切り型」について

>そもそも、思ったことを書いているのが文章なのですから、
>その文章の中で「思いました」と書くのは、重複。
>まだろっこしい文章にしかなりません。
 「思いました」ということばは、とても便利なことばですよね。自信がないときなどは最適です。しかし、小学校でこの「思いました」を教えるのは、事実と感想・考えを区別するということが一つの学習課題となっているということが考えられます。 
 「きれい」という形容詞についての具体例についてですが、これは大人と子どもの認識の違いをよく表わしているように思います。子どもは大人のように、すらすら文章を書くことはできません。経験が圧倒的に不足しているからです。そのため、まず思ったこと、感じたことをそのまま文字として残す、という表現形式をとってきているのです(これは日本の作文教育の特徴で、現在世界各国の教育で認められ、研究されているものです)。そのような過程を経て、「チューリップの黄色い花が咲いている」という文に自分の気持ちを込めるという表現ができるようになる、そして、読み手としても、筆者の含意に気がつくことができるようになる、と考えます。

>作文が文芸だとするなら、
>目の前の花をみたときに、
>きれいという手垢のついた紋切り型の文章表現ですましてよいのだろうか…。
>そのことが、作文というものから楽しみをなくしてしまっている。
文芸ということばをどのように使っているのかがはっきりしないので的外れなことをいうかもしれませんが、もし、芸術や文学という意味でしたら、小学校で行う作文は、決して文芸ではないと思います。表現教育は、文筆家を育成することが目的ではないからです。

>私は、最後の「思います」は蛇足だからいらない。と、指導しました。
>その意図の裏には、言葉の歯切れのよさのほかに、
>逆上がりをやりとげる意志の弱さを感じたからです。
これは、もっともですね。私もこのような使用法で「思います」をよく使っているので耳が痛いです・・・

>でも、娘は文の最後に「思います」と付けるように学校で教育されているので、私には従いません。
 これは、国語を教えている先生に問題がありそうですね・・・事実と意見等を
わけて書くということを目的に、「思います」を教えているわけではないのか、子どもたちに教えたいことがうまく伝わっていないのか・・?
先生じゃなくてお父さんがいうことだから聞かない、となると、お父さんとしてはちょっと寂しいですよね・・・
 私自身、ことばに対するこだわりというものがあまりなかったのですが、これからは自分の表現に、もっと責任と緊張をもたなければと気がひきしまりました。

3.日本語としての美しさ。

>大人が社会に出て文章をかくと、文末に「…ます」ばっかりつづくとおかしい。とか思いますが、教科書ではそうではない。

表現が不自然だと思われたら、教科書会社に苦情を出せば、次回の改定から表現が変わるかもしれません。親のそうした意見は、親の側からもっとオープンにしていったらどうでしょうか?

>また、日本語の特徴は、主語の省略なのですが、そのことを日本語の欠点ととらえているのか、
>主語を省略していない文章をよく見かけます。
小学校低学年の教科書であるのなら、発達段階を考慮してのことかもしれません。

>日本語が英語文法をついづいする。
>実は、英語のほうも、日本語をついづいしているのに…。
>日本人も、もっと中華思想をもっていいのだと思うのだが…。

この部分がよくわからなかったのですが・・・
英語圏の人に日本語を教えるのなら、日本語が英語文法を追随するのは当たり前のような気もするのですが・・・


>本当に美しい日本語に触れること。
>そして、美しい日本語を書くこと。
>そのことが一番重要だと思います。

私は、どうしても上の類の表現が気になります。
個人的にこれは美しい日本語なので好きです、のように使うのはかまわないのですが、
美しい日本語が万人共通であるように使われると、拒否反応を起こしてしまいます。「正しい日本語」もそうですが、「美しい日本語」とは何ですか?本当にそんなものが存在するのですか?「美しい日本語」と「美しくない日本語」の基準はなんでしょう?

>また、日常においても、紋切り型でなく、みずみずしい言葉を使うこと。それが重要だと思います。

確かに、日ごろ、ことばに対して無関心であることは反省しなくてはいけませんね・・・ことばにこだわる、ということを、国語教育の中にもっと取り入れていくことのできるような〈例えば詩のボクシングとか)工夫をしなくてはならないですね。

>美しい文章とは何か。そのことをそれぞれが考えるべきだと思います。

そうですね。もっといろいろな種類の文に触れて、自分はどのような文章が好きなのか、ということを考えるような、それぞれの文章を自分の中で価値付けられるような場が必要ですね。

>それらは、私が社会に出てから、学校教育と大人の世界の大いなる乖離に>目覚め、そして、過去に教えられたことを抹殺していく歴史の中から体得したものです。

spontaさんのおっしゃることは、現在表現教育の問題点として改善していこうとさまざまな試みがなされていると思います。先に述べた、生活文的文章の書きかたから、論文的な文章の書きかた、実用的な文章、書類の書きかたなどの表現教育が行われるべきだったのが、中学校、高校と文章を書くということの教育がおろそかであったため、時と場合によって文章を書き分けるという能力を伸ばすことができないという現状は、ほとんど今も変わっていませんが・・・

いそいで書いたため、稚拙な文章で、文章を書くことを生業としているspontaさんに読んでもらうのは恥ずかしいのですが、よければ感想をお聞かせください。

補足日時:2002/07/04 17:18
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 No1です。

私の表現が悪くて、誤解を与えたり不愉快な思いをさせてしまったのかもしれません。そうであれば、お詫びを申し上げます。

 私が言いたかった「正しい日本語」とは、文法のこともありますが、正しい表現方法というほうが適切かもしれません。例えば、話し言葉では「わたし、これ好き。」と言うことはよくありますが、これは「私は、これが(を)好きです。」が正しいと思います。これを作文にしたり文章にする場合に、話し言葉をそのまま書くのではなくて、「正しい日本語」として書くべきだと思っています。又、多くの日本語の表現方法を知らないと、英文の和訳のときに大変苦労をします。言いたいことはわかるけれども、日本語での表現が出来ない、という状況です。そのような意味で「正しい日本語」の使い方、という表現をしました。
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この回答へのお礼

 丁寧にどうもありがとうございます。別に不愉快なんて、感じてませんよ!!ただ、「正しい」ということばにひっかかったのでききなおしてみました。
 話し言葉と書き言葉の区別は、インターネット文化(特にメールやチャットでしょうか)等の影響もあってか、なかなかつきにくくなってしまっているのは事実かもしれません。書き言葉の中に、助詞を省略した文章を多用すれば、確かに読みにくいですよね。それは、会話をするという時よりも文脈、状況を読みとる情報が少ないからでしょう。このような相手への配慮まで含めた言語感覚を持つ人、気がつく人とは、日本語の、特に書き言葉の体験の豊富な人なのでしょう。従来の国語科では、一つの文章を丁寧すぎるほど繰り返し読む方法がとられてきました(今もそのうような授業が多いと思います)。そのため、子どもたちは多種多様な文章に、授業の中では出会うことができていない現状があります。そこに、問題点がありますね。
 ただし、英文を日本語でうまく表現できないということは、日本語をしらないから、というだけではないと思います。これは私の実体験なので恥ずかしいお話なのですが、単に、練習量が足りない、ということもあげられると思います。どこまで意訳して良いのか、とためらっているうちに、直訳で日本語らしくない日本語ができあがっていくのです…
 hanboさんのおかげで、状況によって表現を使い分けるという課題を改めて認識することができました。また、意見や感想がありましたら、是非お願いします。

お礼日時:2002/07/04 16:43

 現場の教師ではありませんが、私は「正しい日本語教育」だと思っています。

もちろん学生だけではなくて、全国民に言えることでしょうが、間違った日本語が氾濫していますので、せめて学校現場では「正しい日本語」を教えてもらいたいと思います。正しいい日本語が出来なければ、英訳をすることもできません。

この回答への補足

hanboさんに質問があります。「正しい日本語」とは一体何だとお考えですか?「正しい」感覚はどこからくるのでしょう?
「間違った日本語」とは、自分が使っていない、聞き覚えのない言葉について感じる違和感のことを指していらっしゃるのでしょうか。
敬語をはじめ、ら抜き言葉などを「間違った日本語」の例として挙げられるかもしれませんが、それらは言語学者の中でも揺れている表現として考えられているものが多く、その揺れの中で、淘汰されていく過程が、「間違った日本語」であるのかもしれません。それは、正しい、間違いという二者択一で判断できるものではないように思います。
変化し続けている言語の、何をどのように教えるのかという、
「基礎・基本」にかかわる問題と捉えなおしてよいでしょうか?

補足日時:2002/07/02 16:31
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