街中で見かけて「グッときた人」の思い出

ナポレオンがイタリア遠征をしオーストリア軍を撃破した結果、第一回対仏大同盟は崩壊したそうですが、
オーストリア軍の撃退と大同盟の崩壊はどんな関係があるんでしょうか?
大同盟をの中心はイギリスなのでは?

あと、ナポレオンがイタリア遠征をした理由も教えてください。

よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

大同盟が崩壊というのは、


あくまでも大同盟が大同盟でなくなったというだけで、
特に第一次の場合、対仏同盟がなくなったわけではありません。
つまりはイギリスは講和してませんが、
ロシアを除く他の国が抜けたというだけです。
ただしロシアはこの時点で軍隊を派遣しておらず
イギリスも大陸から軍隊をほとんど引き上げていたので
戦争は小休止となり、ここに後世の歴史家が
第一次対仏同盟の終わりをここにおいているわけです。
この大同盟の時期の分け方は、いろいろな方法があって
必ずしも絶対的なものではありません。
便宜上わけただけでであるということは理解する必要があります。

第一次の場合、1792年から革命フランスが一方的に
各国に順次、宣戦布告をしていって
1793年の国王処刑を機に、イギリスのピットが提唱して
宣戦布告を受けた国々が集まって大同盟を結成するわけですが
1794年になるとフランス軍が窮地を脱して優勢となるので、
スペインが攻め込まれてまず単独講和、
オランダは占領されて共和国になり、イギリスは地上軍を引き上げます。
1795年にはポーランド分割に関連してプロシアが単独講和で離脱し、
オーストリアと神聖ローマ帝国諸邦が戦い、イギリスが金を出すという
状況に戦争はなるのですが、ウィーンにナポレオンが近づいたことで
1797年に停戦が成立して、カンポ=フォルミオとなるわけです。
「オーストリア軍を撃退した」というのは、1796年前後の状況を反映してませんね。
ハプスブルク家領内深くに侵攻していたのはフランス軍ですから。
基本的に革命戦争に防衛的性格があったのは本の短い期間で
おおむね侵略的性格のものです。

あと大同盟の中心がどこかというのは、あまり意味が無いです。
中心的国家はもちろんイギリスですが、主に金を出していることが多く、
戦争を実際に行ったのはオーストリアが主です。
イギリスとフランスというのも伝統的なライバル国ですが、
フランスとオーストリアというのも地理的な敵対関係にあり
何百年も戦い続けてきた中ですからね。
フランス、あるいはナポレオンの戦略として、
イギリスを直接攻撃できないので、オーストリアを集中攻撃して
大同盟を崩壊させるという手と何度か使っています。
これは逆に言えば、オーストリアが同盟の鍵だったということを
意味してます。

1796年の段階で、要するにオーストリアとその他の帝国諸邦との
戦いとなったわけですから、国境を接した部分から侵攻するのは
明らかでしょう。
そこがライン地方とイタリアだったというだけです。
基本的に、フランスとオーストリアの伝統的な戦い方では
ライン方面が主戦場で、イタリア方面は常にそのサブグランドだったのですが、
これは自然国境の確保というのがフランス側の戦略目標であり
イタリアは常に交渉材料(占領した土地を交換する)でしかなかったからです。

ナポレオンは1795年に地理局(フランスの参謀局にあたる)に勤務して
戦争計画の一部原案にも関与したのですが、彼の持論は
イタリアで攻勢をとって、まずピエモンテ(サルディニア)を脱落させ、
ロンバルディア(ハプスブルク家領)を占領し、北イタリアを支配して
そこからチロルを通ってライン地方で対峙する敵軍の背後を脅かし、
決戦を強いるか、講和にもちこむかで、戦争を終結させるというものでした。
ナポレオンは学生時代からイタリアの研究をしていて、
その地形、過去の戦争の戦略の歴史に精通しており、
アルプスに囲まれ、ポー川が流れる入り組んだ地形が、
中規模の軍隊の活動に適していることを知っていたわけです。
イタリアを”柔らかい下腹”と表現したのはチャーチルですが、
彼はマールバラ公爵の子孫でナポレオン戦争にも精通していたからでたセリフであって、
まさに大同盟の弱点だったわけです。
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この回答へのお礼

詳しく分かりやすい回答をありがとうございます。

お礼日時:2007/06/24 17:12

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