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世界を自らの知のうちで統御・支配する力としての理性を有する人間主体概念の解体は、必然的に「哲学」の、さらには「学」一般の普遍性や無謬性の観念の否定を導く。

【デカルト的コギトの基礎の上に構築された諸認識や学派、その土台であるコギトの透明性や自立性が脅かされることによって無根拠化される。】

ポスト・モダンの現象を語った一説ですが、この、コギトが脅かされるということは具体的にどのようなことの結果として起こったのでしょう。

A 回答 (4件)

「『【デカルト的コギトの絶対的な無謬性の存在】を我信ず故に我有り』と我妄想す、故に我有り、と我勝手に考ふ、故に我有り、と我期待す、故に我有り…



この様にきりが無い、という事情に気付いたからなのではないでしょうか。
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先に書いた文章が(酔っていたせいもあって)くだくだしい割りにあまり内容がありませんでしたので、反省のうえ改めて簡潔に答えてみます。



ポストモダンに先行するモダン、つまり近代思想というのはいくつかの信念を明確な特徴としています。
人間という「主体」には、普遍的な理性があるという信頼(もちろん、“人間”の範囲は限定的でしたが)。
そしてその主体が透明なツールとしての言語を駆使することによって、「客体」である世界内の諸存在に隠されている本質的な意味を読み解くことができるという信念。
この意味で人間の理性は人間の進歩を保証するという確信。

…といった点でしょうか。こういう文脈のなかでコギトとは、主体としての人間の理性的側面を指し、まさにそれら信念の源泉たるものでした。

しかし、ご質問のようにこれらの枠組みに疑問を投げかける事態がいくつか複合的に現れました。
ひとつは、フロイトの登場です。彼が無意識という概念を提示したことは、近代思想にも大きなインパクトがありました。
その思想の根幹である人間の心のうちに、理性で明示的に把握できない暗黒面があることが示されたことで、主体、つまり「理性によって自らを統御する主人公」としての人間の地位が大きく揺らいだのです。

もうひとつは、ソシュールの登場でしょう。彼の登場以前、言語は透明な存在であって、理性によって自在に操れる道具のはずでした。
しかし、ソシュール言語学は、言語によらない概念が存在しないこと、つまり言語のあり方のほうが思考を根底的に規定しているものだ、ということを示したのです。
つまり、コギトの自立性への信頼は、その重要なツールである言葉の面からソシュール言語学によって崩されたことになるわけです。

同時に思想面ではニーチェが出て、ある正義を訴えることの根拠を問う姿勢を打ち出します。今まで当然と考えられていたヨーロッパの思考の枠組みそのものに疑念をはっきりと提示し、いわば絶対から相対への扉を開いたと言えるでしょう。
またヨーロッパ的、という枠組みの限定性が自覚されたのは、レヴィ=ストロースらの登場も大きかったでしょう。彼の構造的な分析によって、文化に優劣をつけるような特権的な視点が解体されてしまいました。

無論、このほかにもマルキシズム、ナチズムの社会的インパクト、科学的な知見の進展、多くの研究者や思想家などの複合的な影響があるのは当然ですが、先に挙げた人達のインパクトが主となってコギトの「透明性、自立性」を揺るがしたということは最低限言えると思います。
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ものごとの善悪や評価はある閉じた体系のなかでしかできないものです。

ものごとの根拠や意味をどこまでも問うていっても、どこかで止まらざるを得ません。本質的に、そもそもある枠組みのなかでしか物事の価値づけ、秩序づけというのはできないものだからです。
しかし、ある体系に対して常にその“外部”というのは存在するのですし、一旦外部を知った以上、自らの根拠はその外に求めざるを得ない、というのがポストモダンの立場です。いうなれば、それは閉じた体系から自由になったわけでもありますが、反面とめどない無根拠のなかに落ちこんだとも言えるわけです。

ゲーデルの不完全性定理というものがあります。ある閉じた公理体系のなかに、最低ひとつはその公理体系のなかで証明できない命題が存在する、というものです。コンピュータプログラムで言えば、プログラムは自分の根拠を自分の中に明示的に持つことができない、という意味にもなります。

ちょうどこの例を人間にあてはめることができるのではないかと思います。飽くことなく問いを重ねていった結果、自分の根拠を自分のなかに意味付けて落ちつけることができなくなった、と言う状態がポストモダンの現状だと言えるでしょう。
言うなればポストモダンとは、問いに限界があること、裏返して言えば問いというのはある限定的な枠組みの中でしかなされ得ないものである、ということに気がついてしまった、ということを意味します。

かつてはキリスト教であるとか、人間の普遍的理性への信頼であるとか、ある強力な体系が存在して、我々に揺るぎ無いものの見方の土台を提供してくれました。少なくともその中にいる限りは無矛盾である、そういう価値基準を提供してくれたわけです。しかし、いかに広大無辺に見えようと、それはある限界をもった閉じられた価値の体系なのであって、その外にでることが可能であることに気がついてしまった、というのが現状です。価値を解体し尽くした先に行き着いたところが、価値が無価値化される場所であった、というようなものです。「絶対」が崩れてエンドレスに「相対」の海でアップアップしているような状態、といえるでしょうか。

ニーチェが「ツァラテゥストラはかく語りき」の中の登場人物に「神が死んだ」という意味のことを言わせていることも、フーコーが「人間の終焉」と書いたことも、ある価値基準を提供してくれる絶対的世界観の崩壊、あるいは常にその“外”がある、ということを表明しているものです。

細かなことはおいても、結局コギトというのは人間の理性に対する信頼から成り立つものであって、真、善、美といったものごとに内在する“真理”や“本質”というものを濁りなき理性によって獲得し得るという立場にたちます。しかし文化人類学や生物学、社会学の知見が進んでみれば、人間という特権的な立場も、本質的なものがあるというよりある状況の産物でしかない、という見極めがついてしまった、ということが背景にあります。
人間というもの、ひいてはその理性というものも構造的に捉えることが可能なのであって、絶対的なものでなく、ある状況下における関係性が投影されたものでしかない、ということです。


※ どこまでのことを書けばよいかわかりませんし、結局うまく書けませんのでこの辺りにしておきます。老婆心かもしれませんが、こういう問題についてはこのようなサイトで質問するより、あまたある現代思想の解説本をたくさん読むことの方がてっとり早く、また有用である、という風に思えます
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これは現代哲学の考えで、デリダなどの考えだと思いますが、詳しく知りませんが,大体、西欧の「理性の哲学」の歴史を、二十世紀に顧みることによって、その終焉を了解したというような話です。

>世界を自らの知のうちで統御・支配する力としての理性を有する人間主体概念の解体

こういう時、これはデカルト的コギトよりも、もっと古いものを射程にしています。「理性」の優位性は、ギリシア古典哲学から始まっているのであり、理性とは「ロゴス」のことで、ロゴスにこそ、普遍性と真理性が宿るという、西欧形而上学の根源的テーゼは、間違っていたという話です。

男性優位社会における「男根」が、ロゴスの等価物・その象徴であり、西欧の思想の伝統は、「男根=ロゴス中心主義」であったのであり、デカルトは、このロゴスにおける、認識主体を、「我」であるとし、「我は思惟する存在である=コギトとしての主体」が、認識の根源において成立すると構想したのです。

しかし、古典ギリシア哲学から始まる西欧の哲学の歴史には、実は、常に、この「ロゴスにおいて明晰な認識を行う男性的主体として我」があったのであり、デカルトのコギトは、その代表的な考え方となるのです。

近代的な「男根=ロゴス主体」の構成は、デカルトのコギト的主体になるのです。

西欧の哲学は、ロゴスを基盤に、ロゴス男根的主体によって構成されて来たが、そのロゴスの普遍性や客観生や真理性は、ディレンマに陥るというか、普遍性や真理性は,元々証明されていないもので、それは、男根的ロゴス崇拝という形の「崇拝」が、根拠付けていたとするのです。

崇拝することをやめれば、ロゴスの普遍性や真理性は、根拠ないものであることは明白であるということになります。というより、二十世紀になって、ロゴス・男根が生み出した文明の破綻や矛盾が明らかになり、その根源の理由を探ると、ロゴス崇拝が間違っていたのだということになります。

二十世紀になって起こった色々な歴史的文化的事件が、ロゴス中心崇拝の間違いというか、」欠落を明らかにしたのだという考えです。

こういう話が正しいのか分かりませんが、例えば、ナチスの出現などは、ロゴス崇拝を端的に否定しているもので、ロゴスの思想のなかで、ナチスの出現の意味を論じ解明しようとしても、解決されない。何故なら、ロゴスの普遍性や無謬性を覆すものとして、ナチスの出現があったからである。

西欧の思想の歴史は、一端,根底から壊さねばならないということになります。古典ギリシアのロゴス・男根中心主義から、哲学の根源的伝統が始まっているからです。

このように哲学の歴史を壊し、解体して行く過程で、近代思想や近代世界観の元になる、ロゴス的認識主体としてのデカルトのコギト的主体も解体されざるをえなくなると言うことです。

>その土台であるコギトの透明性や自立性が脅かされることによって無根拠化される。

理性の哲学を過去に遡って解体して行けば、当然、ロゴスの普遍性・真理性の上に成立している、デカルト的コギト主体の概念も疑わしくなり、成り立たなくなって来る。

それ故、デカルトのコギトの明証性や真理性を基盤に構成された、近代思想や近代社会の制度、科学なども、明証性を失い、学として、真理性を失うというような意味のはずです。

近代化がモダニズムであり、そこでは、デカルト的コギトが前提としてあったのです。しかし、ナチスのユダヤ人虐殺なども含め、啓蒙の思想や、理性の普遍性の思想は、現実の二十世紀の歴史によって、覆ったと言わざるを得ない。

この原因を辿って行くと、古典ギリシアのロゴス・男根崇拝にまで行き着く。これを否定して行き、哲学の歴史を解体する必要があるのであり、それが二十世紀の哲学者の課題であった。

従って、この男根・ロゴス崇拝の伝統にある、デカルトのコギト的主体も、解体されるのであり、コギトを前提とした上部構造の色々な学などは、すべて、無根拠になって行く、拠り所を失ってしまうという意味だったと思います。

モダニズム・近代を解体し、西欧のロゴスの思想の歴史全体も解体しようというのが、ポスト・モダニズムだとも言えるでしょう。(もっと正確な適切な解説は別の方に譲ります)。
 
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