ショボ短歌会

1. コギトする《われ》というのは あたかも《霊我=アートマン》であった
か? という問いです。その問いの内容についての確認です。

2. すなわち デカルトみづからが その《考えるわれ》は 《非物質的な実
体(英訳ですが  an immaterial substance / incorporeal )》と書いたと言い
ます。

3. これについてさらに詳しい情報をお持ちの方がいらしたら おしえてくだ
さい。
 
4. またこれだけの情報についてでも ご見解がありましたらお寄せください。




5. ■ (デカルトは 《考えるわれ》は 非物質的なものだと書いた)~~~
 
Bruce W. Hauptli (2012):Appendices to Lecture Supplements on Des-
cartes' Meditations

http://faculty.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDesc …
 

Appendix IV. Augustine's "Cogito Argument:"

On November 14, 1640 Descartes writes to Andres Covius, a Dutch Minist-
er who brought Augustine’s argument to his attention:

  (あ) you have obliged me by bringing to my notice the passage
of Saint Augustine which bears some relation to my “I think, therefore
I am.”

   (い) Today I have been to read it at the library of this city [Lei-
den], and I do indeed find that he makes use of it to prove the cer-
tainty of our being, and then to show that there is in us a kind of
image of the Trinity, in that we exist, we know that we exist, and we
love this being and the knowledge that is in us.

   (う) On the other hand, I use it to make it known that this “ I ”
who is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that
is incorporeal. These are two very different things….  (13a *)


  * 13a : From Rene Descartes: Philosophical Essays and Correspon-
dence, ed. Roger Ariew, trans. Roger Ariew and Marjorie Grene (Indi-
anapolis: Hackett, 2002), pp. 90-91.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


6. (い)でデカルトが確認しているアウグスティヌスの議論については お手
数ですが 次の質問の趣旨説明欄をご覧ください。(粗い説明ですが)。

【Q:デカルトのコギトは アウグスティヌスからのパクリである。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11473526.html



7. 問いは (1)(2)に述べましたが 具体的に次の発言をめぐってになり
ます。

■ (う) 《考えている〈われ〉は 〔ひとつの(?)〕非物質的な実体( an
immaterial substance )である。つまり 〈形体が無い・霊的 incorporeal 〉と
いう意味合いである。》


8. なお細かいことですが 論者として挙げられているR.ソレンセンによると:

(え)(大意) デカルトは前掲の(あ)で コギトをめぐるアウグスティヌスの
関連する議論を知らなかったという態度を見せているが それは デカルトがカト
リック系イエズス会のラフレーシュ学院を出ているからには 考えられない。

( Descartes claimed that he had never heard of Augustine’s cogito. Descar-
tes’s Catholic education at La Flèche makes this unlikely.
――Roy Sorensen, A Brief History of the Paradox (Oxford: Oxford U.P., 2003),
pp. 170-171)

☆ ――のだと言います。

 
☆ 以上 実りの多い情報交換ができればさいわいに存じます。

A 回答 (8件)

アウグスティヌスもデカルトも、自我・自己あるいは真我というものに気づいた(辿り着いた)のであって、これが霊我であるとは思えません。



また、二人の違いは思考スタイル?の違いである様に思います。
アウグスティヌスは、外部からの刺激・情報を受けて、それでも変わらぬ自分があるという気付きなので受動型。
デカルトは、内側から湧き出る疑問を削ぎ落とすことに依って、現れた のが「我」であると気付いたという、能動型。削ぎ落とすための鑿、これが自己だと云えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

今回も きびしくまいりましょう。


★ アウグスティヌスもデカルトも、自我・自己あるいは真我という
ものに気づいた(辿り着いた)のであって、これが霊我であるとは思
えません。
☆ ん? いろんな要素がごっちゃになっていると思います。

① 二人に限らず基本として初めは 《わたし・おのれ》とは何か?
これをきちんと捉えたいということだったでしょう。

② アウグスティヌスは 《あやまつなら われあり》なる存在論に
たどり着いた。

③ デカルトは 自分の《考えるわたし》なる存在説が アウグステ
ィヌスの焼き直しではないか? と指摘されたとき 《いや。〈考え
る〉というふうに経験行為で表わしているがそれはそうではなく〈非
物質的な実体〉のことを自分は想定していたのだ》と答えた。

④ ならデカルトの《わたし》は すでに経験事象を超えていて《霊
我アートマン》のことだと――つまり 《ブッダター(仏性)》にほ
かならないと――なります。それ以外に解釈できません。





★ また、二人の違いは思考スタイル?の違いである様に思います。
☆ それは いま大勢に影響しないのでは? (次のような切り口だ
とは あとで分かりましたが)。



★ アウグスティヌスは、外部からの刺激・情報を受けて、それでも
変わらぬ自分があるという気付きなので受動型。
☆ 《外から入った余計なものは要らん》と 存在論としては言った
でしょう。ふつうの生活では 受動・能動両面から行動します。

◆ 精神は・・・あたかも自己から取り去られたもののように 自己
を問い求めてはならない。むしろ自己に付加したものを取り去らなく
てはならない。(三位一体論 10・8 )

☆ と言っていますので 次のご指摘は ふたりの違いにはならない
のではないか?

★ デカルトは、内側から湧き出る疑問を削ぎ落とすことに依って、
現れた のが「我」であると気付いたという、能動型。削ぎ落とすため
の鑿、これが自己だと云えるのではないでしょうか。

お礼日時:2020/02/07 12:40

ブラジェさん、他者の関心を引く解釈が尽きませんね。

coincidence of oppositions 対立するものの一致について、神学では特に、ニコラス-クザーヌス、おそらくヘーゲルは彼の神秘主義哲学を読んでいたと思いますが、神学を、神、人の間柄で考えると、彼等のような思考圏に行き着くのでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

全体としてそんなところとして捉えられるのでしょうね。

今回は 特に展開はありません。

お礼日時:2020/02/06 23:14

特殊と絶対の出会う人間という場=「我は、神を見た」人間を、絶対矛盾の自己同一性と、西田幾多郎がいったのでしょうね。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

コインキデンティア・オッポシトールム(対立物の一致)という事態が
神の目から見れば あり得るということ。この程度の《矛盾のようなこ
と》なら 何となく分かります。


ヘーゲルに言わせれば 《絶対性と相対性 あるいは 無限と有限 の
一体性》なる矛盾ですね。


西田のように:
▲ 自己同一性
☆ という表現にまで踏み込むと その《自己》とは 誰か? 何か?
と突っ込まれるでしょうね。

言わんとするところは つたわって来ますが つまりはプラトンのごと
くイデアとわが精神(理性)とが つながっていると見ているところが
あるように思われます。

(その《自己》が 神のことだとなると 例によって《ロゴスが肉と成
った》なる神〔の子〕の受肉の問題に入るかと思います)。



あるいはもっと別の――解釈としての――展開があるかも分かりません
が。

お礼日時:2020/02/06 22:30

本音言っちゃうと、イデアも模造もなく、形も肉体、あの世で設計し、も、この世限定作品として、われわれの肉体存在があるんでしょうね。

精神は脳の生理現象と呼ばれて、です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 精神は脳の生理現象と呼ばれて、です。
☆ という認識でよいと思います。問題は 《精神も たとい朽ちない
としても うつろいゆかざるを得ないもの》だということにあります。

超経験は 精神ではない・・・です。人間精神は 神ではない。


あるいはつまり:
★ この世限定作品
☆ という規定をしたなら その意味としておのづと 《この世を超え
た場またはチカラ》があるかも知れないということをふくみます。

ただし だから:
★ イデアも模造も
☆ ある・・・という断定にはならない。もぅひとつの極に振子が振ら
れるわけではない。あくまで 神の世界は人知を超えているわけです。


しかも 《超えている》というそのものは 相対存在なる人間であるわ
たしが ひょっとして知り得るかも知れない。《われは 神を見た》と。


問題は そのとき同時に《知り得ないかも知れない》という認識を持っ
ていなければならないことです。

それが 神です。


その神の似像であるということは その人間が――有限なる知性であっ
ても―― 考えられる限りの可能性を考えておくということになるので
はないでしょうか。


それによって――さまざまな神観や神学をめぐって―― きちんと交通
整理することができます。交通整理が 人間社会の秩序と安寧のために
欠かせないと思います。

お礼日時:2020/02/06 21:53

構造、仕組み、形は、二世界の両方にあり、イデア=仕組み、形、構造のオリジナルが、神界天界にあり、その模造=シュミラークルが、このわれわれのいる現象世界にある、というのが西欧の人の理解ですよ。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 構造、仕組み、形は、二世界の両方にあり、
☆ 但し書きがつくはずです。

超経験の場(ないしチカラ)については 構造も仕組みも形もみな仮りの
姿として表わしているに過ぎないわけです。

ほんとうには どんな形をしているかは言うに及ばずそもそも形があるか
どうかが 分からない。そして げんみつに言えば 形があるかどうかに
ついて 人間には分かるか分からないかが分からないとなるはずです。


★ イデア=仕組み、形、構造のオリジナルが、神界天界にあり、
☆ プラトンのイデアの場合には 精神があたかも認識しうると言ってい
るかも知れません。言いかえると イデアと人間精神とは 言わば地続き
であるのかも分かりません。

ですが 前項で触れましたように《超経験》は 人間が知り得るか知り得
ないか それが知り得ないと見るべきだと考えています。


★ その模造=シュミラークルが、このわれわれのいる現象世界にある、
というのが西欧の人の理解ですよ。
☆ つまり――それは いわゆる《神の似像(イマーゴ・デイ)》という
神観=人間観のことだと思いますが―― その《模造》であるかどうかは
人知を超えたナゾについて 人間が推理したものに過ぎないわけです。



ひとは 神の似姿である・・・かも知れません。そうでないかも知れませ
ん。

そして じつは――ひとりの個人にとっての特殊絶対性としては そうで
あるを採ってもよいし そうでないを選んでもよいわけですが(信教・良
心に自由)―― 哲学としては 《〈ひとは神の似像である〉かどうかが
分かるか分からないかが分からない》という定義ふうの規定を持つはずな
んです。

お礼日時:2020/02/06 21:28

構造は物質ではないですよ。

言い換えれば、仕組みですよね。仕組みは非物質ですよね。そう考えると、この世の仕組みに始めと終わりは有りますよね。
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この回答へのお礼

でも 《かたち》はありますよね。表象することができます。

三次元として構成されていますよね。

――ご回答をありがとうございます。


immaterial や incorporeal は 四次元世界を超えていると思われます。

やっかいな点はあるんですが。

《実体 substance 》というとき超経験のものを指す場合と そうでは
なく人間存在などの基体として 経験事物であり得る場合とがあるよう
ですので。


でも:
■  (う) ・・・These are two very different things….
☆ というとき――この These というのは―― アウグスティヌスの
言う《あやまち得る経験存在としてのわたし》と デカルト本人の言う
《〈考えるわたし〉と言いつつもそれは 非物質的な実体としての存
在》とのふたつであるはずです。

つまり それらは互いに相い異なるものだ(two very different things)
とはっきり言っています。

つまり デカルトの思っている《考えるわたし》は 経験存在のことで
はなく 霊性の問題を言っているとしか読めません。

お礼日時:2020/02/06 21:00

非物質的なわれ、とは、皆のなかに、一人一人根底にある、始まりと終わりがある楽譜であり、神作製の設計図で、その人を構成するもの、構造、ですよね。

他者に己を鳴り響かせ、また、互いに共鳴共振する者ですよね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 非物質的なわれ、とは、皆のなかに、一人一人根底にある、始まりと
終わりがある楽譜であり、
☆ immaterial ですから matter ではないわけです。matter は:
★ 始まりと終わりがある
☆ のだと思います。


incorporeal なら corps がないわけです。英語では 軍隊とかの意味か
も知れませんが 身体・物体のことであり かたちのあるものです。その
corps がないということは:
★ 神作製の設計図で、その人を構成するもの、構造、
☆ ではないと考えられます。


もっとも:
★ 神作製
☆ というところが 微妙です。でも 《図》ではないわけです。線も姿
も かたちがないのですから。


そして そのような《けっきょく霊性と呼ぶのが分かりやすいとは思うの
ですがそのような何ものか》が:
★ 他者に己を鳴り響かせ、また、互いに共鳴共振する者ですよね。
☆ というコトは――想定として――あり得るかも知れません。

お礼日時:2020/02/06 20:17

プロイセンからドイツ帝国への流れの中での


カント哲悪の伊

疲れました。
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この回答へのお礼

でも しっかりとつかんでください。

お礼日時:2020/02/06 05:17

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