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明治初期、東京日日新聞という、錦絵の新聞が刊行されていました。その445号は、東京元柳原に住居する梅村豊太郎とへるもの。という文言から始まり、会談めいたニュースを取り上げ、そんなのは、正体があるものだよ。などと紹介してあります。ここに上がっている、元柳原が足立区千住の柳原かなとも思っているのですが、インターネットでは足立区千住の柳原が元柳原だという確証が得られず、千代田区神田のあたりに位置して、元柳原という地名が出てきます。明治初期には、 (1)足立区千住は東京都いったのでしょうか?(千住は日光街道最初の宿場でしたので、或はここは東京とはいわなかったかなと存じまして。足立区の方で或は気を悪くしないで下さい。私はもっと小菅やお花茶屋、白鳥の近くの住まいですから。)  (2)明治初期の東京の元柳原はやはり千代田区神田のあたりの一ぐうということになりましょうか? どうかご存じの方のご教示をお願いします。

A 回答 (1件)

「元」柳原と言うのが良く分かりませんが、


http://www.tctv.ne.jp/members/mkim/a-myhara.html
に答があるようです。

「神田川の南側(現千代田区)にあった柳原がもとになっている。神田の柳原に対することから向柳原町となった。そして柳原の由来は、現在の万世橋から柳橋にかけての神田川南岸沿に柳が数多く植えられていたことにちなんでいる」

千住は「宿場町」です。その周辺は、明治初期には完全な「江戸郊外の農村地帯」です。

千住
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BD%8F
「日ノ出町と柳原は元々千住ではない。柳原は南葛飾郡南綾瀬村の一部であったが、荒川放水路の完成によって地理的に本村と分断された。」
現在では想像もつきませんが、「草深い田舎」と形容すべき場所だったと想像できます。

明治初期の「梅村豊太郎」なる「ジャーナリスト」が住むのなら、当時の東京の中心部である神田界隈が適当でしょう。仮に南綾瀬村に住んでいては出版社や新聞社がある神田界隈に出てくるのも一苦労で、ジャーナリストとして仕事ができません。当時は電話もFAXもなく、電車やタクシーもありません。人力車もなかったでしょうから、雨が降ればドロドロになる道をひたすら歩く程度しかありません。

この回答への補足

2.26の一年後に浅草に生を受け、虚弱で疎開しなかったので3月の空襲で今の葛飾郡南綾瀬村に居住し、柳原や日の出や通り、駅近くの学校に通って居ました。同じ陸続きの向島の、百花園の隣接するような学校とか。梅村豊太郎は報道された、ニュースの登場人物ですのでジャーナリストという読みは、できませんでした。いわゆる掲載の錦絵からもそれは長屋の職人みたいな方です。しかし今の千住柳原は当時東京とは異なる風景でしたでしょう。多分向島からも遠く、さびしい南千住や町屋で更に淋しい大川、隅田川を越えるわけですから。浅草時代からの両親(もう108,100 存命であれば)の知人のサンカのご一家は、千住のお住まいの職人でしたが、すばやい昆虫のニックネームで呼ばれていました。東京日日新聞では元柳原で、「元」柳原にはなっていませんでした。多分貴兄様のご教示通り浅草の向柳原に対照させての「元」なのでしょうね。講演の先生も、私の質問で調べてくるなどとは、約束しながら、ついに全日程を終了してしまったものでして。向柳原という地名、そして元柳原のいきさつまで勉強できてとてもありがたいです。一つ判らないと、気になっていまして。古い雰囲気がそちこちに残る、隅田川と荒川の間の地域は私にはとても嬉しい場所です。大好きです。ありがとう御座いました。

補足日時:2007/07/18 07:33
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この回答へのお礼

早速に、しっかりご判断していける、ご教示に接し、いまさらながら、貴兄様、みなさま、このサイトの設置者に感謝のことばもありません。

お礼日時:2007/07/18 07:10

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