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通常は 易しく解き明かせないということ自体、その物事の解明はまだ「易しく解き明かす」までには順序良く整理されきってはいないという事を意味していると思います。

この通常の定義の通用しないような思索展開が、 真理とか美とか善とはとか、私たちが生きてるということの不思議さとかその因果とか、あるいは存在自体の因果の謎(?)とか、ではその中での価値とはとか、意味とはとか
そういう言葉を使う私たちの言葉自体の可能性とか限界とか、 考えをどんどん深めていくにしても、なぜ哲学という思索の中では起こりえるのかが解かりません。

難しい言葉を使ったほうがより鮮明になる思索展開があったとして、その難しい言葉は、順序良く解かり易く説明できないということはありえないと思うのですが、どうなのでしょうか?

もしかしたら 考えすぎて頭のこんがらがったままの人が作った難しい言葉で(概念でもいいです。概念という言葉なら中学生でも解かる概念ですからそれはこの難しい言葉の範疇ではないですからね)、 あるいはむずかしい概念で、さらに考えようとしてきたために、歴史的にだれにも分り易いところまで整理するのが大変な世界となってしまっているのが哲学という学問の世界なのでしょうか?

A 回答 (19件中1~10件)

>幽界から霊界を確認することは出来ないのですね。


 
 通常は確認出来ません。意識の領界は現世で修行する為に類魂の能力を遮断されている状態なので、霊界まで能動的に見通す事は出来ません。
 逆に、霊界から類魂が働きかける事は出来ます。現世の意識の、修行内容の方向転換を恣意する時などに、類魂の一部(前世の一つ、守護霊)のバイブレーションを幽界レベルに落とし込んで、幽界で遊ぶ意識に、何らかの作用を及ぼすのです。
 その時、意識はえもいわれぬ高貴な、愛に満ちた光を体験するようです。

 臨死体験は幽現界という界に、幽体(霊の幽界の姿)がいる状態です。そこは幽界と現界(現世)のダブっているバイブレーション世界です。現界でありながらバイブの凝固が少し崩れて来ているような波動世界のものです。
 よく「さっき台所に居たと思ったのに、夢だったか」というような、現世と勘違いしてしまうような、超実体的現世の夢を見る事がありますが、これが幽現界です。というか、それは実際台所に居たのです。
 俗に幽霊と呼ばれるのは、この界をさまよう霊です。唯物主義の頑固さ、死んだら墓に居るもの、などという固定観念に縛られて、現世以外の世界を恣意出来ない人が長らくこの界で道草を食う事になります。何にせよ、現世に執着し過ぎている状態です。そんな霊も、いつかは飽きて次の界へ行きます。
 幽現界は現界とバイブレーションがほとんど近いので、脳にリアルな記憶として刷り込む事が出来ます。幽界を記憶するのは、脳の個人差によって、出来る範囲が違うと思われます。

 最も肝心な点は、神とは何かにあると思われます。神は何らかの人格でしょうか?違います。人格は人霊でしかありません。神(大霊)は人格を超越したものです。イエスは現世に降りた魂の中で史上最高の霊格を誇っていましたが、あくまで人霊最高峰の霊格であるに過ぎません。イエスでさえ、神ではないのです。
 では神(大霊)とは何か、それは、あらゆる界を司る自然法則のエネルギーのようなものの様です。現世では物理法則がそうである原因の様な事です。そのエネルギーは、精神的な感では愛念であります。それはあらゆる事象に平等に働きます。それでいて、思念的な何かであり、無味乾燥な単なる力ではありません。それは人智では計り知れない何かです。
 幽世的な法則でいえば、カルマの法則というのがあります。自分の恣意した行動の結果は必ず返って来るというものです。そういうもろもろの法則の全てを、全て平等に、そうで有らしめている元々の愛念、というような何かが、神(大霊)です。

 arayata333様も私も、この地球の自然が大好きです。私は幼少の頃からこれに親しみ、家庭、親類の間では動物博士と言われました。私は初代ファミコン全盛期の世代ですが、野山を駆けずり回って虫を追いかけました。私の心は今でも里山の中にあります。幽界でもクヌギのうろを覗く夢をメインに見ております。
 それも全て、大霊の愛のエネルギーがした事です。我々現世の人間が、この物理法則というお題の中で、いかに切磋琢磨し、霊格を上げてゆくか、という事です。
 arayata333様が、苦しみの幼少時代を過ごされたのは、自ら(類魂)が霊格を上げる為には、その苦しみが必要であると判断し、自らに課すよう生前に計画されたからです。
 それからというもの、arayata333様は、その後に用意された苦しみに耐えうる心を身につけられた、と言えるのです。類魂は、自らの弱点を克服する向上心を備えており、自らの弱点を現世に顕現させるのに、部分を絞って意識の領界とするのです。
 この事は、自らの望みであり、いかがわしい低級霊にそそのかされたのではありません。自らの霊界の高尚な判断によっているのです。
 最終的には、類魂は至らない影を克服し、完全な利他性を目指します。完全な利他性とは、結局大霊の質です。しかし全ての魂は大霊の一部とも言われ、大霊にとって愛は完全な利己性とも言われます。
 死期が近づくにつれ、用意された修行を全うした人は、俗に丸くなったと言われますが、それは魂の壮絶なる修行の結果獲得した、利他性の拡大によるものです。魂はその宝を手にし、いつか類魂に帰るのです。
 もっとも、そう上手く丸くなるのは普通の場合で、不真面目な意識や、悪の履行によって、これからカルマの種を蒔かねばならない遅れた者も存在しますが。それはそれで、そういう修行内容なのです。
 いけないのは、自殺と殺人であります。修行の放棄、或いは没収にあたるからです。

 ところで、現世はあらゆる界の中でもっとも暗い世界と言われております。我々は晴れた日を、何と鮮やかな世界かと思いますが、幽界上層部、霊界は、そんな次元を超越した美しさを誇るようです。

この回答への補足

この質問は NO18の方への補足文に書きました理由から締め切らせていただきます。

bigshineさんの文面は たしかに哲学の世界の方々からも避けて通りたくなる世界だろうという推測が私の中にもあります。

あなたの中にも、その予測があったから前回「この機会を失うと発言のチャンスに乏しくなると思え」だったと思いますがそのような気持ちになられたのだと思います。

特殊心理学とかからの興味は起こるかもしれなくても 今の哲学からはそのような予測もありえるところでしょう。

すでに わたし自身は、そちらの対話を重視してることは解かっていただけてることでしょう。

ですので、ここは締め切らせていただきますが、 わたしの現在の仕事は正月休みがありますので、すくなくとも その時には、今度は直接的に、「夢」についても、「霊」についても質問の筆を伸ばします。 
arayata333、是非覚えておいてください。

そちらのさらなる発言の場には おおいに期待させていただきます。

神秘主義には、わたしは詳しくは知らないのですが、普通の人はむしろ「疑って疑って疑いぬいて真を見つける」ような厳しい道で接するのが正しいあり方だと今でも仮定してですが、そのように考えています。

しかし、そちらのような「里山」の体験とか、その夢(これが、霊のバイブレーションの影響を受けているものなのかの、議論の筆をのばせないのは残念です。いつかこのへんも私流に表現してみます。)に現れた心からならば、直接「信」を持ってその光を得たとしても、おかしくは無いはずだとも思っています。

しかし、この問題を議論するのは 大変なことです。 へたに真実を明らかにすると宗教の世界と関わることですから、そのへん弱い人達の心を傷つけてしまうかもしれません。時にはなんらかにオブラートにつつみつつ、それでも真実を探ってゆくべき世界でしょう。

時間が無い中で 筆を執り続ける困難も感じます。

こちらの思索不足もあるのでしょうが、「修行」という点以外については、神の概念についても はじめてトータルに矛盾の無い考えに接しました。

ほんとうは、哲学するすべての人にその深さを知って欲しいところです。

わたしの方からはbigshineさんには、 さまざまな質問をさせていただきたいところです。

どうか またよろしくお願いいたします。

補足日時:2007/10/24 20:29
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

ここで締め切らせていただきます。

お礼日時:2007/10/24 21:03

#4#14です。



今までの私の話は、学問としての哲学、アカデミックな権威臭さのある分野にとどまっていたのですが、補足やお礼をいただいて、さらにその範囲を広げてお話した方がよろしいかと思い、再回答いたします。

>踊り一筋のつもりでありながら、踊りの世界よりも演劇とか映画のモンタージュ(効果的な画面の組み合わせで 心の世界も効果的に表現する世界)とか絵とかシナリオとか歌の世界とかのほうがより勉強になっていた世界だったのです。

そうなるのも必然……というか、ここにも「他者との対話」理論があります。
他者というのは異なるものです。異なっていて当然です。異なっているものがあるからこそ自分についてもわかってくるものなので、「異なっているから『悪い』」というような判断は下手です。ただ単にあるがままに異なっている。この異なっていることが実に興味深い。
踊りというものだけに集中して研究するより、他との関連を知って学ぶ方が得るものが多いのです。
現代思想の黎明期の突破口のひとつは「差異」に目を向けるというものであり、私はそれを強く支持しています。
異なっているものだからこそ、本当に交流でき、学ぶことができるのです。この面白さは、仲間内で群れるばかりの閉鎖的な連中にはわからないでしょう。やはり他者との対話はあった方がよい通気孔になるのです。

>とても簡単には書けませんが、もちろん、実人生こそ最大の教師でした。

歌の文句じゃないけれど、「目に映る全てのことはメッセージ」ですからね。目に映らないのは自分だけ。自分が外部の世界と接触し関わって学ぶ。それでいいんだと思います。
学問の世界は、「自分が体験しなかったことから学ぶ」ものですから、実感を伴わないことが多い。後で体験してわかるかもしれないけれども、芽が出るかわからない播種のようなものです。
arayata333さんは私に比べればよほど中身のある体験を積まれていると思います(もちろん私が20代であるということもありますが)。特に異質な経験を持つということは人生の宝物だと思います。
そういう宝物を持っているとなにより柔軟になれる。究極に行き着けばどんなことでも許せるのです。

また、異質な経験を持つことによって、「自分の持つ物差しが歪んでいる」ことに気付くことができます。
どうも多くの人間が(漠然とした言い方ですが)、自分の持つ物差しは真っ直ぐで、他の人はみな歪んでいて間違っていると思っていそうですが、そんなことはない。みんな多少歪んでいるのに気付かない。時として歪んだ常識(集団幻想)で非常識を裁いて悦に入っている。
歪んでたっていいし、それを真っ直ぐにする必要もないんです。
にも関わらず自分が真っ直ぐでありたい、正しくありたいというのは自己を正当化したがる欲望ですし、まあ幻想ですね。
それがさらにヒステリックになると「自分こそ真っ直ぐだ、自分こそ正しい」とか言い出す。

「道の道とすべきは、常の道にあらず。」
私の好む老子の言葉です。

この回答への補足

ありがとうごさいます。

実はブログを始めていまして、その内容に合わせるべく、この質問はそろそろ閉じようと思っていました。

せっかくアカデミックな哲学と 体験からの哲学との対比となるようなご回答をえて、そこから展開をしなおせば、この質問に新たなよりはっきりとしたものが見えてきそうなところなので、残念なのですが、

今の段にては、わたしのブログの方を優先させていただきます。

もし、わたしに時間があるならば、このOKウェーブの「アンサリスト」となってわたしのブログを紹介したいところですし、そこからさらに、この問題でも議論を深めることもできたところでしょう。

今は、とても時間が無い、いそがしい身にて、とても「アンサリスト」としての責任が取りかねるところ、 それははるかなる夢となってしまうところ
気持ちは その気持ちを捨てないでいることをお解かりください。

すべてを許せる 原因と結果を理解する大きな度量とか、 経験から本質を理解したものの柔軟性とかが、対話哲学の道を開くのでしょう。

アカデミックな哲学にそれがかけているのだとすれば、その因はさらにさまざまな因を類推してしまうものです。実人生での人と人のすれ違いの多くの要因も その論理性の裏側に推測もされてきます。

いちばん大きな疑問点のありかは、nabayoshさんが今回語ってくださった<中身のある体験>の<中身>のとある問題です。

「感じる」という要素が軽んじられてきたのではないか?という疑問なのですが、これなくして価値が何故論じられるのかという疑問が一番大きな疑問でもあるところ、もちろん善も思索基点を失うはずなのですが、 

パスカルの「人間は考える葦」との言葉が どんな背景があったゆえの言葉であるにせよ、これだけ有名となったからには、それがかなりアカデミックな哲学を支配してしまってきたのかもしれませんね。

時間さへとれれば、もっとみなさんのご意見をうまくまとめながら、哲学のあらたな表現の問題の問題提起を深めていけたのでしょうが、ここは、その時間もとれなかったところです。

わたしは、 OKウェーブから一度逃げ出そうとした人間です。 まさにその文面だけでは、その人その人の人生や悩みとかのほんの一端しか解からないということに気がつかされ、自分の回答の無責任な筆にがっくりきてしまったからです。  でも それは人間なんだからあたりまえだ。逃げちゃいけない。その自覚を持って対話は進めてゆくべきだ。と考え直して再び参加を始めた人間でもあるんです。

だから、わたしは何があっても まえには進んでゆくつもりです。

ですから みなさん、arayata333、arayata333、

arayata333の名前を覚えておいてください(笑)。

この場をかりて、みなさんにも、お礼を述べさせていただきます。

ありがとうごさいました。 またお話しあいましょう。

補足日時:2007/10/24 19:35
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この回答へのお礼

すみません、

上記の理由で わたしの方からの このテーマの質問は、しばし撤退します。

まさに 対話を重視してくださったご回答ありがとうございます。

すでに、N019にて、おもしろい方からの再回答を得ているので その誠意にだけ精一杯対応させていただいた後に、締め切るつもりであるわけですが、 

新たな展開でまたどこかで対話を進めてゆきましょう。

あたたかい対話の筆ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/24 20:19

 このページでANo,15の補足内の疑問などに、お答えして良いものかと思いましたが、どうもここを逃しては発言するチャンスも乏しいと思われ、長文になるかとは思われますが、お答え申し上げる事に致しました。



 夢がぼけたもの、知性に欠けるもの、という認識は、脳の記憶力の限界によるものであって、実際のそれがぼけていて、知性に欠けるのではないと思われます。
 その根拠としては、朝覚醒する時、「この夢をしっかり覚えておこう」と注意した事は、ある程度覚えておけます(私だけ?)が、注意しないならどんどんぼけていきます。それは記憶の問題であって、元々の夢は夢の記憶より鮮やかであろうと思われるのです。しっかり覚えた夢というものは、次のシーンに移行した判断の内容(知性)まで存在していたと分かります。
 ただ、夢というのは幽世の中でも、息抜きの部分ですから、遊びの考えしかありません。だから、判断の内容と言っても、他愛も無い理由しかありません。
 幽世には幽界と霊界があり、幽界という所は現世に近い世界なので、脳にある程度記憶させる事が可能な世界です。霊界という所は、脳神経のバイブレーションで、感覚パターンの再現をする事の出来ない(記憶出来ない)次元の違い過ぎる世界です。
 arayata333様は、仏教にお強そうなのでなぞらえますと、幽界とは仏教における現世の未練を断ち切れていない状態、霊界とは現世のこだわりをすっかり忘れた“成仏”或いは“悟り”の状態です。仏教では霊界に昇華するのを、非常に難しく考えていますが、通常は死後30~50年(回忌の終了)で幽界に飽きて霊界に昇華します。というのも感覚神経がないのに、現世の生活をしていても味気ないからです。お分かりでしょうか?我々が普段見る夢とは、この幽界で遊んでいる時の記憶なのです。
 我々が幽世の存在を確認出来るとすれば、脳に記憶させる事が可能な、この幽界について考えるしかないのです。その認識を背後に、私は覚醒時の記憶の再現(脳作用)が、幽界の映像体験に、遠く及ばない鈍い感覚質である事実に、最後に辿り着いたのです。五感(脳)の鈍重さ、「脳という牢獄」という言葉は、この、眼をつぶった時の思い出しが、真っ暗な鈍いものであるという事に着目して言うのです。
 ところで、霊界とは現世的欲望の無意味さにすっかり気付いて(感覚神経が無いので楽しくないということ)、すっかり利他的で哲学的になっている状態です。その世界は愛に満ち溢れております。そこは魂が永遠に住まう世界です。ただ個性は残っております。各魂は、個性を磨いて、より高級霊になる向上心を必ず備えており、現世という修行場に再生していくのです。
 ところで魂とは、あなたに今存在している意識の領界だけではありません。あなたの無意識であり、前世どもの記憶全て含めたあなたの個性の領界が、類魂という、あなたであるのです。
 あなたの無意識の奥底に愛があるのは当然です。類魂は霊界のものです。あなたの意識の領界が、現世という地獄で苦しみの修行をしているだけです。あなたの無意識の奥底から、愛、向上心、個性がわき上がって来るのは、霊界の作用なのです。
 ところで、この無意識世界(幽世)は、あなたの類魂だけのものではありません。実は、あらゆる類魂が共通の世界に存在しているのです。無意識世界(幽世)は、全魂共有なのです。死後は、脳の牢獄から離れ、自由に他魂とテレパシー出来ます。生きている間でも、奇跡的に意識の一部が脳を離れ、無意識世界(幽世)から他者の意識までリンクする事があるかも知れないのです。通常は、あなたの言うとおり、愛とか、個性とか、向上心とか、自らの類魂の中からの恣意しか伝わって来ません。
 
 どれだけサリバン先生に近づけたか分かりませんが、arayata333様がヘレンケラー程厳しい条件ではない事を考えれば、少しは世界を照らせたかとは思われますが…

この回答への補足

幽界から霊界を確認することは出来ないのですね。

わたしは、子供の頃何度も死の床を重い肺炎ではいずっていますから、逆によく言われる臨死体験は幻想的な夢だと思っています。

そんなのは、幽界以下です。

 でも死後の意識が無いと思ってるわけではありません。ただ解からないだけです。 だからあまり深くは考えていないだけです。

でも 存在の不思議さからは、 神や永遠の命や‘キリスト教的かどうかはともかくキリストのような方の言われる復活’については ふかく考えてきました。

死後に、回忌の終了のあたりまで、意識が幽界をさまようというのは、おもしろい仮説(生前の我々にとっては仮説)です。

でも、それゆえ、そこは映像だけが、いわゆる一般の夢よりはるかにリアルで知性も働きむしろ「セカンド・ライフ」よりも臨場感がありそうなそちらの解説はもっとおもしろいし、

さらに、他の感覚器官が働かないために、逆に魂が(あるいは全意識が)、存在の究極の喜びという魂の故郷に帰る!ということをにおわせる部分は、これは
単なる仮説を飛び越えた真実のメッセージ性を持ったものと受け取ることができます。

生きているならば脊髄を貫くような 存在それ自体の深い深い喜びや新鮮さ、 それが、言葉を越えた全魂共有の世界であることは当然でしょう。
それがテレパシーというのならばよく解かります。   

偏在の神の能力になるとか近づくとかいうことではないですよね。

心理学での無意識界の中にあるという集合無意識をわたしは理解できませんが、そちらの言われてることは解かる気がします。

永遠に消えることのない新鮮さとその脳から開放された意識とでは、当然、まさに「すっかり利他的で哲学的になっている状態」となるでしょうし「あいに満ち溢れて」もいるでしょう。  深く深く深くです。

でも bigshineさん、わたしにはそのメッセージが理解できても、そこにはキリストのような方の言われる復活の概念が、「そこは魂が永遠に住まう世界です。」との説明だけですと、生前の我々には理解しにくいところがあると思われませんか?

わたし自身には 前世が修行場であるという概念がよく解からないのですが、ともかくその時期が終わった暁には、霊もその時肉体をもってた人も 
神の力でかはともかく  この海のある、海の香りのある、海の音のする
海の風の吹く、雨のふり、木々や草花が育ち、そこに雪もふりつもり、あおぞらがひろがり、夕焼け雲がやがて空をおおい、一番星が見えて、静寂がおとずれ、夕餉の茶碗の音がして、味噌しるは取れたてのナスが入れられ、春の雲も夏の雲も秋の雲も、そしてりんとした冬空もある、この潤いの在る青い大地の星に、 ほんとうに魂から故郷に帰れたなら、もう一度ここにこそ復活するというメッセージでないと、  その意味合いは架空のことに思えてしまうきがするのですが、どうでしょうか?

生きているならば脊髄を貫くようなその存在の喜び

補足日時:2007/10/22 22:02
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謎を増やしてすみません。

ANo10です。

>解かりにくさがさらなる謎を生み…好奇心を刺激

総体を掴めない(手段・勝負にならない)けれど、パーツが全体をカバーする(目的・欲望そのものになる)ことが往々にあります。これは分業の合理性から来ますね、本能は危険を回避しようとするけれども、進んで接近するのが警察官や消防士、法律家屋さん。

価値観の相違とかあまりない時代では皆シンプルに過ごしていた。生きる目的は余計な辛苦をいかに怠けてやり過ごすか(右から左へ受け流す?)の価値観しかなかったと思います。価値観の相違が生まれて忙しくなり「怠けたい」欲求が生まれます。本能からでない欲望は怠ける哲学を生んだので、哲学はこうも心の辛苦を怠けるのに実用的なのですよ。好きも嫌いも中身は同じ。

単純と云われそうですが、簡単なことが難しいことより難しい。
話すこと、歩くことに成功するとそれを目的にして各部のバランスの取り方、複雑な動きや脳の神経伝達や平行処理のことは考えないように、細部の細部に拘る方がよりシンプルに向かうものかもしれませんよ。


(1)人は善人の仮面をかぶって楽していきることもできますが…知的に何かまよったことはありませんか?

善人になろうとしないで、ただ楽して生きようとするだけでもいいじゃないですか?善人になりたければ偉い苦労を偉く苦労したと宣伝しなきゃいけなくなる。苦労出来たとして、苦労したくても自分のための苦労も出来ない人のお陰でやっとこさ善人になれるものですよ。知的には経験や知識で人を見下すことは学問を手段にも目的にもしておらず、知識の冒涜と思います。

(2)確かな善であれば、むしろ模範を示すべく自慢してでも人前で輝かせるべきだとおもいますか

悪意には立派な目的が示されています。善意には見返りや固定した目的も見えてなくてそれなので立ち現れては消えるというものかもしれない。けれど善意が消えるなら同時に悪意も役に立たなくなるから善意です。

>感動したことは、人に伝えずにはいられないのが、人間の本性の根幹にあると私も思っています。
>友だちの家にまで大急ぎで「ほらほら、見て、見て、金の鶏よ、金の鶏もらっちゃった!」と伝えに走る。

親に買って貰った家や車を誇らしく自慢するのと同じ自慢物語ではないのですよね?金の鶏を「自慢目的以外の価値」ということが感動物語の主体になるべきもので、ここでは一緒に喜んでくれる仲間の存在のあり難さとか、聖書に「迷える子羊」という下りのように「群れから子羊が逸れてしまったら、羊飼いは残り羊をおいて迷った子羊を探しに行くだろう。そして見付かったなら子羊を抱えて戻り誇らしげに「こんなに嬉しいことはない、一緒に祝ってくれ!」と仲間に報告ぜずにおれないぐらい感動を迷える子羊は善人に与えてしまうのである。感動は不安や消耗した、欠落した過程とと相対的にあるということですね。

金の鶏は絶対幸福の象徴のように感じたのですが、200年前の王族よりも今の日本の庶民の方が贅沢な絶対幸福値は高くなっていて、相対的にしか幸福が感じれないものなのかもしれませんね。

西洋では野良犬のようなディオゲネスとか、日本では子供と遊んでばかりの良寛さんぐらい絶対幸福のハードルが激低な生活すると相対的幸せの感動は大きいに違いありません!

多くの哲学者は所有に何ら価値を置かない、むしろ所有を拒んでることもあります。何時か所有を自慢した自分の方が変わってしまい、物のせいにして自分から逃げる可能性まであるとすると所有は厄介という…。

arayata333さんが思う感動は黒柳徹子タイプ?

個性的なファッションで飢えた子供の元に行き親しげに話す。それが厳しい生活や飢えを共感するということなのかは疑問です。

「ありのまま」の態度は潔いいこと。負けを認め、新たな境地に向かうという姿勢が聡明故であると思います。

ライオンが狩りをしくじっても、別のオスにメスを取られても、その場から退散して最初(欲望の根源)からやり直しします。あるがままだからです。それだから感動は内に起こり新たな他者に必然として響くのではないかなと思ってますよ。

ついでに、親の世話のため去勢しようとしたり、自立しない野生は見られません。私を含め人間は本能が狂ってしまっていますが、それが「ありのまま」でない偽善とも違いますが。出来る偽善で充分です。しない善よりする偽善は楽しいですから、楽しいことは生命の役に立ちます?

親の望みは子の幸せですが、子の幸せは自分から親を想うことをなくせない限り親不幸もできません。親孝行も親不幸も実は同じ中身かもしれませんよ。


>「まごころとは?」ですが、相手が喜ぶだろうと思ってするのは欲望の一端で自己満足といえると思います。自分が楽しみたいという。

逆説ですが、優しくしたくなるのは感謝している相手を叱らなければならない場合で、「優しくする」必要が立ち現れます。自由意志からではなく不自由さから申し訳なさそうに叱る人は真心から怒ってるのと思います。

大切であればあるだけ怒ってしまうし、努力が実らなければ悲しくなりますよね。裏切られて怒ったのは勝手に信じていたからで、だったら同じく勝手に愛想尽きればいいのに、人の心まで自分の所有にしてしまい他人を嘆くのは人間らしさかもしれません。


最後に「無心」って誉め言葉ですよね?ね?(汗)…難しいのは私の文章能力の無さで、読み手に何ら責任はありません(泣)。はじめから深い意味ってなく(笑)、そのまま読んでくださればいいのですが。今日は頑張ってみましたが謎が増えないことを祈ります。ありがとうございます…申し訳ありました?

この回答への補足

あなたの文言は たしかに解かりにくいのですが、 やはり詩とか<人間らしさ>を想起させます。

昔 わたしが日雇い労働をしていた頃に出会った児童詩人を思い起こさせます。

彼は 大學の文学面の先生や、出版社には名の知れた人でもあったのですが、児童詩の世界自体がまだ世間では認められていないので、 女房や子供も出来たことだし、そろそろこの世界の追求は 諦めるべきだろうかと わたしに相談をしてきたのです。

見も知らないただの日雇い労働者のわたしを、そんな人が、<見下してはいなかった>という典型でもあると思います。

わたしたちの話し合いの内容の結論は こうです。

児童詩のような世界が認められる日はきっと来る。 それに、一生修行の人生哲学の道に その詩の世界もあるのだから。

その二点の両方ともが、 道を諦めるというのではなくて、あたらしい哲学の旅路を新たに歩き始めるという観点からなら たしかに今決断していいんじゃないか  

というものでした。

あなたの文章も同じにおいがします。あ 香りかな(笑)。 どっちでもいいですよね。

生活哲学の中には両方ともあるんですからね。

黒柳徹子さんのことはよく知りませんが、アフリカの子供たちの援助のことなら、こう思います。

まわりの子供たちが 早く死んでゆく環境の中ではあなたの考えのように、相対的な比較が起こりますから かならずしも悲惨でなかったりもしますが、
アフリカの子供たちだけでなく 多くの子供たちが 悲惨な場にては悲惨であり、

そして、今の時代には そのような子供たちにも できれば たくさんの音楽の喜びとか、たくさんの良寛さんのような大人とのふれあいとかがあるといいな ということも人の中の善意の心が視野にいれても おかしくないとおもいます。

ただ、わたしは、その可能性をボランティアの世界に求めるのではなく 地道な表現の世界に、自分の一歩一歩を探る中で求めています。

できることは できるかぎりやってゆくという姿勢です。 命をさへ懸けてです。

そうそう「金の鶏」というのは 金色の毛をしてるのが多いチャボのことなんですが、その中のとくに金色の部分が全面的なやつを始めてみた農婦が、素朴にわあ金色だ すごいと感じることで起こった感動物語のつもりでした。
農村経験の背景を抜かして書いてしまったのが失敗でしたね。

(2)についてのご回答についてですが、
もしそれが、 善と悪の無意識界にある心の奥の奥にある世界がふたたび善の世界であることを語られてるのだとすれば、 これを< 深い意味なんてなく >(笑)書いてるのだとしたら、 それは仏教でも奥底の哲学ですからまるで良寛様みたいじゃないですか。

疑った疑って疑いきって、ふたたび子供の世界にまで帰ってきた児童詩人の上をゆくような児童詩の世界さへそこには想起されてしまいます。

これで 解かりやすかったら最高ですが、ともかく<人間らしさ>を感じさせるまさに詩的な言文ですね。 そのまま読んでも 深く読み解いても同じですね。

「無心」って誉め言葉? あたりまえです。 

すごいと思います。  そしてその文は、わたしには書けない世界です。

わたしの場合 セリフも書けなくて 書くと物語とかも死んでしまいます。

詩も書けないです。 

哲学的な説明の文章能力の無さにたいしては(泣)いてください(笑)。

でも、詩は、もっと、もっと、もっと頑張って 生涯 続けてください。
いつか 無心なその道が 大勢の人のちからとなる日がこないわけはありません。

たしかに そのまま読んでもですが、ふかく感じる文言、受け取りました。

ありがとうございます。

補足日時:2007/10/21 18:22
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

<細部の細部に拘ったシンプル>・イズ・ベストな  それこそ「セリフ」の世界を欠いては、 わたしが書きたいシナリオの世界は、どんなに構成力に自信があっても何も書けませんよね。 

映画のモンタージュ(場面の組み合わせの妙)の世界にも興味があり シナリオが書けるようになりたいのに(泣)。

まさに<分業>が必要なのでしょうね。 現代の文明時代には。

あなたの文はいちいちわかりにくいんで、やっぱり読み解くのに時間とかかかってしまいますが、 最後はちゃんと良寛さんの教えとなっているようですね(笑)。

なぜ こんなにも難しい書き方しかできないのに ゆとりある愉快な文言にもなっているのか そこが唯一まだ残された謎のようです。

アリガトウございました(笑)。

お礼日時:2007/10/21 19:16

ご質問の内容は、「ヘレンケラーが“ウォーター”を発音出来た理由に、神がかり的な力は働いているのか?。

また、そのような仕組みがあるなら、子供たちにも分かりやすい哲学を編み出すのに、何らかのヒントにならないのか?」というような事でよろしいのでしょうか?

 手のひらにwaと書いて、「ウォ」と言ったって、視覚聴覚抜きでwaを「ウォ」と発音することは出来ません。触覚があるのですから、waまでは分かるのでしょけれど、「ウォ」を聞き取れないし、口の形を見れないのだからどうしようもありません。
 考えられる事は二点あります。まずは非常にあれこれ工夫する事によって、段階的に少しづつやり方を教えて行ったパターンです。例えば、口の中に手を入れて口の形を作ってやる、同時に喉を鳴らす合図を送る、成功したら抱きしめてあげる(などの快楽的合図をする)。これによって、少しづつ「う」を教え、段階的に「うお」「うぉ」としていく。「ウォーター」が完成したら、水をかけて「これがそれだ」とするのです。
 私はへレンケラーの事にそれ程詳しくはありませんが、ヘレンケラーが突然「ウォーター」と叫ぶシーンだけは何となく認識しております。次に、ヘレンケラーが突然「ウォーター」の発音に気づいた場合の事を考えます。私はそれは不可能とは考えていません。テレパシーのような事はあると思っております。それは根拠の無い信用です。ですが、言を述べる者達の、共感能力の高さ、利他的精神を見抜く力によって、真を見抜くのです。
 そういった信から発祥した考えによると、以下のような事です。我々の無意識世界は全魂共有の無限な広大さを誇るものです。それは死後の生活の場、幽世(ゆうせい、かくりよ)であります。意識は生前睡眠中にしか脳を離脱出来ませんが、死後は脳が無いので無意識世界を自由に意識の領界とすることが出来ます。全ては自分の趣向次第で、どんな精神領域にも行けるのです。世に言う地獄とは、自分で暗い心になっているだけの事です。本当の地獄は、修行の場、現世(げんせい、うつしよ)であります。
 生前の覚醒時でも、例外的に意識の一部が無意識の奥底を領界にする場合があります。それは特殊な能力ですが、強い思念があれば、普通の人でも奇跡的に自分の無意識の奥底を、意識の一部が領界とする事がある、と思われます。
 無意識の奥底には何があると思われますか?相手の無意識、さらに行けば意識があるのです。かくしてテレパシーが起こるのです。

 これらの事が子供達に分かり易い哲学のあり方のヒントになるでしょうか?。ヘレンケラーと他の子供達とは違うと思われますので、よく分かりません。
 哲学は大人が読んでも、読解力の訓練がなければ分かりません。もっと噛み砕いた述べ方を、努力して工夫する利他的精神を、もっと欲しい、その愛が欲しい。サリバン先生には、それがあった。哲学者を含めた現代人に欠けているのは、その愛かも知れません。

この回答への補足

再びのご回答ありがとうございます。

bigshineさんという名前 どこかで最近見たと思っていたのですが、「夢」についての質問をされていた方だったのですね。

回答の方の履歴書はできるだけは見るようにこころがけていることと、ネット文はことに文面でしかその裏の人生とかを探れないので ひとことひとことに注意して集中して読むようにしてはいますが、 あの「夢」の方(笑)だったとは気がつきませんでした。

bigshineさんの「夢」に関しての質問には、もう一度回答の筆で議論を深めたかったのに締め切られてしまい、気になってはいたのです。

「夢」については、昔、 続きの夢を自分で見ることも出来、自分でその中の映像をもある程度コントロールでき、したがって卑近な話ですが、したがって夢の中で自分は、さまざまな女性とさまざまなシチュエイション(場面設定)でセックスも体験できる と豪語する友とその詳しい内容にいたるまで話したことがあります。

しかし、彼の場合には、それもまた現実の世界の認識力を高めるよすがとして活用は出来るけれども、むしろ今の段では、それはたとえば実際の恋を深く体験する時の邪魔になってもいるというふうにも わたしには感じられました。(ITでの「セカンド・ライフ」の世界の功罪の考察にも繋がるものです。)

ところが、あなたの「夢」と関わる質問とその中でのメッセージは、 もしかしたら、それ以上の何かに
まだはっきりとではないかもしれなくても「夢」をとおして気がついたのかもしれないことを推理もさせる文面だったのです。

「夢」についての回答者の方々との質疑応答の中ではそのへんが結局うかびあがってこないままでしたね。 そのことが気にかかっていたのです。

こんなに早く 再びお会いできる形になれてうれしいです。

その体験が「信」として信じれる死後の世界の姿と結びついて「明るい心」の世界→「光」を見つけたということなのでしょうか。 

しかしながら、「信から発祥した考え」は 相変わらず読み解くのも理解するのもなかなか困難な世界ですね。 たとえば 肝心な点

< 無意識の奥底にはなにがあると思われますか?>という設問には わたしならば、その「奥底」には、「愛」しか見つかりません。 愛といってもいろいろな解釈ができますので簡単に規定しておけば「成熟した利他愛」としておきましょう。 無意識界は、その奥の奥にてはその「成熟した利他愛」があってそれがその全体を把握できるものとして存在している としかあとはわたしには見えないということです。

わたしの体験の世界からは、こうしてそちらの言うような意味あいでのテレパシーとかの世界を説明する手順もよすがももたないこととなってしまうのです。

私の場合は 病弱な期間が長かったせいもあり睡眠中の「夢」の体験も数多くありますが、 その中でここにて特筆すべきことは、通常は「夢」というと成熟した五感による美の世界(あるいはおいしい深いダシのきいたこころのこもった味噌汁の味とかの世界といったほうがわかりやすいかと思いますが)やそのイメージの世界ともども、かなりぼけています。 人間的な知性の面でもかなりぼけているのが普通です。

ところが、この私自身が 二回ほどですが、一回目は善と関わる深い世界を
二回目は美と関わる深い世界を見ています。 科学者の夢の中での閃きとかとは別質のものです。

ここでは詳しく説明する紙数がありませんが、 ともかくたしかにそうした「夢」の存在は、「夢」には深い地点ではたしかになんらかのまさに深い世界のメッセージ機能があることを推理させるものが在るということになるのです。
わたしはたった二つしかそういう夢は見ていないのですから、それ以上の分析とか追及とかをしてゆくには限界を感じて そこをあまり追求してはきませんでしたが、 やっぱりどうやら哲学人でもあるあなたは そのことをこそ解かりやすく この情報化時代に人に語ってゆく使命があるのではないでしょうか。

わたしは実は表現の世界については詳しいです。 できればもっともっと そのへん詳しくつっこみたいですね。 その「夢」の世界をどのようにしたら解かりやすく順を追って説明できるのか。

あなたには、 「信」の世界と「夢」の世界と「五感の質の世界」との間の謎を解くそのような「サリバン先生の使命」があるのではと思えてしまう者なのですが。

今度はbigshineさんの名前忘れないでしょう。 わたしもなにがあろうと前へは進み続けます。 bigshineさんも何らかの歩みをOKウェーブにても続けていくほんの少しの勇気をタフに持ち続けてください。

また お話しあいましょう。 ありがとうございました。

補足日時:2007/10/21 12:44
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この回答へのお礼

私は たいへん知識の乏しい(本での知識ということでしょうが)者です。

時間とお金があれば、そのへん今からでも何とかしたい気持ちにはなります。

でもいまは しかたないです。 

ヘレンケラーについても、私自身詳しいわけではありません。

映画も見ていません。

あなたの描写は、サリバンがヘレンケラーの口に指を突っ込んでいるシーンにこころまで伝わってきます。  そういう描写に表情があります。 サリバンはその時泣きながらヘレンケラーの口に手を突っ込んでいたのかもしれません。 もしかしたら殺してしまうんじゃないかと思うほど怒りながら その口に手をつっこんでいたのかもしれません。 さらっと それが演出されたシーンが浮かんできます。 プロの演出ですね。

ふつうは プロはなんどもなんどもたたかれへこまされる過程を経てそうした表情を表現の世界に宿してゆきます。  あなたの場合には、別なルートが明らかにそこにはあると考えられます。  
その「夢」の世界が どのような演出の可能な世界であるのかということや映像のモンタージュ(効果的な場面場面の組み合わせの世界)の可能な世界であるのかはわかりませんが、 やはり 何らか、まさに「夢」をとおして磨かれた世界であるのだと思います。

直感と細かい過程の認識過程と教育過程の火花の たしかな描写、わたしはそのさりげない文面(生活の中でならば みがかれた素直さを感じさせる文面)を、このように評価させていただいた者です。(以前、そちらの質問に対して 最後まで回答者様がたが見落としていたと思われる視点ですね。)

いつも貴重なご回答 ほんとにありがとうございます。

お礼日時:2007/10/21 13:24

#4です。


補足で頂いたコメントが、どうも私にとっては複雑に感じられます。
難しく考えすぎてるからじゃないのかなあ。
哲学は本当に難しいのか。
難しいと思い込むから難しいのかもしれませんね。
逆にわかってしまった人からすれば、難しいものではないのです。
知の断絶で啓蒙が疎んじられるのは、知的権威として上意下達をするまいと思っているからだけではなく、知ってしまえばそんな難しいことでもなく、伝えるまでもなくつまらないことだと思っているからという面もあるかもしれませんね。
つまりは、難しいという先入観や思い込みが敷居を高くしているところがあるのでしょう。
敷居を平気で上がれる人には、敷居に上がらず躊躇している人の気が知れないのでしょう。

>そちらの「哲学の役割」についての分析考察

今回は分析考察するほどのものはありません。
哲学っつったっていろいろありますからねえ。
人生哲学だとか成功哲学だとか、何か目的を持っての思考(将棋などの遊戯における戦術的なもの)もあれば、まったく目的を持たない思考もあると思います。
私にとっての哲学というのは世界をあるがままに観察し、下手な判断を加えないものですから、目的を持ちません。
世界を世界であるままに放置するタイプのものです。
それが何かの役に立つのか、役割を果たすのか、と言われたら、「役に立たないものだからといって存在が否定されるわけではない」と答えるしかありません。
役割などという、自分にとって都合のいいものをかき集めると、どうしても真実から遠ざかります。
しかし人は自分にとって都合のいいものを求めがち。
それがまあ、「欲望」というものの作用なのかもしれませんね。
私の場合は欲望にとって不都合な真実でもかき集めようという姿勢なのです。

欲望に関する哲学は、ニーチェを皮切りとして、フロイトその他の現代思想家が考察していることですので、興味があればそちらの分野を調べられるとよいかと思います。
ただ私はその欲望哲学は、随分と幻想物語的なところがあると感じていますが。

知的断絶とは言いましたが、厳密に言えば「学問の断絶」ですね。
そこで指摘すべきはこの点でしょうかね。
★学問をやっているからといって知恵があるとは限らない(知識人必ずしも知恵人ならず)。
本当は学者ではなくて市井の人でも十分な哲学者(悟った人)がいるかもしれないのですが、どうもそういう人を信用しようとか、そういう人に教えを乞おうとか、そんなことをする人は少ないですね。
そのこと自体が学問や知識というものに対する盲信・盲従ではないのかという気がしないでもありません。

ソクラテスのように誰彼ともなく捕まえて問答するタイプの人ほど、隠れた知者を探し出そうと熱心な人は少ないようで。

この回答への補足

それこそ、私自身の考えのベースになっているものや、その背景となってきた私自身の人生についてから順を追って整理して書かないと、話は食い違ってもきますし、読みづらい表現ともなってしまいますね。

なぜかそちらには、今現在の私の哲学への疑問の根拠をいっぺんに詰め込んで書いてしまいました。

私自身の人生はちょっと変わっています。

20歳ぐらいの時に 実は踊り心の世界に気が付き、そこから後の自分の人生はそのことに全て規定されてきた人生だったのです。

まず、こんなふうな感じで書物への疑問が起こることとなります。

舞踊史なのですが、ほとんどの本で、まず娯楽舞踊の時代があり、次に宗教舞踊となり、最後にようやく表現舞踊の時代がやってきたという資料らしいものとそういう解釈で彩られていたのです。

自分という人間がなぜそれほど強烈の踊り心の世界に気がついたのかは、ここでは略しますが、踊り心の世界から見れば人類発祥の地と言われているタンガニーカ湖畔の人達が 音楽が聞こえてきたとたん自然に踊りだす瞬間の写真をその頃見たことがあるのですが、 その人達のほうがよほど、現代のプロのモダンバレー家の方々よりも奥深い表現を伝え合っているというふうに見えました。   つまり、踊り自体が表現舞踊から始まっていたものなのだということなんです。(それ以後の舞踊の歴史についての考察は略します。)

こうして、わたしは、踊り一筋のつもりでありながら、踊りの世界よりも演劇とか映画のモンタージュ(効果的な画面の組み合わせで 心の世界も効果的に表現する世界)とか絵とかシナリオとか歌の世界とかのほうがより勉強になっていた世界だったのです。 とても簡単には書けませんが、もちろん、実人生こそ最大の教師でした。(大學は心理教育学部でしたが、これは、早とちりなんでしょうが、 なんとフロイトには特に失望することになります。)

ともかく こうして、50歳になったときに、あれ なんか変だぞ、踊り心一筋に追求してきたのに なんであらゆる文化についてその本質的な考察ができるようになってるんだろう と気がつき、 そうか物事って総合的に全てが有機的に繋がってるんだな、 その全体から思索しなおしてこそ、なにかがあらたに見えてくるんだな。と、気がついてしまったというわけです。
(今は60歳ですが)

たぶん、過去にての共産主義社会だったらまさに役に立たない哲学の世界を生涯までかけて追いかけてきてしまった人間なのでしょう。

という背景からの質問だったのですが、

<「役に立たないものだからといって存在が否定されるわけではない」と答えるしかありません。>というnebayoshさんの今回の文について、 そんな者からの考えを書かせていただければ、

科学ならば、専門的に積み重なる世界ではあるとはいえ、それでも役に立たない分野は多々考えられる学問の世界だろうけれど、
哲学ならば、興味がそそられるすべてのその思索の世界は、やがて、今役に立たないものほどむしろ真の人間の幸せと関わってるかもしれない。というふうにも思えてならないところなんです。  かどうかはたとえ解からなくても 賭けるしかないのが人間なのだと思います。 わたしが ただただ無我夢中でがむしゃらにそれを追求しないではいられなかったのと同じだと思います。 (苦しくても、何も見えなくても、それでも。 時には酒を飲んで叫びまくっても(神をののしってです。)それが わたしにとって生きることだったですね。)

Q&Aのネット文にての対話は、とくに < へたな判断を加え >無いことが肝心ですよね。 私自身が 幾つかそのへんで大きく失敗しています。
 
短い文面では その裏の人生など人間に解りっこないのに、ついへたな判断をしてしまって一人よがりにもなってしまったりしました。

ソクラテスが対話の哲学者であったことは高校時代に聞きかじっています。
解からないこと解からないと知ってるから神はソクラテスを知恵第一の者と認めたとかいうことも聞いています。  なるほど、だからソクラテスはまさに、すばらしい対話哲学者であったのでしょう。

私も すこしでもそうなれたらなと思います。

判断できるような者ではないでしょうが、ご回答こころから納得しました。「そのとおりだ」と共感しました。

ありがとうごさいます。

補足日時:2007/10/20 20:07
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この回答へのお礼

ふと思い出しました。

新宿歌舞伎町に住んでいたことがあるのですが、その頃はやったノーパン喫茶(たいていはどこの店のノーパン錠もパンツははいてましたから、ノーパンに思えるとかノーパン風とかいうのが正確なのでしょうが)にはよく行きました。

珈琲館のチーフをしていましたから、頼まれてカウンターの裏でドリップ珈琲を入れていたのです。

私の前では みんな気兼ねなく真っ裸で着替えします。信頼されていたようです。 これはそうして、裸のまま気さくに話していた内のことですが、 ある女性は、話してるうちに、農婦だった過去をもったとても深い素朴な感性の方であることが解かってきました。

もし、わたしが、その時 ノーパン嬢なんて これこれこんなやつらばかりだと先に判断していたら、 あるがままのほんとうのその女性のすがたは、体は裸でも見れなかったでしょう。こころはたぶんかたくなに多くを着込んでいたでしょう。

農民でも 土方でも 今でも爪の垢を煎じてのみたいような人はけっこういました。一生懸命生きている 計り知れない命たち。 すばらしい方々。
哲学って なるほど その役割を判断してしまえるようなものではないですね。

こころから、納得させられるご回答(文面)ですね。 ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/20 20:32

#12 一部名前に誤記がありました、ごめん。

以下訂正しておきます。
誤記[ナーガール竜樹] 正「ナーガールジュナ/漢訳名龍樹」
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

わたしは、仏教についてもほんの聞きかじりの知識しかありません。

でも そのほんの少しの言葉も かなりスリこんでハンドクしてきたようです。  アーラヤ識についてまでも(笑)。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/18 21:41

#3からの追伸程度に。


mmkyさんのご回答は、
同じ難しい言葉でも、その言葉がほんとうにそれなりにでも「意味」のあるものとなっているのか、いちど妄信に類するイメージを取り払って、見直し考え直すことで、その浅い深いが見えてくる。というふうに全体的には理解してよろしいでしょうか?
・・・その通りですね。経験・知識・常識・非常識を一度すべて白紙にして因果律あるいは論理に基づいて考え直してみることですね。白紙に戻すというのは否定ではありません自身がもつ経験・知識・常識・非常識を否定も肯定もせず因果律あるいは論理という「物差しでのみ」評価するということですね。その評価を真摯に受け入れることなのです。それを繰り返すことで本質が見えてきます。如実知見といいますね。
例えば、西田先生の問題に関して、付け加えると、
このカテにもよく出る「空」の問題ですね。漢字の「空」の意味は「からっぷぽ、なんにもない」ですね。
例えば、空思想を完成させたナーガール竜樹は「空」思想を「八つの不」で表しています。「不生不滅」「不常不断」「不一不異」「不来不去」ですね。竜樹の「空」は「八不」に等しいのですね。そこで「空」の意味は「からっぷぽ、なんにもない」として「八不」を説明しようとすると、どう屁理屈をつけても3番目の「不一不異」は無理でしょう。つまり竜樹の「空」の意味は「からっぷぽ、なんにもない」ではないということがわかりますね。では、どのような言葉の意味を当てはめれば「八不」を説明できるかですね。これが「空」の本当の意味ですね。答えは誰もが知っている「魂とか霊」ことですね。竜樹の「空」の意味は「魂とか霊」を意味するのですね、それで「八不」が説明できます。ここで竜樹が使った表現「不一不異」は西田先生の表現「絶対矛盾的自己同一性」に通じませんか。同じ匂いがしますね。実際ほぼ同じ意味ですね。りっぱな哲学者(仏教者でもある)は同じように難しい表現を使いすぎますね。後世の修行者が悩乱する一因ですね。「空」が霊魂の意味であれば、「色即是空・空即是色」という表現は転生輪廻の意味ですね。常識の世界観が違ってきますね。そのように見ることが「白紙で見る」ということですね。
最高・最強の哲学者「仏陀」は平易な言葉で深遠なる真理を説かれるのですが、逆に平易すぎると凡人は見下す傾向がありますね。例えば、
「仏陀」であれば、「不一不異」?・・ああ・魂の兄弟のことね。「絶対矛盾的自己同一性」?・・ああ・孫悟空の分身の術ね。とおっしゃられると思いますね。
これが哲学の本質ですね。
参考程度に

この回答への補足

「如実知見」おもしろいですね。 いろいろ考えて見ます。 繰り返し考察してみます。 ありがとうございます。

でも、そちらの文の中の「八不」は、白紙(無神論も考えられるようになっている頭で、有神論だけでない立場で考えればということなのですが。)で考えれば、イコール「空」ではあるのでしょうが、そのまま「魂と霊」のことを意味していると理解するのは「「難しい」」ですね。

そのレベル、その方式の考えでいけばということでしょうが、仏教信仰者という前提がなければ、成り立たないというふうにしか無心論者であれば受け取れず、そしてそこには「如実知見」との矛盾を感じてしまうでしょう。

わたしにとっては、確かに 前回私の書いた私自身の迷いについてのご回答ともなっていて、とくに「‥ああ・魂の兄弟のことね。」という平易な文章が、深い、奥の深い感動とともに私の迷う心に響いてくるところです。

むかしの仏教説話に 確か「スリハンドク」とかいった名前の人がでてきますが、この人は 掃除しか出来なかった人であるにもかかわらず、ひとの何十倍も掃除にうちこんだため、いつしか「事の端」の掃除のみか「言の葉」の世界までも整理整頓する達人となった人ですよね。

わたしの場合は そのスリハンドクに似た判読法のようなのですが、「魂」という存在なら 神とかキリストの言われる「復活」とかの概念と、仏教では煩悩即菩提、蓮華の華という人間性の華、とかの概念から、総合的に理解することができます。(というふうに言えば、凡人からも見下されないのでしょうが、ほんとは私ふうに言えば セックスと愛との合一の時とかその記憶の世界(これは海馬領域のことなんです。)、あるいはふつうは永遠の命なんて千年の命さへ何もかも飽きてしまって苦痛になってくるところ地獄そのものだという日常感とかもあるところ、それとは間逆の いつまでも新鮮は飽きることのない命を知ることから生まれる 深いとしか他には言いようのない推理でやがて解かってくる世界のこととの説明を とことん解かりやすく順をおって説明してゆく形となります。)

でも「霊」の存在となると、 では何故仏陀やキリストという霊が霊として存在するならば、其の力で、なぜ、もっとスリハンドクな説法を時代時代に説き続けてくれないのか? そこが解からないんです。

ほんとうにそれは、わたしのような、ふつうの記憶力とか知能指数とかの一般よりかなり低い人間がやらなければならないことなのでしょうか?

わたしならば、確かに、同一内容のことを、無神論者にも如実にスリハンドクに説明してゆけると思います。 長い時間はかかるとき、かかる人とかはいるでしょうし、あるでしょうが、孫悟空の分身の術も この「哲学」の世界では思索にて使えそうですし、 きっとそれを使えばいいだけですからね。

解からないから 信仰の世界が必要なのかもしれません。

迷いつつ迷いつつ 安定と進歩のバランスのはざまに、それでも、ともかく前に進み続ける勇気、それこそ信仰なのかもしれません。

「‥ああ・魂の兄弟のことね。」仏陀ならそう言ってわたしをだきしめてくださるのでしょう。

おびえつつ、まよいつつ、さまよいつつ、 でもそう信じてすこしの勇気を持って生き抜き続けたいと思います。

ありがとうごさいました。  深く 深く そうとしかいえない何かの勇気をいただきました。   ありがとうございました

補足日時:2007/10/18 21:26
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この回答へのお礼

勇気をいただきました。 ありがとうございます。

また、機会がありましたら、ふたたびいろいろご教示ください。

明るい気持ちとなれました。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/18 21:34

#2です。



上記の質問と内容は異なり少し長くなりますがご容赦下さい。
希望されたお礼の設問にお答致します。


(1)(2)に説かれるところは現代思想における西洋哲学の問題点です。
哲学はその地の影響を受けやすいものです。

人こそが生物界で優れていて、全ての頂点に達しているのだとしたら、
その何億倍も繁殖している粘菌はもっと優れていると思えます。
よって、人間こそが優れているとは思っていないとお考え下さい。
生きるというものに対し、人は考えるという武器を身につけた原点は、
確かに本質ではないかと思っています。

人の思考には限界があり、
同時にそれを解決する為にさまざまな用語が生まれたのだと思います。
そこにいる誰かを幸せにしたいから、ひとつひとつ考え出された、
人々の結晶が知識であり、知恵を豊かにしてくれるのでしょう。

>願い

これに対しては謙虚であることを私は願います。
哲学は確かに平和への可能性を示しているとは思いますが、
世界中というのは少し傲慢かと思います。
テロリストにとっても一部の理があるように、
その人それぞれの価値観があります。
否定することが争いを生み、しかし、
それでも強く抗議するしかない時もあります。

ただ、誰しも命を失うのは嫌なことで、
嫌なことを人に押し付けるのも進まない想いです。
それでも、価値観の共有ができるようになった現代では、
真の平和はほんの少しずつ、訪れつつあるのだと思います。


宗教についてですが、
私は古来、宗教と哲学は人の思考の双璧を担ってきたと考えます。
必ず学問で解明できない神秘的なものごとが、
人の周りでは起こっています。

そして宗教は人のためにあると思っています。
何故なら、どんな宗教も人が必要だと思いを込めて、
作り出したものだからです。
尊いものを敬う心や、
美しいものに対して共感できる心を育て、
人が人の輪の中で過ごしてゆけるように、
築いた先人の知恵ということです。
彼らが生んだものは思想だけでなく、
多くの文化や芸術をこの世に残しています。
よって一概に宗教を切って捨てることはできません。


ちなみに仏陀やキリストにはなれません。

イエス=キリスト様は、神の子であり、
絶対の神であります。神になるなど恐れ多いことです。
教えを請うならば私たちは、
その大いなる慈悲の下で包まれるでしょう。

仏陀は私たちでも仏になれると説いておられます。
しかし、私たちはいつも何かを求め、
それを欲しようと欲望を抱きます。
努力次第では仏に近い存在にはなれますが、
人に感覚器官があり、何かに心を揺られる時点で、
やはり仏そのものにはなれないと感じます。

私は浄土宗系の大学で、仏教学と哲学を学んでおりました。
一応、キリスト教もひと通りですが学びました。
・・と私見に基づく解釈ですが。


人の命は大河に漂う木の葉のようなもの。
浮かんでは消え、浮かんでは消え、
それぐらい命は移ろうものです。
また人は去るものです。
星もまた命をもって消えゆくものがあります。
風がさらう様に昼夜は駆け抜け、
それでいてそれが自然の姿なのです。


僭越ながらお話を伺っていて、
あなたのご質問の後半部分の答えは、
恐らく懐古の念だと思うのです。

戦後、私たちは徹底的に日本古来の思想や信仰心を、
全て取り去ってしまいました。
世界からは今私たちが信仰心の無いことを批判する意見もあります。
しかし、実際私たちはそうした昔ながらの教えを下に、
両親や祖父母に育てられてきたものです。

ご両親がお仏壇にお念仏をされている姿や、
地域の地蔵盆などで遊ぶ子ども達。
今のようにコンピュータなど無い時代を生き抜くには、
人は人との繋がりの中で豊かな情景を知りました。
ITと呼ばれるものはそのほんの上辺だけ・・。
私たちの身の周りがあってはじめて成り立つ豊かさです。

もしあなたに時間があるのであれば、
あなたにとって縁の地を巡られると良いかも知れません。
そして子ども達の幸せを願われるのであれば、
あなたの手記をご子息様などに託されるのも一つの生き方だと思います。

ちなみに、キリスト教やイスラム教には
「隣人を大切にする」という教えがあります。
何事も考えるだけでなく身近な人を大切にしてください。
何か行動をすることで新しい価値観が見えてくることもあります。

この回答への補足

ありがとうございます。

わたしには83歳の母親がいますが(その母と二人暮らしです。)、まず何よりも母を大切にして、そのうえであとは神様にあるいは天にすべてをまかせて、そのうえで 出来るだけ人間的に生きる努力をしていけばいいんだということを、  さらに深く悟れた気がしています。

genesha-meさんは、仏教を学ばれた方なのですね。

仏教では、一番惹かれるのは「蓮華の華」の例えです。

それを、解かりやすく表現できれば、と思い、五感や、欲望そのものの深い分析を試みてもきた者です。

自我とか社会性も、その奥に見つめてきました。

真の昇華も、五感そのものの奥にあるということの洞察です。

そして、その五感の深み大地をこそ あらゆる表現ジャンルの道に浸透させるというのが、私にとっての芸術探求の道ともなってきたのです。

ミュージカルや、アニメなどの総合芸術が真の華を咲かせる道も、その五感の奥の旅路にあり、というふうにです。

そのアナログでの表現の戦いこそが、またこの時代の3Dや、マルチメディアを生かし、ITをこそ「希望」へと変えてゆく、というのが私のいつしか
まさにすべてをかけるような理想となっていました。

でも、これをアーラヤ識で語るなら、やはり「親王のみやこ」の入り口で立ち往生してる姿とも言えてしまうところでした。

いまいち、仏教の真髄の世界に入り口でさへは入れないでいたという感じですね。

自分で 五感の奥の蓮華の華まで思索を深めておきながら、そこがいまひとつだったのでしょう。

かなりすっきりした気持ちになれました。

ありがとうございます。

ただ、わたしは、この蓮華の華の知恵にこそ、 イソップの「北風と太陽」の寓話の中の太陽の実際、人間生活の争いの中での最大の解決へのパワーとなる要素をもったものとおもっています。

わたし自身には、無理だったとしても、いつの日にか、必ずその蓮華の華の哲学は テロをも自らテロという名の服を服を脱いでしまう道へ通じていると 信じています。

今は、当然 悪にはテロのみならず抗議や 時には厳しい裁きさを断行することさへ、必要に迫られもしましょう。 ですが、    

ですが、たとえば、キリスト教で言えば、聖母マリアの庶民の中での信仰とかは処女懐胎とかいう学者の見解とかよりも まさに母性の深い象徴でありつづけたというイメージを音楽とかからイメージしているのですが、

それこそが、神の遍在、すべての人そのものでもある存在、(それに対して人間はえどのような想像力を持ってしても、隣の人ですら、そのほんとの心の内身の内のすべてを知ることはできない。) どんな悪人でさへ その因果の奥の奥の奥どころか 全てを知っているのですから、完全に神だけはすべてを許している存在であり、そこは母性こそが神であるという正しい信仰をそこに育んできた最大の要素となっていると私は思っています。

神からみれば、また其の信仰に照らせば、テロにも太陽をという長く険しい道を、戦闘による(北風による)道よりもはるかに大切にしつづける勇気はやはり必要だと私は思っています。

が、同時に 人間なりに「あるがまま」を見つめ、まずは近しい人を愛しながら、この五感の大地をふみしめつつ歩いてゆくべきなんですよね。

ありがとうごさいます。 そのへんがほんとにすっきりした感じです。

補足日時:2007/10/17 20:56
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この回答へのお礼

「あるがままに」 この言葉に私は なにかが私にはかけていると感じさせられ それが補足文となったしだいでした。

いまひとつ私の「哲学」にぶれない軸のようなものをgenesha-meさんは与えてくださったようですね。

こういうのは、いったいどのようにお礼をいったらいいのでしょう。

無形の でも 最大級のこころの宝物。  ともかくほかにやはり言葉はみつかりません。

ありがとうございました。

いつでも、ご意見等もしございましたら、また書いてください。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/17 21:11

難しい本を書ける人の思索(仮説、思いつき)の無責任だけれど、無責任から押し出されてはない言葉だからではないでしょうか?



「哲学は難しいけれども誰にでも身近な手段である」と哲学者ではないけれど、人のいい先生に教わりました。
感じて動くと書いて「感動」ですね。感動、感謝、感性、感覚これらは何かを知らせ能動的な安定を求めます。先生の人柄ですが哲学の解説には芸術的センスとも関係があると思います。

知って動くという「知動」の言葉がないように哲学者は感情を抑えこむ術を習得して、感性を表現させている芸術の否定にもとれそうですが、それに負けないぐらいの感動を伴って得た知識があるのですよ。
知識が増大すると感情の必要性も否定してしまうらしいです。
感性と知性が高水域で競ってらっしゃるからです!多分。
そんな気苦労してみたいような、してみたくはないような…。

この回答への補足

mikoーdesiさんは、とても無心(素直という意味です。)な方なのでしょうか?

文章はわかりにくいですが、飄々とした詩的な心を感じます。

このことは、けれども、なおさらmiko-desiさんという人間の人柄の謎を深めています。 解かりにくさがさらなる謎を生み、 それがわたしの好奇心を刺激しています。

興味がわきましたので、いくつか質問させてください。

ほんとに感動したことは、人に伝えずにはいられないのが、人間の本性の根幹にあると私も思っています。

感動の深さを伴わない、成長度の低い、あるい知識や技術の方から言えば、完成度の浅い芸術は置いておくとして、真の芸術、奥の深い芸術こそ、あらゆる哲学、知の営みの根源としての知恵の源泉となるものだとも思っています。

単純に 金の色をした鶏を貰った北海道の開拓農家の農婦が、10キロ以上もの離れた友だちの家にまで大急ぎで「ほらほら、見て、見て、金の鶏よ、金の鶏もらっちゃった!」と伝えに走る。 忙しい、厳しい生活の只中にてさへ あるこのような人と人との人情の交流。 わたしは、実は、こんなあたりまえの人間の感情こそが、 いつの日にかは哲学の根幹になってゆく気がしています。

わたしの言ってることも、学者の方々にはかえってわかりにくいかもしれませんが、私は 本気でそう思っています。

身近なところ、身近なこころの中に、宝があり、それ見つけることの中に哲学の最奥の問題を解決する鍵があるように思います。

すいぶん、無責任に、かってに、難しいことを書いてしまったかもしれませんが、?   ともかくこの文章も、無責任な心からのものではなくて、感動と感動の交流、 miko-desiさんの不思議な詩的文になんらか感動して、書かずにはいられなくなったまごころからの文章のつもりです。

「そんな気苦労してみないような、してみなくないような‥。」なんていうまとめかたのような、こんなさらっとした回答はなかなかないですからね。

お伺いしたくなったのは、

では、「まごころとは?」という質問なんですが、mikoさんはどうおもわれますでしょうか?

(1)人は善人の仮面をかぶって楽していきることもできますが、だからといって
善のまごころが無いわけではありません。  そのことでは知的に何かまよったことはありませんか?

(2)また、その迷いを乗り越えたり付きぬけたりして 解決したとして、では、あなたは、人まえでその善は、見せびらかさないほうがいいと思いますか?
それとも、確かな善であれば、むしろ模範を示すべく自慢してでも人前で輝かせるべきだとおもいますか?

じつは、(2)の方の質問は、キリスト教の新約聖書の中に出てくる二つの矛盾した善の態度をキリストが両方とも肯定している謎とも関わります。

「人は善いことをするときには、右の手でしていることを左のてにさへ知らせないように」 つまりそのぐらいみせびらかさないようにということです。
「人は善を行うときには、蜀代の上の光となりなさい」 模範をしめしなさいということです。

どちらが正解とはいえないですね。 miko-desiさんの詩的な感性からでは、どのように思われるのか ふと知りたくなりました。

謎が謎を呼び、奇妙な再質問となってしまったようですが、

もしお時間がありましたら、 お答えいただけると うれしい!です。

ありがとうございました。

補足日時:2007/10/16 19:37
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この回答へのお礼

感動の原因は謎ですが 何故か感動しました。

こころを動かされました。

肌に伝わるものがありました。

ありがとうございます。 おもしろかったです。

お礼日時:2007/10/16 19:46

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